岐阜の原風景・現風景6
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。

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 御鮨街道を歩く −岐阜町と尾張藩について考える−その1

目    次

その1

はじめに 「御鮨街道を歩く」とは何か、「御鮨」とは何・どこへ運ぶ・なぜ岐阜の町がかわる

江戸時代の鵜飼の位置づけ江戸時代の岐阜町と現在の岐阜市−本陣跡・奉行所跡−

その2

一行の編成はどのようなものか岐阜から江戸までどのくらいの早さで運ぶのか

どこからどこまでが御鮨街道か1年でどのくらいの鮎を運んだのか 

その3

岐阜町出発「小熊村」から「上加納村」へ

その4 加納広江町、中山道と加納宿茶所から川手へ
その5 宿場から宿場への引き継ぎ笠松湊 

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 「御鮨街道を歩く」とは何か

 2010(平成22)年9月25日(土)に、岐阜市の岐阜公園案内所広場を出発地とし、旧街道を進んで岐阜県笠松町の木曽川堤まで歩くイベントが行われました。
 
第二回御鮨街道ウォークです。


 写真01−01 出発地点、金華山麓の岐阜公園に昨年オープンした総合案内所(撮影日 10/09/25)

 長良橋通りと県道287号線との交差点西側から、総合案内所の門を撮影したものです。左手は、金華山トンネルへ向かう県道287号線、背景の山は金華山です。頂上に岐阜城があります。右手の2筋の線は、金華山ロープウエイのケーブルです。ケーブルの根本の木々の緑の手前、門の右手には、織田信長像があります。 


 写真01−02 信長像と岐阜城(撮影日 10/09/25)

 写真01−03 出発式 (撮影日 10/09/25)

 このイベントの出発式には、主催者である街道沿線の自治会連合会の会長等が挨拶をされました。また、来賓には、国会議員も居並びました。立派なイベントです。


 【参考文献一覧】
  このシリーズの記述には、主に次の書物を参考にしました。

高橋恒美著『鮎鮨街道 いま昔』(岐阜新聞社 2008年)

岸野俊彦編『尾張藩社会の総合研究4』(清文堂出版 2009年)、筧真理子著「近世岐阜町の成立と岐阜奉行」
NPO法人わいわいハウス金華編『ふるさと岐阜・魅力大発見 岐阜町金華の誇り』(岐阜市歴史博物館 2009年)
御鮨街道景観まちづくり実行委員会編『御鮨街道(第1版)』(2004年)
御鮨街道景観まちづくり実行委員会編『脚で見る御鮨街道』(2006年)
  岐阜県編『岐阜県史 通史編 近世上・下』(岐阜県 1962年) 
  長良川の鵜飼研究会編『ぎふ長良川の鵜飼』(岐阜新聞社 1994年) 

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 御鮨街道ウォーク(御鮨街道を歩く)とは、江戸時代に行われていた、旧岐阜町から鮎鮨(あゆずし)を献納するための荷物輸送を、できるだけ古式にしたがって、その1部を再現するイベントです。2008年に最初に行われ、この2010年が2回目です。

 では、運ぶ「
御鮨」とはどういうものでしょうか?なぜ、岐阜の町がそれに係わるのでしょうか?
 また、
どこへどうやって運ぶのでしょうか?


 写真01−04 これが運ぶ荷物です。  (撮影日 10/09/25) 

 肩に担いでいる荷物が、「御鮨」です。中味は何でしょうか? 
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 「御鮨」とは何か、何をどこへ運ぶのか、なぜ岐阜の町がかわるのか

