岐阜の原風景・現風景6 |
写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。 |
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御鮨街道を歩く −岐阜町と尾張藩について考える−その4 |
加納広江町 |
高砂町で、JRの高架下をくぐると、加納広江町です。 |
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うな形で市井に語り継がれていることに、本当の歴史を感じます。 |
写真04−32 狭い道路 (撮影日 10/09/25) |
写真04−33 亀姫の墓 (撮影日 10/09/25) |
左:広江町の御鮨街道は、名鉄名古屋本線の手前で急に細くなります。ボランティアの方にその理由を聞いてみました。 |
写真04−34 坂井田永吉本店(撮影日 10/09/25) |
写真04−35 傘の天日干し (撮影日 10/09/25) |
左:上の写真04−32の案内板から右側(西側)を写した写真が、これです。坂井田永吉本店というのは、加納の江戸時代からの特産品である、和傘を生産する会社です。道の奥のガードの上を、名鉄名古屋本線の特急が通ります。 |
写真04−36 加納広江町一帯 (撮影日 08/03/16 岐阜シティ・タワー43の最上階から撮影) |
JR東海道線・高山線と立体交差する名鉄名古屋本線。赤い電車の上の大きな屋根が亀姫の墓がある光國寺です。 |
中山道と加納宿 |
名鉄本線広江1号踏切を南に渡ると、御鮨街道はすぐに中山道に入ります。 |
写真04−37 岐阜町からの御鮨街道と中山道との合流点 (撮影日 08/05/18) |
南の中山道上から、北の名鉄本線広江1号踏切を撮影したものです。 |
写真04−38 右:道標 左:説明板(撮影日 08/05/18) |
写真04−39 |
写真04−40 岐阜問屋 (撮影日 10/09/25) |
写真04−41 雨水溝の蓋 (撮影日 10/09/25) |
写真04−37の合流点をから東へしばらく行くと、「岐阜問屋」の跡があります。(左手の看板が立てかけてある電柱の左の家のあるところが、その位置です。) |
中山道は、城下町の街道にありがちですが、「屈曲」をしつつ東へ向かいます。現在の名鉄名古屋本線の加納駅を経て次の茶所駅が、加納宿の東の端になります。 |
写真04−42 東番所跡(撮影日 10/09/25) |
写真04−43 安良町の道標 (撮影日 10/09/25) |
左:加納宿東番所跡には石碑が建っています。奥は名鉄名古屋本線加納駅です。 |
写真04−44 道標up(撮影日 08/05/18) |
写真04−45 「名古屋道」 (撮影日 08/05/18) |
左:実はこの道標は、江戸時代のものではありません。道標には、江戸・名古屋方面から来た旅人に対して、「右 岐阜・谷汲」「左 西京」とあります。右の岐阜へ向かう直線道路は、明治になって天皇行幸のために建設された道路、のちに「名古屋道」と呼ばれた道路です。道路の奥に見える赤い物体は、茶所3号踏切を通過する名鉄名古屋本線電車です。 |
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写真04−48 加納宿入り口(撮影日 08/05/18) |
写真04−47 加納宿案内 (撮影日 08/05/18) |
名鉄茶所駅隣の雑貨屋さんの前には、「中山道加納宿」の石碑があります。 |
写真04−49 茶所の道標(撮影日 10/09/25) |
写真04−50 名鉄本線 (撮影日 10/09/25) |
左:中山道から分かれて、御鮨街道が名古屋へ向かう分岐点に、「東海道いせ路」の道標と、「鏡」の文字を刻んだちょっと変わった石細工があります。 |
茶所から川手へ |
御鮨街道は、加納宿・茶所を抜けて、南へ向かい、古くは八丁畷と呼ばれた直線道路を、笠松へ向かいます。 |
写真04−51 大正・昭和初期の八丁畷の景観 (『岐阜市史』1928年版 P376の次) |
この古い写真は、昭和3年版の岐阜市史の写真から複写したものです。タイトルは、「笠松街道 一名 お鮨街道 下川手附近)」となっています。 |
写真04−52 境川 (撮影日 10/09/25) |
写真04−53 現在の八丁畷(撮影日 10/09/25) |
左:上の写真04−51の古い景観は、今では臨むことはできません。しかし、背景の山は今も昔も同じです。左の写真は、現在の岐阜市と笠松町との境界をなす、境川の南から撮影したものです。 |
御鮨街道は、川手から境川を越えて笠松に入ります。 |
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