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 今回の旅行の一番の目的は・・・・黒部峡谷 | 01全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 今回の旅行の最大の目的は、なんと言っても、宇奈月からトロッコ列車に乗って、黒部川の上流、第三発電所のある欅平に行くことです。

「黒部川をさかのぼるトロッコ列車?黒部川っていつかの旅行で行ったところでしょう?どう違うの?

「下の地図を見ておくれ。黒部川といえば、あの「黒部の太陽」や中島みゆきの歌で有名な黒四ダムが名所だけれど、そこへは、2002(平成14」年の旅行で行ったことがある。

「同じところに行くの?」

「違う違う。
 前の旅行では、富山地方鉄道の立山駅から、いわゆる
立山黒部アルペンルートを通って、黒四ダムに行き、さらにかの有名な関電トンネルを通って長野県に出て、そこから帰ってきた。いわば、南北に流れる黒部川を、ダムのところで東西に横切ったという感じ。(下の地図02の部分及び地図03参照)
 今度は、黒部川の峡谷をトロッコ列車で途中までさかのぼるルートを取る。(
地図02の部分)」

「黒四ダムまで行けるの?」

「行けない行けない。
 
関西電力のトロッコ電車の軌道は、黒四の地下発電所まで通っているけど、観光客は行けない。普通の観光客が行けるのは、宇奈月駅から中流の欅平(けやきだいら)駅まで。発電所で言うと、黒部第三発電所のところまではいける。
僅か20.1kmだけど、水力発電の開発で有名な黒部峡谷の景色を楽しむことができると言うことなのだ。」
 


このページ以降の記述には、主に次の書物を参考にしました。

1 笹田昌宏・岸由一郎著『全国トロッコ列車』(JTB 2001年)

2 大沢伸生・伊東孝著『黒四・佐久間・御母衣・丸山 ダムをつくる』(日本経済評論社 1991年)

3 木元正次著『黒部の太陽 〔新装版〕』(新潮社 2009年)

4 吉村昭著「高熱隧道」『吉村昭自薦作品集 第五巻』(新潮社 1991年) 

5 関西電力株式会社 黒四建設記録編集委員会編『黒部川第四発電所建設史』(関西電力1965年) 

    6 橘川武郎著『日本電力業発展のダイナミズム』(名古屋大学出版会 2004年) 
    7 横溝英一文・絵「黒部のトロッコ電車」『月刊たくさんの不思議2003年4月号』福音館書店 2003年) 
地図01全行程図||地図02黒部峡谷と周辺図||地図03立山黒部アルペンルート説明図
説明図01黒部水系ダム発電所等模式図||地図04宇奈月温泉地図||地図05黒部峡谷詳細図
地図06欅平駅周辺地図||地図07欅平駅イメージ図


 黒部川の源は、富山・岐阜・長野の三県境に近い、鷲羽岳(わしばだけ)標高2,924mです。(地図上の
 
は今回旅行したトロッコ電車の路線、は立山黒部アルペンルートです。



 ご存じこちらは、立山黒部アルペン・ルートの案内図です。ここへ行った時の旅行記もあります。
   →旅行記「立山・黒部アルペン・ルート旅行記」です。
 
 赤沢岳の下を貫通させた
関電大町トンネル(あの「黒部の太陽」で有名な破砕帯を突破したトンネルです)の貫通は1958(昭和33)年黒部川第4発電所の最初の発電開始は1961(昭和36)年黒部ダムの完成は1963(昭和38)年、そして、立山黒部アルペンルートの全通は1971(昭和46)年です。


 まずは宇奈月温泉 | 01全行程目次・地図へ | | 02黒部峡谷と周辺地図へ || 先頭へ |

 5月1日の夕方、予定通り宇奈月温泉に到着しました。宿泊は豪華とは究極の反対にある質素なペンションですから、写真はありません。
 宇奈月温泉は、他の温泉地と違って、そう長い歴史を持っているわけでありません。この温泉の泉源は、ここより上流の黒部川の支流である黒薙川沿いにある黒薙温泉からの引き湯によっています。
 大正時代前半に引き湯が施され、その後大正時代後半に、以下に説明する黒部川の電源開発の本格化にともなって、温泉町としての基礎が確立しました。
 この温泉が有名になったきっかけは、戦前から電源開発用に敷設されていた関西電力の専用軌道が、1953(昭和28)年から、一般営業運転を許可され、観光客が多く訪れるようになってからです。


 写真02−01  朝の宇奈月温泉 (撮影日 10/05/02)

