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 連合軍のドイツ本土爆撃とは  11/04/25記述 11/04/29追加 11/06/11・2/03/19再追加

 ロンドンのイギリス空軍博物館(RAFmuseum)の紹介も、このページで3ページ目となりました。
 今回は、「
連合国軍のドイツ本土爆撃」についての展示を紹介します。これは、日本の高校の教科書には掲載されていない事項ですので、よほど第二次世界大戦のことに興味があるか、または、下に示したような映画を見たことのある少々年配の方以外は、多くの方はご存じない事実と思われます。
 実は、私もこのことについては、ずっと以前から詳しく知っていたわけではありません。
 私がこの連合国軍によるドイツ本土爆撃ということに特に強い関心を抱いたのは、数年前に、
大内建二氏の著書『ドイツ本土戦略爆撃 都市はすべて壊滅状態となった』(光人社NF文庫 2006年 参考文献1)を読んだことがきっかけとなっています。また、その中に書かれていたドイツの都市ドレスデンの爆撃について、それをテーマにしたドイツ映画『ドレスデン 運命の日』(2006年製作、監督ドイツ人ローランド・ズゾ・リヒター)を深夜のテレビ放映で偶然に見たことも、このテーマに関する感心を一層強めました。
 2010年11月のイギリス研修に行く前に、上記の本と映画を見た結果、ページ12→の「母が作った部品が使われているかもしれない大日本帝国陸軍戦闘機五式戦」を見たいという理由と重なって、自由研修の時間にあえて
イギリス空軍博物館に見学に行ったわけです。
 このテーマは、小さな事実ではありません。何百万人もの人が関わった事件です。それだからこそ、あえてこのHPに記載し、伝える価値があろうかと思います。

 このことについて、イギリスの教科書にはどのくらいの記述があるのでしょうか?実は、イギリスの教科書にも、前ページで紹介した「Battle of Britain」に比べると、同じ教科書でもほんの僅かしか記載されていません。以下のとおりです。(赤字は引用者がほどこしました。以下同じです。)

「1943年の夏に、英米連合軍はシチリアを占領し、イタリアに侵入した。ムッソリーニは彼らが到着する前に倒されていたい。そして新しいイタリア政府は戦いを投げ出した。だがドイツ軍は直ちにイタリアを占拠し、執拗な抵抗をくり広げた。ほかのところでは事態はヒトラーにとって悪くなる一方であった。連合側の爆撃は多くのドイツの都市を廃墟と変えた。ロシア人はその年のはじめにスターリングラードで大勝利を博して、いまや攻勢に転じた。大西洋におけるドイツ潜水艦の脅威すら克服されつつあった。」

参考文献2 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスW』P291

 これは、都市無差別爆撃をを行ったという事実をあまり宣伝したくない、教科書で次世代に伝えたくない、という心理も働いているのかも知れません。
 アメリカの高校の教科書には、もっと詳しく書いてあります。高校の教科書の一つからの引用です。(訳及び訳注は引用者によります。)

「空の戦い
 連合軍が1944年にフランスに上陸してゆっくりと前進をしている間に、ドイツはすでに空の戦いにおいては連合軍に屈服していた。
 真珠湾の奇襲攻撃はアメリカ人に衝撃を与え、自分たちは新しい戦争タイプの戦争に直面していると実感させた。この戦争では戦場は至る所へ広がった。市民といえども空襲の恐怖から隠れる場所はなかった。軍用機は高空から爆撃し、それは地上から見ることも爆音を聞くこともほとんどできない間に住宅地や工場に打撃を与えた。
 イギリスは、1941年からドイツ空襲を開始し、その年に46,000トンの爆弾を落とした。イギリス空軍の爆撃機はドイツ
夜間爆撃し、地域一帯に大量の爆弾を浴びせた。(訳注:いわゆる無差別絨毯爆撃)結果的に爆撃は都市全体を焼き尽くした。夜間爆撃機は地上からは目視できなかったので、イギリス空軍爆撃機の被害は相対的には少なかった。イギリス空軍は、都市の破壊によって組織的な生産活動を破壊、市民の戦争継続意欲の喪失によってドイツ陸軍が打ち負かされる前にナチス・ドイツを降伏へ追い込むことを期待していた。
 アメリカ陸軍航空隊は1942年8月に最初の空襲を行った。アメリカ軍はイギリス軍とは違い、
昼間の精密爆撃を実施した。爆撃隊は目標を目視し、その重要な工場に照準を合わせて爆撃し、それが成功したかどうかを確認した。しかし、昼間爆撃はドイツ空軍の戦闘機に狙われることにもなった。アメリカ軍の主力爆撃機であったB17フライング・フォートレス(空の要塞)は、多くの機関銃を持った重武装の爆撃機であったため、ドイツ軍機の襲来を防ぐことができると考えていた。しかし、実際には、ドイツ軍戦闘機の攻撃の前に、多くのアメリカ軍爆撃機が犠牲となった。これに対応するため、アメリカ軍は新しい航続距離が長い戦闘機(訳注:P51ムスタング)を開発・配備し、このためアメリカ軍は昼間精密爆撃を続けることができた。すぐに、ドイツは昼となく夜となく、爆弾の雨を降らされることになったのである。」

