岐阜の原風景・現風景6
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
  
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 御鮨街道を歩く −岐阜町と尾張藩について考える−その2
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 一行の編成はどのようなものか 運ぶ鮎の量はどのくらいか

 このページでは、御鮨の運送そのものについて、その輸送量・輸送日数・町民の負担などを考えます。
 
 まずは、御鮨献上の一行の編成、言い換えれば鮎輸送部隊の陣容はどのようなものだったでしょうか。
  ※以下は、実際の御鮨ウォークの様子と、主に高橋恒美氏の著作を参考にまとめました。
   参考文献1:高橋恒美著『鮎鮨街道 いま昔』(岐阜新聞社 2008年)
 
 主催者ができるだけ忠実に再現した、「第二回御鮨街道ウォーク」の搬送部隊のみなさんは、次の写真の編成でした。

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 写真02−01 御鮨搬送の一行   (撮影日 10/09/25)


 写真の右側が先頭です。次のような陣容となっています。

宰領(さいりょう)

 先頭の羽織姿で小刀を腰にしている方は、この一行の監督役です。

御証文箱持ち

 2番目に棒に通された箱を担いでいる人が続きます。この箱の中には、老中が発行した御証文などの重要文書、以下に続く荷のカギが入っています。

人夫

 続いて主役の鮎を入れた荷物が続きます。
 荷は三つにまとめられるのが普通で、一人の人夫が前後に担いでそれで一組(
一荷)です。あとで説明しますが、相当重いものなので、交代の人夫も含めて10前後からなっています。

 このほかに、前日に出発して各宿場へ先触れする、「先触れ役」がいましたし、夜歩く時は「提灯持ち」がいました。全体として15名前後の人々がこの任務を遂行したことになります。
 さらに、宿駅の問屋場ではこの他にもいろいろな役割が必要でした。

 写真02−02 幟旗
        (撮影日 10/09/25)
 

 この一行は、岐阜町から江戸までの宿場(その数は46駅)をずっと歩いて行くわけではありません。
 御鮨の献上は、宿から宿へ、リレーされていく方式でした。基本的には、継飛脚等と同じで、荷物は受け継がれていくわけです。
岐阜から加納加納から笠松という具合です。
 まず、先触れ役が、1日前に一つ前の宿場に行って、宿問屋の主人に御鮨がやってくることを予告し、次の日に届く一行がそこで交代して次々と御鮨を受け継いでいくわけです。 


 では、運ぶ荷物はどのくらいの量だったでしょうか?
 下は御鮨街道ウォークの一行が運んだ荷物の写真です。外見は江戸時代に倣ってそれに近い状態でつくってあります。
 この中にはどれぐらいの鮎が入っているのでしょうか?また、1回の輸送でどれぐらいの鮎を運ぶのでしょうか? 


 写真02−03 荷物

 写真02−04 一荷 (撮影日 左右とも 10/09/25)

 人夫が担ぎ棒で前後に担ぐ二つの荷を一組とし、「一荷」(いっか)といいます。
 江戸時代を通じてひとつの鮎輸送一行の荷の数は、最も多いのは「
三荷」でした。(時期によっては、二荷、四荷、五荷の時もありました。)


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 なんと1回の鮎輸送量は、360尾にもなります。



 ※今回はこの絵を描くのに、大変な時間がかかってしまいました。久しぶりの超大作です。(+_+)


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 人夫一人が運ぶ荷物の総量はどれぐらいの重さになったでしょうか?
 
6桶=1荷分の重さ(鮎+ごはん+桶の重量)は、30kg程になり、それを収納する内箱・外箱、それぞれの収納箱2組分の重さはこれまた30kg程になったと思われます。つまり、人夫一人が運ぶ1荷分の荷物の総重量は、60kg程になりました。
 今の普通の人では、これだけの重量を担いですたこらと何時間も歩くことはできません。昔の人は強かったと言えばそれまでですが、すごいもんです。
 御鮨街道ウォークでは、中味の鮎はともかく、内箱・外箱までそのとおり復原すると、重くて運べなくなってしまいますから、ダンボールでつくって負担を軽減してあると聞きました。


 岐阜町から江戸までどのくらいの早さで運ぶのか

 さて、この荷物ですが、岐阜の町から江戸まで運ばれました。どれぐらいのスピードで運ばれたのでしょうか?
 江戸時代、江戸幕府の公式文書輸送等にあたった継飛脚は、江戸-京都の間を、僅か70時間ほどで行くことができたそうです。もちろん、一人が走るのではなく、リレー方式です。
 ここで話題にしている
御鮨輸送も、宿場から宿場へのリレー方式です。(その方法は、次のページで説明します。)
 しかし、上で説明したように、人夫は、飛脚と違って60kgもの荷物を担いでいます。スタコラサッサと走るわけにはいきません。そこで、クイズです。
 当時の資料から再現された、御鮨輸送にかかった
岐阜町−品川の所要時間は、どれぐらいでしょうか?
 目的地が品川となっているのは、御鮨は、直接江戸城に運び込まれるのではなく、品川宿の名主が江戸市ヶ谷の尾張藩邸へ届けたあと、尾張藩から江戸城の台所へ納められましたが、最後のその部分の正確な時間を示す記録が残っていないために、品川としてあります。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 ちょっと確認します。岐阜と東京の間は、何キロぐらいかご存じでしょうか?