 写真02−02  街灯のデザイン (撮影日 10/05/02)

 写真02−01は朝の写真ですからなおさらそうですが、宇奈月温泉は、夜でも、観光客が町をそぞろ歩くと行った温泉街ではありません。そのあたりが、道後温泉(土佐高知・伊予松山旅行記)・城崎温泉などとは違います。
 写真02−02は町中の街灯のデザインです。これもちゃんとトロッコ列車となっています。


 写真02−03 宇奈月駅前温泉 (撮影日 10/05/02)

 写真02−04  同左 (撮影日 10/05/02)

 富山地方鉄道宇奈月温泉駅前の温泉自噴水です。


 写真02−05  富山地方鉄道宇奈月駅 (撮影日 10/05/01)

 富山地方鉄道宇奈月駅に停車する電車です。左手には、黒部峡谷鉄道の車庫があります。


 5月1日の夕方は、やまびこ橋(下の地図04参照)の周辺から、新やまびこ橋を渡って宇奈月駅に発着するトロッコ電車を撮影して日が暮れました。(この写真は次のページ3で紹介します。→
 ペンションは、「夕食・朝食なし」でしたので、夕食は温泉街の食堂で食べました。
 各ホテルでは宿泊客用に豪華な食事が提供されますが、この温泉街には、素泊まり客用に地元名物の食材を提供するといったお店は見つかりませんでした。
 仕方なく、普通の食堂で、「カツ丼」と「唐揚げ定食」を注文するはめになりました。

 ペンションには小さいながらも温泉が引かれている「大浴場」があり、とてもいい気分になれました。翌日の早起きに備えて、21時過ぎには寝ました。 


 翌朝は、5時過ぎ起床で、部屋で朝食を取り、朝風呂につかってから、6時過ぎにはペンションを出ました。
 早朝の宇奈月温泉を散歩して、黒部峡谷鉄道宇奈月駅に行き、一番列車に乗って欅平に向かう計画です。


 写真02−06  富山地方鉄道宇奈月駅前から黒部峡谷鉄道の駅を臨んでいます (撮影日 10/05/02)

 5月2日の朝6時台の撮影でしたから、まだ駅前は人通りはありません。しかし、反対に、欅平からもどってきた12時過ぎには、この道は、黒部峡谷鉄道の駅前にある駐車場の空きを待つ自動車が長蛇の列でした。
 左手は、トロッコ列車の車庫です。


 写真02−07  富山地方鉄道宇奈月駅とトロッコ列車の車庫 (撮影日 10/05/02)

 左端は富山地方鉄道宇奈月駅のホームの端です。その東側に、黒部峡谷鉄道の車庫があり、たくさんのトロッコ列車が出番を待っています。

地図01全行程図||地図02黒部峡谷と周辺図||地図03立山黒部アルペンルート説明図
説明図01黒部水系ダム発電所等模式図||地図04宇奈月温泉地図||地図05黒部峡谷詳細図
地図06欅平駅周辺地図||地図07欅平駅イメージ図

 黒部川の発電所と黒4ダム | 全行程目次・地図へ || 02黒部峡谷と周辺地図へ |

 このページでの重要な学習は、黒部川の電源開発についてです。

「電源開発って、黒部川は、信濃川や利根川なんかに比べたら、そんなに大きな川には思えない。どうしてこの川にいくつもダムをつくることになったの?」

「水力発電というのは、川が長ければいいというわけではない。基本的に水の落差を利用してそのエネルギーでタービンを回して電力を作るわけだから、重要なのは、川が急流であることと、水量が豊富であることの二つなのだ。」

「黒部川はそんなにすごいの?」

「黒部川はその長さは85kmで、現在の国土交通省の河川整備基本方針・河川整備計画の対象となっている全国109水系の中では、60番目だ。たいしたことはない。
 しかし、立山連峰・後立山連峰の年間降水量は、なんと4000mmに達するんだ。(国土交通省の資料では、仙人谷が最高地点で、年間4200mm)冬の降雪量、梅雨時期の降水量とも断然多い。
 しかも、川は僅か85kmの間に約3000mを下るわけだから、平均河床勾配は、3/85、黒4ダムを造った上流部では、1/25にもなる。この数字は別の言い方、千分率で言えば、
40/1000つまり、40‰ということになる。これは、いつか話をした旧信越線碓氷峠の66.7‰ほどではないが、相当な急傾斜ということになる。」
 ※碓氷峠の急勾配はこちら→「長野・群馬・新潟・富山旅行記5」 