参考文献3 D・J・Boorstin、B・M・Kelley著『A History Of The United States』P687−688

 では、これらについて、上記の大内建二氏の著書を参考に、イギリス空軍博物館の展示写真を紹介しながら、以下説明を進めていきます。、  

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 最初にいきなり連合国軍のドイツ本土爆撃を扱った映画(DVD)を紹介します。

 写真14−01 DVD「頭上の敵機」普通の書店で購入

 写真14−02  DVD「メンフィス・ベル」レンタル品

 連合国軍のドイツ本土爆撃をテーマにした映画と言えば、古くは、左の二十世紀フォックス製作の「頭上の敵機」です。これは原題名を「12 o’clock high」と言います。この原題の意味は、軍隊用語で「12時方向上空(に敵機)」という意味です。イギリスに進出してドイツ爆撃を行ったアメリカ陸軍爆撃航空団の物語です。製作は1949年で、主演はグレゴリー・ペックです。
 戦後直後に作成された映画なので、作品中に盛り込まれた戦闘シーンは、すべてアメリカ軍またはドイツ軍による実写フィルムです。
アメリカ陸軍第8航空軍は1942年8月からイギリス各地に展開し、フランス爆撃を開始しますが、この映画は1942年後半の様子を描いたもので、イギリス中部、マンチェスターとバーミンガムの間にある「アーチベリー基地に駐屯していた第918爆撃隊」が主役となっています。
 ただし、戦争映画というよりは、爆撃隊という組織を司令官がどのように指揮して成長させ目標を達成するかという映画になっていて、単なる戦争映画以上に見応えがあります。
 この作品は、1964年からTV映画化され、私自身は、このTVドラマは小学生の時に見た記憶があります。

 また、右は1990年のワーナー・ブラザーズ映画「
メンフィス・ベル」です。
 これは、1942年からイギリスに派遣されたアメリカ陸軍第8航空団では、25回の爆撃に従事した隊員は本国へ帰還できるというルールがあり、それを達成したメンフィス・ベル号の最後の出撃を描いた物語です。1943年5月17日に、乗務員は25回目の出撃・爆撃に成功し、苦労の上無事帰還しました。盛大な歓迎会が行われ、乗務員は、国民に戦時国債を購入させるためのキャンペーンに貢献しました。
 ちょっと脱線しますが、サイパン島などマリアナ諸島からのB29爆撃機による日本本土爆撃においては、30回の爆撃を行うと、本国帰還となりました。メンフィス・ベルのクルー同様、帰国後は熱烈な歓迎を受けました。ただし、最初のいくつかのクルーが帰国してからは、30回が35回に引き上げられました。
  ※参考文献8 チェスター・マーシャル著高木晃治訳『B−29日本爆撃30回の実録』P262−265
 
 この二つは、ドイツ本土爆撃を描いてはいますが、いずれもアメリカ陸軍航空隊を描いたもので、イギリス空軍を描いたものではありません。
 そういう意味では、以下の
RAFmuseumの内容は、日本ではあまり知られていない内容となります。

 なお、以下の説明では、このテーマに関係するほかの映画、上で紹介したドイツ映画『
ドレスデン』と、イギリス映画『暁の出撃 Tha Dum Busters』(1955年日本公開)にも触れます。 


 爆撃の規模と概要    | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 まずは爆撃の規模です。
 アメリカ軍による日本本土爆撃と比較すると、イギリス軍・アメリカ軍のドイツ本土爆撃は次のようになります。


 ドイツ本土爆撃は、参加機数・爆撃期間・投下爆弾焼夷弾量のどれをとっても、日本本土爆撃よりも大規模なものであったことが分かります。
 投下された爆弾や焼夷弾量は、平均するとドイツ本国の国土一平方キロメートル当たり4.6トンにあたります。英米空軍が使用した平均的な爆弾である500ポンド爆弾(キログラムに換算すると227kgの重量の爆弾)に置き換えれば、全国土にくまなく、一平方キロメートル当たり20発の爆弾が投下されたことになります。

「その結果、戦争が終結したときドイツ本土は山林や農地、あるいは山岳地帯を除くおおよそ人間が住むべき可能性がある土地のほとんどは爆撃の被害を被り、都市のほとんどは壊滅状態になっていたのであった。事実1945年2月の時点でイギリス爆撃航空団は攻撃すべき都市という都市のすべてを爆撃しつくし、都市爆撃の終了を宣言したほどであった。」

