満州事変・日中戦争期3
<解説編>
908 二・二六事件はクーデターとしては失敗、○○○○○・クーデターが成功?       問題編へ
 1 正解について
 2 皇道派と統制派について
 3 カウンター・クーデター
 4 新しい解釈について
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1 正解について
 
二・二六事件は、教科書には次のように書かれています。

「政泊的発言力を増した陸軍の内部では、隊付きの青年将校を中心に、直接行動による既成支配層の打倒・天皇親政の実現をめざす皇道派と、陸軍省や参謀本部の中堅幕僚将校を中心に、革新官僚や財閥と結んだ軍部の強力な統制のもとで総力戦体制樹立をめざす統制派が対立していた。
 1936(昭和11)年2月26日早朝、北一輝の思想的影響を受けていた
皇道派の一部青年将校たちが、約1400名の兵をひきいて首相官邸・警視庁などをおそい、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監らを殺害し、国会をふくむ国政の心臓部を4日間にわたって占拠した(二・二六事件)。首都には戒厳令が布告された。このクーデターは国家改造・軍部政権樹立をめざしたが、天皇が厳罰を指示したこともあり反乱軍として鎮圧された。
 事件後、
統制派皇道派を排除して陸軍内での主導権を確立し、陸軍の政治的発言力はいっそう強まった。岡田啓介内閣にかわった広田弘毅内閣は、閣僚の人選や軍備拡張・財政改革などについて軍の要求を入れてかろうじて成立し、以後の諸内閣に対する軍の介入の端緒となった。」
 ※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2003年)P326

 ここには、クーデターという表現はあっても、今問題にしている、○○○○○・クーデターという表現はありません。
 
 それでは、正解です。
皇道派青年将校は1936年2月26日クーデターを遂行し、斎藤実内大臣・高橋是酒蔵柏・渡辺錠太郎教育総監を殺害したうえ、永田町一帯を制圧して、荒木・真崎らによる「昭和維新」の実現を期待した。しかし昭和天皇は断固鎮圧を命じ、当初動揺した陸軍上層部も反乱鎮圧に踏みきり、29日鎮圧にいたった(二二六事件)。
 
統制派は二二六事件をカウンター・クーデターのチャンスとした。統制派は、後継の広田弘毅内閣の組閣に介入し、自由主義的とみなした閣僚候補を排除する一方、「粛軍」と称して皇道派勢力を一掃した。4月支那駐屯軍増強、5月軍部大臣現役武官制復活、6月帝国国防方針改定(主要想定敵国として米ソを並列、次位を中英とする)、8月南北並進の「国策の基準」決定、11月日独防共協定締結、大軍拡予算の編成など、軍部の圧倒的発言力の確立のもと国家総力戦準備があらゆる面にわたって推進された。日本は「非常時」から「準戦時体制」へ前進した。天皇制立憲主義は軍部を重力として天皇制の側に大きく傾斜し、立憲主義の後退はさらに決定的となった。」
 ※江口圭一「1910-30年代の日本 −アジア支配の道−」『岩波講座日本通史 第18巻近代3』
   (岩波書店 1994年)P53-54

 つまり、正解はカウンター・クーデターです。
 カウンターというのは、英語の
counterです。
 英語の意味としては、「計算する」のcountの名詞形として、「計測器」という意味もありますが、それではなくて、「敵対、報復、反、逆」の意味で、接頭語として使われるcounterです。
 問題部分のヒントでは、スポーツの用語として使われるいいましたが、サッカーなどのあのcounter・attack「逆襲、反撃」です。(ただたんに、counter だけでも使いますね。)
 我々中年おじさん世代では、あの「あしたのジョー」の必殺技「クロス・カウンター」が思い出されます。
 この、特に男子生徒がよく知っていることばを、ここで想起させることによって、二・二六事件の本質がよりわかりやすくなります。
 ただし、クイズでちゃん答えが出てくるためには、クーデターとか、皇道派と統制派とかについて、ちょっと事前の布石が必要です。 

2 皇道派と統制派について
 二・二六事件の鍵を握る皇道派と統制派について説明するには、ずいぶん遡らなくてはなりません。
 1921年のある日、ドイツのバーデンバーデンという保養地に、永田鉄山・小畑敏四郎らが集まって、今後の日本陸軍の改革について意見を交わしました。後日、東条英機も加わります。