「それで、黒部川では、どれぐらいの発電が行われているの?」

「現在では、次のようになっている。」 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


「僅か85kmの川に、18もの発電所がある。そして合計、97万キロワットの発電が可能なのだ。ちなみに、それを図に示すと次のようになる。」

「でも、現代の原子力発電所や火力発電所に比べれば、それほどのことはないね。」

「それは確かにそうだ。
 しかし、これらのダムや水力発電所ができた年代をたどっていくと分かるように、下流の発電所は、大正時代に開発が計画されて、大正末年の1926年に完成している(現在の北陸電力黒東第一・第二発電所)。
 この黒部川の電源開発を最初に発案した人は、日本史や理科の教科書にも出て切る
高峰譲吉博士、そうあの、タカジアスターゼの発明で有名な科学者なのだ。彼は、黒部川の電源開発とアルミニウムの精錬を結びつけ、黒部川に水利権を得た。これが第一次世界大戦中の1917(大正6)年のことだ。
 そのあと、第一世界大戦後の不況の中で水利権は
日本電源開発株式会社に継承された。この日本電源開発というのが、黒部川を本格的に開発する。
 したがって、黒部第二・第三発電所にしても、戦前の開発になっている。
高熱隧道で有名な仙人平ダムと黒部川第三発電所は、1940(昭和15)年の完成だけど、その時の最大出力8万1000kWは、当時の日本の最大の発電所だった。」 

「黒4ダムは、戦後の話でしょ。何でさらに山奥に、とんでもないお金(総工費は513億円)とたくさんの犠牲者(1956年の着工から完成の1963年までの足かけ8年間に、殉職者171人)を出して、大きなダムを造ったのかな。火力発電所の方が安上がりでしょう。」

「それはちょっと難しい質問だ。
 関西電力が黒四ダムの計画を決断したのが
1955(昭和30)年のことだ。これは私が生まれた年に当たる。
 翌1956年に工事が始まった。これは君が生まれた年だ。日本はこの頃から戦後の復興の時代が終わって、経済成長の時代へと進んでいく。その時に、なぜ、黒4が必要だったかだ。」 


 ちょっと細かい戦後日本史の勉強です。
 日本史の教科書には、次のように書かれています。「朝鮮特需と経済復興」の部分です。
「1951(昭和26)年以降、政府は重点産業に国家資金を積極的に投入し、税制上の優遇措置をとったので、電力@・造船・鉄鋼などの部門は活発に設備投資を進めていった。
 脚注@ 深刻な電力不足の解消を目指し、中部山岳地帯でダム式の大型水力発電所がぞくぞくと建設された。」

「 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦他著『詳説日本史』(山川出版 2007年)P369

 ここで言う中部山岳地帯でのダム式大型発電所とは、木曽川の丸山ダム(岐阜県:1954年完成)、天竜川の佐久間ダム(愛知県・静岡県:1956年完成)、大井川の井川ダム(静岡県:1957年完成)、庄川の御母衣ダム(岐阜県:1960年完成)をさすものと思われます。
 時期的には、黒4ダムも含まれることになりますが、少し詳しく見ると、これだけでは説明不足です。
 下の
表01を見てください。9電力会社の1951年と1960年の発電設備出力の比較です。
   ※橘川武郎著『日本電力業発展のダイナミズム』(名古屋大学出版会 2004年) P231・238から作製 




 この表を見ると、むしろ、この10年間の大きな動きとしては、水力発電所の建設よりも、火力発電所の建設の方が発電電力量から見ると多くなっています。9電力会社総計では、9年間に水力は、344万8千kWの増加ですが、火力は、578万1千kWの増加となっています。明らかに、時代は、水主火従から、火主水従へと移り変わっていきました。

 関西電力そのものも、火力発電所による発電の増加量が水力のそれを上回り、1960年には、全体として火力が水力を引き離しています。
 それなのに、なぜ黒4の建設が必要なのかと言うことです。

