「ベルリンの壁」のかけらを手に入れました。三男Dにそのことを話すと、名前としての「ベルリンの壁」は知っていても、その意味は全く知りませんでした。
※ベルリンの壁のかけらの実物は、現物教材世界史編参照
無理はありません。彼は、平成2年3月生まれ。母ちゃんのお腹の中にいる時に、ベルリンの壁は崩壊してしまいました。
これからの生徒にとっては、僅か十数年前のこととはいえ、ベルリンの壁もソ連も、もう歴史上の事件です。
正解です。ベルリンの壁があった、1961年から1989年の間に、壁を突破しようとして、合計239人の東ドイツ市民が射殺されたといわれています。
しかし、そんなにも犠牲を出しながら、東から西へ向かう人は多く、この期間に、合計5075人が西への脱出に成功しました。そのうち東ドイツの警備兵がなんと574人も含まれています。
ちなみに、東ドイツ成立から1989年までに。ベルリンの壁も含めて国境地帯で脱出を試みて犠牲となった人は、総合計で938人となっています。
この数字の出典は。基本的には、現在のベルリン市内にある、チェックポイントチャーリー博物館のWebサイトから取りました。
※Checkpoint Carlie Museum 
このサイトは、ドイツ語で書かれており、英語版は、まだ建設中です。内容の項目名だけは英語訳されていて、壁ができて以後果敢に亡命した人々の成功の記録などが紹介されていることは分かりますが、詳細部分はまだ英語になっておらず、わかりません。(私は大学で第二外国語にフランス語を選択したので、ドイツ語は分かりません。得意な方は、ご覧になってみて下さい。)
詳しく分かれば、また、紹介します。
※他には、池上彰著『そうだったのか! 現代史』(集英社2002年11月)P35も参考にしました。
これまでの授業の経験で、ベルリンの壁が持つ意味を正確に教えるには、次の三つの点を教えなければなりません。
第二次世界大戦末期から始まった東西冷戦のため、戦後東西ドイツが誕生したこと。
ベルリンは東ドイツの中にあって、そこだけさらに東西に別れていたこと。したがって、ベルリンの壁は、東の西のベルリンの境だけではなく、東ドイツと西ベルリンの境全部に建設されたこと。
そして、東ドイツの人たちが、命がけで「自由」を求めて、西ドイツへ亡命しようとしたこと。
これらについて、簡単に説明します。
まず、東西冷戦開始の基本的説明は、別の世界史クイズ戦後世界と対立編「1948ー49年、ベルリン封鎖の約1年間に実施された空輸の回数は?」 を先にお読み下さい。
ここでは、補足の意味で、地 図を示して確認します。
図Aは第二次世界大戦終了直後のドイツです。
東から攻め込んだソ連がベルリンも含めて旧ドイツの東部地域を占領管理しました(図のUSSRの部分)。西側部分は、西から攻め込んだアメリカ(図のA)・イギリス(図のB)・フランス(図のF)が占領管理しました。
戦争終結直後、米ソの対立は表面化し、ドイツでは、1948年のベルリン封鎖という事態になりました。この最中の1949年5月に、米英仏は西側部分だけを独立させ、ドイツ連邦共和国を誕生させました。
一方対抗したソ連は、この年10月、自分の占領地域にドイツ民主共和国を建国させ、ここに、いわゆる東西ドイツの分裂が確定したのです。これが、右の図Bの状況です。これが、1990年10月のドイツ統一まで続きます。
ベルリンはもともと旧ドイツの首都で、当時は東ドイツ内の都市でした。首都であったために、ややこしいことに、ベルリンだけが米・英・仏・ソ連に分割占領されていたのです。
図Cはその状況を示しています。
1948年には、ソ連がベルリン封鎖を行い、西ベルリン地区を孤立させましたが、米英の飛行機による輸送作戦によって、挫折したわけです。
ところが、そのうち事態はソ連や東ドイツにとってまずい方向へ展開していきました。
もともとソ連の戦後処理のやり方は、大変方針が明確なものでした。
ドイツや日本など敗戦国からは、ソ連が戦争によって受けた被害の分を現物補償させるため、占領地区から工場・機械・資材などを根こそぎ本国へ運ぶというものです。
満州では、鉄道のレールはもちろん、その辺の工場の小さな機械、釘までも持っていってしまったといわれています。
当然、東ドイツに対しても同様のことを行いました。
