戦後世界と対立1
<問題編> クイズは時代の古い順に並んでいます。答えは各問題のをクリックしてください。  
最終更新日 2004年07月11日 ※印はこの5週間に新規掲載 
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番号 掲載月日   問                     題

1105

04/07/11

 1950年6月22日、北朝鮮軍の侵略によって、朝鮮戦争が始まります。
 10月25日からは、中国人民義勇軍が参戦し、国連軍はその数の多さに、後退を余儀なくされます。
 その時の様子は、次のように描写されています。
□□□□にはどんな表現が入るでしょうか。


「中国軍の戦法は、多正面で突破を図り、突破した地区に後続部隊を投入して縦深深く昼夜連続の突撃を反復するという波状攻撃を行った。この攻撃は、国連空軍の航空攻撃を回避するため主として夜間に行われたが、旧日本軍の夜間攻撃とは異なり、□□や□□□□□を鳴らし、歓声を揚げて突撃を繰り返し、その損害を顧みない突撃は国連軍兵士に恐怖すら感じさせた。」

1104

02/09/08

 1948年6月24日、ソ連によって、西ベルリンが封鎖されました。ソ連に対抗するアメリカ・イギリスなどは、西ベルリン市民を救うため、6月26日飛行機による物資輸送大作戦を展開します。いわゆる「空の架け橋」(ルフト ブリュッケ)作戦です。
 作戦は、ソ連が封鎖を解除(49年5月12日)したあとも続けられ(6月30日まで)、370日間に及びました。では、この間に一体何回の飛行機輸送が行われたでしょうか?
 輸送機1機がベルリンまで1往復することを1回と計算します。
 条件を示します。当時、西ベルリンにあった飛行場は二つです。当時は発達したレーダー管制などはありませんから、天候不良の時は、輸送はできません。輸送機は、アメリカのC54という、プロペラエンジンを4基持った、長さ約28メートルの大型輸送機です。 

1101

01/01/21

 旧ソ連のを皮肉ったブラック・ユーモアです。
 ある家庭に友人が訪問しました。両親は不在で、子どもとの会話です。訪問者「おとうさんは?」子ども「父は今いません。すぐかえってくるとおもうけど。」訪問者「どこへいったの」子ども「ちょっとロケットに乗って宇宙へいっています。」訪問者「ではお母さんは?」子ども「母も出かけています。多分なかなか帰ってきません。父より遅くなります。」訪問者「お父さんより遅くなるの?どこへ行ったの?」子ども「□□」・・・。さて、母親はどこへ行っているのでしょう。 

1102

01/01/21

 日本では、12月になると、買うことはもちろんただでももらえたりするふんだんにある品物で、消費財不足のソ連人にあげると大変喜ばれたものは何でしょう。

1103

01/01/21

 ソ連で「節酒令」が出され、酒屋での販売時間が制限された。その政策を批判してのブラックユーモアである。
 酒屋の前の長い行列に頭にきたある男がつぶやいた。「これからクレムリンへ行って。こんな命令を出したゴルバチョフを暗殺してやる。」ところが、しばらくしてその男がすごすごと元の行列の所へ帰ってきた。「おいどうした、暗殺したのか?」男「□□□」
さてこの男のセリフは?


<解説編>

1101 ソ連の父はロケットで宇宙へ、母はもっと時間がかかる所へ。さてどこへ?       | 問題編へ |    

 ソ連の風刺が効いた小話を、「アネクドート」といいます。それからの出題その1です。

 まだソ連が存在していた時代、この社会主義国が理想と宣伝とは裏腹に現実には消費物資が不足して、人々が日常生活に苦労していたのは有名な話です。その原因は、ご存じのように旧ソ連型社会主義の理想であった「
計画経済」にあります。

 第一にソ連当局は、消費財よりも生産財の生産を重視し、とりわけアメリカとの軍事・科学競争に勝つために、結果的にはかなりの無理をして、ミサイルやロケットの生産を進めました。
 第二に、計画経済は、一般的に労働者の労働意欲を高めることができず、国全体がお役所日の丸の生産・ 流通体制となってしまいました。