参考文献1 大内建二著『ドイツ本土戦略爆撃 都市はすべて壊滅状態となった』P5−6

 もちろん、それだけの「戦果」をあげるためには、英米爆撃隊の側にも、大きな犠牲が生じていました。
 イギリス空軍博物館にドイツ本土爆撃に関する広大な展示アエリアがあるのは、その両方の意味を反映しての結果です。日本人にはあまり知られていない
ドイツ本土爆撃は、イギリス空軍にとっては、第二次世界大戦中の特筆すべき「物語」の一つなのです。 

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 写真14−03   アブロ・ランカスター爆撃               (撮影日 10/11/16)

 イギリス空軍爆撃航空団の中心機種となったアヴロ・ランカスター爆撃機(全幅31.10m、全長21.18m。1640馬力のロールスロイス・マーリン24エンジン4基搭載)。
 イギリス空軍博物館の爆撃機のエリアの中央に「主役」として展示されています。フロアーはとても広いのですが、大きな爆撃機が何機も所狭しと展示されていますので、とても、1機全体を丸ごと撮影できるような撮影ポイントはありません。しかも照明の明るさも今ひとつで、あまりいい写真ではありません。悪しからず。
 操縦席の下の部分に、黄色い模様が見えますが、これについてはあとで拡大して説明します。


 それでは、英米爆撃機による正味5年のドイツ本土爆撃の期間には、具体的にはどのような出来事があったのでしょうか。
 次に年表で概要を把握します。



 ここで重要なのは、イギリス・アメリカ両国の戦略爆撃に対する指向とその実現のための爆撃機開発の歴史です。
 戦争が起こった場合、敵国の国民の士気を挫き、生産体制を崩壊に導くために戦略爆撃を実施するという発想とそれの具体化に向けての準備は、第二次世界大戦勃発時においては、イギリス空軍で一番明確になっていました。
 もともとイギリスは、第一次世界大戦終了半年前の1918年5月に陸軍の航空部隊を独立させて空軍としており、イギリス空軍としては独立の軍としてその存在価値を示すという点からも、戦略爆撃は重要な計画でした。
 前のページで詳述したように、ドイツのイギリス本土爆撃そのものにも、「イギリスを屈服させる」という戦略爆撃的な要素がありました。
 しかし、この戦略爆撃を本当に効果的に実施するためには、それなりの爆撃機が必要でした。ドイツのイギリス本土爆撃は、ハインケルHe111爆撃機を中心として、爆弾搭載量1〜2トン程度の双発爆撃機が中心であり、この点で2つの限界がありました。一つは、この程度の爆撃機では、たとえ数百機を投入しても投下爆弾量はかぎられたものであった点です。二つ目は、双発爆撃機では自機の防御力が弱く、たとえ護衛戦闘機が付いていたとしても、大きな犠牲が出るという点です。これは日本陸海軍の陸上攻撃機に関しても同じでした。
 
イギリス空軍爆撃航空団も、当初はヴィッカース・ウエリントン双発爆撃などドイツと同じ双発機による爆撃隊しか保有していませんでした。ウエリントン爆撃機は、爆弾1.8トンを搭載した場合、航続距離は2000kmと、ドイツの双発爆撃機を僅かに上回る程度の性能でした。
 したがって、Battle of Britain以後、防御から攻勢に転じた時点でも、最初は双発爆撃機中心のドイツ本土爆撃であり、その効果は限定的でした。
 しかし、イギリス空軍は、すでに1935年から36年にかけて4発エンジンの戦略爆撃機の開発を始めており、これが、1941年から次々と実戦配備となりました。それが、
ショート・スターリングハンドレページ・ハリファックスアヴロ・ランカスターです。1941年からこれらが実戦配備されると、イギリス空軍爆撃航空団は、しだいに本当の戦略爆撃隊の能力を備えていきました。


 写真14−04    ヴィッカース・ウエリントン双発爆撃機3型の模型        (撮影日 10/11/16)

 イギリス空軍爆撃航空団の大戦中前半期の主役爆撃機。後半はドイツ本土爆撃の主役を以下に示す4発爆撃機に譲りましたが、対Uボート戦などに活躍しました。


 写真14−05  ショート・スターリング4発爆撃機1型           (撮影日 10/11/16)

 爆弾搭載量5,900kg。イギリスの4発爆撃機としては一番早く実戦配備されました。1941年2月のオランダのロッテルダム爆撃が初仕事となりました。ただし、航続距離・爆弾搭載量等の性能があとで登場した二つの4発爆撃機より劣り、1944年以降は、主役の座から降りました。


 写真14−06   ハンドレページ・ハリファックス3型模型             (撮影日 10/11/16)

