| 旅行記のメニューへ  | | 全行程目次・地図へ | | 一つ前へ | | 次へ |

 伊予松山 道後温泉 10/04/11記述 | P1全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 伊予松山には、3月13日(土)の18時55分に到着しました。
 ホテルは、高級とは全く言い難い、ごく普通の「玉菊荘」という所に泊まりました。1泊2食付き二人で22,283円(ビール飲んだ)でしたから、そこそこの値段ですが、施設はまあ書くべきことは何もありません。写真もありません。

 ここを選択した理由は、「かの有名な道後温泉本館に近い」、この1点だけです。
 これはねらいどおりでした。後で説明します。



 松山市内は、伊予灘の海岸線からは少し内陸に入ったところにあります。秀吉時代の末期にこの地を領した大名は、秀吉子飼いの家来で「賤ヶ岳の7本槍」のひとりだった加藤嘉明(よしあき)です。加藤の最初の城は、海岸沿いの正木(現在の伊予郡松前(まさき)町)にあり、6万石を領しました。
 嘉明は、石田三成への反発から、
1600年の関ヶ原の戦いの時は家康方に与し、その結果、戦いののち20万石に増封を受けました。大領主の本拠としては、松前は手狭であったため、道後平野の真ん中の小丘陵、勝山に新たな城を建築し、その周りを城下町としました。
 道後温泉は松山城の東、松山市内東部にあります。昭和前半の時代までは、
道後湯之町として独立した自治体でしたが、1944年に松山市と合併しました。


 写真02−01   松山市内東部                 (撮影日 10/03/14)

 松山城から見た松山市内東部です。中央の三角の角張った建物は、「ひめぎんホール」です。その右奥の丘陵が道後公園、そして、ホールの左奥に道後温泉本館があります。


 写真02−02   道後温泉入り口のからくり時計              (撮影日 10/03/14)

 からくり時計の右手の群衆は、足湯を楽しんでおられます。


 写真02−03   道後温泉本館                 (撮影日 10/03/14)

 道後温泉本館の看板です。


 道後温泉は、日本書紀にも登場するわが国最古といわれている温泉です。
 大化の改新以後の律令国家体制の構築により、各国には国府がおかれました。当時の
伊予の国府は現在の今治市内にあったといわれています。正確な場所は現在も不明です。
 国府のある場所が土地を呼び表す際の基準になりました。その国府のある地域を道中、それより都に近い伊予東部を道前、そして、都から遠い
伊予西部を道後と呼びました。そこにあった温泉なので道後温泉というわけです。


 写真02−04   土曜日の夜の本館 入泉券を買うために行列です      (撮影日 10/03/13)


 土曜・日曜に道後温泉に来ると、道後温泉本館に入るのは至難の業と聞いていました。
 誰しもがここへ来るのが目的ですから、周りのホテルや旅館の観光客がどっと本館にやってくるからです。

 夜7時前に宿所に到着した私たちは、夕食の準備の間に本館がどんなところか、まず偵察に行ってきました。宿所の玉菊荘からは歩いて5分ですから、出かけるのは苦になりません。
 行ってみたら、道後温泉本館前は群衆でごった返していました。これではゆっくり温泉につかるという雰囲気ではありません。

 宿所に戻って夕食を先にすることにしました。夕食時に仲居さんに聞いてみました。

今ちょっと本館前に行ってきました。すごい人ですね。」

仲居

「ええ、土日は大変な人です。」

「ご飯食べてからもう一度行こうと思っていますが、まだ混んでますかね。

仲居

「今日のお客さんの具合からいうと、相当な混み具合と思います。」

「先にホテルのお風呂に入って、その後で様子見ながらまた行ってみようか?