 まず、「御鮨」についてです。
 岐阜と言えば、
長良川の鵜飼いです。鵜匠が鵜を操って、などの川魚を獲る漁です。
 一行が運んでいる、「御鮨」とは、長良川鵜飼いによって漁獲した鮎を原料にした「
御鮨」、つまり「鮎鮨」です。といっても、現在の「お寿司」とは、全く種類の異なる食料です。
 現在の「
お寿司」といえば、普通に「握り寿司」をイメージします。(他に、押し寿司、ちらし寿司もありますが)握り寿司は、江戸時代になって江戸前の海でとれた新鮮な魚介類を使って、握った酢飯にネタを載せた「江戸前寿司」が起源です。つまり、江戸の大量の消費者と江戸前の魚介類とをうまく結びつけた、新鮮なものを素早く消費者に供給する手軽な料理で、いわば、江戸時代に開発されたファーストフードです。
 それに対して、鮎でつくられた「
御鮨」は、現在の他の地域の料理で言うと、滋賀県の「鮒鮨」(ふなずし)と同じ加工法でつくられた食材で、同じ「すし」でもスローフードです。
 「
鮒鮨」は、酢飯を使った江戸前の「握り寿司」とはちがい、分類上は、「熟れ鮨」(なれずし)と呼ばれるものです。「熟れる(なれる)」は「馴れる」とも書き、乳酸発酵が進む状態を示すことばです。

 
鮎鮨は、次の手順でつくられました。(但し、以下はあくまで、献上用の「御鮨」の出荷手順です。)
  ※参考文献1:高橋恒美2008年、『鮎鮨街道 いま昔』P75−78
 @ 鵜によってとらえた鮎を水で洗い、塩漬けにします。
 A 数日経過した鮎から塩出しをします。
 B 鮎のウロコ・エラ取り、小骨抜き、ヒレ切りを行います。
 C 鮎の腹にご飯を詰め込みます。
 D Cのご飯とは別に、水を通した粘りけのないご飯を桶に一面敷いて、Cのご飯入り鮎を並べます。
  ここまでで漬け込みが終了します。
 E 飯と鮎の上に中央から放射状に笹を敷き、周囲にはわらをはわせます。発行を助けるためです。
 F 桶の上面と下面に押し竹(圧迫用の竹棒)を井桁上に組み、長い棒を使って、てこの原理で圧迫します。

 これで、鮎の発酵が進み、なんとも言えない香り(臭い?)と辛い味の発酵食品ができあがっていきます。
 大量に漁獲できる鮎を、保存したり、また、遠隔地の人が賞味するための方法が、この
鮎鮨でした。 

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 滋賀県の「鮒鮨」は、以前から有名で、インターネットでもたくさんの店舗から購入することができます。
 では、この「
鮎鮨」はどうでしょうか?
 鵜匠の家では、古くから上記の方法による保存食品がつくられてきました。しかし、以前は、商品として庶民がすぐに購入できるというものではありませんでした。
 しかし、現在では、製造・販売している会社があり、店舗でもインターネットでも購入することができます。その会社は、岐阜市の
泉屋物産店です。 

 写真01−05 川原町泉屋(撮影日 10/10/10)
 長良橋南詰めから西に向かう通り(十八楼がある道)をしばらく行くと、このお店があります。
 この店は、神田町通りの市役所近くに本店のある
泉屋物産店の支店で、社長泉善七氏が考案した「鮎鮨」が購入できます。
 ただし、上記の製造方法とはことなり、もっと長期に鮎を発酵させた商品です。
 一匹丸ごとは3150円と高価でしたので、私は、8切れ1575円を購入しました。
 ちなみに、写真01−07の右下が8切れ、左上が「切り落とし」で、後者は735円です。HPは以下です。
 ※
泉屋物産店  http://www.nagaragawa.com/ 

 写真01−06 鮎鮨一匹丸ごと(撮影日 10/10/10)

 写真01−07 8切れ(右下)(撮影日 10/10/10)

