岐阜の原風景・現風景6
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
  
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 御鮨街道を歩く −岐阜町と尾張藩について考える−その5
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 笠松町

 御鮨街道のルートは、八丁畷(前ページ参照)を南下すると、東側から境川が近づいてきます。
 今はこの境川は、この地域ではおおむね岐阜市と岐南町・笠松町の境となっていますが、安土桃山時代以前は、木曽川の本流がここを流れており、この川こそが、美濃と尾張の境でした。ところが、
1586(天正14)年の大洪水で、河道が南にずれ、現在の木曽川が美濃と尾張の境となりました。
 現在の御鮨街道は、国道21号線の高架に遮られていますので、ちょっと東に迂回し、その高架下をくぐり、現在の川筋にほぼ平行に進んだあと、境川を南北に通る岐阜稲沢線(県道14号線)の橋で渡河します。そのあとまた県道を東にそれて、笠松町内の旧道=御鮨街道に戻ります。

御鮨街道のルートについては、前ページ同様、参考文献4・5:御鮨街道景観まちづくり実行委員会編
『御鮨街道(第1版)』(2004年)・『脚で見る御鮨街道』(2006年)を参考にしました。

また、笠松町の歴史や宿次については、参考文献1:高橋恒美著『鮎鮨街道 いま昔』(岐阜新聞社 2008年)を参考にしました。

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 写真04−54 県道境川橋(撮影日 10/09/25)

 県道14号線を通って、境川を渡ります。渡ったところは正確には、岐阜市茜部ですが、すぐ南に行くと笠松町に入ります。


 写真04−55 ここから笠松町(撮影日 10/09/25)

 すぐに笠松町に入ります。

 写真04−56 北見ると(撮影日 10/09/25)

 笠松町内の東陽町から北を見ると、真正面に金華山頂の岐阜城が見えます。


 笠松町は、現在では岐阜市の南隣の町で、私たち岐阜市民にとっては、木曽川に接する県境の町であることと、笠松競馬場があることで有名なぐらいですが、江戸時代には、美濃郡代の陣屋が置かれた重要な河川交通の要衝でした。
 
郡代というのは、江戸幕府の直轄領を納める役職の名称です。通常、直轄領=天領を納めるのは、代官であり、その役所は代官所です。
 ところが、江戸幕府は、重要な地域には一つ格上の
郡代を設置したのです。郡代が設置されたのは、豊後日田(現在の大分県)・飛騨高山・美濃笠松・武蔵小室(のち赤山、関東郡代)の4カ所にとどまりました。
 初代
美濃郡代は、御鮨の献上の創始に関わった大久保長安(→ページ1)ですが、長安は岐阜町で政務を執りました。そのあと代官所は一時、現在の可児市徳野に置かれたこともありましたが、17世紀半ばには、羽栗郡傘町に移され、のち、そこが笠松町と改称されました。これが今の笠松町のルーツです。

 そのため、明治維新後には、岐阜県美濃地方の天領を統括する県は、
笠松県と呼ばれ、その県庁ももちろん笠松に置かれています。最初の廃藩置県の時にも笠松県は存在していましたが、その半年後の県の統合によって、周辺の各藩領と合併し岐阜県となりました。 

地図09 御鮨秋道説明D 笠松へ

 写真04−57 笠松陣屋跡 (撮影日 10/10/10)

 写真04−58 亀姫の墓 (撮影日 10/10/10)

 笠松陣屋跡。石碑には「笠松県庁跡」とも記されている。


 写真04−59 陣屋の門の復元模型 笠松町歴史民俗資料館にあります(撮影日 10/09/25)


地図09 御鮨秋道説明D 笠松へ
 宿次 高嶋家

 先にも説明しましたが(ページ2参照→)、御鮨の献上輸送は、宿から宿への引き継ぎで行われました。その任務を担ったのが、各宿場の問屋です。
 笠松の問屋業務は、御鮨献上が始まって以来、笠松村内の有力な庄屋8人が、輪番制で担当していました。そして、江戸時代後半の天保年間に、その8家の一つに高嶋家が加わりました。(没落した1家の株を引き継ぐ形で8家に加わる)
 その高嶋家は、濃尾大震災の時の笠松町大火災の難も免れ、御鮨献上関係の膨大な文書が現存する貴重な民家となっています。
 御鮨輸送のイベントでは、笠松町下新町のこの家の前で、引き継ぎ(宿次)の儀式が行われました。


 写真04−60 高嶋家(撮影日 10/09/25)

