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 石見銀山 続  10/09/12記述 10/09/14修正 10/09/15再修正(灰吹法イメージ図追加) 

 石見銀山が世界遺産となったのは、次の三点が評価されたことによります。
1 16世紀後半及び17世紀前半の世界の交易活動と結びつき、東西文化の交流を促進させた。
   ※これについては、前ページですでに説明しました。
2 鉱山跡や搬出ルート等の産業形態、及び豊かな自然環境が残されている。
   ※搬出ルートについては前ページで紹介しました。
3 高品質の銀の生産を可能にした技術があった。

 このページでは、大森の町の様子、鉱山跡の様子、そして、見学した大久保間歩を中心に鉱山の掘削技術について見聞したことを中心に説明します。
 上記2・3の解説になれば幸いです。


 大森の町 | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 温泉津温泉から大森バス停までは、20km弱、自動車で20分ほどで到着です。
 私たちのこの日の現実の行動は、さきに
石見銀山世界遺産センターに行き、あとで、大森の町を見学するという順番でしたが、このページでは、さきに大森の町を紹介します。

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 現在の島根県太田市大森の町並みです。方角で言うと、上が北、左が東です。奥が海岸に近い方ですから、手前に来るにつれて標高が高くなります。
 江戸幕府が治めた当初、ここには
銀山奉行が置かれました。しかし、17世紀後半に銀産出量が減少すると、途中から単なる直轄領に格下げになり、1675年からは、代官所により統治されました。
 銀鉱脈があった仙ノ山上空付近からの撮影で、いわゆる石見銀山は遺跡は、この写真の手前側にあります。左手前に谷を登れば、
龍源寺間歩へ行けます。手前右の谷を抜けて仙ノ山をぐるっと東側へ回れば、大久保間歩・釜屋間歩に行けます。

 写真06−01 石見大森銀山の採掘の中心、仙ノ山。  (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会)

 石見銀山の説明では、島根県教育委員会・太田市教育委員会の作成によるHP「世界遺産石見銀山遺跡」にある「写真ダウンロードのページ」からいくつかを複写・転載します。私のページでは、自分で撮影した写真との識別のため、「by島根県・太田市教育委員会」と標記します。また、撮影日は、同HP記載の年月日を記載します。
 これらの写真の著作権は島根県教育委員会・太田市教育員委員会にあります。利用の際は、以下のページを確認してください。
島根県教育委員会・太田市教育委員会編「世界遺産石見銀山遺跡」
Topページ http://ginzan.city.ohda.lg.jp/index.php
写真ダウンロードページ http://ginzan.city.ohda.lg.jp/index.php?action_post_photo_list=true


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 大森代官所跡(銀山資料館) | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 大森代官所跡は、大森集落の入り口に位置します。ここから谷側に沿って歩く場合は、ずっと上りです。


 写真06−02 代官所跡外観(撮影日 10/08/01)

 写真06−03 中の資料館 (撮影日 10/08/01)

 左は、代官所時代の表門と長屋門です。1815(文化2)年の築造です。
 右の
資料館の建物そのものは、1902(明治35)年に建造された旧島根県邇摩(にま)郡の郡役所の建物です。
 資料館内部は撮影禁止でしたので、写真はありません。銀採掘の道具類や古文書が展示してあります。
 
 代官所のすぐそばに、
特産品直売所があって、銀貨のレプリカをお土産用として売っています。安価であれば購入できたのですが、「文禄銀 63,000円」、「石州判銀 36,750円」など、とても高価なものでしたので、残念ながら我が現物教材リストに加えることはできませんでした。そのくらいなら、インターネットの古銭ショップで、小さめの本物の「丁銀」「豆板銀」などを購入する方が意味があります。

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 写真06−04 町並み(撮影日 10/08/01)

 写真06−05 銀山川上流 (撮影日 10/08/01)

 大森の道沿いの町並みは、風情があります。
 ただし、このまま登って、
龍源寺間歩までいくと、代官所跡から2.6km程の距離になり、なかなか大変です。私たちは、逆に大森バス停から徒歩で下って代官所跡まで行きましたので、楽ちんでした。
 レンタサイクルのお店も何店かありましたが、ほとんど「在庫なし」の状態でした。 


 私たちは時間の都合で、銀山公園から上流へは行きませんでした。写真だけで紹介します。

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 写真06−06 清水谷精錬所(撮影日 10/08/01)
 写真06−07 龍源寺間歩 (撮影日 10/08/01)