 泉屋川原町店で「鮎熟れ鮨8切れ」を購入した日、2010年10月10日は、9月25日の「御鮨街道ウォーク」の復習のために、全ルートと自宅からの行き帰りも含めて、晴天の下、往復45km程を自転車で走って汗をかいた日だったので、珍しく夕食にビールを飲みました。(普通は家ではアルコールは飲みません。)もちろん、酒の肴は、「鮎熟れ鮨8切れ」です。
 鮎熟れ鮨の辛みと上品な舌触りがなかなかおいしく、息子たちと満足していただきました。珍味ですが、美味です。 

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 この「御鮨」は、長良川で捕獲された鮎を、岐阜町の御鮨所で加工され、鮎桶に詰められて献上品とされ、御鮨街道を通って運ばれました。
 その献上先はどこか?行き先は江戸でした。実は、
鮎鮨は徳川将軍家への献上品だったのです。
 岐阜から将軍家への鮎鮨献上が始まった経緯は、江戸時代の初期にまでさかのぼります。
 
徳川家康は、関ヶ原の戦いの勝利のあと、なお強大な勢力を誇る大坂城の豊臣秀頼に対抗するため、練りに練った大名配置を実施しました。
 美濃には、家康の娘(亀姫)婿、
奥平信昌を中山道の宿場町加納の10万石の領主とし、加納城を建設させました。家康の信任厚い信昌は、この時点での美濃国最大の石高を与えられ、関ヶ原戦直後の徳川方の西の最前線である近江彦根の井伊直政18万石の後詰めとしての役割を与えられました。
 同時に、隣の尾張清洲には、家康の4男松平忠吉が52万石で封じられており、東近江(彦根)・美濃(加納)・尾張(清洲)と、西の豊臣勢力に対抗するための徳川勢力の縦深的な配置が意図されていました。(松平忠吉が病没すると、家康9男の義直が封じられ、居城を名古屋に移して、以後幕末まで続く尾張徳川家となります。)
 しかし、近江と尾張の間の美濃には、奥平以上の有力な大名を配置せず、むしろ、細分化して天領や旗本領や多く設定しました。金華山の麓の岐阜町もそのひとつとして、幕府直轄下に入りました。(大垣に戸田氏10万石が入るのは、1635年の家光時代)。

 1601年
美濃代官大久保長安が任命されました。(この人物はこの時期多くの職を兼任し、獅子奮迅の活躍をしています。先に旅行記「出雲・石見」の石見銀山奉行として記述した大久保長安と同じ人物です。→「出雲・石見旅行記05」
 長安は、鮎鮨を家康に献上する一方、1603年に鵜飼い保護のお触れを出したと言われています。
 また、1615年には大坂夏の陣の帰途、家康・秀忠父子が鵜飼いを見物し、鮎鮨を食べてことのほか機嫌がよかったと言われています。
   ※参考文献7 長良川の鵜飼研究会編1994年、P80−81
 
 こうしたことを直接の契機として、
美濃から将軍への鮎鮨の献上が始まります。
 高橋恒美氏は、一歩進めて次のように分析しています。
「木曽三川のの一つ長良川は「長良川のアユ」に象徴される。毎夏何千、何万にも及ぶアユを必要とする献上鮎は、ある意味で長良川の支配権を徳川が握っているという証しを、内外に周知させる力を持つ。家康は、そこのところをアピールしたかったのではないか。そして、長良川での鮎鮨賞味を契機に、将軍献上の本格取り組みを命じたのではないだろうか。
 この「鶴の一声」のによって公儀御用の「鮎鮨献上」がこの年(元和元年、引用者注1615年)、お目見えすることになったのだ。」
 ※参考文献1:高橋恒美2008年、P25

 こうして、1615年に幕府直轄領の岐阜町から、江戸の将軍家へむけての鮎鮨献上が始まりました。
 その4年後の1619(元和5)年には、岐阜町は幕府直轄領から尾張藩領となり、鮎鮨献上は、尾張藩の指揮下に江戸時代末まで続けられることになります。 

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 江戸時代の鵜飼の位置付け

 写真01−08 明治時代の鵜飼(撮影日 不明)