 関西電力自身の説明がとてもわかりやすいので、ちょっと長いですが、引用します。

「電源開発方式の転換
 電力需要の急速な増加傾向に対処するため、電源の開発には一刻の中断も許されない状態が続いたが。しかし、開発の進展に伴って、水力においては、経済性の上から開発可能な地点が、次第に残り少なくなってきた。その一方、火力においては、熱効率の高い、したがって経済性のすぐれた設備が出現した結果、開発め重点は、火力に移行する傾向になってきた。
 従来、わが国の電源は、水主火従の形をとってきた。この開発方式が発達した背景には、わが国エネルギー対策の特徴として、比較的豊富な水力資源を有効に利用し、それによって貧弱な燃料資源の消費節減を図ることが必要であるという事情があった。
 また、経済性の上からも、これまでの火力発電は熱効率が低く、水カに比べて発電原価が高価であったので、火力は、渇水時における水力出力低下の補給用として水力と併用し、それによって総合的に発電原価の低減を図るという基本的な考え方があったのである。
 しかし、火力において、その技術進歩による著しい経済性の向上があった反面、水力では包蔵水力資源に限度があって、経済的にみて開発可能な地点が減少してきたので、ここに残された水力資源の最も有効な利用方法の検討が必要になった。その結果、電力供給の主体を火力に置き、ピーク負荷供給用として、大貯水池式水力を建設することが、最も経済的であるとの結論に達した。
 元来、電力需要は、夕刻の点灯時などピーク時には、深夜軽負荷時に比べて最大電力が約2.5倍に達し、また冬期においては、夏期に比べて、概して需要が増加する。このように、電力需要は、1日のうちに、また年間において、大幅な変動を示すという性質を持っているが、これに対し常に安定した電力を、最も経済的に供給するためには、供給施設を最も有効に利用し得るよう、水火力の合理的な組み合わせによる運用が必要である。
 火力発電設備は、一度発電を開始した後には、需要に応じて一日のうちに出力を大幅に変更し、あるいは停止・起動をたびたび繰亡返すと、はなはだしく効率の低下をきたすという特性がある。したがって、火力によってピーク負荷供給を行なうことは、非常に不経済である。これに対して調整能力のある水力は、負荷即応が容易であり、しかも、経済的損失を伴わずに、そのような運営ができるいう利点がある。
 ここにおいて、電力のベース負荷供給を、経済的な新鋭火力に受け持たせ、ピーク負荷供給を調整能力の大きな水力に受け持たせるという、新たな供給方式が生まれたのであり、したがって電源開発も、それに適応するような方式によって、行なわれることになったのである。

 27年度の第2回電源開発調整審議会における電源開発の構想は、Iまだ従来どおり水主火従方式によるものであったが、その後各地において新鋭火力の建設があい次ぎ、また水力では電源開発株式会社の佐久間発電所のような、大貯水池式発電所の建設が行なわれるに及んで、31年度策定の電力5カ年計画では、従来と異なる水火力最も経済的な組み合わせの開発方式がとられた。
 これよりさき、当社においては、すでにこの方式に着眼し、30年秋大貯水池式大出力の黒部川第四発電所建設を決意するとともに、翌年1月には、当時わが国最大、最新鋭と目された大阪火力発電所(出力 624、000kW)の建設準備を開始したのであった。

ピーク時負荷供給力としての価値
 黒部川第四発電所は、それ自体の最大出力は、258、000kWである。しかし、標高1、448mの高地点に建設された大貯水池は、1億5、000万立方メートルの有効貯水量を保持し、年間を通じて下流の既設発電所の設備をフルに稼働せしめ得るので、渇水時には10万kW程度に低下していた既設発電所の出力が、27万kWにまで回復することになる。したがって、実質的には、この差が黒四の建設によって加増となり、43万kWの大電源を開発したと同様の結果になる。」

関西電力株式会社 黒四建設記録編集委員会編『黒部川第四発電所建設史』(関西電力1965年)P9−11

 つまり、黒四は、火主水従時代へ移行していく電源開発の戦略の中で、ピーク時負荷供給の調整能力を期待された大貯水池式発電所という位置づけであったわけです。


「なんか難しい。
 それに、今回は黒4発電所には行けないんでしょ。
 そろそろ駅に向かわないと。」

  「はいはい、トロッコ電車、トロッコ電車。」 
  「始発電車の時間は何分?」 

「7時32分。 

「予約はできていても、座席まで指定されているわけではないから、早く駅で並んで、いい席を取りましょう。」

 7時過ぎに、黒部峡谷鉄道宇奈月駅に着きました。構内は、すでに、一番電車に乗る観光客であふれています。


 上の写真は、いつも利用させていただいている、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムの国土画像情報から引用しました。1975年撮影の航空写真を使っています。 
 国土情報ウェブマッピングシステムのページはこちらです。→http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html
 


 トロッコ列車については、次ページ・次々ページ、高岡・富山・宇奈月旅行3・4で紹介します。

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