 その結果、
人々は食糧・日用品など、生活物資を買うには、長い行列に並んで待たなければなりませんでした。クイズの答えは、「母は店までパンを買いに行った。」です。

 
ロケットで宇宙に行った父さんが「すぐ帰ってくる」ことができ、パンを買いに行った母さんが「遅くなる」というところが、ソ連の経済体制を示すブラック・ユーモアです。
 
 その昔(
ブレジネフ書記長の時代だったかな)、アメリカのデパートには商品が一杯で、ソ連のデパートには商品がない状態を見て、「ソ連は貧しい」という批判がなされた。
 しかし、ソ連共産党書記長は、「
アメリカの労働者は貧しいので商品が買えないから、デパートには商品がいっぱいある。ソ連の労働者は豊かなので商品が売れ切れてしまい、ショーウィンドウには商品がない。」と反論したそうです。権力は常に事実を枉げて、自分を正当化します。

 世界史や現代社会の授業では、もっと時間をかけて、このジョークのすべてを示して、これが意味するところは何か説明せよという「長考問題」も可能です。
 一度、期末試験でこれを出題したこともありました。「考える試験問題」のネタとしては有効です。


1102 ソ連人に送ると喜ばれた12月頃の日本にはふんだんにある品物とは何。       | 問題編へ |      

 この問題は、12月というのがミソです。寒くなってからという理解から、発想が「暖かなカイロ」などへ向いてします。

 正解は、
カレンダーです。特に、カラー写真の美しいカレンダーが好まれました。
 「日本の商社の支店で働くあるソ連人は、『自宅から勤め先までの道順に立っている警官全員に毎年、カレンダーを贈っている。おかげで僕が通るたびに敬礼してくれるよ』という。」
 ※今井博『暮らしてみたソ連2000日』(1985年毎日新聞社)P76


1103 行列に怒ってゴルバチョフ暗殺に向かった男が戻ってきて言ったセリフは?       | 問題編へ |     

 ソ連のアネクドート(風刺小話)からの出題その2です。
 ソ連の最後の共産党書記長となった
ゴルバチョフは、1985年3月、前書記長チェルネンコの死によってソ連の最高責任者となりました。彼は、「ペレストロイカ」と呼ばれる改革を始めます。その原因は、今改革をしなけらば21世紀にはソ連は2流・3流の国に成り下がってしますという危機感でした。

 彼が責任者となった時のソ連は、かつて
フルシチョフ首相が「われわれは資本主義を追い越す。米国に追いつき追い越すのだ」と豪語した時代の栄光はありませんでした。また、彼はブレジネフのように、「たとえば列車が機関車の故障で止まっているにもかかわらず、車窓にカーテンを引いて列車が順調に走っているように見せかける」といった国民を欺瞞する行為もできませんでした。

 このような危機認識に立って、社会・経済における
大改革=ペレストロイカが始まります。
 そのほんの手始めが、
節酒令だったのです。
 ロシアはソ連は寒い国と言うこともあって
従来酒には寛容で、それが、企業の生産現場における生産性の低下や家庭における離婚率の増加という問題の原因の一つになっていると考えられていました。
 
 
節酒令の内容は次のようなものでした。

  • 仕事の上での飲酒は禁止、公費の宴会は厳罰

  • 公共の場での酩酊は罰金

  • 1986年からウオッカの生産減少

  • 酒類は午後2時以降しか販売しない

  • 1986年より酒の価格の20〜25%値上げ

 市民は酒を買うために長蛇の列に並ばねばならなくなったのです。これに怒ってゴルバチョフを殺してやるという酒好きが現れても不思議ではありません。

 さて、暗殺に行ったはずの勇敢な男がすごすごと帰ってきた理由は、
いや、ゴルバチョフを暗殺してやろうというやつの行列の方が長かった」でした。(そんなわけぁ、ねぇ)
 ソ連はあくまで
行列の国でした。
  ※永田実『ゴルバチョフ「次の手」を読む』(1989年講談社)


1104 1948ー49年、ベルリン封鎖の約1年間に実施された空輸の回数は?         | 問題編へ |      

 こういう内容の問題は、予想外に回数が多いというのが常識です。
 1時間に何便とか、どれぐらいの間隔で飛ばして、1日何便と計算し、それに日数370日をかければいいわけですが、さて、どのぐらいを予想しますか?
  ※ベルリン封鎖と空輸そのものに全く知識のない方は、先に下の、経緯をお読みください。

 この問題は、授業中クイズの3番目のタイプの問題(解説をどうぞ)です。答えをぴたり予想することはできませんから、正解に近いものに得点を多く与えるという方式にすると盛り上がります。
 但し、「各自の答えの数字が、正解よりオーバーしたら零点」という規制を設けると、なお慎重に考えなければなりません。
 