 写真01−09 明治時代の鵜飼(撮影日 不明)

 いずれも、1909(明治)42年発行の『岐阜県写真帖』(岐阜県図書館蔵)より。現代の鵜飼はこの時代と基本的には同じです。しかし、目に見えてわかる違いは、鵜匠の他に船を操る人間が、写真では3名となっていますが、現代は2名という点です。戦後、鵜船に船外機が付けられたことから、鵜匠+2名での操船が可能となりました。

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 大久保長安は、鮎鮨献上のシステム作りとして、鵜匠の保護を実現しました。次の諸点です。
  @ 長良川やその支流から、鵜飼以外の業法(例 網漁)を禁じた。
  A 鵜飼のオフシーズン(秋から冬)に行う、餌飼(えがい、鵜の他河川での餌取り)を保証
  B 鵜匠(岐阜の長良14人、関の小瀬7人)の諸役(税負担)を免除し、給米料金10両の給付
  C 岐阜町内に御鮨所設置 
 ※参考文献1:高橋恒美2008年、P25−27
   (原典は、片町温著『長良川の鵜飼い』(岐阜市企業部観光課 1953年)P19−20

 これらは
尾張藩領となってもその骨格は受け継がれ、岐阜の鵜飼は尾張藩の保護を受けて発展しました。鵜匠頭の3名は、尾張藩から名字帯刀を許されました。
 また、尾張藩主は、藩祖
徳川義直を初めとして、代々たびたび岐阜を訪れて鵜飼を見物しました。その際は、獲った鮎をその場で川原石を使って石焼きとし、御前に供したといわれています。
 かの有名な、「おもしろうてやがて悲しき鵜船かな」の句を松尾芭蕉が残したのは、1688年のことです。芭蕉は特別な待遇でしたが、岐阜の一般町民の鵜飼見物も行われるようになり、18世紀前半には見物船が出るようになりました。
  
 しかし、江戸時代後半からは、鮎の漁獲量が減少し、鵜匠の数も減少します。
 そして、幕府の衰退にともない、幕末の
1862年には御鮨献上が廃止となり、岐阜の鵜飼と鵜匠にとって「冬の時代」が到来します。有栖川宮等、朝廷への献上等の策は永続化せず、上納金を払って鵜飼を続けるという苦しい状況が続きます。
 しかし、
1878年に行われた明治天皇の北陸東海巡幸によって転機が訪れました。この際に、天皇に随行した岩倉具視らが鵜飼を観覧し、長良川の鮎が天皇に献じられ、それに対して天皇から御下賜金が下されるということが起こりました。
 やがて、1890年には長良川の三カ所に皇室の御猟場が設けられ、鵜匠は宮内省主猟寮に所属することになり、江戸末期から20数年を経てようやく、
長良川鵜飼は皇室の保護を受けることにより、再び安定した地位を得ることができました。
 現在は、長良川の鵜飼いは、全国に12カ所ある鵜飼の中でも唯一皇室御用の鵜飼であり、鵜匠は、正式には宮内庁式部職鵜匠という職となっています。
  ※参考文献7:長良川の鵜飼研究会編1994年、P82−83

 近年、岐阜市の観光鵜飼は、その観覧者数が減少傾向にあり、先行きは決して楽観できません。

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 写真01−10 現在の鵜飼 鵜船6隻の総がらみ  (撮影日 06/07/28)

 長良川鵜飼のクライマックスは、6隻の鵜船が一斉に鵜を浅瀬に追い込む「総がらみ」。しかし、漁獲をあげるという点からは効果は薄く、当初は藩主など貴賓者への表敬の意味で実施されたといわれています。現在ではこれが「鵜飼ショー」のフィナーレとなっています。 