 写真06−06〜09は、
島根県教育委員会・太田市教育委員会の提供によるものです。
 右は
龍源寺(りゅうげんじ)間歩(まぶ)の入り口です。
 
間歩とは、鉱山の坑道のことです。近代以降なら、「第1坑道」とか名前が付くところですが、当時は、一つ一つ固有名詞で呼ばれました。最盛期は間歩の数は、鉱山全体で270にもなりました。 

 それぞれの間歩は、掘削の権利を所有した「山師」などの請負人によって採掘されるのが普通でした。しかし、この龍源寺間歩は、大森代官所の直営の間歩で、1715(正徳5)年から掘削され、坑口から600m程掘られました。この1715年というのは、18世紀の始めですから、最盛期の1600年前後からはずいぶん遅い時代になり、銀山はすでに斜陽となっていた時代のものです。
 左上の
清水谷精錬所は、1895(明治28)年に大阪の藤田組によって建設されました。
 石見銀山は、江戸時代後半には産出量は減少していましたが、最後まで江戸幕府の直轄領でした。明治になって、しばらくは政府直営の官営鉱山でしたが、次第に、旧松江藩家老安達惣右衛門など地元民間人等にその権利が譲渡されました。しかし、1872(明治5)年の地震で仙ノ山西側の
永久鉱床(仙ノ山東の大久保間歩など本谷側の鉱床は福石鉱床、地図07参照↑)を掘削する永久坑は崩落しており、再建=安定した経営はなかなか難しい状態でした。
 明治時代の半ば、1886(明治19)から次第に石見銀山全体への支配権を拡大していた
藤田組は、銀山の再興を目指して巨費と2年の歳月を費やしてこの精錬所を建設しましたが、再開した採掘では鉱石内の銀の含有率は期待より低く、僅か1年半で採掘中止となり、精錬所も操業中止となりました。
 しかし、その後銀鉱脈ではなく、有力な銅鉱脈が発見され、銅鉱の採取が採算に合い経営は続けられました。
 ところが、1922年に湧水事件が発生し、資金不足から1923年には鉱山の採掘は完全に休止されました。
参考文献3所収 岩屋さおり著「近代の石見銀山ー大森鉱山時代の経営・労働・生活ー」P168−69

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 写真06−08 龍源寺間歩内部(撮影日 10/08/01)

 写真06−09 要害山 (撮影日 10/08/01)

 左は、龍源寺間歩の内部。手掘りで坑道が掘られている。
 右は、龍源寺間歩の北側にある
要害山です。標高は414mあり、その頂部には山吹城があり、戦国時代の銀山争奪の防衛線のひとつになりました。 


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 石見銀山世界遺産センター    | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 大森の町並みのある谷とは別の谷に、石見銀山世界遺産センターがあります。
 世界遺産石見銀山の全体像を映画などで説明するとともに、狭小で駐車場も少ない大森の町並みから観光客の自家用車を閉め出し、代わりにこの世界遺産センターの駐車場からバスで運ぶと言うのが、このセンター建設のねらいです。


 写真06−10 石見銀山世界遺産センター      (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会)

 このセンターと大森バス停は、バスでほんの5分の距離です。

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 大久保間歩探検、「一般公開ツアー」参加  10/09/12記述

 さて私たちは、この石見銀山世界遺産センターで、この旅行最大の冒険に挑戦しました。通常、「石見銀山の坑道(間歩)」内を見学する場合は、一般に公開されている龍源寺間歩(↑)に行きます。
 私たちは、この一般のコースとは違って、あえて、世界遺産センターが企画している、「
大久保間歩一般公開ツアー」に参加しました。これは、仙ノ山の西側にある大森の町や龍源寺間歩のある銀山川の谷とは全く違い、仙ノ山の東側の本谷にある大久保間歩へ、特別のバスに乗って、特別のツアーガイド案内によって向かうものです。所用時間は集合から解散まで、3時間弱。また、料金も半端ではなく、一人3800円です。
 9時15分からセンター内のパノラマの前で街世の説明を受けた私たちは、バスに10分ほど乗って、石見銀山の中心の山、
仙ノ山の正面の谷、本谷に向かいました。 


 写真06−11 石見銀山世界遺産センタージオラマ  (撮影日 10/08/01)