 正解は、27万8300回です。
 単純に計算して、
1日752便強、飛行場は二つ(テンペルホフ飛行場、ガト飛行場)ですから、単純計算で一つの飛行場には、1日376便強が着陸したわけです。
 毎日24時間休みなく着陸したとしても、
1時間に15便強つまり、60分÷15≒4分弱に一便、離着陸させなければなりません。滑走路がいくつあったかまでは、データがないので正確ではありませんが、ものすごい頻度であることが分かるでしょう。予想は当たったでしょうか。
 
 参考文献の中には、
アメリカ軍は最盛期に、1分おきに飛ばす離れ業をやったと記されています。このペースは、日本のJRの電車以上です。
 もちろん犠牲も出ました、輸送期間中に何度も墜落事故が起き、地上での事故も含めて、作戦全体で65人の犠牲者が出ました。
 しかし、この輸送大作戦で、ベルリンには、合計232万6500トン(1日平均6,200トン以上、最盛期には、1日8,000トン)の物資が運ばれ、「陸の孤島」となった、ベルリン市民220万人の生活を守りきったのです。 

上記のデータは、以下の参考文献から引用しました。

池上 彰著『そうだったのか現代史』(集英社2000年 P31〜34)

斉藤 勉著『スターリン秘録』(産経新聞社2000年P204〜211)

猪木武徳・高橋 進著『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』(中央公論社1999年 P49〜52)

 ちなみに、出題の際に、この時使われたアメリカ軍の輸送機の写真を、生徒諸君に見せると、よりイメージがわくと思います。輸送機は、第二次世界大戦中から使われていた、ダグラスR5D−4スカイマスター(Douglas R5D-4 Skymaster)です。(これ以外にも使われましたが、これが中心でした)
 ※写真は、アメリカの
CASTLE AIR MUSEUMの展示飛行機の写真をご覧ください。(2009/08/29更新)
  ミュージアム全体へhttp://www.castleairmuseum.org 
  ダグラスR5D−4へhttp://www.castleairmuseum.org/douglas_r5d4.html(これ、さがすの大変でした(^.^))

 この輸送機は、
アメリカ軍では、C47と呼ばれています。
 プラット&ホイットニー社のプロペラエンジン4基を持ち、全長93フィート11インチ、翼幅117フィート6インチで、最高時速265キロでした。
 1948年の空輸開始時点でアメリカ空軍は、この輸送機を約400機保有していましたが、そのうち319機が投入されて、「空の架け橋」作戦が行われました。

 この飛行機は、
フランクリン・ルーズベルト大統領が、初めて大統領専用機というものを指定した時(今のいわゆるエアー・フォース1)、それに採用された機です。ルーズベルト大統領は足が不自由で車いす生活であったため、その機には、特別に車いすを上げ下げするリフトが付いていました。
 次のトルーマン大統領も、同じ機種を専用機とし、その機は、現在では、アメリカ空軍博物館に展示されているそうです。
  ※以上C47輸送機の説明は、上記CASTLE AIR MUSEUMの英文の説明を訳しました。

 さて、ベルリン封鎖と空輸の経緯です。
 第二次世界大戦末期の1945年、ドイツ軍の敗北は明かとなり、東からはソ連軍が、西からは米英仏軍がドイツ領内に侵入しました。
 この結果、ベルリンを含むドイツ東半分はソ連が、西は米英仏軍が占領します。
 
ベルリンはソ連占領地内にあったのですが、ドイツの首都というわけで、ベルリンを4分割して、米英仏ソがおのおの占領して管理する体制が取られました。
 米英仏の資本主義陣営とソ連(社会主義陣営)は、戦争終結後の世界の主導権をめぐって対立を深めます。

 占領地をうまく支配するという点で、ソ連は、米英仏よりもまずいやり方を取りました。
 政治的に影響力をもち、自分たちの息のかかった政権を作ろうとするのは同じですが、経済政策が、ソ連の場合はひどかったのです。
 ソ連のやり方はある意味では単純明白でした。
 戦争をしかけたのがドイツであり、その戦争多大な被害を被ったソ連としては、ドイツから取れるものはなんでも取るという方針でした。つまり、占領地の工場などの機械設備や資材を、根こそぎソ連へ持ち去ってしまったのです。
 その上で、ドイツ紙幣の原盤を手にしたソ連は、紙幣を大量に発行し、その紙幣を使ってほしいものは何でも手に入れようとしました。
 この結果、ドイツに猛烈なインフレが進行します。これではドイツの復興は、いつまでたっても望むことができません。
 これを見た米英仏側は、通貨改革を提案しました。新しい通貨を発行して、発行権限をコントロールし、インフレを抑えようと言う政策です。
 ソ連はもちろんこれに反対します。
 この結果、米英仏側は、自分たちの占領地域、つまり、
西ドイツと西ベルリンだけで通用する独自通貨の発行にふみきります。これが、1948年6月23日のことです。