 初出撃は、1941年3月、フランスのル・アーブル港爆撃。次のアブロ・ランカスターとともにイギリス爆撃航空団の中心機となりました。


 写真14−07  アブロ・ランカスター1型模型              (撮影日 10/11/16)

 アブロ社は戦略爆撃機として当初、大型エンジン2基を取り付けた戦略爆撃機、アブロ・マンチェスターを開発していました。しかし、大型エンジンの不具合から失敗に終わり、これに代わるものとして、通常エンジンを4発搭載する爆撃機に変更しました。
 これが、このアブロ・ランカスターです。最大爆弾搭載量は10トンにも及び、イギリス爆撃航空団の夜間都市絨毯爆撃の主役となりました。初出撃は、1942年3月のエッセン市夜間空襲です。合計7366機が生産され、大戦終了直前の1945年4月の時点では、1374機がドイツ本土爆撃用に配備されていました。


  写真14−08・09 イギリス軍の爆弾             (撮影日 10/11/16)
 左:上の小型のものは最も一般に使われた、500ポンド爆弾(227kg)。下の大型のものは、4000ポンド爆弾(1816kg)。
  4000ポンドの大型爆弾は、街区殲滅爆弾とも呼ばれ、爆風で街区を破壊する爆弾として用いられた。このあと、焼夷弾がまかれ、建物の炎上を促した。
 右:中央の爆弾は、「target indicate」爆弾と呼ばれるもので、爆撃機編隊の本隊より先に、高速のモスキート爆撃が目標に接近し、投下したもの。小さな爆弾の集合体で、ひとつひとつは、赤・緑などの異なった色の炎を上げ、後から続く爆撃機本体の爆撃投下エリアを明示した。
 このほかにも、焼夷弾にも様々な工夫がなされた。
  


 一方、アメリカの陸軍航空隊爆撃航空団は、イギリス空軍とは異なり、独立した軍とはなっておらず、戦略爆撃に対する明確な指向もありませんでした。
 しかし、ヨーロッパ状勢が不安となると、1930年代前半から長距離大型爆撃機の開発を始め、イギリスより早く、4発爆撃機を保有しました。これが、
ボーイングB17フライング・フォートレス爆撃機です。
 また、政府の開発計画とは別に、航空機生産会社の独自の発想で開発された爆撃機として、
コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機が1年遅れて実用化されていました。 


 写真14−10     アメリカ陸軍爆撃航空団ボーイングB17爆撃機            (撮影日 10/11/16)

 最初の実戦型、B17C型の完成は、1940年7月でした。
 この爆撃機も、全体像を写真に収めることはできません。この機は機首下に旋回機銃が装備されていますので、1943年後半に登場したG型と考えられます。


 写真14−11 B17機首下の機銃(撮影日 10/11/16)

 写真14−12  尾部の機銃 (撮影日 10/11/16)

 写真14−13     機体の後半分                   (撮影日 10/11/16)

 星のマークの右には、四角い窓が開いています。ここは、左と右の側方の機銃手の持ち場です。B17は高々度飛行が可能でしたが、機体そのものは機密与圧室構造ではありませんでした。乗組員は、高度での寒さに耐えるため、電熱服を着て戦闘を行いました。


 写真14−14    コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機模型            (撮影日 10/11/13)

 こちらは、リヴァプール・マージーサイド海洋博物館の展示模型です。戦略爆撃用ではなく、対Uボート作戦用の仕様です。
 実戦型の完成は、B17より1年遅く、1941年7月です。


 写真14−15    コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機首部            (撮影日 10/11/16)

 コンソリデーテッド社はもともと飛行艇の製造会社であり、この機も、翼が上部に付いていることや、機体下部の構造などに飛行艇の形状を受け継いでいることが分かります。航続距離はB17より上回っていました。この利点が認められ、ドイツ本土爆撃以外にも地中海、太平洋方面で幅広く活躍し、生産機数も18181機を数えました。この機数は、ソ連のシュトルモヴィック対地攻撃機の3万6000機についで、軍用機生産機数の世界第2位です。

【追加記述】 
 2012年3月19日 コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃の活躍について文献を「発掘」しました。→こちらへ
 


 イギリス空軍とアメリカ陸軍航空団の違い | 先頭へ ||研修記目次へ

 上表のように、イギリス空軍爆撃航空団は1940年から、アメリカ陸軍爆撃航空団は、遅れて1943年から、爆撃機をドイツ本土へ送りはじめました。当初は、イギリス軍の爆撃機は双発のウエリントンを中心とするものであり、両軍とも4発爆撃機を多数保有して本格的な爆撃を実施するのは、1943年の後半になってからです。
 この段階においてはは、イギリス空軍爆撃航空団とアメリカ陸軍爆撃航空団との相違も明白になっていました。
 まとめると、次の表のようになります。