 銀山川沿いの大森の町並、世界遺産センター、そして大久保間歩のある本谷は、それぞれ別の谷です。


 写真06−12 仙ノ山と本谷   (撮影日 10/08/01)

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 写真06−13 バス(撮影日 10/08/01)

 写真06−14 出発点 (撮影日 10/08/01)

 小さなバスで向かいます。本谷の入り口にバスの駐車場があって、そこで降りると、徒歩で山道を登ります。右の写真の奥の小屋は、トイレです。


 写真06−15 体操(撮影日 10/08/01)

 写真06−16 出発 (撮影日 10/08/01)

 ガイド「山登りですから、しっかり体操してください。途中でねんざしたりすると大変です。」
 9時30分、いよいよ出発です。

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 写真06−17 道路(撮影日 10/08/01)

 写真06−18 番屋跡 (撮影日 10/08/01)

 ガイド「道路は途中から舗装道路ではなくなります。世界遺産指定地域には、人口の構造物をつくってはいけません。」
 番屋は、江戸時代の銀山区域(
銀山柵内と呼ばれた、柵で囲われた間歩のあるエリア)から勝手に銀を持ち出す犯罪者をチェックするための施設でした。


 写真06−19 下金生坑(撮影日 10/08/01)

 写真06−20 金生坑 (撮影日 10/08/01)

 この二つは、大久保間歩のずっと下にある下金生坑金生坑(きんしょうこう)です。坑道ですが、ここまで紹介してきた「間歩」ではなく、普通に「」という呼び名になっています。なぜでしょうか?

 実は、これらの坑道は江戸時代ではなく、明治時代になってから開発されたからです。
 そして、これから向かう大久保間歩とは地下でつながっています。
 これは、1886年から銀山経営に乗り出した
藤田組による石見銀山復興策のひとつで、1889年に仙ノ山西側の永久坑と東側の本谷坑が結ばれました。大久保間歩で採掘された鉱石が、金生坑から山を抜けて西側につながる坑道をトロッコで運ばれ、写真06−06で説明した清水谷精錬所に運ばれました。

 
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 大久保間歩です      | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 いろいろ説明を受けながらハイキング気分で30分ほど登ると、大久保間歩に到着しました。
 ここは、江戸時代初期に石見銀山が直轄領となった直後、
初代銀山奉行となった大久保長安の時代に開発がなされ、その名前を取って、大久保間歩となりました。
 明治時代中期まで、300年間ほど採掘されました。
 
 以前は見学は全くできませんでしたが、2008年からツアーによる見学が始まりました。
 しかし、ツアーの時間以外、普段は管理者によって関係者以外立ち入り禁止となっています。
 間歩の入り口のそばには、管理者の小屋があって、ツアー客はその中でいろいろなものを借りて、「準備」をします。


 写真06−21 大久保間歩入り口(撮影日 10/08/01)

 写真06−22 ガイドのKさん (撮影日 10/08/01)

 写真左は、入り口の鉄柵の鍵を開ける担当者です。
 右は、準備ができた後、ガイドさんのブリーフィングを受ける参加者です。
 次の写真で説明しますが、何を「準備」したかわかりますか?
 
 また、ガイドのKさんは、大変博学で上手な説明をしていただきました。
   私「ご職業は?」
 ガイド「今は年金生活者で、ボランティアでガイドしています。昔は、地方の博物館の学芸員をしていました。」

 なるほど、「プロ」です。大変よいガイドさんに巡り会えたわけです。ラッキーでした。


 写真06−22 準備完了(撮影日 10/08/01)

 写真06−23 温度と湿度 (撮影日 10/08/01)

 左は、すっかり「準備」が整った私たちです。
 ヘルメットをかぶっています。手に懐中電灯を持っています。足下は長靴に履き替えています。そして、バッグからさらに一枚長袖の上着を取り出して着ています。私は、Tシャツ、長袖トレーナー、長袖上着、首に防寒用のタオル、という出で立ちです。
 
 こんな重装備をする理由は、間歩の中がほとんど暗闇で危険であること、地面は水たまりが一杯であること、ところどころ天井が低いこと、そして、何より、夏というのに、とても寒いことです。
 右の写真は、坑内の温度計・湿度計です。温度は、なんと12度、湿度は90%以上です。 

 

 写真06−23 入り口近く   (撮影日 10/08/01)

