岐阜の原風景・現風景6
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
  
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 御鮨街道を歩く −岐阜町と尾張藩について考える−その3
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 岐阜町出発

 御鮨街道と御鮨輸送について続けます。
 このページでは、岐阜の町から加納宿の手前まで、御鮨街道の沿線を紹介します。
  ※御鮨街道のルートについては、参考文献4・5:御鮨街道景観まちづくり実行委員会編
    『御鮨街道(第1版)』(2004年)・『脚で見る御鮨街道』(2006年)を参考にしました。

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 写真03−01 公園前の一行(撮影日 10/09/25)

 岐阜公園の一番北部にある公園案内所を出て、公園西の長良橋通りを南に向かう輸送隊です。
 


 写真03−02 下茶屋町通過(撮影日 10/09/25)

 下茶屋町を南下した一行は、益屋町に入る手前で、西へ折れて、大久和町通りを西へ向かいます。
 

 写真03−03下茶屋町通過(撮影日 10/09/25)
 益屋町の現在青木法律事務所がある場所には、次の説明板があります。(右手の女性がその説明板を呼んでいます。)
 この地域が、江戸時代に鮎を御鮨に加工した作業場、「
御鮨所」のあったところです。 

 写真03−04 御鮨所跡の説明板(撮影日 10/09/25)



地図05 御鮨walkコースAへ ||地図06 御鮨walk拡大図T御鮨所へ | 

 写真03−05 正法寺(撮影日 10/09/25)

 写真03−06 戦国の大道 (撮影日 09/10/31)

 旧御鮨所跡の東には、籠の大仏(竹製の大仏)で有名な正法寺があります。
 大久和町から岐阜市立博物館へかけては、岐阜城があった時代の大手道にあたる「戦国の大道」が整備されています。
 

  写真03−07 戦国の大道標識 (撮影日 同上)  写真03−08 金華小学校(撮影日 10/10/10)

 この地域の小学校は、岐阜市で最も早く設立されました。当初は岐阜小学校と言い、途中で金華小学校と改称されましたが、2009年に京町小学校と統合されて、再び昔の岐阜小学校に戻り、旧岐阜町の小学校としての伝統を保っています。2010年には新校舎も完成しました。

地図05 御鮨walkコースAへ ||地図06 御鮨walk拡大図T御鮨所へ | 

 本町を過ぎて、さらに御鮨街道を南へ歩くと、靫屋町・米屋町にかかります。このあたりは、昔風の建物を利用した個性的な食事処などがいくつもあり、なかなかいい雰囲気の町です。
 右手に、
旧岐阜本陣跡の案内板があります。
 御鮨街道を離れて、1本東の通り、新桜町通に回ると、
旧岐阜奉行所跡の案内板があります。昔の堀りだったとされる小さな水路以外、往時を偲ぶものはありません。


 写真03−09 米屋町(撮影日 10/10/10)

 写真03−10 岐阜本陣跡 (撮影日 10/10/10)

 旧岐阜本陣跡です。御鮨街道の西側に旧本陣がありました。右手の駐車場の奥には、江戸時代には、尾張藩岐阜奉行所がありました。現在の跡地案内板は、この御鮨街道からは直接見られず、もう一つ東側の新桜町通に行くと見ることができます。

地図05 御鮨walkコースAへ | 

 写真03−11 旧奉行所跡(撮影日 10/10/10)

 写真03−12 旧奉行所図面 (撮影日 10/10/10)

 右は尾張藩旧岐阜奉行所跡の絵図です。左が北側、上が山側です。
 赤い文字は、現新桜町の案内板の位置を示しています。奉行所の門は、現在の新桜町通と御鮨街道米屋町のほぼ中間に、米屋町側を向いて設置されていました。絵図の堀が現在も水路として残っています。
  


 写真03−13 旧岐阜奉行所跡の説明  (撮影日 10/10/10)

