二つの世界大戦その8
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<解説編>
 

1008 イタリアにあったアメリカ陸軍第15航空軍の爆撃目標は?  |世界史問題編へ

 このクイズや参考文献の発掘は、2010年に出かけた「マンチェスター・ロンドン研修」から生まれたものです。2011年前半にアップロードした、→海外研修記「マンチェスター・ロンドン研修記14 ドイツ本土爆撃」もご覧ください。
 次の順に説明します。
   1 このクイズの元となった参考文献の紹介  
   2 正解   
   3 参考文献から確認できたあまり知られていない真実   

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 1 このクイズの元となった参考文献の紹介

 正解の前にこのクイズを発想する元となった参考文献を紹介します。
 本の名前は、
スティーブン E・アンブローズ著鈴木主税訳『ワイルド・ブルー』(アスペクト 2002年)です。原題名は、『THE WILD BLUE -THE MEN AND BOYS WHO FLEW THE B-24s OVER GERMANY』(直訳すれば、「荒々しい青空 -B24爆撃機をドイツへ向けて飛ばした男と少年たち-」でしょうか)です。
 この本は、二つの意味で珍しい情報を提供してくれます。

 一つは、まずここに出てくる爆撃機のことです。
 題名の「
B-B24s」爆撃機とは、正確には、コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機のことです。
 日本が戦ったアメリカの爆撃機といえば、通常は
ボーイングB29スーパー・フライング・フォートレスが思い出されます。また、ヨーロッパ戦線に詳しい方なら、映画『頭上の敵機』や『メンフィス・ベル』で有名なボーイングB17フライング・フォートレス爆撃機です。
 コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機については、ヨーロッパ戦線でも太平洋戦線でも活躍したのですが、知名度は今ひとつです。B24爆撃機が主役の映画はありません。この本は、日本語訳で読めるものとしては、この機を飛ばした操縦士と爆撃隊の貴重な記録です。
 
 もう一つは、この本に描かれた爆撃隊が、ヨーロッパ戦線で有名なイギリス本土を基地とするアメリカ陸軍第8航空軍の爆撃隊ではなく、
イタリア本土を基地とする第15航空軍の爆撃隊であることです。    


 写真10-08-01 コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機     (撮影日 10/11/16)

 イギリス・ロンドンの空軍博物館に展示されているコンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機の機首部分と第2エンジンです。
  ※詳しくは→海外研修記「マンチェスター・ロンドン研修記14 ドイツ本土爆撃」をご覧ください。
 機首には、上部に機首銃座、下部に爆撃手席がありました。
 この爆撃機の実戦型の完成は、ボーイングB17より1年遅く、1941年7月です。この展示機は、イギリス本土の基地で使われていたものです。


 写真10-08-02    コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機模型            (撮影日 10/11/13)

 こちらは、リヴァプール・マージーサイド海洋博物館の展示模型です。
  ※この博物館についても詳細は、→海外研修記「マンチェスター・ロンドン研修記11 海の戦い」へ。
 コンソリデーテッド社はもともと飛行艇の生産を得意とする会社であったため、この機体も翼が胴体の上部に付いているなど、飛行艇の「伝統」を有しています。そのため、その独特の形状から、「翼の付いたニューヨーク港ゴミ運搬船」・「空のランチョンミート缶」・「バナナ・ボート」・「空飛ぶ煉瓦」・「妊娠中の雌牛」などとありがたくないニックネームをもらいました。(前掲書P98)
 この写真の模型は、戦略爆撃用ではなく、対Uボート作戦用の仕様です。 


 ワイルド・ブルーの著者、アンブローズは、歴史家・作家で、『バンド・オブ・ブラザーズ』(TV映画にもなったアメリカ第101空挺師団の物語)など戦史ものに多くの著作を持ち、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『プライベート・ライアン』では、歴史考証アドヴァイザーを務めています。
 また、2000年6月に開館したルイジアナ州ニューオリンズにある
第二次世界大戦博物館D-day博物館)の館長です。「D-day」とは、ノルマンディー上陸作戦の上陸日を示す暗号名です。
  ※第二次世界大戦博物館(D-day博物館)のHP http://www.nationalww2museum.org/
 