 全国で鵜飼が行われているところは、次の12カ所です。
 茨城県日立市、山梨県笛吹市、岐阜県関市、同岐阜市、愛知県犬山市、京都府宇治市、同京都市、和歌山県有田市、広島県三次市、愛媛県大洲市、福岡県杷木町、大分県日田市、山口県岩国市。
 これらのまちは、毎年「全国鵜飼サミット」を開催しており、2010年は第17回大会が茨城県日立市で開催されました。
  ※こちらは岐阜県関市のHPに掲載された、日立市での鵜飼サミットの様子です。
    http://plaza.rakuten.co.jp/machi21seki/diary/201004160000/

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 江戸時代の岐阜町と現在の岐阜市 −本陣跡・奉行所跡−

 御鮨街道の出発地点の岐阜町の江戸時代の様子はどのようなものだったでしょうか?


 明治20年代の岐阜の市街地。
 1889(明治22)年に
岐阜町は、周辺の4村(今泉村富茂登村小熊村稲束村と南の上加納村の北西部を合併して、岐阜市となりました。2009年には市制120周年を迎えました。

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 現在では、このエリアには、田畑はなくなってしまいました。全面市街地です。

地図01 江戸時代・明治時代の岐阜町へ||参考文献一覧へ

 岐阜町は1619年に尾張藩領となりましたが、当初は、尾張藩の美濃国奉行、下ってはその下の大代官の支配下に置かれました。
 幕府は、美濃領内の尾張藩領を増加させる政策をとっており、岐阜町以外にも美濃国内には上有知(現美濃市)など尾張藩領は複数存在していました。国奉行や大代官は、それらをまとめて支配する役目です。
 その支配の元で、尾張藩の岐阜支配は徐々に強化されます。
 たとえば、1642年にはそれまで無高(石高が設定されていない土地、つまり年貢はなし)だった岐阜町市街地に高233石1斗9升9合が設定され、堤役銀が課されることになりました。それまで、家康や大久保長安によって諸役免除とされていた特権の制限であり、支配の強化でした。
 
1695年になって、尾張藩の支配方式は、岐阜奉行を設置する方式に変わります。
 この時から幕末まで、現在の新桜町から末広町にかけての場所に、
岐阜奉行所が存在していました。
 奉行による直接支配のねらいは、勢力を持ちつつあった岐阜町の商人を尾張藩に取り込むことであったと推定されます。
 筧真理子氏は次のように結論しています。
「岐阜奉行所の開設とともに岐阜町人と尾張藩との繋がりが強まったことが御用達の増加からうかがえ、火消組の願書はまちを直接支配する奉行の増員と格式上昇が、町人の尾張藩帰属意識の高まりを生んだことを示していると言えるだろう。」
  ※参考文献2:筧真理子著「近世岐阜町の成立と岐阜奉行」、岸野俊彦編2009年P311

 江戸時代のほぼ全体を通じて岐阜町は、尾張藩の岐阜奉行の支配を受けました。御鮨の将軍献上は、その象徴的なイベントでした。
  ※美濃国内の尾張藩領は17世紀前半に次第に増加しました。
    1656年の尾張藩領全体60万9740石のうち、美濃国領内には、12万7043石の尾張藩領がありました。
     参考文献6:『岐阜県史 通史編近世上』P619


 写真01−11 旧本陣前(撮影日 10/10/10)

 写真01−12 奉行所跡 (撮影日 10/10/10)

 街道沿いの米屋町には、尾張藩主が岐阜逗留の際に宿泊した岐阜本陣跡があります。カフェレストラン桂翠館、とうふ茶屋万福の通りを挟んで反対側、、西側に岐阜市教育委員会の説明版が掲げてあります。
 また、その1本東側(山側 )の通りには、岐阜奉行所の跡地があります。


 写真01−12 岐阜奉行所跡を示す岐阜市教育委員会の案内板(撮影日 10/10/10)


 さて、御鮨を担いだ一行がどこへ行くのか?どんな経路をたどるのか?
 次のページでは、運ぶ鮎の量・江戸までの日数・町民の負担について、さらに考えます。


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