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 リヴァプール遠征その3 第二次大戦と英国の海の戦い11/03/20記述 09/07修正

 リヴァプール・マージーサイド海洋博物館の展示はいろいろなテーマに分かれています。そのうちの重要な一つが、第二次世界大戦における大西洋の戦い(battle of Atlantic)、すなわち、ドイツ軍Uボートと連合国軍護送船団の戦いがあります。
 それがどのような位置づけになるか、ちょっと、大局的に見るために、第二次世界大戦中のイギリスの戦いを年表を使って地区別に整理してみます。


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 このシリーズでは、第二次世界大戦におけるイギリスの戦いのうち、リヴァプール・マージーサイド海洋博物館RAFイギリス空軍博物館で学習した三つのことをこれから4ページにわたって紹介します。三つのこととは、ドイツ海軍のUボートと護送船団の戦い(Battle of Atlantic、イギリス本土における防空戦(Battle of Brirain、そして、英米空軍によるドイツ本土空襲です。
 この三つのうち、最も有名なのは、です。日米英どの国の高等学校の教科書にも記載があります。他の二つについては、日本の教科書には記述はありません。しかし、ドイツ海軍のUボートとの戦いこそが、イギリスの首脳部が最も懸念した問題でした。それが、
リヴァプール・マージーサイド海洋博物館の大きなテーマになっています。

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 Uボートの復活   | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 まずは、Uボートについてです。
 第一次世界大戦の勝利によって、ヴェルサイユ条約が締結され、戦勝国のイギリス・フランスなどは、ドイツに対しては、賠償金の支払い命じるとともに、軍備制限に対して非常に過酷な要求を行いました。
 ちょっとクイズで確認します。
 第一次世界大戦の敗戦国であるドイツは、大戦後、どのような軍備を許されたのでしょうか?


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 第一次世界大戦中にイギリスを苦しめたもの、とりわけ、潜水艦は一切保有禁止という措置でした。それは、(→)前ページで学習した、第一次世界大戦中の無制限潜水艦作戦のダメージがよほど大きかったということになります。

 しかし、敗戦直後は保有していなかった潜水艦を、ドイツはしばらくしてから保有するようになります。
 1933年1月に首相の座に着き、翌年独裁者となったヒトラーは、
ヴェルサイユ条約を無視して密かに軍備増強を進めました。その一方で、イギリスと交渉し、1935年6月18日にヴェルサイユ条約の規制を大幅に緩和する英独海軍協定の締結に成功しました。
 その内容は次のとおりです。
 ・ドイツに対し
対英35パーセントの艦隊の保有をみとめる。
 ・潜水艦については、
対英60パーセント、非常の場合にはイギリスと同等の艦数の保有を認める。

 これによって、すでに1934年から密かに進められていたUボートの建造はおおっぴらにできることになり、協定発効直後の6月28日にUボート第1号が完成し、以降2週間おきに11隻が就航しました。
 最初のタイプは僅か250トンと小型のものでしたが、第一次世界大戦中の建造技術を受け継ぎ、また、以前の操船技術を継承するため、前大戦中の潜水艦長カール・デーニッツが指揮官に選任され、Uボート艦隊の復活のための訓練を進めました。この
デーニッツこそ、のちのドイツ潜水艦隊司令長官となる人物です。(1943年からは海軍総司令官に昇進)
 
デーニッツには、第一次世界大戦の経験から、300隻のUボートがあれば、イギリスとの戦争が起こってもその息の根を止めることができるという自信がありました。300隻というのはもちろんそれだけの潜水艦が一度に戦闘を行うと言う簡単なものではありません。300隻のうち、100隻は戦闘海面に配置し、100隻は母港との往復の途中、100隻は母港で整備中という考え方でした。

 しかし、ドイツ海軍は、ヒトラーがイギリスとの戦争開始は1941年以降という甘い予想を抱いていたこと、またヒトラー自身が潜水艦建造を必ずしも優先しなかったという二つの判断ミスによって、1939年の開戦時には、僅か57隻のUボートしか保有していませんでした。
 それでも、開戦初頭からUボートの活躍が始まり、次のような戦果が上がりました。

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 デーニッツがまだUボートの隻数が十分ではないと言っているにもかかわらず、開戦から半年間、連合国軍は月平均11万7000トンの船舶を撃沈されたのです。
 日本の開戦時からの被害と比較すると、その連合国軍の被害の大きさがよくわかります。特にイギリス船舶の被害は甚大でした。
 こうして、第二次世界大戦においても、大西洋において、ドイツ軍Uボートとイギリス・アメリカを中心とする連合国軍との戦い、
Battle of Atlantic大西洋の戦い)が展開されました。