仲居

「それがいいですよ。まずは、ここでゆっくり温泉につかってください。お肌に優しい温泉ですよ。

 もちろん、温泉のお湯自体は、本館のお湯も、玉菊荘のお湯も変わりはありません。

「明日の朝の朝湯はどうですかね。」

仲居

「朝は、6時からやっていますよ。太鼓の音とともに始まります。」

「一番にいったらすいていますかね。」

仲居

「いえ、もう朝の一番湯が目的の方もいらっしゃいますから、6時前から行列ですよ。」

「えっえっ、6時前から行列!!」

仲居

「そうです。」

 さてさて、困ったもんです。
 いくら有名な道後温泉本館でも、「芋を洗う」ような温泉では、入る気にはなりません。

「いつも裏をかくのが得意な私としては、いい案が浮かんだ。」

「何?」

「明日は早く起きて、7時前から朝食を取る。仲居さん、7時からって約束ですけど、早く起きればちょっとぐらい早く食べられますよね?」

仲居

「はい、7時ちょうどからということはありませんから。10分か15分前には、準備ができています。」

「でしょう。そこで、さっさと10分で朝食を取り、7時過ぎに本館へ行く。その時間帯は、6時から出かけた一番湯のお客さんはもう引き上げているし、普通の人は、みんな朝食を食べている時間帯だから、理論的には絶対、すいている。仲居さん、どうでしょう?この作戦は。!」

仲居

「どうでしょうか?朝一番風呂よりはすいていると思います。」

「よし、OKです。明朝、名付けて『2番風呂作戦』を決行!」

 作戦を立てた後、まず宿所の温泉に入りました。ちょっとぬるっとする、いかにも温泉らしいお湯でご機嫌でした。宿所のお客さんは逆にみなさん本館に出かけているのか、温泉の男風呂は、私ともう一人だけという快適な入浴でした。

 その後で、9時過ぎに一応入泉支度をして、もう一度本館に行ってみました。
 本館前は7時過ぎと何ら変わりない、一杯の群衆でした。やはり、この夜はあきらめて、明日の『2番風呂作戦』にかけることにしました。 


 これが道後温泉本館です | P1全行程目次・地図へ || 先頭へ | |松山周辺の地図へ

 3月14日の日曜日の朝、朝6時過ぎに起きた私たちは、6時45分には朝食のテーブルに着き、7時前には食べ終わって、急いで道後温泉本館へ向かいました。


 写真02−05   道後温泉本館東側からの撮影            (撮影日 10/03/14)


 写真02−06   本館正面                 (撮影日 10/03/14)


 上の土曜日夜の写真と比較していただければ一目瞭然です。昨夜のような群衆はいません。作戦成功のようです。
 本館にはいくつかの湯があります。
 ただ入るだけなら、椿の湯(360円)・神の湯(400円)がありますが、ここはやはり、2階に上がってゆっくりくつろぎたいところです。神の湯(2階席)800円という入泉券を購入しました。貸浴衣、お茶、せんべい付きです。

 2階席に上がって驚きました。
 


 写真02−07   本館2階、座っているのは妻です。          (撮影日 10/03/14)


 なんと、本館2階席には、私たち以外誰もいません。貸しきり状態でした。
 もちろん、1階の神の湯そのものは、2階を利用しない客もいましたので、一人独占というわけにはいきませんでした。それでも、男湯は私含めて3人で、思いっきりのんびり朝湯につかりました。


 写真02−08   貸し浴衣と「お茶とお菓子」            (撮影日 10/03/14)

 のんびり湯につかったあとは、ゆっくりお茶の時間です。


 写真02−09   フルーツ牛乳とコーヒー牛乳            (撮影日 10/03/14)

 銭湯・温泉上がりは、定番のフルーツ牛乳とコーヒー牛乳です。


 写真02−10   3階です                 (撮影日 10/03/14)

 3階は、特別料金を払う個室です。料金はまた一段高くなって、1500円です。
 しかし、2階席利用の私たちでも、見学することが許されている部屋があります。


 写真02−11   廊下の一番奥の10号室・・・、              (撮影日 10/03/14)

 そうです。坊っちゃんの間です。
 この道後温泉本館ができたのが、1894(明治27)年、日清戦争が起こった年です。
 その翌年、1895年4月に、夏目漱石が松山中学の英語の教員として赴任し、この本館を利用します。
 この温泉は格別気に入ったようで、「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと3階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と手紙に書いています。

 漱石を記念して造られたのが、この坊ちゃんの間です。


 写真02−12   坊ちゃんの間の内部です               (撮影日 10/03/14)

 夏目漱石の胸像や、年表など解説があります。

 写真02−13   左:坊ちゃんの間からの眺め 右:坊ちゃんの間の外側(3階) (撮影日 10/03/14)


 朝7時過ぎという時間でしたが、800円でゆっくり温泉に入ることができて、とても満足な一日が始まりました。
 旅行最終日は、道後温泉を後にして、松山城・「坂の上の雲」ミュージアム、そして、その後はまた長い長い帰路です。


| 一つ前に戻る | | 次へ進む |