 
アンブローズ氏は1936年生まれであり、直接第二次世界大戦に参加した世代ではありません。彼がワイルド・ブルーで描いたのは、実際にB24爆撃隊に勤務した、友人のジョージ・マクガヴァン氏(1922年生まれ、現在も存命)とそのクルーの活躍です。

 
マクガヴァン氏は、サウスダコタ州の大学に入学すると、学生の身分のままで、政府が進めていた民間操縦士訓練プログラムに参加し、1941年秋までに飛行訓練過程を終了しました。その後、1941年12月7日(アメリカ時間)に日本軍の真珠湾攻撃のニュースを聞くと友人の学生らとともに陸軍航空隊を志願しました。
 待機と訓練のあと、1944年9月に
イタリア中部のアドリア海岸にあるチェリニョーラに基地を置くアメリカ陸軍第15航空軍第741爆撃飛行隊にB24爆撃機操縦士として任務に就き、1945年5月のドイツ降伏の直前には、出撃35回の規定任務を達成しました。
 マクガヴァン氏は、任務を終えて復員し、戦後は出身地のサウスダコタ州で大学教授をしたあと、同州選出の民主党下院議員・上院議員となり、1972年の大統領選挙では民主党候補となりました。しかし、この時の選挙では、大敗しました。この時当選して大統領となったのが、共和党の
ニクソンです。年配の方でアメリカに詳しい方なら記憶にある名前です。

 同書からはこれまで日本ではあまり知られていない、B24爆撃隊の真実をいくつか確認できます。そのひとつが、爆撃目標です。 

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 2 正解

 アメリカ陸軍の戦略爆撃隊の目標に関しては、対象地域と時期によっていろいろ違いがあります。
 1945年6月のB29爆撃機による日本に対する最初の爆撃(マリアナ諸島からではなく中国四川省成都からの爆撃)では、目標は九州の
八幡製鐵所でした。
  ※これについては別に説明しています。 →クイズ日本史:1944年6月のB29爆撃機の最初の目標は
 1944年11月末からはじまったマリアナ諸島からの爆撃では、最初は
中島飛行機武蔵製作所など航空機工場が目標となりました。
 イギリスに基地を置いたアメリカ陸軍第8航空軍の場合は、いろいろな目標が設定されましたが、初期の有名なものには、1943年夏のシュヴァインフルト爆撃があります。
 ドイツ南部のバイエルン地方の北部にあるこの都市は、人口は、僅か4万人ほどの小都市でした。しかし、エンジンや機械に欠かせないボール・ベアリングの生産工場が集中して立地しており、この小さな都市で
全ドイツのボール・ベアリングの52%を生産していました。
 この遠距離にある小さな目標は、昼間高々度精密爆撃に適していると判断し、アメリカ陸軍爆撃航空団は、多くの機数が動員できるようになった1943年の8月17日に、この都市への大規模爆撃を実行しました。この日は、敵の迎撃を混乱させるため、レーゲンスブルクとシュヴァインフルトの二つの目標の同時攻撃が行われ、イギリスの基地からレーゲンスブルクへは133機、シュヴァインフルトへは230機が攻撃に向かい、途中からは護衛機なしで、ドイツ中心部奥深くまで侵入しました。

 では、イタリアに基地を置いた第15航空軍は、おもに何を目標としたのでしょうか。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、ヨーロッパ南東部地方(イタリア・旧ユーゴなど)の地図です。第15航空軍はナポリの東、アドリア海岸のバーリに本部を置き、その麾下にある第741爆撃飛行隊の基地のあったチェリニョーラは、バーリの西北にあります。



