岐阜の原風景・現風景5
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
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 JR岐阜駅北口前広場の織田信長像と岐阜の歴史 その3
 
 岐阜は城下町?それとも・・・

 岐阜市はもともと城下町だったのか?
 という質問には、「いいえ」と答えざるを得ません。
 確かに、斎藤道三が稲葉山城を居城とした、1539(天文8)年から62年間は、城主こそ短期間で代わりましたが、稲葉山(金華山の頂には城があり、城主がいたのですから、城下町であることに間違いはありません。
 しかし、関ヶ原の戦い直後の1601年に岐阜城が破壊されて以後は、岐阜に城を持ち、岐阜の町を支配する大名はいなかったのですから、これはやはり城下町とは言えないでしょう。
 
 現在では岐阜市に含まれている、岐阜市加納の旧中山道加納宿には、江戸時代を通じて加納城と大名が存在しましたが、この存在は岐阜の町とは一緒にはできがたいものです。
 つまり、
岐阜の町は、常識的に考えれば、「江戸時代の城下町としての歴史」を持たない、県庁所在地なのです。


 城下町の県庁所在地を全国的に調べてみると・・・

 そこでクイズです。同じような境遇の町、「おらが町の殿様やお城」がなかった県庁所在地は、日本の47都道府県庁所在地のうち、どれぐらいあるでしょうか?


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 これを一覧にまとめると、次のようになります。


  ※高柳光寿・竹内理三編『角川・第二版 日本史事典』(1987年)「付録 近世大名配置表」などより作成


 47のうち30は、江戸時代方の城下町です。伝統やアイデンティティを形成しやすい、おらが町の殿様やお城が存在しています。現実に多くの県庁舎や市庁舎は、お城の敷地の中か、その近くに存在しています。
 30の中に含まれなかった都市の中でも、横浜、神戸、大阪、京都、奈良、長崎、札幌、那覇の8都市は、その歴史が教科書に書いてあるぐらいの都市ですから、アピールポイントはいろいろあるはずです。
 山梨県甲府は、いうまでもなく、甲斐の武田氏を目玉商品にできます。
 そうすると、残った県庁所在地、北から、青森・千葉・さいたま・新潟・長野・岐阜・大津・宮崎あたりが、県としてのまとまりを作る場合のアピールポイントを求めづらい都市ということになります。


 「他にも同じような町がいくつかあるじゃないか」と言われるかも知れませんが、何度も言いますが、これらの都市のうち、江戸時代に隣国の大藩の領地であった都市はありません。

 そしてもう一つ、考慮に入れなければならないことがあります。
 それは、岐阜と隣県の大都市名古屋との「距離」です。
 そこでまたまたクイズです。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 岐阜から名古屋までは、快速電車で僅か18分で行けてしまいます。ちなみに、他の県庁所在地間の所要時間を調べると、以下のようになります。



 距離と「所要時間」とは、必ずしも比例しません。岐阜から名古屋までは30.3kmと比較的長い距離ですが、停車駅が尾張一宮駅ただ一つであること、岐阜を出てすぐ一度75度ほどカーブしてからは、ただひたすらまっすぐに走るだけであることから、18分という短い所要時間となるのです。


 岐阜の立場

 国鉄が分割民営化されて今のダイヤになり、また、ここ数年、名古屋駅周辺に魅力的なビルや施設が整備されてからは、岐阜市民から見て名古屋商圏へ出かける魅力が高まりました。
 それは即、「
岐阜が寂れていく」ことにつながっています。この15年間に、岐阜近鉄・新岐阜百貨店・岐阜パルコ・ダイエーなど、いくつもの大規模商業施設が岐阜の中心部からは消滅しました。

 右の本は、郷土史家の松尾一(はじめ)氏の著書『岐阜は名古屋の植民地!?』(まつお出版 1994年)です。
 衝撃的なタイトルですが、岐阜を愛する郷土史家の松尾氏ならではの、辛口の分析です。

 岐阜の「敵」は、外部ばかりではありません。
 内部にも問題はあります。
 岐阜県は広い県ですからいろいろ各地に魅力はあり、観光地も一杯あります。
 飛騨の高山や白川郷、郡上八幡などです。

 ところが、これらの観光地は「飛騨高山」「郡上八幡」 

とはいいながら、「岐阜の高山」「岐阜の郡上八幡」というキャッチコピーは使わないのです。別に使いたくないから使わないというわけではないと思いますが、事実として「岐阜」という冠は付いていません。
 したがって、「飛騨高山」のことは知っている他県の方でも、それが岐阜県であることは知らないという場合も多くあります。
 これがもう一つの岐阜県の弱さです。