 怒った
ソ連共産党のスターリンは、翌6月24日、ベルリン封鎖を行って対抗します。
 つまり、ソ連占領地の中にある西ベルリンに通じる道路・鉄道を軍隊を使って完全に封鎖し、一切の物資の輸送を止めさせてしまったのです。このままでは、食糧も燃料もつきてしまい、西ベルリンの220万人の住民は、餓死を待つばかりとなります。一歩間違えば、武力衝突の危険もありました。
 この思い切った策のねらいは、直接的には、米英仏陣営の通貨改革を止めさせることにありましたが、うまくいけば、こういうソ連の強い報復によって、米英仏陣営がベルリンから撤退していくかもしれないという計算がありました。
 
 ところが、この野望は、米英仏側の断固たるかつ冷静な姿勢によって、もろくも崩れました。
 米英仏軍は、武力衝突はもちろん選択せず、「空の架け橋」作戦を辛抱強く展開し、空からの物資の供給によって西ベルリン市民の生活を支えたのです。
 また、この間に、米英仏はドイツの統一をあきらめ、
1949年5月「ドイツ基本法」を成立させて、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立に進みます。
 この直後、
49年5月12日、あきらめたソ連はベルリン封鎖を解除するのです。
 但し、ソ連も米英仏の動きに対抗し
、この年10月には、ドイツ民主共和国を成立させました。この結果、ドイツの分裂が確定しました。
 この話に関して、面白い余談を見つけました。
 1999年にベルリンを訪問した、京都大学名誉教授の山崎和夫さんのエッセイです。
  ※山崎和夫「ベルリンの緑」『人環フォーラム』第8号巻頭言

  • 私は去る10月、8年ぶりにベルリンを訪ねる機会があった。バスの車窓から見た景色の中で特に私の気を引いたのは、現在の人口は東京よりずっと少ないとはいえ、今年再びドイツの首都に復帰した大都会ベルリンに緑が多いことだった。ベルリンの緑の多さは他のドイツの都市と比べても特に際立っている。タクシーの運転手に、このことを話題にしてみた。
     そうすると彼が「そうなんですよ。でもねお客さん、よく見てごらんなさい。これらの木は樹齢およそ4、50年なのがわかりますか。このあたりには当然、樹齢何百年というフィヒテ唐檜の巨木も生えていた森があったはずですのにね」と言った。そう言われてみると確かにそのような巨木は見当たらない。そこで当然「それはなぜだと思いますか」と言うことになった。
     私の乏しい歴史の知識ではまず、第二次大戦末期にベルリンではソ連の大軍と、最後の壮絶な市街戦が展開されたことが思い出された。しかしそれはベルリン中の森を焼き払うようなものではなく、ごく限られた市街の一部だけだったはずだ。その次に思いついたのは、戦争直後の食糧難の時代、日本中の住む場所以外を芋畑にしたのと同じことが、このベルリンでも行われたということだったが、運転手の説明は少し違っていた。
     それは1948年6月から10ケ月余に及んだソ連による西ベルリンの封鎖のためだと言うのだ。
     ソ連は西側の陸の孤島西ベルリンを封鎖によって屈服させようとしたのに対して、連合国側はいわゆる「空の架橋」と呼ばれた輸送機による必需物資の空輸でこれに対抗した。そしてさらに200万の西ベルリン市民は、森の木を切って暖をとり、その森の跡地へ食料になるものを植え、寒さと飢えをしのぎこの危機を脱したと言う。こうしてかつてのベルリン中の森は姿を消してしまったという。日本の大都会ならこの危機が去ったあと、芋畑にバラックを無秩序に建てたのではないかと思うが、ベルリンでは元の森に戻すように植林し、それが現在樹齢40余年の緑となってベルリンを覆っているのだそうだ。

 木を切った跡地に、マンションとか、アパートとか建ててしまうのではなく、また元の森に戻す。
 ドイツ、彼の国の人々の精神は、高邁です。
 環境に対する認識を学ばねばなりません。


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