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 護送船団コンボイと狼群戦法 | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 しかし、よくよく考えてみると、第一次世界大戦の末期、イギリスなどの連合国は、1917年2月の無制限潜水艦作戦の宣言以降跳梁するドイツ潜水艦に対してその防御策を考え、結果的には優位に立ち、戦争を勝利へと導いていたはずでした。
 その方策の一つが、
護送船団方式です。
 これは、無制限潜水艦作戦に対応するために連合国軍が開催した1917年8月のマルタ会議(地中海のイギリス領マルタで開催)で採用が決まったもので、それまでの、商船や貨物船の単船での独立航行をやめ、数十隻の多数の輸送船が船団を組みそれを多数の護衛艦が守るという方法です。
 そもそも軍艦と違って商船や貨物船は船団を組むのにはなれておらず、この方式にはいろいろな苦労がありました。まず、速度です。船団を組むためには、早く航行できる船でも、辛抱して遅い船に合わせて航行しなければなりません。次に船団全体の運動です。船団は潜水艦の襲撃に備えて、定期的に一斉に進路を変更しなければなりません。いわゆるジグザグに進むわけです。(この船団の運動を日本海軍の用語では
之の字運動と呼びました。)これがまた、慣れない商船隊にはなかなかやっかいなものだったそうです。数十隻の船団が一斉に舵を切って方向を変えるというのは想像するに壮観ですが、難しいことであることはまた容易にわかります。
 しかし、苦労してこの方式を採用したおかげで、Uボートが機雷によって大きな被害を受けたのと相俟って、船団の被害は目に見えて減少していきました。(→10ページ「第一次世界大戦と無制限潜水艦作戦」参照。)
 ※参考文献4 雨倉孝之著『海軍護衛艦物語』P25・41・42 参照

 そのような実績があれば、今回の大戦においても、同じように
護送船団方式をとれば、被害が少なくなるはずです。なぜ、そうならなかったのでしょうか?
 そこには、ドイツ潜水艦隊司令デーニッツによって進められた、潜水艦隊の拡充作戦と巧みな戦術がありました。そのポイントを以下に1〜4に示します。

 限られた資源を有効に活用しかつUボートの数を増やすため、航洋型潜水艦(大洋の中心部まで進出して戦闘する潜水艦)としてはアメリカや日本の潜水艦よりはやや小降りのUボートZ型を艦隊の中心に据え、大量建造大量運用を実現しました。Z型には、A・B・C・D・Fなど各種改良型がありましたが、合計してなんと700隻余が就役しました。 


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 写真11−01    UボートZ型の進水                      (撮影日 10/11/13)

 リヴァプール・マージーサイド海洋博物館の展示写真です。やっとこのページではじめて海洋博物館が登場しました。


 写真11−02 ポスター   (撮影日 10/11/13)

 写真11−03 潜望鏡  (撮影日 10/11/13)

 左:潜水艦乗組員募集(志願)のためのポスター。描かれている人物はデーニッツ提督と思われます。
 右:ドイツ潜水艦の潜望鏡。両目ではなく片目で覗くタイプです。左横には、ドイツ潜水艦のエース艦長(多くの艦船を撃沈した艦長)の写真が掲載されています。
 イギリスの博物館ですが、敵方ドイツの情報も結構こまめに掲示している点は高く評価できます。
 
 また、現在の原子力潜水艦と違って、当時の潜水艦は次のようなものでした。
「さて、Uポートは海中に潜ることは「できる」が、めったに潜ったりはしない。攻撃艦や航空機を回避したり、荒天を避けたり、視界が悪く水中で聴音装置を使って敵を捜索するときには確かに潜航する。また、たまには接敵するのに好都合なときには、潜航したまま攻撃したりはする。そのうえ緊急時にいつでも潜航できるように何回もの試験潜航はするだろう。だが、Uポートは魚雷艇と同じようにほとんど海上を航走し、水上で戦う。それゆえ、「Uボート」または「潜水艦」という言葉は誤った印象を与えやすい。Uボートに対する適切な言葉は「可潜艦」または「潜航可能艦」である。
 速力と距離が水上航走を支配する管制要素である。ディーゼルエンジンを有するU−123は、商船やなにがしかの護衛艦よりも速い水上最大速力18.25ノットを出せる。12ノットの経済速力では無給油で8700マイル航走できる。10ノットでは行動圏は1万2000マイルにのびる。だが潜航した場合、U−123は最大速力わずか7.3ノットしかだせない。水中で電気装置や電動機(モーター)に電力を供給する蓄電池は4ノットの経済速力でもわずか64.2マイルで消耗してしまう。電池に十分充電するには、Uボートを水上で7時間も航走させなければならない。」(引用者注 U−123は大型の\型Uボート)
 ※参考文献7 マイケル・ギャノン著秋山信雄訳『ドラムビート Uボート米本土強襲作戦』P30−31