 正解、目標の第1は精油所第2は鉄道の操車場です。
 イギリスに基地を持つ第8航空軍がルール工業地帯や各地の航空機製造工場などが主目標であったのに対して、
イタリアに基地を置く第15航空軍は、地勢的に、異なった使命を持たされました。
 第一目標の精油所は、オーストリア・南ドイツ・チェコスロバキアなどいくつかの地点にありました。しかし、最大の目標は、第15航空軍が本格的に活動を始めた1943年末当時、ドイツ占領地域・同盟国内にあって、唯一の本格的な油田(ドイツの石油生産の60%を算出)があり、大規模な精油所があった
ルーマニアのプロイェシュティ(プロエスティ)でした。
 前掲書には次のように書かれています。
「 石油はきわめて重要な要素だった。プロイェシュティはいまだに第一の目標とされていた。第15航空軍がここを攻撃していたが、4月の攻勢のあと、ドイツは新しい防衛措置を講じはじめた。少なくともしばらくのあいだ、これは功を奏した。第15航空軍がユーゴスラヴィアを越えてルーマニアに向かってくるのを警告システムが察知すると、ドイツは爆撃機がプロイエシュティ上空にやってくるまでの時間-約40分間- を利用して、精油所の周辺で数百個の発煙筒に火をつけた。したがって爆撃機が目標の上空に達したころには、一帯がほとんど煙におおい隠されていた。対抗措置として、第15航空軍は先頭機にレーダーを搭載し、目標をより精密にとらえようとした。だが、ドイツはさらなる対抗措置として、プロイエシュティ市内とその周辺に対空砲兵中隊を新たに投入し、戦闘機の数も増やした。これにより、プロイェシュティはヨーロッパ大陸で三番目に防衛の堅固な目標地点となった。第二位はウィーンで、ここも精油所の所在地であり、しばしば第15航空軍の攻撃を受けていた。第一位はベルリンである。第15航空軍は新しい技術でこれに対応した。なかでも特筆すべきは、菱形編隊の導入である。これによって爆撃機の安全度が増しただけでなく、攻撃の精密度が大きく向上した。
 1944年7月、第15航空軍は南ヨーロッパに点在する精油所へのたび重なる出撃で、318機の重爆撃機を失った。これは第15航空軍にとって最悪の月となり、第8航空軍よりも高い損害率を計上した。それでも陸軍航空軍は、この攻撃が精油所に大きなダメージを与えていると見ていた。とくにレーダーを使ったことで、煙幕を無効にしたのが大きいと考えていた。結果は期待されていたほど良好ではなかったかもしれないが、それでも十分に華々しかった。この第15航空軍による持続的な攻撃こそが、最終的にプロイェシュティをドイツにとってまったく無用の長物にしたのである。1944年9月までに、第155航空軍から合計59,834名の航空兵がプロイェシュティに飛び、合計13,469トンの爆弾を投下し、350機の重爆撃機を犠牲にした。第15航空軍はプロイェシュティに20回の昼間爆撃を敢行していた。のちの試算によると、これらの攻撃でドイツは180万トン分のガソリンを入手できなくなった。8月30日にソ連の赤軍がプロイェシュティを攻略したとき、ロシア兵はプロイェシュティの精油所がもう操業しておらず、廃墟になっていると報告した。これはまさしく第15航空軍の持続的な作戦行動の成果だった。」(前掲書 P153-155)

 ドイツの生命線を立つべく、石油精製施設への執拗な爆撃が繰り返されたのでした。
 ドイツは、独ソ線を開始すると、黒海とカスピ海の間のコーカサスの油田を目指してソ連領深く侵入しました。しかし、結果的にスターリングラードの攻防戦における敗退によって撤退しました。このため、1943年以降は、ルーマニアの石油がドイツの命運を決する存在となっていました。第二次世界大戦は、
日本もドイツも石油が命取りとなったという点では同じです。
 1944年12月にドイツ軍が起こしたアルデンヌの森の大攻勢(アメリカ軍の名称はバルジ大作戦、映画の名前として有名になりました)でも、燃料の欠乏がドイツ軍を苦しめました。
 もっとも、ドイツは、石炭などからつくる人造石油の精製技術に優れており、1944年8月末にプロイェシュティを失っても、南方石油を失った日本ほどには、急には切迫した状況にはなりませんでした。
  ※岩間敏著『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』(朝日新書 2007年)P148-150

