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 碓氷峠の勾配 
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 碓氷峠にアプト式鉄道が敷設された原因は、言うまでもなく群馬県側の急勾配にあります。
 下の図は、軽井沢-横川間の各地点の標高を示したものです。

 上の地図08は3D地図ソフト『カシミール』を使って描きました。『カシミール』http://www.kashmir3d.com/index.html

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 普通、峠というと高くなっているところの両側が均等に下っていくというイメージがありますが、碓氷峠はそうではありません。横川方面から僅か8kmほどの間に550m以上の急坂を上り、最高点を過ぎるとほんの僅か下って軽井沢に至るという地形になっています。
 8kmで550mというのは、千分率に直すと、68.8パーミルとなります。ある程度迂回ルートを通るとしても、ものすごい急坂です。ちなみに旧中山道ルートでは、最高標高点は1180mを越えていましたから、旧中山道ルートでそのまま鉄道を敷設すると、もっと急坂になってしまいます。通常の鉄道の幹線は、25パーミルでもなかなかの急坂となります。
  ※→岐阜・美濃・飛騨の話「岐阜県の東海道線あれこれ9 垂井線の謎3 なぜ垂井線は生まれたか」参照

 このため、信越本線のこのルートの建設の際には、大幅な迂回ルート案(現在の新国道18号線の通る入山峠越え)、ケーブル(索縄)案、アプト案などが検討されました。
 その結果、迂回してあまりに長い路線とならないこと、建設費がそこそこに低く抑えることができること、一定の輸送量は期待できること、建設期間があまり長くならないこと(やがて日清戦争が起こると予想されおり、軍事輸送の期待がかかっていました)などの視点から比較検討がなされ、1890年にアプト式による建設が決まりました。その結果、最大勾配は、66.7パーミルとなりました。
 このときの決定や、その後のアプト腺の廃止、1963年の新信越本線への以降について、原田勝正氏は、次の視点から批判しています。

「この区間が開通したとき、すでに中山道鉄道は東京と京都を結ぶ幹線鉄道としては存在していなかった。中山道鉄道は、1886年7月19日の閣令第24号で、ルートを変更し、東海道鉄道に変わったから、その名称も消滅した。そしてその東海道鉄道は、アブト式線路の情報がもたらされる直前の1889年7月1日に新橋・神戸間が全通した。こうして、着工のときこの区間は、東京と直江津とを結ぷ本州横断線の一区間に変わっていたのである。 しかし、この横断線は、将来東京と新潟、東京と富山・金沢など、東京と日本海岸とを結ぶ幹線となるはずである。そのようなあたらしい使命が、この区間には付与されていた。それにしても、建設費と工期とに迫られて、このような幹線にアブト式を採用したことは、その後のこの幹線の輸送力に大きな限界を与えることとなった。1963年にアブト式が廃止された。そのときの改良計画では、50‰勾配線や25‰迂回線が比較され、とくに後者は入山峠越えのルートを復活させるものとされていた。すでに1931年にはアブト線の年間1km当り保守費が一般線の2800円にたいして7700円に達するという事実が鉄道省工務局保線課の資料には見られ、また同省運輸局運転課では6軸(2軸3組)、80tの粘着用電気撥関事の計画を立てていた。こうした「アブト離れ」志向が、戦後改良計画の中に迂回線計画を盛り込ませたとも見られるのである。
 しかし、アブト式は廃止されたが、66.7‰勾配は残された。そして一般用のEF62形と急勾配用のEF63形と、二つの形式の電気機関車による協調運転が実施されたが、EF62形1両+EF63形2両の計3両によって牽引定数550tが計画されたものの、じっさいは貨物400t、族客360tにとどまり、輸送力の強化は十分に実現することができなかった。運転時間の短縮、電車との協調運転など運用の改善は1970年代にかけて実施されたが、貨物輸送の廃止から、新幹線開業にともない路線そのものの廃止となり、1997年にはこの区間の営業は消滅した。」

原田勝正著『日本鉄道史 −技術と人間−』(刀水出版 刀水歴史全書 2001年)P80−81

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【追加写真】

 写真04−28   横川駅と碓氷峠の山々                      (撮影日 09/06/26 追加写真)