 アメリカ陸軍爆撃航空団は、当初は護衛戦闘機がない中でも、重武装と高々度を利用した昼間精密爆撃に活路を見出し、戦争終了までこれを続けました。
 その典型例が、1943年の
シュヴァインフルト爆撃です。
 ドイツ南部のバイエルン地方の北部にあるこの都市は、人口は、僅か4万人ほどの小都市でした。しかし、エンジンや機械に欠かせないボール・ベアリングの生産工場が集中して立地しており、この小さな都市で
全ドイツのボール・ベアリングの52%を生産していました。
 この遠距離にある小さな目標は、昼間高々度精密爆撃に適しているとして、アメリカ陸軍爆撃航空団は、多くの機数が動員できるようになった1943年の8月17日に実行されました。この日は、敵の迎撃を混乱させるため、レーゲンスブルクとシュヴァインフルトの二つの目標の同時攻撃が行われ、レーゲンスブルクへは133機、シュヴァインフルトへは230機が攻撃に向かい、途中からは護衛機なしで、ドイツ中心部まで飛行しました。
 この爆撃では、一定の成果は上がりましたが、大きな打撃を与えることはできず、それとは反対に、合計出撃機363機のうち、実に60機が失われ、未帰還率は16.5%と高いものになりました。
 ドイツは、首都ベルリンやルール地方の工業都市などに対する爆撃に対しては、高射砲群と迎撃戦闘機群を多数配置し、懸命の反撃を行いました。4発爆撃機上には10ほどの乗員が搭乗しており、表にあるように、多くの爆撃機が失われ、あげた戦果に対して払った犠牲もまた大きいものとなりました。 




 写真14−16  アメリカ陸軍戦闘機P47サンダーボルト         (撮影日 10/11/16)

 1943年6月に 登場した当時は、爆撃機を護衛できる行動半径は僅かに370kmでしたが、直ぐに増槽(翼に取り付ける落下型燃料タンク)を付けた型が登場し、行動半径は600kmに増加し、ルール工業地帯爆撃までは護衛できるようになりました。


 写真14−17   アメリカ陸軍戦闘機P51ムスタング           (撮影日 10/11/16)

 1943年12月にヨーロッパ戦線に登場。行動半径は一気に960kmにまで増加し、イギリス本土からベルリンまでの護衛が可能となりました。


 イギリス空軍爆撃航空団は、アメリカ爆撃機より圧倒的に多い爆弾搭載量を利用して、特定の目標に限定しない、エリア全体を無差別に爆撃する方法をとりました。
 表27にある1943年7月下旬から8月上旬にかけてのハンブルク大空襲がその典型例です。ハンブルクは11日間に5回の大空襲を受けました。来襲した爆撃機数は、7月24日の740機を最高に
延べ2865機、投下爆弾・焼夷弾量は9185トンに上りました。
 この爆撃によって、ハンブルク市内には無数の火災が発生し、投下され続ける爆弾と焼夷弾によって、これらの火災はさらに大規模に成長し
ハンブルク市全体を覆う一つの巨大な火災(火柱)に成長しました。火柱には周囲から嵐のような猛烈な風が吹いて空気が供給され、さらに燃焼が進むという循環の繰り返しで、火柱はどんどん大きくなっていきました。このような状態は、のち「火災嵐」が生じていると表現されました。この結果、ハンブルクは中心部から周辺部へかけて壊滅状態となり、市民4万2000人が犠牲となりました。
 もっともこのようなことが起こっていたというのは、戦後の分析によって判明したことです。この火災現象には、
ハンブルク効果という名前でも呼ばれるようになりました。
 1945年3月9日から10日へかけての
東京大空襲(襲来機数、B29が279機、投下焼夷弾量1,535トン)でも、この火災嵐が生じたと考えられます。


 写真14−18  ドイツ双発戦闘機、メッサーシュミットBf110。              (撮影日 10/11/16)

 この双発戦闘機は、開戦当初はポーランドやフランスの戦闘機相手に奮戦し、大きな期待を寄せられました。しかし、Battle of Britainでは、その鈍重な行動性のため、イギリス軍のスピットファイアーやホーカー・ハリケーンの敵ではありませんでした。「戦闘機なのに戦闘機の護衛が必要」と酷評されています。
 ところが、ドイツ本土では、別の活躍の場が待っていました。


 写真14−19・20 レーダーを装備したドイツ軍夜間戦闘機。  (撮影日 10/11/16)

