岐阜の原風景・現風景6 |
写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。 |
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御鮨街道を歩く −岐阜町と尾張藩について考える−その2 |
一行の編成はどのようなものか 運ぶ鮎の量はどのくらいか |
このページでは、御鮨の運送そのものについて、その輸送量・輸送日数・町民の負担などを考えます。 |
写真02−01 御鮨搬送の一行 (撮影日 10/09/25) |
写真の右側が先頭です。次のような陣容となっています。
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このほかに、前日に出発して各宿場へ先触れする、「先触れ役」がいましたし、夜歩く時は「提灯持ち」がいました。全体として15名前後の人々がこの任務を遂行したことになります。 |
写真02−02 幟旗 (撮影日 10/09/25) |
この一行は、岐阜町から江戸までの宿場(その数は46駅)をずっと歩いて行くわけではありません。 |
では、運ぶ荷物はどのくらいの量だったでしょうか? |
写真02−03 荷物 |
写真02−04 一荷 (撮影日 左右とも 10/09/25) |
人夫が担ぎ棒で前後に担ぐ二つの荷を一組とし、「一荷」(いっか)といいます。 |
※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
なんと1回の鮎輸送量は、360尾にもなります。 |
※今回はこの絵を描くのに、大変な時間がかかってしまいました。久しぶりの超大作です。(+_+) |
人夫一人が運ぶ荷物の総量はどれぐらいの重さになったでしょうか? |
岐阜町から江戸までどのくらいの早さで運ぶのか |
さて、この荷物ですが、岐阜の町から江戸まで運ばれました。どれぐらいのスピードで運ばれたのでしょうか? |
※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
ちょっと確認します。岐阜と東京の間は、何キロぐらいかご存じでしょうか? |
写真02−05 399.5キロポスト(撮影日 10/04/24) |
写真02−06 400キロポスト (撮影日 10/04/24) |
鉄道には、ちゃんと律儀に起点からの距離を示したキロポストが設定してあります。(国道にもあります、河川にも河口からの距離表示があります。) |
重い荷物を、大変早く輸送したもので、5日目の夕方にはもう品川に到着し、次の6日目の朝には江戸城に運ばれました。もちろん、夜も提灯の明かりを頼りに運び続けられました。 |
2日目、平坦な土地が続く愛知県では、1日の移動距離が長くなっていますが、3日目・4日目、アップダウンが激しい静岡県では、前日に比べて移動距離は短くなっています。 |
どこからどこまでが御鮨街道か |
話が先に進んで、御鮨の鮎が品川から江戸城に到着してしまいました。 |
※上の地図は、NASA・WorldWindの衛星写真を使って作成しています。 |
現在のJR東海道線は、東京から名古屋までは、昔の街道の東海道におおむね沿って敷設されています。しかし、岐阜から滋賀県の草津までは、中山道に沿って敷設されています。 |
1年でどのくらいの鮎を運んだのか? 宿場の負担は? |
御鮨街道の御鮨輸送は、岐阜町(江戸時代は尾張藩領)や笠松町(江戸時代は天領)にとって、どのようなものだったのでしょうか?名誉なこと?それとも大きな負担?だったのでしょうか? |
※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。 |
高橋前掲書P41−42によれば、5月から8月の鵜飼のシーズンには、17世紀は年間20回、江戸時代後半の18世紀初めの享保年間から以降は年間10回の鮎の献上が行われました。 |
写真02−07 笠松湊 上流の鉄橋を名鉄特急が渡ります (撮影日 10/10/03) |
次ページ以降では、岐阜町から笠松町の木曽川堤まで、御鮨街道をたどります。 |
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