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石見銀山 続 10/09/12記述 10/09/14修正 10/09/15再修正(灰吹法イメージ図追加) |
石見銀山が世界遺産となったのは、次の三点が評価されたことによります。 |
大森の町 | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
温泉津温泉から大森バス停までは、20km弱、自動車で20分ほどで到着です。 |
現在の島根県太田市大森の町並みです。方角で言うと、上が北、左が東です。奥が海岸に近い方ですから、手前に来るにつれて標高が高くなります。 |
写真06−01 石見大森銀山の採掘の中心、仙ノ山。 (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会) |
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石見銀山の説明では、島根県教育委員会・太田市教育委員会の作成によるHP「世界遺産石見銀山遺跡」にある「写真ダウンロードのページ」からいくつかを複写・転載します。私のページでは、自分で撮影した写真との識別のため、「by島根県・太田市教育委員会」と標記します。また、撮影日は、同HP記載の年月日を記載します。
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大森代官所跡(銀山資料館) | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
大森代官所跡は、大森集落の入り口に位置します。ここから谷側に沿って歩く場合は、ずっと上りです。 |
写真06−02 代官所跡外観(撮影日 10/08/01) |
写真06−03 中の資料館 (撮影日 10/08/01) |
左は、代官所時代の表門と長屋門です。1815(文化2)年の築造です。 |
写真06−04 町並み(撮影日 10/08/01) |
写真06−05 銀山川上流 (撮影日 10/08/01) |
大森の道沿いの町並みは、風情があります。 |
私たちは時間の都合で、銀山公園から上流へは行きませんでした。写真だけで紹介します。 |
写真06−06 清水谷精錬所(撮影日 10/08/01) |
それぞれの間歩は、掘削の権利を所有した「山師」などの請負人によって採掘されるのが普通でした。しかし、この龍源寺間歩は、大森代官所の直営の間歩で、1715(正徳5)年から掘削され、坑口から600m程掘られました。この1715年というのは、18世紀の始めですから、最盛期の1600年前後からはずいぶん遅い時代になり、銀山はすでに斜陽となっていた時代のものです。
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写真06−08 龍源寺間歩内部(撮影日 10/08/01) |
写真06−09 要害山 (撮影日 10/08/01) |
左は、龍源寺間歩の内部。手掘りで坑道が掘られている。 |
石見銀山世界遺産センター | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
大森の町並みのある谷とは別の谷に、石見銀山世界遺産センターがあります。 |
写真06−10 石見銀山世界遺産センター (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会) |
このセンターと大森バス停は、バスでほんの5分の距離です。 |
大久保間歩探検、「一般公開ツアー」参加 10/09/12記述 |
さて私たちは、この石見銀山世界遺産センターで、この旅行最大の冒険に挑戦しました。通常、「石見銀山の坑道(間歩)」内を見学する場合は、一般に公開されている龍源寺間歩(↑)に行きます。 |
写真06−11 石見銀山世界遺産センタージオラマ (撮影日 10/08/01) |
銀山川沿いの大森の町並、世界遺産センター、そして大久保間歩のある本谷は、それぞれ別の谷です。 |
写真06−12 仙ノ山と本谷 (撮影日 10/08/01) |
写真06−13 バス(撮影日 10/08/01) |
写真06−14 出発点 (撮影日 10/08/01) |
小さなバスで向かいます。本谷の入り口にバスの駐車場があって、そこで降りると、徒歩で山道を登ります。右の写真の奥の小屋は、トイレです。 |
写真06−15 体操(撮影日 10/08/01) |
写真06−16 出発 (撮影日 10/08/01) |
ガイド「山登りですから、しっかり体操してください。途中でねんざしたりすると大変です。」 |
写真06−17 道路(撮影日 10/08/01) |
写真06−18 番屋跡 (撮影日 10/08/01) |
ガイド「道路は途中から舗装道路ではなくなります。世界遺産指定地域には、人口の構造物をつくってはいけません。」 |
写真06−19 下金生坑(撮影日 10/08/01) |