地図05 御鮨walkコースAへ | 

 写真03−14 案内板 (撮影日 10/10/10)

 写真03−15 案内板説明 (撮影日 10/10/10)

 靫屋町の米屋町境にある御鮨街道の案内板です。岐阜市が設置しました。
 御鮨街道は、ほぼ南に向かっています。道路の遙か遠方に見える高層の建物は、岐阜駅の西にある、岐阜シティータワー43です。


 写真03−16 旧岐阜本陣前にさしかかる輸送隊 (撮影日 10/09/25)

地図05 御鮨walkコースAへ | 

 写真03−17 休憩(撮影日 10/09/25)

 写真03−18 差入れ (撮影日 同左)

 御鮨ウォークのイベントは、沿線の自治会連合会等が主催者であり、行く先々で、みなさんからいろいろな形でおもてなしを受けます。米屋町の老舗「麩兵」の前では、岐阜の町のいろいろな伝統品が待っていました。私は、右の長崎屋総本店の「味噌松風」をいただきました。おいしかったです。ありがとうございました。


 写真03−19 高札場跡 (撮影日 10/10/10)

 写真03−20 高札場跡説明  (撮影日 10/10/10)

 米屋町を南下すると、伊奈波神社への参道と交差します。
 さらに南下して、白木町を行くと、岐阜町の南端の高札場跡の表示があります。このすぐ南が岐阜町の南端になります。

地図05 御鮨walkコースAへ | 

 写真03−21 岐阜町の南端(撮影日 10/10/10)

 写真03−22 駿河山から (撮影日 10/10/10)

 白木町と常盤町の境のやや広めの道は、江戸時代は、岐阜町の南端でした。この通の南半分は、現在は暗渠となっていますが、当時は堀がありました。また通の北には、土塁が構築されており、堀と土塁で。「総構(そうがまえ)」と呼ばれていました。町の境界でもあり、防衛ラインでもあったわけです。
 左上は西側から東の山を見た写真です。旧岐阜町は左手にあたります。山は駿河山といい、金華山系の続きです。この山が西の平地にせり出しているこの部分を見計らって、境界ラインを設けたということになります。

 右上の駿河山から見た写真では、左手が南です。右手からカーブして、道の半分が暗渠となっています。御鮨街道は、横断歩道があるところを横切っています。

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 「小熊村」から「上加納村」へ

 御鮨街道は、旧岐阜町を出て、旧小熊村へ入ります。
 現在の地名でも、常盤町・笹土居町の次は、小熊町です。


 写真03−23 小熊町交差点(撮影日 10/09/25)

 同左部分拡大

 御鮨街道と鶯谷トンネル通との交差点は、「小熊町交差点」です。写真角のビルは、岐阜町の昔からの産業の一つ、提灯で有名な尾関提灯(株式会社オゼキ)の建物です。この交差点には、右に拡大したように、とても立派な「御鮨街道」の標識があります。
 この街道に面して、オゼキ提灯があるのも、岐阜の歴史を構成する一つとしては、ちょうどよいラインナップです。
 岐阜市の伝楼工芸品はいろいろありますが、その一つが、精緻な工芸品岐阜提灯です。
 その始まりは、オゼキのHP(→http://www.ozeki-lantern.co.jp/index_01.html)や『岐阜県史通史編近世下』(P622)によれば、慶長年間とされています。しかし、確かな記録が残るのは、江戸時代中期の宝暦年間(あの濃尾三川治水の時)からの岐阜町から尾張藩への提灯の献上です。
 岐阜の産業の盛衰にも、尾張藩の権威が関係してきます。
 しかし、現代のような精緻な岐阜提灯の製造の拡大は、『岐阜県史』もオゼキも、明治年間になってからとしており、オゼキは
1878年の明治天皇の北陸東海地方巡幸の際に、天皇に献上されたことによりその名が広まったとしています。
 先に、ページ1(→)で説明した明治時代の鵜飼の時と同様、ここでも
1878年の天皇巡幸が大きなきっかけとなっています。