 ちなみに、U123は1942年前半のアメリカ本土沿岸船舶撃滅作戦に2度出撃しましたが、1度目は、「全航程14,269km、そのうちの潜航航程496km」で、潜航していたのは全航程の3.5%でした。
 ※参考文献7 P465
 
 つまり、「作戦行動に出たとしても、そのほとんどは水上航行をしている」、これが第二次世界大戦中の潜水艦の姿でした。これは、大戦後半期のUボートの苦境の原因となります。
 

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 ドイツ潜水艦隊司令デーニッツの話を続けます。二つ目は巧みな戦術です。

 第一次世界大戦末期にドイツUボートが、連合国軍が採用した護送船団方式に敗れたのは、潜水艦側の連絡の未熟さが原因でした。多数のUボートが網を張っている海域に多くの船がばらばらに通過すれば、それぞれのUボートが各個に敵船舶を撃沈することができます。
 ところが、敵が船団で通過すると,それに遭遇するUボートは数が少なくなり、しかも、たくさんいる護衛艦によって攻撃を阻まれるか、さらには逆襲を食らってしまうというパターンでした。
 この戦法では、一つのUボートが船団に遭遇すれば、その位置を味方に連絡して呼び寄せることができないのかと疑問を感じますが、20世紀初頭の第一次世界大戦の段階では、まだ無線通信技術が初歩的段階にあり、有効な連絡が取れなかったのです。
 これに対して、
デーニッツは、連合国船団が航行すると予想される航路帯に幅広く多数のUボートを配置し、一つの潜水艦が敵船団と接触に成功すれば、無線で潜水艦司令部との連絡を取りながら巧みに追尾させ、司令部はこれに他のUボートを水上航行で呼び集め、集まってきた多数のUボートが夜間に船団の中に入り込みまるで魚雷艇のように水上航行によって、多数の船を袋だたきにすると言う戦法を編み出しました。これが世に言う、狼群戦術(ルーデル タクイツク)です。


 1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギーに進撃し、電撃戦によって翌6月にフランスを降服させると、デーニッツは降服したフランスの大西洋岸、ビスケー湾を臨む海港にぞくぞくと潜水艦基地を設置しました。北からブレストロリアンサン・ナゼールラ・パリスラ・ロッシェルボルドーなどです。
 デーニッツは、潜水艦隊司令部をドイツ本国から占領したロリアン郊外のケルネヴェルに進め、大西洋に近いこれらの基地から積極的にUボートを大西洋に送り込み、狼群戦術を指揮して連語国軍船団を攻撃しました。
 また、ロリアンをはじめ各基地には、連合国軍の航空機の攻撃からUボートを守るため、ブンカーと呼ばれるUボート収容・修理施設が作られました。
 ロリアンのそれは、3つの施設で27隻のUボートを収容整備できるもので、天井部分のコンクリートの厚さは6.5m〜7mもあり、イギリス軍の空襲があってもその大型爆弾の直撃にも耐えるものでした。これらの施設のおかげで、フランス西岸の基地群は、連合軍のノルマンディー上陸後に各都市が占領されるまで機能し続けました。
 ※参考文献8 ヴォルフガング・フランク著松谷健二訳『デーニッツと「灰色狼」上』P258−321、488−89 


 1941年12月に日本が宣戦し、三国軍事同盟によってアメリカとドイツが互いに宣戦布告をすると、デーニッツは、直ちに対米潜水艦作戦を立案します。
 多数建造型のUボートZ型とは異なる、より
大型の\型を使って、アメリカ大西洋岸やカリブ海の米国船舶に潜水艦による攻撃を敢行する作戦です。ドイツ語で、「オペラツイオン・バウケンシュラーク」、英語では、opperation drum beat(ドラム・ビート)、日本語にすれば、「太鼓連打作戦」と名付けられたこの作戦は、複数隻(実際には5隻)のUボートが、1942年1月13日以降アメリカ大西洋岸の各地域を航行する船舶を一斉に攻撃することによって開始されました。
 この時点ではすでに、後述するイギリス軍のUボート位置情報はアメリカ海軍へ届けられていましたが、アメリカ海軍は現実に攻撃が起こるとは考えておらず、大西洋岸の大都市の夜間の燈火も、灯台のライトも普通に点灯されており、Uボートは易々と攻撃を仕掛けることができました。
 また、アメリカ海軍にも船団護衛用の部隊はありましたが、その駆逐艦の性能や数などはまだ本格的な運用に耐えうるものではなく、直ぐにUボートに対応することはできませんでした。このため、最初の作戦では、5隻のUボートは、4週間に24隻15万6,939トンの船舶の撃沈するという大戦果をあげました。
 ※参考文献7 マイケル・ギャノン著秋山信雄訳『ドラムビート Uボート米本土強襲作戦』P245・349−51 