地図09 御鮨秋道説明D 笠松へ

 写真04−61 高嶋家前の石碑 (撮影日 10/10/10)

 写真04−62 説明文 (撮影日 10/10/10)

 石碑には、「鮎街道」と書かれています。本来の漢字の意味から言えば、発酵させて作る「すし」は、「鮓」の字を使う方が正解とのことです。


 写真04−63 小学生の人夫 (撮影日 10/09/25)

 写真04−64 高嶋家の前で(撮影日 10/09/25)

 第2回ウォークでは、笠松小学校の児童が、御鮨の荷を担ぎました。右は、高嶋家の前での記念撮影です。(職場の同僚のI氏のお嬢さんが小学生の一行の中におられ、お父さんが撮影したその写真を許可を得て掲載しています。)

地図09 御鮨秋道説明D 笠松へ

 高嶋家からさらに町内の道を東へ南へクランクして進むと、笠松町歴史民俗資料館に続いて登録有形文化財に指定されている杉山家があります。この杉山家も、上記の庄屋8人衆の一人でした。


 写真04−65 杉山家(撮影日 10/10/10)

 写真04−66 杉山家内部 (撮影日 10/10/10)

 杉山家は江戸時代初期に問屋の事務を輪番で任された杉山市右衛門から続く名家です。江戸時代は、味噌・醤油の製造販売で財をなしました。13代目銓二郎氏は、笠松町の初代商工会議所代表を務め、その孫の幹夫氏は、新聞・放送業に進出し、現在岐阜放送・岐阜新聞の会長をしておられます。

地図09 御鮨秋道説明D 笠松へ
 笠松湊

 笠松の問屋場で荷の引き継ぎをされた御鮨は、次は木曽川を渡し船で渡って、尾張の一宮(いちのみや)宿を目指します。
 木曽川を渡河する場所が、
笠松湊です。
 1586年の大洪水で木曽川が現在の河道となってからは、この部分で川が大きく湾曲していることから、船溜まりとしては最適の場所となり、川港が形成されました。


 写真04−67 現在の笠松湊全景(撮影日 10/10/10)

 写真中央の坂の部分が石畳です。港の下流にある県道14号線の橋の愛知県側から撮影しました。 
地図09 御鮨秋道説明D 笠松へ

 写真04−68 笠松湊、下流から。赤い鉄橋を名鉄名古屋本線の特急が渡ります。(撮影日 10/10/10)


 写真04−69 灯台     (撮影日 10/09/25)

 写真04−70 道標  (撮影日 10/09/25)
地図09 御鮨秋道説明D 笠松へ

 17世紀半ばに美濃郡代の陣屋が笠松に移設されてから、笠松は川港としてさらに繁栄しました。
 明治時代以降は全国の物資の流通がそれまで以上に盛んとなり、さらに港を利用する船が増加しました。写真04−70にある笠松町文化審議会の説明板には、1885(明治18)年の記録によれば、1日に38艘、1年間に6440艘の船が入港したとあります。また、その少し後の1893年には、木曽川河口に近い三重県の桑名市(東海道の宿場町)との間に、1日2便の蒸気船も運航されていたとのことです。
 この繁栄は、大正時代から昭和初期になっても続き、船は蒸気船がその主力になりました。しかし、戦後は自動車や鉄道の発達により河川交通は一気に衰退し、川港の繁栄は過去のものとなりました。


 写真04−71 石畳(撮影日 10/09/25)

 写真04−72 石畳 (撮影日 10/09/25)

 笠松町文化審議会の説明板によれば、この石畳そのものは、1878(明治11)年の天皇行幸の際に改修されたものとのことです。
 当初は坂の部分の石畳のみが露出し、それから先の平地の部分は土に埋まっていました。2007(平成19)年に、埋没している部分にも石畳があることが確認され、表土が取り払われて、現在の姿となりました。

地図09 御鮨秋道説明D 笠松へ

 写真04−73 木曽川を渡る御鮨  (撮影日 10/09/25) I氏提供


 この御鮨街道のイベントが、江戸(東京)までつながるというのはちょっと無理な話かもしれません。
 しかし、岐阜の長良川の鵜飼いと鮎が、御鮨献上を通じて江戸幕府権力とつながっていたことを知ることは、少なくとも岐阜市民にとっては意味があることです。江戸時代の岐阜が尾張藩領であったことも含めて、岐阜のアイデンティティの確認には、とても必要なことです。

 次のイベント、
第3回御鮨街道ウォークには、是非参加してみてください。(いつ行われるかは、未定です。)


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