こういう内容の問題は、予想外に回数が多いというのが常識です。
1時間に何便とか、どれぐらいの間隔で飛ばして、1日何便と計算し、それに日数370日をかければいいわけですが、さて、どのぐらいを予想しますか?
※ベルリン封鎖と空輸そのものに全く知識のない方は、先に下の、経緯をお読みください。
この問題は、授業中クイズの3番目のタイプの問題(解説をどうぞ)です。答えをぴたり予想することはできませんから、正解に近いものに得点を多く与えるという方式にすると盛り上がります。
但し、「各自の答えの数字が、正解よりオーバーしたら零点」という規制を設けると、なお慎重に考えなければなりません。
正解は、27万8300回です。
単純に計算して、1日752便強、飛行場は二つ(テンペルホフ飛行場、ガト飛行場)ですから、単純計算で一つの飛行場には、1日376便強が着陸したわけです。
毎日24時間休みなく着陸したとしても、1時間に15便強。つまり、60分÷15≒4分弱に一便、離着陸させなければなりません。滑走路がいくつあったかまでは、データがないので正確ではありませんが、ものすごい頻度であることが分かるでしょう。予想は当たったでしょうか。
参考文献の中には、アメリカ軍は最盛期に、1分おきに飛ばす離れ業をやったと記されています。このペースは、日本のJRの電車以上です。
もちろん犠牲も出ました、輸送期間中に何度も墜落事故が起き、地上での事故も含めて、作戦全体で65人の犠牲者が出ました。
しかし、この輸送大作戦で、ベルリンには、合計232万6500トン(1日平均6,200トン以上、最盛期には、1日8,000トン)の物資が運ばれ、「陸の孤島」となった、ベルリン市民220万人の生活を守りきったのです。
※ |
上記のデータは、以下の参考文献から引用しました。 |
|
池上 彰著『そうだったのか現代史』(集英社2000年 P31〜34) |
|
斉藤 勉著『スターリン秘録』(産経新聞社2000年P204〜211) |
|
猪木武徳・高橋 進著『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』(中央公論社1999年 P49〜52) |
ちなみに、出題の際に、この時使われたアメリカ軍の輸送機の写真を、生徒諸君に見せると、よりイメージがわくと思います。輸送機は、第二次世界大戦中から使われていた、ダグラスR5D−4スカイマスター(Douglas R5D-4 Skymaster)です。(これ以外にも使われましたが、これが中心でした)
※写真は、アメリカのCASTLE AIR MUSEUMの展示飛行機の写真をご覧ください。(2009/08/29更新)
ミュージアム全体へhttp://www.castleairmuseum.org
ダグラスR5D−4へhttp://www.castleairmuseum.org/douglas_r5d4.html(これ、さがすの大変でした(^.^))
この輸送機は、アメリカ軍では、C47と呼ばれています。
プラット&ホイットニー社のプロペラエンジン4基を持ち、全長93フィート11インチ、翼幅117フィート6インチで、最高時速265キロでした。
1948年の空輸開始時点でアメリカ空軍は、この輸送機を約400機保有していましたが、そのうち319機が投入されて、「空の架け橋」作戦が行われました。
この飛行機は、フランクリン・ルーズベルト大統領が、初めて大統領専用機というものを指定した時(今のいわゆるエアー・フォース1)、それに採用された機です。ルーズベルト大統領は足が不自由で車いす生活であったため、その機には、特別に車いすを上げ下げするリフトが付いていました。
次のトルーマン大統領も、同じ機種を専用機とし、その機は、現在では、アメリカ空軍博物館に展示されているそうです。
※以上C47輸送機の説明は、上記CASTLE AIR MUSEUMの英文の説明を訳しました。
さて、ベルリン封鎖と空輸の経緯です。
第二次世界大戦末期の1945年、ドイツ軍の敗北は明かとなり、東からはソ連軍が、西からは米英仏軍がドイツ領内に侵入しました。
この結果、ベルリンを含むドイツ東半分はソ連が、西は米英仏軍が占領します。
ベルリンはソ連占領地内にあったのですが、ドイツの首都というわけで、ベルリンを4分割して、米英仏ソがおのおの占領して管理する体制が取られました。
米英仏の資本主義陣営とソ連(社会主義陣営)は、戦争終結後の世界の主導権をめぐって対立を深めます。
占領地をうまく支配するという点で、ソ連は、米英仏よりもまずいやり方を取りました。
政治的に影響力をもち、自分たちの息のかかった政権を作ろうとするのは同じですが、経済政策が、ソ連の場合はひどかったのです。
ソ連のやり方はある意味では単純明白でした。
戦争をしかけたのがドイツであり、その戦争多大な被害を被ったソ連としては、ドイツから取れるものはなんでも取るという方針でした。つまり、占領地の工場などの機械設備や資材を、根こそぎソ連へ持ち去ってしまったのです。
その上で、ドイツ紙幣の原盤を手にしたソ連は、紙幣を大量に発行し、その紙幣を使ってほしいものは何でも手に入れようとしました。
この結果、ドイツに猛烈なインフレが進行します。これではドイツの復興は、いつまでたっても望むことができません。
これを見た米英仏側は、通貨改革を提案しました。新しい通貨を発行して、発行権限をコントロールし、インフレを抑えようと言う政策です。
ソ連はもちろんこれに反対します。
この結果、米英仏側は、自分たちの占領地域、つまり、西ドイツと西ベルリンだけで通用する独自通貨の発行にふみきります。これが、1948年6月23日のことです。
怒ったソ連共産党のスターリンは、翌6月24日、ベルリン封鎖を行って対抗します。
つまり、ソ連占領地の中にある西ベルリンに通じる道路・鉄道を軍隊を使って完全に封鎖し、一切の物資の輸送を止めさせてしまったのです。このままでは、食糧も燃料もつきてしまい、西ベルリンの220万人の住民は、餓死を待つばかりとなります。一歩間違えば、武力衝突の危険もありました。
この思い切った策のねらいは、直接的には、米英仏陣営の通貨改革を止めさせることにありましたが、うまくいけば、こういうソ連の強い報復によって、米英仏陣営がベルリンから撤退していくかもしれないという計算がありました。
ところが、この野望は、米英仏側の断固たるかつ冷静な姿勢によって、もろくも崩れました。
米英仏軍は、武力衝突はもちろん選択せず、「空の架け橋」作戦を辛抱強く展開し、空からの物資の供給によって西ベルリン市民の生活を支えたのです。
また、この間に、米英仏はドイツの統一をあきらめ、1949年5月「ドイツ基本法」を成立させて、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立に進みます。
この直後、49年5月12日、あきらめたソ連はベルリン封鎖を解除するのです。
但し、ソ連も米英仏の動きに対抗し、この年10月には、ドイツ民主共和国を成立させました。この結果、ドイツの分裂が確定しました。
この話に関して、面白い余談を見つけました。
1999年にベルリンを訪問した、京都大学名誉教授の山崎和夫さんのエッセイです。
※山崎和夫「ベルリンの緑」『人環フォーラム』第8号巻頭言
木を切った跡地に、マンションとか、アパートとか建ててしまうのではなく、また元の森に戻す。
ドイツ、彼の国の人々の精神は、高邁です。
環境に対する認識を学ばねばなりません。 |