 入り口近くから、入り口方向を写した写真です。
 初代の江戸幕府石見銀山奉行、
大久保長安は、この間歩に乗馬のまま入ったと伝えられます。入り口部分は広いですが、少し進むと普通の坑道になります。


 写真06−24 間歩床面の木 (撮影日 10/08/01)

 入り口からしばらくは、間歩の床面に等間隔に木材が埋め込まれているのが観察されました。
 これは何でしょうか?坑道を支える木ではありません。

 実はこの木は、明治時代に間歩内に鉱石運搬用のトロッコが敷かれ、その時に敷設されたレールの枕木です。
 ガイド「枕木の上には乗らないでください。貴重な文化財です。」

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 前ページで学習した、日本史の教科書をあらためて引用すると、次のような記述が見られます。



 教科書レベルでは、そこまで書いてありませんが、実は、石見銀山が二つの技術革新、精錬技術採掘技術の革新を最初に成し遂げた鉱山なのです。この二つの技術は、石見大森から、但馬生野・佐渡相川等へ伝えられていきました。

 まずは、
採掘技術から説明します。(精錬技術については、↓こちらです。
 実は、上の、写真06−23写真06−24そのものが、
採掘技術の進歩を物語っています。
 それまでの鉱山は、「
露頭掘り」と「ひ押し掘り」によって採鉱が進められました。
 「
露頭掘り」は、地表に露出している鉱脈をほるもの、「ひ押し掘り」は、その鉱脈に沿って、地下へ向かって掘り進む方法です。これらの方法は、鉱脈を確実にとらえるという点では、最も効果的な方法です。
 しかし、「
露頭掘り」では、もともと採掘量は限られてしまいますし、また、「ひ押し掘り」は、地下に掘り進んで採掘量は増加するものの、やがて大きな困難に直面します。
 ひとつは、坑内にわき出てくる
水の処理ができないのです。上から下に向かって掘り下げられた坑内に水が湧いて出てくれば、水はどんどんたまっていきます。今なら動力ポンプを使って水をくみ出せば何とかなるでしょうが、この時代は人力と僅かな道具しかありませんでした。
 もうひとつは、採掘場所へ
新鮮な空気を送れないことです。有効な送風機がない時代には、二酸化炭素の濃度の増加による活動不能はいたしかたのなことでした。
 この、
湧水と換気不能の結果、いい鉱脈でも、比較的短時間で掘削不可能な状態になってしまいました。
 
 この大久保間歩は、横穴を掘って鉱脈に達する、いわゆる、「
坑道掘り」によって掘削された鉱山です。
 つまり、 
横穴の坑道を掘って鉱脈に行き着き、そこから鉱脈に沿って掘り進めるという方法の採掘技術です。この技術によって、本坑道と平行して、水抜き坑、換気坑などの整備が可能となり、基本的には大規模な鉱石採掘が可能となりました。
 この技術のポイントは、次の3点です。

 鉱脈の場所の推定と掘削してそこにたどり着く測量技術と測量士の存在が必要です。
 この技術を寸甫切(すんぽぎり)といい、測量士のことを寸甫(すんぽ、今の「寸法」です)と言います。築城や用水建設などの必要性と相俟って、戦国時代になって確立されてきた技術です。

 長い坑道の掘削には、掘削そのものを可能とする技術的なレベルが必要です。
 といっても、この時代には、重機もなければダイナマイトもありません。ひたすら人力によって岩石を掘り崩していくわけです。となると、能率よく掘削するには、手作業を支える鉄製の道具が必要です。
 堅い岩石を砕くための、
のみたがねとそれを打つ金槌、またはやや柔らかい岩石を掘削するつるはし、そして、切り取った岩石を選鉱する前に、鉱石をより細かく砕くげんのう、などなど。
 つまり、鉱山で働くばく大な鉱山人夫が使用する数多くの
鉄製道具が供給されなければ、鉱山の掘削はできないわけです。
 これを支えたのが、15世紀から進んだ、砂鉄採取の効率化と製鉄技術の発達でした。金銀山掘削の技術は、それより先行した製鉄技術の発達を背景としてなされたものでした。 

 