 現信越本線横川駅と信越国境の山々です。横川駅1番線から出発する電車の最後部から撮影しました。
 かつての横川駅は、上下線とも列車が到着するたびに、電気機関車の付け替えのため、機関車や職員が大忙しでした。今はのんびりしています。
 この写真は、連休の旅行中のものではなく、6月26日早朝の撮影のものです。前日から出張で前橋市に来ていたので、この際復習をと、26日9時からの会議が始まる前に横川に行ってきたのです。朝5時起き、6時出発のいつもの強行軍です。 ページ1・2・3にも、追加写真を載せています。→P1 →P2 →P3


 勾配66.7パーミル 

 写真03−08・写真03−09に映っている部分が66.7パーミルの登りです。写真03−09にはそれを示す勾配標が映っています。それと同じものが、下の写真にも映っています。


 写真04−01   霧積川鉄橋の上流                    (撮影日 09/05/04)

 横川の鉄道文化むらへ向かうトロッコ列車。機関車のそばに勾配標式が見えます。


 写真04−02 勾配標式  (撮影日 09/05/04)

 写真04−03 勾配標式  (撮影日 09/05/04)

 これが66.7パーミルの勾配標式です。


 66.7パーミルというのはどれぐらいの勾配なのでしょうか。タンジェントにすると、0.0667というのは、角度にでいうと3.873度になります。傾斜約4度というのは、まあそれほどの感覚ではありません。
  ※タンジェントの計算式WEBページはたくさんあります。今回は次のものを利用しました。
    「keisαn」 http://keisan.casio.jp/


 その位置から見上げた岐阜県庁の写真が、次の写真です。


 写真04−04    北664.1mから見上げた岐阜県庁        (撮影日 09/05/04)

 66.7/1000の勾配というのは、この自動車が、この位置から岐阜県庁屋上に登っていく傾斜となります。かなり急だと言うことが理解いただけるでしょうか。 

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 国指定重要文化財碓氷峠の鉄道施設

 とうげのゆ駅より先は、1997年まで利用されていた旧信越線部分はほぼそのまま保存されており、旧アプト線部分は、国指定需要文化財として整備されています。


 上の地図は、いつも利用させていただいている、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムの国土画像情報の写真から作成しました。1975年撮影の航空写真を使っています。 
 国土情報ウェブマッピングシステムのページはこちらです。→http://w3land.mlit.go.jp/
 

 

 地図09は、東の熊ノ平駅から現在のトロッコ列車のとうげのゆ駅の間の詳細地図です。
 1963年のアプト線廃止までは、の単線のアプト線が利用されていました。アプト式廃止以後は、の複線が新・信越本線となり、1997年の廃止まで活躍しました。
 熊ノ平駅以西は、旧アプト線の山側にもう一つ線路を敷設して複線としました。ただし、峠近くでは、若干ルートを変更しています。(地図10で説明します。)
 とうげのゆ駅からはアプト線路跡の遊歩道を碓氷第3橋梁まで歩くことができます。そこから西は、国道18号線の旧道を通って軽井沢方面へ向かうと、いくつかの旧アプト線遺跡を見ることができます。
 

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 かの有名な碓氷第3橋梁(メガネ橋)です

 とうげのゆ駅より先は、1997年まで利用されていた旧信越線部分はほぼそのまま保存されており、旧アプト線部分は、国指定需要文化財として整備されています。


 写真04−05   旧碓氷第3橋梁                   (撮影日 09/05/04)

 かの有名な碓氷第3橋梁です。国道18号線の旧道のすぐ脇にあります。
 この写真は、朝8時40分頃の撮影です。小さな駐車場しかなく、この時間でももう大混雑です。


 写真04−06    下からの眺めです                 (撮影日 09/05/04)

 下から見上げたアーチ橋です。なかなか壮観です。
 この煉瓦造りのアーチ橋は、1892(明治25)年12月に完成しました。200万個の煉瓦が積み上げられており、長さは87.8mもあります。もちろん、碓氷峠の鉄道遺跡の中では最大のものです。


 写真04−07    メガネ橋の西の袂からの撮影            (撮影日 09/05/04)

 メガネ橋の南側部分を西の袂から見下ろして撮影しています。右端に見えるのが国道18号線旧道です。
 線路が通っていた部分の長さは、81.38mもあります。


 写真04−08 旧信越本線説明 (撮影日 09/05/04)