 写真02−05 399.5キロポスト(撮影日 10/04/24)

 写真02−06 400キロポスト (撮影日 10/04/24)

 鉄道には、ちゃんと律儀に起点からの距離を示したキロポストが設定してあります。(国道にもあります、河川にも河口からの距離表示があります。)
 左の写真は、399と1/2のキロポストで、西岐阜駅のホームから見えます。右の写真は、400kmポストで、西岐阜駅の西にある市橋の岐阜貨物ターミナルの中にあります。


 重い荷物を、大変早く輸送したもので、5日目の夕方にはもう品川に到着し、次の6日目の朝には江戸城に運ばれました。もちろん、夜も提灯の明かりを頼りに運び続けられました。
 上記の江戸幕府の継飛脚は、江戸-京都間を70時間で荷物を運びましたが、東海道五十三次の江戸−京都間の距離は、124里8丁=約497kmですから、70時間で割れば、
時速7.1kmです。
 
 御鮨輸送の場合はどうでしょうか?
 岐阜と品川の距離は、JR東海道線では、389.5kmです。旧東海道線と東海道とは少々違いがありますから、約400kmとしましょう。
 それを、正味4日間、24時間×4=96時間で運んだわけですから、おおむね
時速4kmです。何度も言いますが、飛脚と違って、60kgもある御鮨輸送ですから、これはすごい速さです。
 地図で説明すると、次のようになります。



 2日目、平坦な土地が続く愛知県では、1日の移動距離が長くなっていますが、3日目・4日目、アップダウンが激しい静岡県では、前日に比べて移動距離は短くなっています。


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 どこからどこまでが御鮨街道か

 話が先に進んで、御鮨の鮎が品川から江戸城に到着してしまいました。
 しかし、我が岐阜県人が実施した、
御鮨街道ウォーキングは、東京まで歩くわけではありません。
 ここでは話を戻して、岐阜町から出発して、どこを通って行くのかを確認します。岐阜町と尾張名古屋までの間のルートの確認です。 



 ※上の地図は、NASA・WorldWindの衛星写真を使って作成しています。 

 現在のJR東海道線は、東京から名古屋までは、昔の街道の東海道におおむね沿って敷設されています。しかし、岐阜から滋賀県の草津までは、中山道に沿って敷設されています。
 私が、岐阜市以西は、JR「中山道線」と呼ぶべきだと言っている所以です。
  ※→岐阜・美濃・飛騨「岐阜県の東海道線あれこれ1 どうして岐阜に「東海道線」が・・・」
 
 岐阜県を通る旧
中山道と愛知県を通る旧東海道は、江戸時代はどういうルートによって結ばれていたのでしょうか?
 そのメインのルートは、
中山道垂井宿から分岐して、稲沢・清洲・名古屋を経て東海道の熱田に至る、美濃路(地図04の)です。
 それに対し、現在の東海道線のように、名古屋市と岐阜市を直接結んでいるのが、
岐阜街道(地図04の)です。正確には、岐阜街道は稲沢までは美濃街道と重なり、稲沢から一宮・笠松・加納を経て岐阜に至ります。

 
御鮨街道ウォーキングの「御鮨街道」(または鮎鮨街道)とは、江戸までの街道のどの部分を言い表すことばでしょうか?
 もともとこの表現そのものは、江戸時代の人がそう呼んだものではなさそうです。しかし、1928年発行の『岐阜市史』には、「笠松街道を
お鮨街道と云ふは、岐阜古屋敷の鮨所川崎喜右衛門の製造にかゝる鮎鮨を毎年東海道を宿次にて、二昼夜(ママ)を以て、幕府に進献したから出た俗称である。」と書かれています。この頃にはもうそういう俗称があったのでしょう。
 ※岐阜市役所編『岐阜市史』(1928年)P376の次の写真版解説より
 
 俗称ですから、定義があるわけではありません。しかし、いちおう次のパターンが考えられます。
  
1 岐阜-名古屋間  2 岐阜-稲沢間  3 岐阜-笠松間
 
 街道の分類上は、2が一番妥当性あります。しかし、一宮市民や稲沢市民が「御鮨街道ウォーキング」に興味を示してくれるとは考えにくいです。やはり、市民が納得する盛り上がりという点では、
3の岐阜-笠松間に限られてくるでしょう。

 御鮨街道を顧みることは、あくまで、江戸時代に
尾張藩領であった岐阜の町天領であった笠松の町に住む現代の人々が、自らのアイデンティティを確認するための活動、地域起こしの活動として行うことに意味があると思います。 


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 1年でどのくらいの鮎を運んだのか? 宿場の負担は? 

 御鮨街道の御鮨輸送は、岐阜町(江戸時代は尾張藩領)笠松町(江戸時代は天領)にとって、どのようなものだったのでしょうか?名誉なこと?それとも大きな負担?だったのでしょうか?

 これを考える基本として、鮎の輸送方式を確認しなければなりません。年間1回やそこらなら、それほどの負担ではありません。しかし、現実はそうではありませんでした。
 長良川で鮎が
漁獲されるシーズンは、江戸時代は、5月から8月でした。(ちなみに、現在の長良川の鵜飼いは、5月から10月)この間に、一体どれぐらいの鮎鮨輸送が行われたのでしょうか?


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 高橋前掲書P41−42によれば、5月から8月の鵜飼のシーズンには、17世紀は年間20回、江戸時代後半の18世紀初めの享保年間から以降は年間10回の鮎の献上が行われました。

 年間10回としても、各宿場は、月に2〜3回の割合で、10数人の人手を用意して、次の宿駅まで運ばなければなりません。20人として1シーズンで200人です。
 もちろん、交代で任務を回すのでしょうから、一人で何回もやるわけではありません。しかし、少なからざる負担であったことは、想像に難くありません。
 
 御鮨輸送は、将軍の権威を示すのと同時に、岐阜町や笠松町の町人に、負担を強いるものでした。


 写真02−07 笠松湊 上流の鉄橋を名鉄特急が渡ります  (撮影日 10/10/03)

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 次ページ以降では、岐阜町から笠松町の木曽川堤まで、御鮨街道をたどります。


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