岐阜の原風景・現風景6
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
  
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 御鮨街道を歩く −岐阜町と尾張藩について考える−その4

 加納広江町

 高砂町で、JRの高架下をくぐると、加納広江町です。
 御鮨街道は、加納広江町を南に下り、旧中山道との合流して、中山道に入ります。その間にも、いろいろな「遺跡」・名所が散見できます。
  ※御鮨街道のルートについては、前ページ同様、参考文献4・5:御鮨街道景観まちづくり実行委員会編
    『御鮨街道(第1版)』(2004年)・『脚で見る御鮨街道』(2006年)を参考にしました。

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 写真04−29 北広江町(撮影日 10/09/25)

 JRの高架下を通って南へ下がると、そこは加納北広江町です。
 この付近には、
加納城の初代藩主奥平信昌の正室に関する「遺跡」が二つあります。
 その一つは、
十二相祠堂址です。左手前の自動車が停車している所を奥に入ります。


 写真04−30 十二相祠堂址(撮影日 10/09/25)

 左の山田さん宅の北の路地の奥に、十二相祠堂址があります。 


 写真04−31 五輪の塔(撮影日 10/09/25)

 故山田昭二さんがまとめられた解説文(この日ご自宅の前で、奥様と近所のボランティアの方からいただきました)によると、十二相祠堂というのは、初代加納城主奥平信昌の正室家康の長女、亀姫)の侍女であった12人の女性が、1607年に一度に咎められて処刑され、それを1618年にこの地に祀ったということだそうです。
 当時の資料にはそれ以上の記述はなく、12人の侍女が一度に処刑された理由はわかりません。時代は、大坂夏の陣の少し前、家康方の前衛とも言うべき美濃加納城に、豊臣方の息のかかった侍女がスパイとして入り込んでいたという憶測も成り立ちます。
 しかし、彼女らがあとから祠に祀られたということは、事実とは異なる嫌疑をかけられて非業の死を遂げたということになるのでしょうか?
 江戸幕府初期にあったほんの小さな出来事が、このよ

うな形で市井に語り継がれていることに、本当の歴史を感じます。 
地図08 御鮨秋道説明C 加納へ

 写真04−32 狭い道路 (撮影日 10/09/25)

 写真04−33 亀姫の墓 (撮影日 10/09/25)

 左:広江町の御鮨街道は、名鉄名古屋本線の手前で急に細くなります。ボランティアの方にその理由を聞いてみました。
「戦争の時、そこまでは空襲で燃えた。その向こうは、焼け残った。」これは、1945年、65年前の歴史に由来する物語でした。
 踏切は、名鉄本線広江1号踏切です。
 写真の真ん中、中央線が無くなるところにあるのは、
奥平信昌公室亀姫の墓の場所を示す案内板です。

 右:亀姫の墓は、左の写真の右手の道に入って、途中の交差点で一本北に逆戻りしたところにある、
光國寺の東南隅にあります。道に面していた、フェンスがあるだけですから、上のようにフェンスの隙間から撮影することができます。

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 写真04−34 坂井田永吉本店(撮影日 10/09/25)

 写真04−35 傘の天日干し (撮影日 10/09/25)

 左:上の写真04−32の案内板から右側(西側)を写した写真が、これです。坂井田永吉本店というのは、加納の江戸時代からの特産品である、和傘を生産する会社です。道の奥のガードの上を、名鉄名古屋本線の特急が通ります。
 右:坂井田永吉商店前の和傘です。

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 写真04−36 加納広江町一帯 (撮影日 08/03/16 岐阜シティ・タワー43の最上階から撮影)

 JR東海道線・高山線と立体交差する名鉄名古屋本線。赤い電車の上の大きな屋根が亀姫の墓がある光國寺です。

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 中山道と加納宿

 名鉄本線広江1号踏切を南に渡ると、御鮨街道はすぐに中山道に入ります。


 写真04−37 岐阜町からの御鮨街道と中山道との合流点 (撮影日 08/05/18)

 南の中山道上から、北の名鉄本線広江1号踏切を撮影したものです。
 左端の太田薬局のシャッターの前に、道標と説明板があります。以下の写真です。
 御鮨を運ぶ一行は、ここで写真の右側(東)へ進むことになります。

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 写真04−38 右:道標 左:説明板(撮影日 08/05/18)

 写真04−39

 写真04−40 岐阜問屋 (撮影日 10/09/25)

 写真04−41 雨水溝の蓋 (撮影日 10/09/25)

 写真04−37の合流点をから東へしばらく行くと、「岐阜問屋」の跡があります。(左手の看板が立てかけてある電柱の左の家のあるところが、その位置です。)
 ここは加納新町と呼ばれる地域で、ここには熊田家という商家があり、信長の時代以来、問屋業を営んできました。江戸時代になると、全国から岐阜へ出入りする荷物を受け付けるようになり、「
岐阜問屋」と呼ばれました。
 岐阜町の御鮨所を出発した御鮨は、
岐阜問屋を経由して、笠松問屋へ運ばれました。
 よく見ると、道路脇の側溝の蓋にも、「中山道」と「御鮨街道」がアピールされていました。気がつきました? 