 写真04−09 旧信越本線  (撮影日 09/05/04)

 この煉瓦のアーチ橋は、1963年に上流にかけられた新信越本線の2本の橋に役目を譲りました。


 写真04−10    信越本線の複線の橋             (撮影日 09/05/04)

 かなり遠くにかかっています。長野新幹線はこの遙か向こうをトンネルで抜けています。


 写真04−11 
 この写真は、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムの国土画像情報の1975年撮影の航空写真の一部を使っています。 国土情報ウェブマッピングシステムのページはこちらです。→http://w3land.mlit.go.jp/  

 碓氷川にかかる鉄橋の航空写真です。上流(写真左上)から、旧信越本線上り線(横川方面)、下り線(軽井沢方面)、旧アプト線碓氷第3橋梁、そして国道18号線旧道です。


 写真04−12 遊歩道    (撮影日 09/05/04)

 写真04−13 第6隧道   (撮影日 09/05/04)

 アーチ橋の上は、横川−とうげのゆ駅からつながっている遊歩道となっています。
 左の写真の奥は、遊歩道になっている橋梁の東側の旧第5隧道(トンネル)の西口です。ちゃんと人が歩けるように、中には電灯もともっています。
 右の写真は橋梁の西にある第6隧道の入り口です。
 旧アプト線路のうち、遊歩道となっているのはこの第3橋梁までです。この先へは行けません。横川からここまで来た歩行者には3つの選択肢があります。
 1 このまま横川へ向けて引き返す。(下り坂 「4.8km70分」と標識にありました。)
 2 下の国道18号線旧道に降りて、国道を自動車に注意しながら軽井沢へ向かう。
 3 直線距離にして北500メートルを通っている旧中山道遊歩道に合流し、旧中山道を軽井沢へ向かう。(案内あり)

 本当はどれかを実験すれば説得力があるのですが、私たちは自家用車で来ましたので、参考になりません。失礼。


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 旧アプト線路にあるその他の橋梁・隧道です

 一番有名な碓氷第3橋梁以外にも、たくさんの橋梁や隧道(トンネル)が往時の姿をとどめています。


 写真04−14 第6隧道横坑(撮影日 09/05/04)

 写真04−15 第4橋梁   (撮影日 09/05/04)

 碓氷第3橋梁の西にある第6号隧道(上の写真04−13)は、長さが550mもあり、旧アプト線の中で最も長いトンネルです。このため掘削の際に、途中の横から掘り進めるための横坑が作られました。


 写真04−16 第5橋梁 (撮影日 09/05/04)

 写真04−17 第6橋梁   (撮影日 09/05/04)

 左の第5橋梁の左手に見えるのは、第7号隧道の東側入り口です。
 右の第6橋梁は、高さ17.4m、、頂部の長さ51.9mで、第3橋梁(メガネ橋)に次ぐ規模です。

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 熊ノ平駅の西側から峠へかけての橋梁・隧道

 熊ノ平駅以西は、新線は基本的には旧線を踏襲または改良して作られました。旧線のトンネルは、新線の下り線のトンネルに利用されています。ただし、旧16号隧道と第17号隧道は利用されずに残っています。(以下の地図10のの部分です。)


 上の地図は、いつも利用させていただいている、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムの国土画像情報の写真から作成しました。1975年撮影の航空写真を使っています。 
 国土情報ウェブマッピングシステムのページはこちらです。→http://w3land.mlit.go.jp/
 


 まずは、旧熊ノ平駅の西側に例外的に残っている、アプト時代のトンネルです。
 旧16号隧道と17号隧道は、新線には利用されず現在も昔のまま残っています。国道18号線旧道からちょっと山側に入ると、簡単に見ることができます。


 写真04−18 第17隧道東口(撮影日 09/05/04)

 写真04−19 第16隧道西口(撮影日 09/05/04)

 写真04−20 第17隧東口(撮影日 09/05/04)

 写真04−21 第16隧道西口(撮影日 09/05/04)