 いずれも機首にイギリス爆撃機を探知するレーダーを取り付けたドイツ軍夜間戦闘機です。
 左は、
ユンカースJu88夜間戦闘機。最初のレーダーである、リヒテンシュタイン・レーダーを装備しています。
 リヒテンシュタイン・レーダーを装備した夜間戦闘機による最初の戦果は、1941年8月に記録されました。
 その後大量に生産するまで時間がかかり、1942年の秋に、夜間戦闘機への装着が進みました。これにより、夜間といえどもイギリス爆撃はドイツ戦闘機による被害が増大しました。
 ドイツ軍側には、イギリス軍爆撃機を何十機も撃墜する夜間戦闘機の「エース」が現れます。
  ※参考文献6 W・ヨーネン著渡辺洋二訳『ドイツ夜間防空戦 野戦のエースの回想』P72−84

 右の写真は、上の写真14−16と同じ、
メッサーシュミットBf110の機首のアップです。左の写真のレーダーとは形状が異なる、リヒテンシュタイン・レーダーの改良型であるSN-2大型レーダーを装備しています。

 これに対して、イギリス軍は、本来爆撃として開発した双発機デハビラント・モスキートにレーダーを装備して夜間戦闘機としました。この機は、メッサーシュミットBf110よりは最高時速で200kmも上回る高性能であったため、爆撃隊の護衛用として活躍し、ドイツ夜間戦闘機の強敵となりました。
 

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 写真14−21  モスキート双発爆撃機模型            (撮影日 10/11/16)

 当初は0.8トン、後には1.8トンの爆弾を搭載し、どのドイツ軍戦闘機よりも高速の時速635kmを誇った。爆撃隊の先導機、パス・ファインダーを務めたほか、高速のため、夜間戦闘機にも転用されました。


 写真14−22  たくさんの出撃マークを付けたアブロ・ランカスター爆撃機         (撮影日 10/11/16)

 写真14−03の爆撃機の機種のアップ写真です。
 ランカスター爆撃機は迎撃戦闘機の攻撃にも打たれ強く頑丈な構造であったために、多数回の出撃を記録した機もたくさん現れました。ドイツ本土爆撃に出撃した回数が100回以上となる機が実に27機に達しました。
 最高は、第103飛行中隊所属の機で、140回の出撃を数えました。
 写真の展示機は、137個の出撃マークが付いています。
 イギリス爆撃隊の隊員は、30回の爆撃を終えると、任務から解放されました。しかし、未帰還率平均は2.8%であり、3分の2近くは、30回の爆撃を終えて任務から解放されることができずに戦死または捕虜となりました。

 また、ランカスター爆撃機は、その爆弾搭載量の多さを利用して、1943年5月16日の夜に、
ルール地方のダムを10トン爆弾で破壊するという作戦を決行し、成功させました。
 これは、ルールの戦いの一つとして立案された作戦です。厚いコンクリートで作られたダムを、10トンの特殊な爆弾をダム湖の方角から投下し、飛び石の原理で湖面を跳ねさせてダム壁にまで至らせ、ダム壁の内側下に沈めて爆発させると、地震の振動波の原理で直接コンクリートを破壊するとは異なった作用でダム壁が崩壊するという計算のもとで実施されました。この奇想天外な作戦では、見事にメーネダムとエーデルダムの破壊に成功しました。
 これを描いた映画が、上で触れた、イギリス映画『
暁の出撃 Tha Dam Busters』(1955年日本公開)です。


 写真14−23 DVD「暁の出撃 The dam Busters 
 1954年の製作されたイギリス映画で、監督はミッシェル・アンダーソンです。イギリス航空省、イギリス空軍、アブロ社(ランカスター爆撃機の製造会社)等の全面的協力によって作られました。
 前半の主役は、この爆撃理論と方法を発明した、ヴィッカース社のウォリス技師でです。
 そして半ば以降の主役は、ダム爆撃という特殊任務を遂行する中隊長ギブソン中佐です。
 18mの低高度飛行、湖面を飛び跳ねる爆弾の開発などいろいろ難問はありましたが、見事クリアして出撃にこぎ着けます。
 ランカスター4発重爆撃機の低空飛行場面は迫力満点です。ダム破壊に成功しますが爆撃隊の犠牲もまた大きいものでした。


 ドレスデン爆撃と無差別爆撃への疑問 | 先頭へ ||研修記目次へ

 イギリス軍の都市無差別爆撃に対しては、日本本土への同様な爆撃や、原爆の投下についてと同じく、本当に必要な爆撃だったのかという疑問が呈されています。
 「ナチスドイツは侵略者、虐殺者。だからどのような手段を講じても破滅追い込むべき」という一般的な論理とは別に、「正義の勝者であれば何をしてもよかったのか」という視点からこのドイツ本土爆撃を考えると、この爆撃には「勝者の奢り」としか考えられない都市爆撃が存在します。
 比較的大きな都市に対するものでは、ドイツ東部の古都、
ドレスデンに対する爆撃です。


