岐阜の原風景・現風景6 |
写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。 |
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御鮨街道を歩く −岐阜町と尾張藩について考える−その5 |
笠松町 |
御鮨街道のルートは、八丁畷(前ページ参照)を南下すると、東側から境川が近づいてきます。
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笠松町は、現在では岐阜市の南隣の町で、私たち岐阜市民にとっては、木曽川に接する県境の町であることと、笠松競馬場があることで有名なぐらいですが、江戸時代には、美濃郡代の陣屋が置かれた重要な河川交通の要衝でした。 |
写真04−57 笠松陣屋跡 (撮影日 10/10/10) |
写真04−58 亀姫の墓 (撮影日 10/10/10) |
笠松陣屋跡。石碑には「笠松県庁跡」とも記されている。 |
写真04−59 陣屋の門の復元模型 笠松町歴史民俗資料館にあります(撮影日 10/09/25) |
宿次 高嶋家 |
先にも説明しましたが(ページ2参照→)、御鮨の献上輸送は、宿から宿への引き継ぎで行われました。その任務を担ったのが、各宿場の問屋です。 |
写真04−60 高嶋家(撮影日 10/09/25) |
写真04−61 高嶋家前の石碑 (撮影日 10/10/10) |
写真04−62 説明文 (撮影日 10/10/10) |
石碑には、「鮎鮓街道」と書かれています。本来の漢字の意味から言えば、発酵させて作る「すし」は、「鮓」の字を使う方が正解とのことです。 |
写真04−63 小学生の人夫 (撮影日 10/09/25) |
写真04−64 高嶋家の前で(撮影日 10/09/25) |
第2回ウォークでは、笠松小学校の児童が、御鮨の荷を担ぎました。右は、高嶋家の前での記念撮影です。(職場の同僚のI氏のお嬢さんが小学生の一行の中におられ、お父さんが撮影したその写真を許可を得て掲載しています。) |
高嶋家からさらに町内の道を東へ南へクランクして進むと、笠松町歴史民俗資料館に続いて登録有形文化財に指定されている杉山家があります。この杉山家も、上記の庄屋8人衆の一人でした。 |
写真04−65 杉山家(撮影日 10/10/10) |
写真04−66 杉山家内部 (撮影日 10/10/10) |
杉山家は江戸時代初期に問屋の事務を輪番で任された杉山市右衛門から続く名家です。江戸時代は、味噌・醤油の製造販売で財をなしました。13代目銓二郎氏は、笠松町の初代商工会議所代表を務め、その孫の幹夫氏は、新聞・放送業に進出し、現在岐阜放送・岐阜新聞の会長をしておられます。 |
笠松湊 |
笠松の問屋場で荷の引き継ぎをされた御鮨は、次は木曽川を渡し船で渡って、尾張の一宮(いちのみや)宿を目指します。 |
写真04−67 現在の笠松湊全景(撮影日 10/10/10) |
写真中央の坂の部分が石畳です。港の下流にある県道14号線の橋の愛知県側から撮影しました。 |
写真04−68 笠松湊、下流から。赤い鉄橋を名鉄名古屋本線の特急が渡ります。(撮影日 10/10/10) |
写真04−69 灯台 (撮影日 10/09/25) |
写真04−70 道標 (撮影日 10/09/25) |
17世紀半ばに美濃郡代の陣屋が笠松に移設されてから、笠松は川港としてさらに繁栄しました。 |
写真04−71 石畳(撮影日 10/09/25) |
写真04−72 石畳 (撮影日 10/09/25) |
笠松町文化審議会の説明板によれば、この石畳そのものは、1878(明治11)年の天皇行幸の際に改修されたものとのことです。 |
写真04−73 木曽川を渡る御鮨 (撮影日 10/09/25) I氏提供 |
この御鮨街道のイベントが、江戸(東京)までつながるというのはちょっと無理な話かもしれません。 |
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