 御鮨街道は、御園町に入ります。若宮通・御殿通(柳ヶ瀬通の東への延長の通)をわたって、さらに金園町通を横断すると、元町に入ります。御園町・元町は、江戸時代は旧上加納村のエリアでした。上加納村は、江戸時代後半は加納藩の領地でした。 


 右の地図07御鮨街道説明Bをご覧ください。
 
 御鮨街道は、現
小熊町からさらに南下すると、御園町に入ります。さらに、若宮通・御殿通(柳ヶ瀬通の東への延長の通)をわたって、次に金園町通を横断すると、元町に入ります。御園町・元町の地域は、江戸時代は旧上加納村のエリアでした。ついでに言うと、私が生まれた家も、このもう少し東にありました。

 御鮨街道を歩く場合、イベントに参加して集団で行く時はみなさんに付いていけばいいから問題ありませんが、一人で歩く時は、元町でルートを錯覚する危険性があります。

 地図を見ると、元町から南へ道路が二股に分かれています。名鉄岐阜駅方面に近い現在の道は、清住町・住ノ江町方面へ向かう西側の直線道路ですが、これは実は昭和時代になって駅への利便性を考えてできた道で、江戸時代の御鮨街道ではありません。
 御鮨街道は、東側の南東へ向かう道です。
 
 次にそれを進んで長住町通と続けて名鉄各務原線の踏切を渡ると、ここでまた分岐点があります。ここでもうっかりすると道を間違えます。

 この踏切から、道はまっすぐ東南へ向かっており(の部分)、その先は旧中山道へつながっています。現在の地図を見れば、この道を進んで行くのが自然です。ところが、この道は、明治時代になって、天皇行幸のために造られたもので、江戸時代にはありませんでした。
 本当の御鮨街道は、名鉄各務原線を渡ってすぐ西へ折れ、幸ノ町・吉野町を経て、高砂町でJRの高架下をくぐり、加納広江町へ入ります。
 JRの高架の北やくぐる部分では、江戸時代の御鮨街道の正確な位置はわかっていません。現在の道路と同じと考えて、御鮨街道としています。 


 写真03−24 元町分岐点(撮影日 10/10/10)

 写真03−25 長住町通 (撮影日 08/05/18)

 左:元町の分岐点です。左が本当の御鮨街道、右は昭和になって新しくできた道です。
 右:御鮨街道はやがて長住町と名鉄各務原線踏切を渡ります。手前交差点の右(西)には、初代東海道線岐阜駅がありました。


 写真03−26 安良田町方面(撮影日 08/05/18)

 写真03−27 住ノ江町 (撮影日 08/05/18)

 左:踏切を越えて道はまっすぐ東南の方角へ進んでいます。遠くに見える赤い物体は、名鉄名古屋本線の茶所3号踏切を通行する電車です。しかし、そこまでの道は実は明治になってからできた部分で、御鮨街道は、踏切を渡ってすぐに右に折れます。道の頭上の二層の構造物はJR東海道線・高山線の高架です。
   ※これと全く反対側から見た写真が、次ページの写真04−45(→)です。
 右:写真03−24のY字路の右側の道路。この道は、昭和になってから新しくできた部分です。ただし、JRの高架から向こうは、江戸時代のからの
御鮨街道になります。高架の向こうは加納広江町です。


 写真03−28 吉野町2丁目から高架沿いに高砂町へ  (撮影日 08/05/18)

 このあたりのルートは現在の道で言うと御鮨街道はここらを通るということで、あくまで推定のルートです。本当の御鮨街道がその昔どこを通っていたかは、正確にはわかりません。 

 上の写真03−28の高砂町の交差点(道路の信号のあるところ)を左(南)に曲がって向かって高架をくぐると、加納広江町(北広江町)に入ります。
 加納から南については、次のページで説明します。


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