写真06−20 金生坑 (撮影日 10/08/01) |
この二つは、大久保間歩のずっと下にある下金生坑と金生坑(きんしょうこう)です。坑道ですが、ここまで紹介してきた「間歩」ではなく、普通に「坑」という呼び名になっています。なぜでしょうか? |
大久保間歩です | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
いろいろ説明を受けながらハイキング気分で30分ほど登ると、大久保間歩に到着しました。 |
写真06−21 大久保間歩入り口(撮影日 10/08/01) |
写真06−22 ガイドのKさん (撮影日 10/08/01) |
写真左は、入り口の鉄柵の鍵を開ける担当者です。 |
写真06−22 準備完了(撮影日 10/08/01) |
写真06−23 温度と湿度 (撮影日 10/08/01) |
左は、すっかり「準備」が整った私たちです。 |
写真06−23 入り口近く (撮影日 10/08/01) |
入り口近くから、入り口方向を写した写真です。 |
写真06−24 間歩床面の木 (撮影日 10/08/01) |
入り口からしばらくは、間歩の床面に等間隔に木材が埋め込まれているのが観察されました。 |
前ページで学習した、日本史の教科書をあらためて引用すると、次のような記述が見られます。 |
教科書レベルでは、そこまで書いてありませんが、実は、石見銀山が二つの技術革新、精錬技術と採掘技術の革新を最初に成し遂げた鉱山なのです。この二つの技術は、石見大森から、但馬生野・佐渡相川等へ伝えられていきました。
石見銀山は、16世紀の前半に、いち早くこの技術を確立しました。 |
写真06−25 縦穴(撮影日 10/08/01) |
写真06−26 神秘的? (撮影日 10/08/01) |
大久保間歩の中心坑道は基本的には横穴です。しかし、ところどころに、鉱脈向かって掘り進んだ部分があります。上下の垂直方向に、また横に、枝坑道が伸びています。 |
写真06−27 横穴(撮影日 10/08/01) |
写真06−28 垂直穴 (撮影日 10/08/01) |
左は、横坑道です。右は、下に向かって垂直に掘られた部分です。 |
写真06−29 二つの掘削方法 (撮影日 10/08/01) |
この写真は、坑内のところどころに見られる、掘削における二つの時代の違いを示す貴重な写真です。 |
大久保間歩の見学は、約30分ほどでした。 |
釜屋間歩です | 全行程目次・地図へ || 先頭へ | |
大久保間歩からさらに上に登ると、もう一つの重要な遺跡、釜屋間歩に到着します。 |
写真06−03 釜屋間歩全体の写真 (撮影日 10/04/01 by島根県・太田市教育委員会) |
それまで埋もれていた釜屋間歩の本格的な発掘は、2003年に始まりました。 |
写真06−30 釜屋間歩入り口(撮影日 10/08/01) |
写真06−31 内部 (撮影日 10/08/01) |
下段にある釜屋間歩の入り口と入り口から除いた内部の写真です。 |
写真06−32 間歩入り口で説明を聞くツアーの一行(撮影日 10/08/01) |
写真06−33 中段の施設(撮影日 10/08/01) |
写真06−34 最上段の施設 (撮影日 10/08/01) |
発掘によって明らかになった遺構は、巨大な岩盤遺構でした。 |
ここでは、上の教科書(↑)の引用にあった、「精錬技術と採掘技術の革新」のうちの、「精錬技術」 について説明をします。
1526年に石見銀山の採掘が開始された当時は、日本には有効な製錬・精錬技術が無く、開発者の神屋寿禎は、銀鉱石をわざわざ技術の進んだ朝鮮に運んで、そこで精錬する手間をかけて、銀鉱を銀に変えていました。 |
写真06−35 貴鉛 (撮影日 10/08/01) |
写真06−36 灰吹銀 (撮影日 10/08/01) |
資料05の説明に記述されている、左=貴鉛(銀と鉛の化合物、銀が15%・鉛が85%)と、右=灰吹銀。 |
この灰吹法は、1543年に佐渡に伝えられ、また後には、但馬生野の銀山に伝播しました。 |
写真06−37 164番間歩 (撮影日 10/08/01) |
写真06−38 安原谷 (撮影日 10/08/01) |
左:間歩には通し番号が付いています。これは、草の中に埋もれる164番間歩。 |
今回の旅行のメイン訪問地となった石見銀山は、わざわざ大久保間歩ツアーに参加した甲斐あって、とても有意義なものになりました。ただの物見遊山では得られない貴重な体験をすることができました。 |
これで、2010年7月30・31日、8月1日に訪問した、餘部・出雲・石見の旅行記を終わります。最後までお読みいただきましてありがとうございました。 |
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古代・中世・近世の貿易品と輸出品に占める金属については、→クイズ日本史:江戸時代「輸出品と金属」を参照のこと。 |
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