 アンブローズは、陸軍航空軍ヨーロッパ駐留軍の公認の歴史書の最終章、「任務完了」を執筆したW・F・クレイヴンとJ・L・ケートが、戦略爆撃の評価をしている部分を引用して、次のように評価しています。
「クレイヴンとケートはこう述べる。「航空軍がなしとげたことのなかでもっとも大きかったのは、制空権を確保したことである。これによって地上の侵攻が可能になり、重爆撃機が第三帝国の産業を破壊する機会も得られた」。空を制したことの利点は多々あったが、なかでも最も重要だったのは、精油所への戦略爆撃作戦である。「これでドイツ空軍は航空機用のガソリンが得られなくなり、作戦をほとんど実施できなくなった。ドイツの爆撃機は空から消えたも同然だった。戦闘機が連合国軍の航空隊をさえぎろうとしても、つねに無残な結果に終わった」
 1944年4月には、ドイツは十分な石油供給量を確保していた。それから一年のあいだに、第8航空軍は7万トンの爆弾を精油所に落とし、第15航空軍は6万トンを落とした。1945年4月、ドイツの石油生産量は前年の5パーセントに落ち込んでいた。最後にはナチスの最上層部の高官でさえ、自分のリムジンを走らせるためのガソリンが入手できなくなった。ドイツの産業は大きな痛手を受けた。石油施設の防衛と再建に多大な努力が払われたにもかかわらず、産業力はついに回復しなかった。」(P343-345)

 また、第2の目標、
操車場の爆撃についても次のように評価されています。
「戦略爆撃作戦はもう一つ重要な結果をもたらした。こちらの場合は、戦術航空支援も手伝って、輸送に甚大な影響をおよぽしたのである。連合国軍の航空機は、橋梁、幹線道路、トラック、戦車など、あらゆる移動手段を攻撃したが、何よりも大きかったのは、爆撃機が鉄道の操車場を狙ったことだった。1945五年の春にはドイツの輸送システムはすっかり破壊されており、どれほど重要性の高い軍事移動も確実に遂行できるかどうかわからないありさまだった。クレイヴンとケートはこう説明する。「ロシア戦線につながる鉄道拠点への爆撃、ドイツ全土の操車場への攻撃、ヨーロッパ南部の鉄道路線への第15航空軍の出撃などは、いずれもドイツにとって大きな災厄だった。生産しても輸送ができない。分散計画は行き詰まり、ドイツは動きがとれなくなった」
 輸送面での勝利を得るために、航空軍は莫大なコストを支払った。第8航空軍は、全爆弾の三分の一にあたる235,312トンを操車場に投下した。第15航空軍は、全爆弾の約半分にあたる149,476トンを操車場に投下したのだ。」

 日本の場合は、海運が重要だったので、アメリカは海上輸送の壊滅を図りましたが、ドイツのような内陸国の場合は、目標は鉄道輸送でした。その象徴が
操車場の爆撃だったというわけです。
  ※
操車場という言葉も、現代日本では、もう「死語」になっているかもしれません。(^_^)
   よくわからないという人は、こちらをどうぞ。 岐阜県の東海道線あれこれ「岐阜貨物ターミナル2 国鉄の苦闘」

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 3 参考文献から確認できたあまり知られていない真実

 この参考文献、スティーブン E・アンブローズ著鈴木主税訳『ワイルド・ブルー』(アスペクト 2002年)からは、上記のほかにも、これまで日本ではあまり知られていない、B24爆撃隊の真実をいくつか確認できます。以下に説明します。


 1 コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機の製造機数について(P95-98)
 

 B24は上記引用書によれば、操縦が難しく居住性は悪いとされていますが、B17爆撃機より航続距離は長い上に、爆弾積載量も多く、ヨーロッパ戦線でも太平洋戦線でも重用されました。この結果その製造機数は、総計18181機となりました。これは、アメリカのこれまでのすべての軍用機、戦闘機も含めたすべての中で、一番多い製造機数です。ちなみに、戦闘機の中で一番多いのは、チャンス・ボートF4Uコルセア12,571機です。 


 2 アメリカの航空兵力の育成について(P44-45、88、96)
 