 彼らはいずれも、当時欧州に陸軍武官(各国の情勢を視察する役割)等の役職で派遣されていた陸軍の中堅将校で、年齢は30代後半、階級は少佐でした。
 将校ですから陸軍士官学校を卒業しているのはもちろんですが、そののち将校のうちから才能のある少数者しか進学できない陸軍大学校卒業し、将来陸軍の幹部への道を歩んでいるエリート中堅将校でした。

 彼らは、陸軍の現状と将来について憂い、終わったばかりの第一次世界大戦の教訓をも踏まえて、次の二つの点で改革が必要だとを感じていました。

  1. 第一次世界大戦の教訓から、日本軍の軍制を改革し、総力戦体制を確立しなければならない。

  2. 陸軍は健軍以来、長州藩出身者(長州閥)が主流を占めており、有為な人材を適材適所に据え自らが望む改革を実施するためには、長州閥を打ち破らなければならない。

 1921年の時点ではまだ山県有朋が存命でしたが翌年没し、そのあと宇垣一成が長州閥のトップに立ちます。
 永田・東条ら
佐官級の中堅幕僚将校は、非長州閥で優遇されていなかった先輩、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の3中将の擁立に努め、長州閥に対抗する勢力を形成します。 

日本の陸海軍の将校の位は、少尉・中尉・大尉、少佐・中佐・大佐、少将・中将・大将、つまり、若い方から、尉官・佐官・将官と呼称します。したがって、佐官は、中堅と言うこととなります。
また、陸軍大学校卒の彼らは、前線の部隊長ではなく、陸軍省や陸軍参謀本部(作戦を立案)で、幕僚として勤務していました。


 一方、大正時代の社会矛盾の拡大の中で、日本の国家主義運動は、「国家革新運動」の方向性をもちます。
 その代表が
北一輝です。
 彼は、はじめ、『国家改造案原理大綱』、1923年には『日本改造法案大綱』を著し、国家改造の具体的プランを示します。その方法の核心部分は次の点でした。
 「天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根幹ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ3年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲ布ク

 北一輝は、同じく国家主義者の大川周明らが組織していた猶存社に加わり、国家革新を啓発します。
 この北に共鳴したのが、
西田税です。
 西田は北が『国家改造案原理大綱』を著した当時、陸軍士官学校の学生でした。しかし、卒業し将校となってまもなく、体調不良が主な理由で、現役を退きます。それからの西田は、国家革新運動に邁進し、大川周明や北一輝と接近して、特に陸海軍の若手将校に影響を与えていきます。
 はじめから西田のもとに集まった陸海軍青年将校に、
村中孝次(二・二六事件の首謀者のひとりで死刑)、古賀清志(五・一五事件に参加)がいます。

 1920年代後半から30年代初頭にかけて、西田の影響は次第に拡大し、その影響下で陸海軍の若手の尉官による国家革新運動が形成されていきます。彼ら
尉官級を青年将校といい、彼らの行動を青年将校運動といいます。
 ちょっと大事な点ですが、ここまでの時点では、佐官級の中堅将校と尉官級の青年将校には、大きな対立点はありません。

 1931年12月若槻礼次郎内閣に代わって、犬養毅内閣が成立すると、陸軍省の軍務局軍事課長の要職にあった永田鉄山大佐は、
荒木貞夫を陸軍大臣にすることに成功します。
 荒木は、反長州閥・反宇垣閥の中心として、陸軍の革新勢力の期待の星となります。もちろん、青年将校も荒木に期待しました。荒木は、長州閥を一掃する人事を行い、永田らのグループの中堅将校を枢要なポストに登用します。

 ところが、1933年10月から12月にかけて、荒木陸軍大臣が失敗をします。
 陸軍が強く望んだ陸軍軍備拡大案と農村救済予算(陸軍は兵士の供給源である農村の窮乏の改善を要求した)の実現に失敗したのです。これによって、中堅将校の
荒木貞夫への期待は失望へと変わっていきます。(ちなみに、この2案を予算上の理由から葬ったのが大蔵大臣高橋是清で、このため彼は二・二六事件で犠牲になります)
 この結果、中堅将校グループは、荒木貞夫を担いでの革新は無理と判断し、別の道を進み始めます。彼らは、これまでと同じく荒き貞夫や真崎甚三郎を支持し直接行動による革新を主張する青年将校を批判しその政治運動を否定します。彼らは、陸軍省や参謀本部の上層部を中心として軍全体で合法的な革新を望んでいました。