 坑内照明、通風、排水方法の確立されていなければなりません。
 深い坑道には照明設備が必要ですし、当時の照明はろうそくにしろ油にしろ生じる二酸化炭素等を除去するには、通風設備が必要でした。通風は、防塵対策という点からも必要でした。
 通風には、大きな鞴(ふいご)のような通風装置が使われていました。
 また、基本的には横穴坑道とはいえ、部分的には、湧水に対する排水対策も必要でした。
 排水装置としては、樋(ひ)と桶(おけ)を使う方式、釣瓶を使う方式、螺旋軸を使う方式などが広がっていきました。
  ※掘削・排水の螺旋軸は、佐渡の金山で撮影したものがあります。こちらです。
      →旅行記:「産業遺跡訪問記 新潟佐渡・群馬富岡旅行2」 
 

参考文献7所収 山口啓二著「金銀山の技術と社会」P154−55
参考文献7所収 佐々木潤之介著「銅山の経営と技術」 

 石見銀山は、16世紀の前半に、いち早くこの技術を確立しました。


 写真06−25 縦穴(撮影日 10/08/01)

 写真06−26 神秘的? (撮影日 10/08/01)

 大久保間歩の中心坑道は基本的には横穴です。しかし、ところどころに、鉱脈向かって掘り進んだ部分があります。上下の垂直方向に、また横に、枝坑道が伸びています。
 この2枚は、垂直方向に掘り上げている部分です。坑道の中でも要所要所でガイドさんが説明してくれます。

 

 写真06−27 横穴(撮影日 10/08/01)

 写真06−28 垂直穴 (撮影日 10/08/01)

 左は、横坑道です。右は、下に向かって垂直に掘られた部分です。

 

 写真06−29 二つの掘削方法  (撮影日 10/08/01)

 この写真は、坑内のところどころに見られる、掘削における二つの時代の違いを示す貴重な写真です。
 よく見ると写真の上の部分は、坑道の岩石の表面がなめらかで、反対に下半分は粗っぽくなっています。
 これは、どちらかが
江戸時代、どちらかが明治時代に掘られたものです。どちらがどちらかわかりますか?

 実は、上が
江戸時代です。手作業、つまり、金槌とノミとタガネで、丹念に岩石を掘っていったため、表面がなめらかです。
 一方、下の
明治時代は、穴を開けて、そこに黒色火薬を詰め、導火線で爆破して掘り進んだため、表面は粗っぽくなっています。まだダイナマイトは使われていません。 


 大久保間歩の見学は、約30分ほどでした。
 佐渡金山と違って、採掘をする姿をした人形がいるわけではありませんが、自然のままの空間が、反対に、往時をしのべる貴重な何かを感じさせてくれます。


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 釜屋間歩です      | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 大久保間歩からさらに上に登ると、もう一つの重要な遺跡、釜屋間歩に到着します。
 ここは、間歩の中に入ることはできません。
 実は、間歩の外に開けている空間、岩を刻んでつくられた巨大な岩盤加工遺構が見事です。この場で採掘された鉱石の選鉱、さらには製錬を行ったものと推定されています。


 写真06−03 釜屋間歩全体の写真     (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会)

 それまで埋もれていた釜屋間歩の本格的な発掘は、2003年に始まりました。
 左下に間歩の入り口があり、中央の岩を彫り込んだ階段により、上の層の施設に上がることができます。全部で3段の遺構が明らかとなりました。


 写真06−30 釜屋間歩入り口(撮影日 10/08/01)

 写真06−31 内部 (撮影日 10/08/01)

 下段にある釜屋間歩の入り口と入り口から除いた内部の写真です。

 

 写真06−32 間歩入り口で説明を聞くツアーの一行(撮影日 10/08/01)


 写真06−33 中段の施設(撮影日 10/08/01)

 写真06−34 最上段の施設 (撮影日 10/08/01)

 発掘によって明らかになった遺構は、巨大な岩盤遺構でした。
 当初は、何のための遺構かわからず、「謎の岩盤遺構」と呼ばれました。
 やがて、さらに発掘が進むと、土間の部分から、銀と鉛の合金、つまり「貴鉛」(きえん)が発見されました。製錬・精錬方法は下で説明しますが、これにより、この遺構が、精錬をおこなう場所と判定されました。