 ドレスデンは、ベルリンの南180km程のところにある、ザクセン地方の古都です。神聖ローマ帝国時代以来のザクセン選帝侯の宮都として栄えた町です。現在はザクセン州の州都です。日本で言うと、京都・奈良といった感じの古い町だそうです。
 この町は、取り立てて産業が発達しているわけではなく、爆撃の目標も存在しなかったので、ドイツの町のほとんどが空襲を受けた1945年2月の段階でも、まだ爆撃を受けずに残っていました。
 この段階では、すでに東部戦線でのドイツ軍の崩壊は目前に迫っており、町は、東方から逃げ延びてきたドイツ人避難民で公園や空き地はごった返していました。
 そこへ、イギリス軍とアメリカ軍が共同で大空襲を敢行したのです。
 2月13日の深夜、イギリス空軍爆撃航空団の
ランカスター爆撃機244機の大編隊がドレスデン上空に現れました。この時点では、すでにドイツ空軍の迎撃部隊も崩壊に瀕しており、ドイツ東部までの爆撃行でしたが、1943年や44年前半の段階とは違って、ほとんど抵抗はなく、爆撃隊は十分にねらいを付けて合計1340トンの爆弾と焼夷弾を投下しました。
 空襲はこれだけでは終わりませんでした。
 翌2月14日になった午前1時過ぎ、第二波の
ランカスター爆撃機529機が襲来し、合計2910トンの爆弾や焼夷弾を投下しました。
 さらにその日の昼の12時過ぎ、今度はアメリカ陸軍爆撃航空団の
B17爆撃機311機が襲来し、合計780トンの爆弾を投下しました。
 この連続の空襲によって、
総計1084機から5030トンの爆弾や焼夷弾(1945年3月9日の東京空襲の3倍以上)の投下を受けたドレスデン市には、市の中心部は大火災となり、ハンブルク同様に火災嵐が発生し、多くの住民を焼き尽くしました。公式発表ではドレスデンの犠牲者は4万人以上とされていますが、これにはこの都市の居住者ではない上述の避難民の多くは含まれておらず、それ以上誰が犠牲となったか分からない状態となっています。戦後の別の調査では、犠牲者総合計は、13万5000人以上という説もあります。
  ※参考文献1 大内建二著『ドイツ本土戦略爆撃 都市はすべて壊滅状態となった』P313
 
 この数字が本当なら、通常爆弾で、広島原子爆弾並の犠牲者が生じたことになります。
 ちなみに、この両日の爆撃行に参加したイギリス・アメリカ爆撃機のうちの未帰還機は、僅か8機でした。

 これらのドイツ本土都市爆撃については、チャーチル自身も、疑問を感じていました。1945年3月28日に連合国軍幕僚長たちに当てて次のように書簡を送っています。
「現在のドイツ都市への爆撃は、別の口実のもとで行われているものの、じつはたんに恐怖を煽るためのものとなっている。私にはこの問題を再考すべき時が来たように思える。」
  ※参考文献4 イェルク・フリードリヒ著香月恵里訳『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』P134

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 ドレスデン空襲から10日後の1945年2月23日、今度は、ドイツ中部の小さな町、プフォルツハイムが犠牲になりました。ここでも火災嵐が発生し、人口僅か6万5千の町で犠牲者は、2万277人に上りました。
 「1945年1月から5月までの最終の期間、
ほとんど軍事目的のない殺戮のローラーが、攻撃側が危険に晒されることなく今一度ドイツを蹂躙した。」
  ※参考文献4 イェルク・フリードリヒ著香月恵里訳『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』P82

 この「
殺戮のローラー」は正義と言えたのかどうか?それとも戦争には、正義もへったくれもないものなのか? 


 写真14−24 DVD「ドレスデン 運命の日 
 ドレスデン空襲の様子を描いたドイツ人監督ローランド・ズゾ・リヒターによる、2006年製作の映画です。
 ただの空襲映画に終わらないように、イギリス空軍のランカスター爆撃機の搭乗員が乗機の撃墜によって落下傘降下し、ドレスデンの病院のドイツ人看護婦がこれを助けるという恋愛ドラマも含んだ物語になっています。
 爆撃当日、地下室に逃げてかろうじて生き延びた二人が、翌朝見たものは・・・・。
 ランカスター爆撃機の出撃シーンや爆弾投下シーンも出てきます。当たり前ですが、ドイツ人役はちゃんとドイツ語を、イギリス人役はちゃんと英語を話しています。
 イギリス空軍爆撃航空団のハリス司令官も登場します。
 是非、DVDで見ていただきたい映画です。 


 【追加記述】 11/06/11追加 面白い本を見つけました! 