 かくて、陸軍は分裂します。
 これが統制派と皇道派です。

皇道派

荒木貞夫、真崎甚三郎らとそれを支持する青年将校
クーデターなど直接行動によって議会政治を否定し、天皇親政のもとで軍部内閣を樹立して国家改造を企図。青年将校の危機感は、陸軍上層部の腐敗、政党政治の腐敗、農村の窮乏などにありました。

統制派

永田鉄山、石原完爾、東条英機ら陸軍省・参謀本部の中堅幕僚将校
財閥や一般象徴の革新官僚と手を組んで合法的に総力戦体制を構築し、日本を高度国防国家へと改革して行くことを企図。皇道派のクーデターに関して、カウンター・クーデターを企図。

 

3 カウンター・クーデター
 皇道派は、1934年1月の荒木自身の陸軍大臣退任後、劣勢に陥ります。
 陸軍大臣には林銑十郎が就任し、その直後陸軍省軍務局長に出世した永田鉄山のもとで、陸軍省は統制派が牛耳ることになります。
 1934年11月には、村中孝次・磯部浅一らの青年将校は、陸軍士官学校生徒5名とともに、クーデター計画容疑で逮捕されました。これを、11月事件(別名陸士官学校事件)といいます。
 参謀本部の片倉衷少佐らが企てた陰謀で、青年将校と彼らの人望厚い真崎甚三郎(この時、教育総監の地位にあった。これは、陸軍大臣、参謀総長とならぶ要職。)の勢力失墜をねらったものでした。
 真崎は、このあと、1935年7月、教育総監職を追われます。(その後の教育総監が渡辺錠太郎陸軍大将、二・二六事件で殺害されました。)

 このように積極的に皇道派の勢力の削減を進めた軍務局長永田鉄山は、皇道派の恨みを一身に受けてしまいます。その結果、憤慨した皇道派のひとり、相沢三郎中佐によって、永田軍務局長は惨殺されます。
 
 統制派は、皇道派を追いつめる一方、皇道派を利用した革新をねらっていました。これが、カウンター・クーデターです。
 つまり、追いつめられた皇道派青年将校がクーデター敢行した時が彼らのチャンスでした。クーデターの鎮圧を行う一方、後継内閣に強い圧力をかけ、人事と政策の両方で主導権を握るというものです。

 統制派は、このカウンター・クーデター計画を早くから準備していたと伝えられています。
 片倉衷の回想録によれば、1932年の五・一五事件後には、永田鉄山を中心として、「非常事変に対応する準備計画の研究をはじめたのであった」という。
 これを受け継いで片倉らが研究をまとめ、1933年には、「政治的非常事変勃発二処スル対策要綱」がつくられていたのです。
 ※大江志乃夫著『戒厳令』(岩波新書1978年)P158

 1936年2月26日、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一(この二人は、上述の11月事件で免官となっていた)ら青年将校は、第一師団や近衛歩兵師団らの兵、千数百名動かして決起しました。
 しかし、彼らは、当初の計画通り、首相以下要人の襲撃と首相官邸など日本の政治中枢を占拠には成功したものの、その後どのように軍部政権を樹立するかについては、ほとんど見通しをもっておらず、何ら具体的な計画を示せない不思議なクーデターでした。

 彼らは、現政権さえ倒せば、あとは彼らの意をくんだ真崎甚三郎らが政権を樹立してくれるという甘い見通ししかもっていなかったのです。
 天皇制を絶対視する彼らの思考の中では、「悪人とはいえ天皇陛下の輔弼の臣(天皇を助けて政治を行う人)を殺して、少しも悪の意識なく、その後自分たちが天下を取る計画をするなど不純である」というジレンマから逃れられなかったのです。
 ※大江前掲書『戒厳令』 P152

 皮肉にもその天皇の強い意思表示により、一時いろいろな思惑に揺れ動いた陸軍中央の要人は、最終的に決起部隊を「叛乱軍」とし、クーデターは失敗に終わります。
 そして、クーデター鎮圧後、統制派の石原完爾・武藤章を中心として、冒頭の「1正解について」で説明したように、カウンター・クーデターが行われるのです。
 