地図08 御鮨秋道説明C 加納へ

 中山道は、城下町の街道にありがちですが、「屈曲」をしつつ東へ向かいます。現在の名鉄名古屋本線の加納駅を経て次の茶所駅が、加納宿の東の端になります。
 この部分までが、御鮨街道と中山道の重複部分です。


 写真04−42 東番所跡(撮影日 10/09/25)

 写真04−43 安良町の道標 (撮影日 10/09/25)

 左:加納宿東番所跡には石碑が建っています。奥は名鉄名古屋本線加納駅です。
 右:岐阜東通りを東へ渡ると、道標があって、中山道は南に折れて、荒田川を渡ります。

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 写真04−44 道標up(撮影日 08/05/18)

 写真04−45 「名古屋道」 (撮影日 08/05/18)

 左:実はこの道標は、江戸時代のものではありません。道標には、江戸・名古屋方面から来た旅人に対して、「右 岐阜・谷汲」「左 西京」とあります。右の岐阜へ向かう直線道路は、明治になって天皇行幸のために建設された道路、のちに「名古屋道」と呼ばれた道路です。道路の奥に見える赤い物体は、茶所3号踏切を通過する名鉄名古屋本線電車です。

 右:道標から少し北へ戻って、安良町の茶所3号踏切から岐阜の中心部方面へ向かう「名古屋道」を撮影したのが、写真04−45です。遠くの道上の構造物は、JR東海道線と高山線の高架です。道路奥の赤っぽい物体は、名鉄各務原線元町踏切を通過する電車です。
 この撮影は、前の3ページの
写真03−26(→)と全く反対向きの写真です。

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 写真04−46 加納大橋(撮影日 08/05/18)

 加納大橋の南詰めには、加納宿の案内板が設置してあります。右はその拡大写真です。赤い矢印がある場所が案内板の設置位置です。上が東、下が西、右が南、左が北です。

 写真04−48 加納宿入り口(撮影日 08/05/18)

 写真04−47 加納宿案内 (撮影日 08/05/18)

 名鉄茶所駅隣の雑貨屋さんの前には、「中山道加納宿」の石碑があります。
 名古屋方面へ向かう御鮨街道は、この東端に来る前に、写真奥の薬局の前で、南へ分岐します。

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 写真04−49 茶所の道標(撮影日 10/09/25)

 写真04−50 名鉄本線 (撮影日 10/09/25)

  左:中山道から分かれて、御鮨街道が名古屋へ向かう分岐点に、「東海道いせ路」の道標と、「鏡」の文字を刻んだちょっと変わった石細工があります。
 これは、江戸時代の文政年間の江戸相撲の関取で、この地域出身の2代目
鏡岩にゆかりのあるものとされています。この地には江戸時代には、妙寿寺という寺院がありました。鏡岩は自分の行いの悪さを反省し、旅人にお茶を振る舞いました。これが、この地、「茶所」の由来と伝えられています。それだけにとどまらず、等身大の像を造り、それを棒で打たせて自分の行いの悪さの償いにしたと伝えられています。この言い伝えから、このの文字の刻まれたモニュメントを、鏡岩・ぶたれ坊と表現しています。現在まで、ぶたれ坊の像は保存されているそうですが、この地ではなく、加納伏見町の妙泉寺にあると言うことです。

 右:御鮨街道と平行する名鉄名古屋本線。まっすぐ南へ向かいます。


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 茶所から川手へ

 御鮨街道は、加納宿・茶所を抜けて、南へ向かい、古くは八丁畷と呼ばれた直線道路を、笠松へ向かいます。


 写真04−51 大正・昭和初期の八丁畷の景観 (『岐阜市史』1928年版 P376の次)

 この古い写真は、昭和3年版の岐阜市史の写真から複写したものです。タイトルは、「笠松街道 一名 お鮨街道 下川手附近)」となっています。
 茶所から川手に向かう街道のこの部分は、昔から八丁畷と呼ばれてきました。八丁畷は、「はっちょうなわて」と発音します。「畷」とは、田んぼの中のあぜ道などまっすぐに道が続いている様子で、八丁はその距離です。1丁(町とも書く)は60間、約109mです。ということは、八丁は870m余りです。この写真の撮影位置が現在のどこにあたるのかは、正確にはわかりません。
 

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 写真04−52 境川 (撮影日 10/09/25)

 写真04−53 現在の八丁畷(撮影日 10/09/25)

 左:上の写真04−51の古い景観は、今では臨むことはできません。しかし、背景の山は今も昔も同じです。左の写真は、現在の岐阜市と笠松町との境界をなす、境川の南から撮影したものです。

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 御鮨街道は、川手から境川を越えて笠松に入ります。
 この続きは、次のページで説明します。


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