 西側の第17号隧道は反対の西口が見えます。東側の第16号隧道の方は東口がふさがれていて見えません。


 下の写真は、まだ信越本線が現役だった頃の熊ノ平駅跡です。熊ノ平駅は、アプト線から新線の粘着運転への切り替えに伴って廃止されました。


 写真04−22    旧熊ノ平駅
 この写真は、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムの国土画像情報の1975年撮影の航空写真です。 
 国土情報ウェブマッピングシステムのページはこちらです。→http://w3land.mlit.go.jp/
       


 写真04−23 下り第4T西口(撮影日 09/05/04)

 写真04−24 熊ノ平駅へ   (撮影日 09/05/04)

 熊ノ平駅の西側にある下り第4号隧道の西口です。となりにある通行止めの道路トンネルに向こうに旧熊ノ駅跡を垣間見ることができます。


 写真04−25 廃線の橋梁 (撮影日 09/05/04)

 新下り線第4号隧道の西にある橋梁です。国道18号線旧道からすぐに上れます。

 写真04−26 下り第5T東口(撮影日 09/05/04)

 写真04−27 上り第4T東口(撮影日 09/05/04)

 いずれも廃線となった新線のトンネルです。
 
写真を見て驚かずにはいられません。おわかりですか?
 1997年の廃線から12年を経ても、線路や道床は、全く乱れておらず、雑草も繁茂していません。すぐにでも電車が走れそうな良好な保存状態です。除草剤の散布などきちんと手入れがなされているからです。
 「JRが?」
 いえ、違います。
 前のページで説明したように、旧信越本線全線は、現在では、安中市(旧松井田町を含む)の財産となっています。そして、碓氷峠交流記念財団などによって、「
いつでも電車が走れるような保存」がなされているのです。


 信越本線の「碓氷線」の復活をかける方の思いは、切なるものがあります。

「この鉄道文化むら館長で「シェルパくん」運行の立役者でもある、碓氷峠交流記念財団・常務理事の櫻井正一さんにお話を伺った。「今回の峠の湯までの2・6キロの運行はほんの序章です。軽井沢を目指すのが目標ですから」との第一声。「シェルパくん」による復活だけでも驚くべきことこだが、櫻井さんの目はもう軽井沢を向いていた。
「シェルパくん」は3月の運行開始から約1カ月で4万人の乗車があったという。土・日曜・祝日のみの運転なので、大変な人気である。
「シェルパくん」の車内では、車掌が沿線の風景や確氷線の歴史などを丁寧にアナウンスする。列車が時の湯に着く手前で軽井沢に続く下り本線と分かれるが、「いつかはこの線路を使って軽井沢に行けるよう・・・・」とのアナウンスに、どこからともなく拍手が湧き起こるのだという。「碓氷線廃止後から全国の人々が、もう一度碓氷峠の列車に乗りたいと、松井田町に対して実に多くの要望が寄せられました。それらの方々のご意見がトロッコ運行の原動力となりました」と櫻井さんが話す。
 今回復活した旧信越本線の下り線は、碓氷線廃止後から松井田町が譲り受け、鉄道文化むらが管理している。年に2〜3回、除草剤を散布する作業を欠かさない。「こんな素晴らしい線路をこのまま捨て去ってしまうのは、先人たちの偉業に対してあまりにも申し訳ない」と櫻井さん。櫻井さんはじめ関係者たちの手で除草・整備される確氷線は112年目の今日も生き続けているのである。」

 ※斉木実・米屋浩二著『ニッポン鉄道遺産』(交通新聞社 交通新聞社新書 2009年)P176−178


【追加写真】

 写真04−29   現在の横川駅の表示                    (撮影日 09/06/26 追加写真)

 隣の駅は、東側の「にしまついだ」のみです。西側に、ふたたび、「軽井沢」または他の駅名が入る日は訪れるでしょうか?
 この写真は、連休の旅行中のものではなく、写真04−29と同じく6月26日早朝の撮影のものです。
  ページ1・2・3にも、追加写真を載せています。→P1 →P2 →P3


 碓氷峠の鉄道遺跡の数々を紹介しました。
 私たちは旅行日程の半日しか費やすことができませんでしたが、本来なら、1日たっぷり使ってたくさん歩くのがお勧めです。いろいろな見所をゆっくり見ることができる上、健康にもとてもいいと思います。

 では、これで碓氷峠は終わりにして、次は、上越国境の清水峠を紹介します。目指すは、
上越線水上駅湯桧曽駅土合駅です。


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