 そして、クーデターの首謀者である青年将校らは、特別に設けられた東京陸軍軍法会議(非公開、1審制)によって速やかに裁かれ、栗原・村中・磯部ら決起した青年将校のうち17名が反乱罪で死刑となりました。
 また、外部から彼らを指揮したとして、北一輝
西田税の2名も反乱罪と首魁として死刑になりました。
 

4 新しい解釈について
 二・二六事件については、1990年代以降、それまでの見解とは異なり、新しい解釈を提唱する著作が登場しています。
 その理由は、1993年から東京地方検察庁に保管されていた二・二六事件の正式裁判記録の大量の原本、「二・二六事件記録」が公開され始めたからです。研究者でなくてもわかりやすく読めるものとしては、
 須崎慎一著『二・二六事件 青年将校の意識と心理』(吉川弘文館 2003年)
 北博昭著『二・二六事件 全検証』(朝日新聞社 2003年)
などがあります。

 神戸大学の須崎先生は、次のように問題を指摘しています。

 ではこの二・二六事件は、現代の若者にどのように認識されているのであろうか。私が、自分の属する国際文化学部以外の神戸大学の文化系学部(文学部・法学部など)学生を対象として行っている一般教育の講義「近代日本の政治と社会」でのアンケート結果からみてみよう。2001・2年度後期、二・二六事件についてどれだけ知っているか、自由記述形式で、協力してもらった。アンケート対象人数が少ない点は問題ではあるが、一定の傾向を示していると考えられる。
記述を読んで、愕然とした。354人のうち、全く知らないと答えたものは67人(約19%)、五・一五事件、血盟団事件などと明らかに混同しているものは27人(約33%)に及んだ。そのうち青年将校による犬養毅首相殺害(中には「犬飼」が相当数あったが)といった記述が91人にものぼったのである。具体的叙述がなく、「陸軍将校によるクーデター」といった程度の回答者は92名(約26%)、ある程度知っていると判断できる学生は79人(約22%)にとどまった。高校で日本史を選択しない学生が、圧倒的に多い理工系の学生にアンケートを実施したら、全く知らないという答えはさらに増えることだろう。若者の歴史認識のなさを、如実にみた思いがする。
 ではある程度知っている学生の場合は、どうだろうか。彼らの事件の原因についての記述を仔細にみてみよう。事件の原因として、ほぼ半数近い学生が上げたのは、陸軍内の急進派(皇道派)と穏健派(統制派)の対立である。ついで「純真な青年将校」・「農村の窮乏」・「北一輝」であり、「皇道派の、統制派に対するクーデター」といった記述も目立った。学生の記述をかりれば「二・二六事件とは、北一輝の思想に影響をうけた皇道派の青年将校による、統制派に対するクーデターである」ということになろうか。
 すでに1988年の拙著『二・二六事件』(岩波ブックレット)以来、二・二六事件は、
皇道派統制派の陸軍部内の派閥村立が原因ではないといい続けてきている筆者にとっては、学生諸君の回答が、依然として派閥対立史観に取りこまれていることは、残念な限りである。その原因は、はっきりしている。大学受験で大きな比重を占める山川出版社の教科書『詳説日本史』が、二・二六事件を、「北一輝の思想的影響をうけていた皇道派の表青年将校」が起こした事件と記述し、註で対立していた派閥(統制派・皇道派)の説明をしていることが大きいであろう。」
 ※前掲書P5

 
 正式裁判記録とその他の資料によって、両著は次の諸点を明らかにしています。

  1. クーデターを起こした皇道派青年将校グループの動機やつながりはさまざまであり、簡単に画一的に統制派に対するクーデターとは言えない。また、偶発的な要素も含まれている。

  2. 決起した青年将校のうち北一輝や西田税の影響を受けた人物はむしろ少なく、百歩譲ってもし誰かの影響というのなら、北ではなく西田の影響の方が強い。

  3. 東京陸軍軍法会議は、主導権を握った統制派による軍法会議であり、事前に決起のことを知らなかった北や西田を無理矢理反乱の首魁に仕立て上げ、陸軍は何のわるいところもないというストーリーを作り上げた。そういう意味では、軍法会議そのものがカウンター・クーデターの一部であった。

 こういう視点から教科書の記述が書きあらためられるのは、まだまだ先のことになると思われます。