おまけに、ソ連型の社会主義の理論にしたがって、東ドイツ政府(正式には社会主義統一党、実質は共産党)は、1959年から生産手段の公有化を開始しました。
つまり、工場・農場などを国有化・公有化していったのです。
これは、それまでの農場を経営したり小工場を経営したりしていた多くの東ドイツ市民の希望を失わせました。
当時、すでに東西ドイツの国境は、鉄条網や地雷が敷設されで警備が厳重で、国境を越えて簡単に東から西へと向かうことはできなくなっていました。
このため、東ドイツ市民は、まずベルリンへ行き、そこ検問所を超えて、西ベルリンに入り、そこから西ドイツへ向かうというルートで、西ドイツ亡命を企てるものが続出してしまったのです。
壁ができるまでは、東西ベルリンの境界の検問上はそれほど厳しい体制で望むことはできませんでした。図を見れば明らかなように、都市のど真ん中に東西の境界線があるわけですから、うまくやればどこからでも西への脱出が可能だったのです。
亡命者の数は年とともに増加し、東西ドイツ分裂の1949年から1961年の壁ができるまでの12年間に、358万人が東から西へ亡命したと伝えられています。 これに対する「危機感」が東ドイツ政府をして、ベルリンの壁の建設に踏み切らせます。
1961年8月13日の午前0時、東ドイツは、警察官や武装民兵隊など1万3500人を動員して、壁作りを開始しました。もちろん最初から頑丈な壁を作ったわけではなく、当初は有刺鉄線やバリケードによる簡単なものでした。
しかし、一人も亡命させないという執念のもと、8月15日には、ブロックによる頑丈な壁作りが開始されます。中には境界に面したビルの2階から脱出する者も現れたため、東ドイツ当局は境界に面したビルの窓をブロックでふさぐ工事も開始します。
最終的には、西ベルリンとの境界はコンクリートやブロックの頑丈な壁で覆われたほか、東ドイツ側の建物を撤去させ、こちらにももう一つの別の壁を作り、その間を次の障害物で固めました。(東から西へ順に)
※前掲Webサイト及び 池上著前掲書P34より
地面に杭を設置
高さ2mの金網
亡命者探知ケーブル
鉄条網
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銃座のあるトーチカ(全域で20カ所)
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フェンス
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パトロール用の舗装道路
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街頭(夜間でも煌々と照らす)
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幅3.5メートルの溝
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砂地(歩くと足跡が付く)
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番犬
監視塔の数は、302カ所。監視兵の総数1万4000人、番犬259頭という体制でした。
この壁がどこに作られたのかについて、授業で取り扱うと普通の生徒は大きな誤解を持ちます。「東西のベルリンの交通を遮断する壁」という意味から、東西ベルリンの間にだけつくられたものと思ってしまうのです。
実際はそうではありません。
図Dのように、壁は西ベルリンの周囲すべて、つまり、西ベルリンと東ドイツのベルリン以外の部分にも作られていました。したがって、その延長は、東西ベルリンの境界部分が43.1㎞、それ以外の周囲全体も含めて、155㎞にも及ぶものでした。
壁があった当時の写真は、いろいろなサイトにありますが、解説のうまさやその量からいって、この方の右に出るものはありません。
※松浦孝久さんのサイト「ベルリンの壁写真館」
図Eは現在のドイツ、正しくはドイツ連歩共和国です。1990年に西が東を「吸収」して成立しました。
なぜベルリンの壁が崩壊したか、それについては、また項目をあらためて説明します。
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