 マクガヴァン氏は、1922年7月19日の生まれであり、1941年12月7日の真珠湾攻撃のニュースを聞いた時は19歳の大学生でしたが、10人の学友とともに陸軍航空隊に志願しました。
 アメリカ軍は、強力な航空兵力を作り上げますが、それはすべて志願によるもので、徴兵制によるものではありませんでした。ある意味では、
真珠湾の攻撃が自発的にアメリカの若者を戦争へ駆り立てたのでした。
 ただし、アメリカ陸軍側には、志願者をすぐに訓練するだけの準備がなく、マクガヴァン氏はしばらくそのまま学生を続けました。彼が陸軍に正式に入隊するのは1943年2月のことです。日米開戦から1年3ヶ月後、太平洋戦線では、ガダルカナル島から日本軍が撤退する時期です。
 この時点では、訓練システムがおおむね整ってきており、彼も、イタリアに派遣される1944年9月までの1年半の間、十分に訓練を受けました。
「 第二次世界大戦中の陸軍航空軍は、世界のどの空軍よりも大がかりに新兵を集め、訓練をほどこした。訓練の内容は非の打ち所がなかった。戦闘にでる前に、アメリカの航空隊員は平均360時間の飛行をこなした。ドイツの操縦士や航空機乗組員は、平均110時間である。日本、イタリア、ロシアは、それよりもさらに少なかった。この三倍以上にもなるアメリカ兵の飛行経験は、航空戦が職烈をきわめた1944年から45年にかけて、戦闘の結果にはっきりとあらわれることになった。」
 また、直接戦闘に従事する以外の人員についても、アメリカは日本とは比べものにならない力を発揮しました。
「アメリカはジェット機や誘導ミサイルの面ではドイツよりずっと遅れていたが、重爆撃機と輸送機の面ではどこにも負けなかった。それに数の上でも勝っていた。
 1939年、陸軍航空軍の保有する航空機は1700機、将校は1600人だった。1941年にローズヴエルト大統領が年間5万機の航空機製造を命じたとき、人びとは驚き呆れたものだが、1944年3月には一カ月に9000機以上、年間で11万機が製造されるようになっていた。アメリカが製造した航空機の総数は、イギリス、ソ連、ドイツ、日本を合わせた数にほぼ匹敵し、機体の総重量では大きく上回っていた。1945年3月までに、アメリカは合計7177機の爆撃機をヨーロッパでの戦闘任務に、また数千機を太平洋での戦闘任務に投入できるようになっていた。
 これらの飛行機を飛ばしつづけるために、陸軍航空軍は操縦士一人につき7人の地上要員を用意した。戦時中、整備コースだけで70万人が卒業し、民間人を主とする事務員、電話交換手、その他のサポート人員は、100万人以上に達した。その半数は女性で、多くはアフリカ系アメリカ人で、なかには身体障害者も含まれていた。」 


 3 爆撃任務回数について(P108、141-41)
 

 アメリカ軍は、一定の出撃回数を果たせば、その将兵は本国へ帰還できるという仕組みを作っていました。玉砕もしくは転進・撤退する以外には本国へ帰る術がなかった日本軍の将兵とは大きな違いです。
 その「任務飛行」の回数は、
最初は25回であり、映画『メンフィス・ベル』の元となったクルーたちは25回の飛行のあと本国へ帰還しました。
 しかし、そののち
任務飛行回数は35回に引き上げられました。日本を空襲したB29は、戦闘機が追いつけず、高射砲の弾の届かない高々度から爆撃を行ったのに対して、B17やB24の場合は、機体には機密性がなく、いわば吹きさらしとなっており、最高でも7500m前後の高度からの爆撃をおこないました。そのため、数の多いドイツ軍の高射砲によって多くの犠牲が出ました。このため、第8航空軍の場合、平均すると1回の出撃で4%の犠牲(戦死または行方不明)が生じました。この損害率では、100機の爆撃機がそのまま出撃を続けるとすると、17回目の出撃では残存機数は50機を切ってしまいます。第8航空軍の平均任務回数は、14.72回でした。
 簡単には、35回の任務回数を終えることはできなかったことになります。
 


【参考文献】 このページの記述には、次の文献・資料を参考にしました。

  スティーブン E・アンブローズ著鈴木主税訳『ワイルド・ブルー』(アスペクト 2002年)
  岩間敏著『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』(朝日新書 2007年) 
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