 岐阜の名産品というのも今ひとつです。
 広島のもみじまんじゅうや、名古屋のきしめん、ういろう、赤味噌などと言った全国ブランドの定番はありません。
 
 何か自慢できる品物があるのかと言われれば、あることはあります。 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 前出の松尾氏も書いておられます。
「なんと言おうと岐阜のみ−ずはうまいぞ
 岐阜の水はうまい。岐阜市では「ぎふ中部未来惇覧会」を記念して水道水(井戸水ではない水道原水を使用している)だけを入れた 「名水官選長良川・ぎふの水」という缶まで配布していたほどだから、単なるお国自慢ではない。当然、井戸水もうまい。
 多くの都市では河川の水を消毒してからそれを各家庭に送っている。関東や関西の都市は上流で流した下水処理水を、再び下流の都市が水道の原水に取り入れている。木曽川系の水を使用している名古屋市の場合は、比較的上流で取り入れているから関東や関西の大都市より格段にうまいはずだ。
 しかし岐阜の水のほうがうまい。その岐阜市の水道水のうまさには秘密がある。
原水は金華山の麓あたりのしかも長良川のなんと伏流水から取っているのである。つまり長良川の水がゆっくりゆっくりと年数をかけて地下に潜り、自然に濾過されミネラルを含んだものを使用しているわけである。だからあまり消毒もされずその分うまくなるのだ。
 まあ、なにもしない岐阜の地下水が一番うまいのだか、水道水ともなれば法律もある、多少の消毒はしかたがないだろう。大都会では、水をうまくする家庭用の濾過器が売れているようだが、岐阜ではおそらくあまり売れないであろう。
 さらに岐阜市の水道の水源は伏流水だから、水不足に悩まされることもない。
 大垣市も同様で古くから「水都」と呼ばれており、水のうまさは定評かある。かつては自噴水(ガマ)もよく見られたくらいだ。水無しでは大垣は語れない。
 さて、少し前まで夏ともなれば各家庭では、このガマからひいた 「井戸舟」で「水まんじゅう」か冷やされ、お客をもてなしていたという。さっぱりとした甘味の 「水まんじゅう」は、わらび粉とくず粉を練ってこしあんを包み蒸して水の中に入れ冷やし、冷
たい水といっしょに小鉢に入れ頂くのである。現在では和菓子足さんの店先で販売され、大垣の夏の風物詩として市民に親しまれている。」
 ※松尾前掲書 P54−56 


 さて信長、どこへ行く

 「岐阜は水がおいしい」という、観光交流推進局長の古田菜穂子氏のことばは、真実で誠実でとても好感がもてます。しかし、水だけでは、たくさんの観光客を呼ぶことも、岐阜の若者たちに、夢と希望を持たせることも、十分にはできません。

 それだからこその織田信長でしょう。
 過去のことにとらわれなく、果断に諸勢力と対応し、たぐいまれな創造性を発揮した信長は、とても魅力ある存在です。
 おっと、岐阜から出て行って討ち死にしないように、気をつけてほしいものですが・・・・。

 最後に、今も懸命に続けられている、金華山山麓での信長居館発掘工事について、紹介します。


写真01 長良川と金華山   (撮影日 09/10/31)
 金華橋の真ん中からの撮影
 

写真02 長良川の水 (撮影日 09/10/31)
 長良橋の上から撮影した水面と川底、透明度は満点です。


写真02 信長居館跡   (撮影日 09/10/31)
 岐阜公園内の信長居館跡入り口です。この日は菊人形展で飾り付けがきれいでした。
 

写真03 信長居館跡入り口 (撮影日 09/10/31)
 菊人形展が大賑わいの割には、居館跡の中へ入る人はまばらです。


 写真04 内部です。大きな石が並ぶ庭園です。      (撮影日 09/10/31)
 居館跡の上を、ロープウエイが通ります。奥には三重の塔があります。


写真05 大きな石の並ぶ通路 (撮影日 09/10/31) 

写真06 石のアップです (撮影日 09/10/31)

写真07 端正な石積 (撮影日 09/10/31)

 写真08 水路跡 (撮影日 09/10/31)


 写真09 現在の発掘現場  (撮影日 09/10/31)
 これまで数次にわたって発掘が行われましたが、大きな石の庭園跡などの他には、それほど注目を浴びるものは出てきていません。シートの上の白地の文字は、「信長公居館 発掘中」と書かれています。この看板を誰に見せているかというと・・・。


 写真10 発掘現場上を通過するロープウエイ  (撮影日 09/10/31)
 発掘現場の上をロープウエイが通過するため、その乗客に発掘をアピールするために看板が掲げてあるのでした。


 写真11 これはロープウエイのゴンドラから撮影した居館跡     (撮影日 01/04/21)


 写真12 岐阜城                                   (撮影日 01/04/21)


 僅か9年で岐阜を後にし、その6年後には京都で討ち死にした信長を駅頭に飾る。
 さて、我が故郷よ、信長とともにどこへ行くというのかい。


 写真13 太陽光に反射して金々に光り輝く信長像   (撮影日 09/10/31)


 写真14 夕陽に輝く信長像   (撮影日 09/11/07)


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