 イギリスで少年・少女向けに書かれたドイツ本土爆撃をテーマにした面白い本を見つけました。
 ロバート・ウェストール著金原瑞人訳『ブラッカムの爆撃機』(岩波書店 2006年)です。
 これは、このページでは、写真を紹介していないイギリス空軍の双発爆撃機、ヴィッカース・ウェリントンの乗員を描いたもので、ミステリアスな筋立ての中で、イギリスやドイツの若者がいかに過酷な戦いを経験したかを描いたものです。
 ほかの会社の版もありますが、岩波書店版は、この作家に魅入られた宮崎駿さんの解説イラスト「タインマスへの旅」(タインマスは作者ウェストールの住んだ町)がついていて、大変興味深く読むことができます。


 【追加記述】 2012年3月19日記述追加 (↑B24の写真に戻る
 コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃の活躍について文献を「発掘」しました。

 コンソリデーテッドB24リベレイター爆撃機の活躍については、総生産機数が18181機とアメリカ軍中で一番多かった機体であるにもかかわらず、それほど有名ではありません。B17爆撃機はいくつかの映画にも描かれていますが、B24爆撃機が主役の映画はありません。
 しかし、ひとつ、B24爆撃隊を描いたノンフィクションがあることがわかりました。
 
スティーブン E・アンブローズ著鈴木主税訳『ワイルド・ブルー』(アスペクト 2002年)です。
 作者アンブローズは、歴史家・作家で戦史ものに多くの著作を持ち、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『プライベート・ライアン』では、歴史考証アドヴァイザーを務めています。2000年6月に開館したルイジアナ州ニューオリンズにある第二次世界大戦博物館(D−day博物館)の館長です。
  ※第二次世界大戦博物館(D−day博物館)のHP http://www.nationalww2museum.org/
 
 アンブローズ氏は1936年生まれであり、直接第二次世界大戦に参加した世代ではありません。彼が描いたのは、実際にB24爆撃隊に勤務した、友人
ジョージ・マクガヴァン氏(1922年生まれ、現在も存命)とそのクルーの活躍です。

 マクガヴァン氏は、サウスダコタの大学に入学するとかたわら、政府が進めていた民間操縦士訓練プログラムに参加し、1941年秋までに飛行訓練過程を終了しました。その後、1941年12月7日(アメリカ時間)に日本軍の真珠湾攻撃のニュースを聞くと友人の学生らとともに陸軍航空隊を志願しました。
 待機と訓練のあと、1944年9月にイタリア中部のアドリア海岸にあるチェリニョーラに基地を置く
アメリカ陸軍第15航空軍第741爆撃飛行隊にB24爆撃機操縦士として任務に就き、1945年5月のドイツ降伏の直前には、出撃35回の規定任務を達成しました。
 マクガヴァン氏は、任務を終えて復員し、戦後、出身地のサウスダコタ州で大学教授をしたあと、同州選出の民主党下院議員・上院議員となり、1972年の大統領選挙では民主党候補となりました。この時の選挙では、当選して大統領となった共和党のニクソン候補に大敗しています。
 同書からはこれまで日本ではあまり知られていない、B24爆撃隊の真実をいくつか確認できます。
 別にクイズ仕立てで、説明します。
  ※ →クイズ世界史:二つの世界大戦「イタリアに基地を置いたアメリカ陸軍第15航空軍の爆撃目標は?」
    


 【連合国軍のドイツ本土爆撃 参考文献一覧】
  このページ14の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

大内建二著『ドイツ本土戦略爆撃 都市はすべて壊滅状態となった』(光人社NF文庫 2006年)

R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスW』(帝国書院 1981年)

D・J・Boorstin、B・M・Kelley著『A History Of The United States』(Prentice Hall 1992年) 

イェルク・フリードリヒ著香月恵里訳『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』(みすず書房 2011年)

ジョン・スウィートマン著土屋哲朗訳『戦略大爆撃 Schweinfurt 米重爆と独戦闘機の死闘』(サンケイ出版 1984年)

 

W・ヨーネン著渡辺洋二訳『ドイツ夜間防空戦 野戦のエースの回想』(光人社NF文庫 2001年) 

 

ウイリアムソン・マーレイ著手島尚訳『ドイツ空軍全史』(学研M文庫 2008年)

  チェスター・マーシャル著高木晃治訳『B−29日本爆撃30回の実録』(ネコ・パブリシング 2001年)
  ロバート・ウェストール著金原瑞人訳宮崎駿編「タインマスへの旅」付『ブラッカムの爆撃機』(岩波書店 2006年) 
   10 スティーブン E・アンブローズ著鈴木主税訳『ワイルド・ブルー』(アスペクト 2002年) 


 またまた長いページになりました。
 これで、イギリス空軍博物館の紹介をすべて終わります。

 残りページは、ロンドンと周辺の訪問地、そして、イギリスの教育についての雑感を報告して終わりにします。 


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