 釜屋間歩の外側の岩盤遺構は、銀山最盛期の1600年〜30年頃につくられたもので、中段には水をためる小六基の岩盤への彫り込みがあり、それらの中には幅10センチほどの水路でつながったものもありました。この結果、中段は、山の水をたくみに集めて流し、その水によって比重選鉱作業を行った建物跡と推定されました。水の力を利用して、重い銀鉱石を沈め、不純物を流すことによって鉱石を選鉱する作業です。
 この周辺では、100年もの間生産活動が行われ、炉の跡と思われる痕跡も見つかっています。
  ※参考文献9 雑誌『太陽』所収 P40−49 中田健一著「銀山の中心、仙ノ山・柵内 発掘調査の結果」

 

 ここでは、上の教科書(↑)の引用にあった、「精錬技術採掘技術の革新」のうちの、「精錬技術」 について説明をします。

 細かく言うと、鉱石は、採鉱、選鉱、製錬、精錬の4つの過程をへて求める金属が取り出されます。
 「採鉱」は、鉱床から金属を含む鉱石を掘り出す作業、「選鉱」は金属を含む部分だけを選び出す作業。
 「製錬」は、選鉱によって得た鉱石の金属を豊富に含んだ部分を溶かして、金属だけを分離さえる作業、
 「精錬」は、「製錬」によって得られた粗金属を溶かして不純物を除き、目的とする金属の純度を高める作業。

 参考文献2 村上隆2007年 P6−7

 1526年に石見銀山の採掘が開始された当時は、日本には有効な製錬・精錬技術が無く、開発者の神屋寿禎は、銀鉱石をわざわざ技術の進んだ朝鮮に運んで、そこで精錬する手間をかけて、銀鉱を銀に変えていました。
 ところが、1533年には朝鮮の技法を身につけた宗丹と桂寿の二人が博多から招かれ、彼らの指導によって新しい製錬・精錬方法が石見銀山で行われ、製錬・精錬の能率化が実現されました。

 その製錬・精錬技術を、
灰吹法(はいふきほう)といいます。
 次の工程です。

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 写真06−35 貴鉛 (撮影日 10/08/01)

 写真06−36 灰吹銀 (撮影日 10/08/01)

 資料05の説明に記述されている、左=貴鉛(銀と鉛の化合物、銀が15%・鉛が85%)と、右=灰吹銀
 いずれも、大久保間歩探検ツアーのガイド、Kさんの説明用の実物。とてもよくわかる丁寧な案内をしていただき、ありがとうございました。また、私のマニアックな質問にお答えいただき、感謝です。

 

 この灰吹法は、1543年に佐渡に伝えられ、また後には、但馬生野の銀山に伝播しました。
 
 石見銀山は、
坑道掘りという新しい掘削法と、灰吹法という新しい精錬法によって、画期的な銀産出量を実現し、16世紀後半から17世紀前半の日本の鉱山の中心となりました。
 1601年
大久保長安が新奉行となって以降は、産出量はさらに激増し、上記の釜屋間歩の請け負っていた山師安原伝兵衛は、年間3600貫(13,500kg)の銀を家康に献上したと言われています。1603年8月、伝兵衛はその功績から、伏見城の徳川家康からお目見えを許されました。この時伝兵衛は、一間四方の盤上に、輝く銀を蓬莱(ほうらい)山のように高く積み上げて献上したと言われています。これに感激した家康は、「備中」の称号と、着ていた「辻が花染丁子文道服」(つじがはなぞめちょうじもんどうふく)を伝兵衛に授与したとされています。
 この服は現存し、国の重要文化財に指定されています。(大田市大森町の清水寺が所蔵し、京都国立博物館に寄託されています。) 


 写真06−37 164番間歩 (撮影日 10/08/01)

 写真06−38 安原谷 (撮影日 10/08/01)

 左:間歩には通し番号が付いています。これは、草の中に埋もれる164番間歩。
 右:大久保間歩から釜屋間歩にいたる中間に、安原伝兵衛の屋敷があったとされる安原谷への分岐点があります。奥には「安原備中墓」があるとのことでした。

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 今回の旅行のメイン訪問地となった石見銀山は、わざわざ大久保間歩ツアーに参加した甲斐あって、とても有意義なものになりました。ただの物見遊山では得られない貴重な体験をすることができました。


 これで、2010年7月30・31日、8月1日に訪問した、餘部・出雲・石見の旅行記を終わります。最後までお読みいただきましてありがとうございました。


古代・中世・近世の貿易品と輸出品に占める金属については、→クイズ日本史:江戸時代「輸出品と金属」を参照のこと。


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