 Uボートによる連合軍船舶の喪失は、フランス降服後孤立して戦いを続けるイギリスに重大な危機をもたらしました。
 イギリスの
チャーチル首相は、次のように回顧しています。
「戦争中、真に私に不安を与えたものといえば、それはUボートの危険だった。空戦の前のイギリス本土侵入ほ失敗するだろうと私は思っていた。空戦の勝利後は、われわれにとってほ有利な戦闘であった。それは、戦争の残酷な条件のなかの戦闘というべきものではあったが、それは戦いに甘んじてよいものだった。しかしいまや、われわれの生命線ほ、広大な海上にわたって、特に島国イギリス本土の入口において危険にさらされていた。この戦いのほうが、「イギリスの戦い」と呼ばれた光輝ある空戦で味わったよりも、もっと不安だった。」
 ※参考文献9 W・チャーチル著佐藤亮一訳『第二次世界大戦2』P279

 1940年、1941年、1942年、1943年とUボートと連合国軍との死闘が演じられます。 

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 Uボートの敗北  | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 こうして、大戦前半期に猛威をふるったUボートも、ある時点から次第に劣勢となり、連合国軍の攻勢が目立っていきます。
 次は第二次世界大戦全期のUボートによる連合国軍船舶喪失量を示したグラフです。



 これを見ると、1942年がUボートの活躍の最盛期であり、1943年3月の60万トン超の大成果を境に、連合国軍の船舶喪失量は急速に減少し、バトル・オブ・アトランティックは、連合国軍の勝利となっていることが分かります。
 その原因は何だったのでしょうか?以下、そのポイントを示します。
  ※リヴァプール・マージーサイド海洋博物館の展示と参考文献7・8・9・10の記述を参考に説明しています。

 連合軍は共同して護送船団方式を採用し、護衛艦を多数建造して、船団護衛を徹底しました。
 イギリスは当初から大西洋を横断する輸送船を護送船団を組んで運行させていました。一方、アメリカは、ドイツと開戦後の1942年前半には、デーニッツの「バウケンシュラーク」作戦によって手痛い打撃を受けていましたが、合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長のアーネスト・キングは、当初、イギリスの提案する護送船団方式の全面採用には同意しませんでした。護衛艦艇が不十分であることに加えて、アメリカ海軍にも戦闘艦ではなく護衛艦隊の充実に戦力を投入すると言う考えは主流ではなかったからです。
 しかし、一部に採用された護送船団方式が船舶の被害を少なくしていることにルーズベルト大統領が気がつくと、アメリカもカリブ海からカナダ沿岸までの船舶の移動に全面的に護送船団方式を採用しました。
 また、イギリスもアメリカもこの船団を保護するための護衛艦、具体的には
護衛駆逐艦フリゲート艦コルベット艦などを多数建造し、対潜水艦兵器の開発にも力を注ぎました。この点は、日本海軍のそれと比べてみると、発想の違い、それを可能とした経済力に違いが際立っています。日本軍の護衛については、こちらです。(→クイズ日本史「太平洋戦争期 海上護衛総司令部の創設の時期は?、→戦艦大和について考える10 片道燃料4 日本の護衛艦隊

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 写真11−04 フラワー級コルベット艦、PICOTEEの模型 (撮影日 10/11/13)

 リヴァプール・マージーサイド海洋博物館の展示物です。
 船団護衛には、そのための専用の艦艇が活躍しました。
 艦隊戦闘艦としての
駆逐艦(速力が早く排水量は2000〜3000トン、建造には時間がかかる)を簡易化した護衛駆逐艦(対潜水艦戦闘用のため、速度は遅く、大きさも小ぶり、武装も対潜水艦用に軽易化)や、初めから船団護衛を目的として構想されたフリゲート艦(1,500トンクラス)、コルベット艦(1,000トン)がありました。
 フラワー級コルベット艦は、排水量940トン、全長62.5mの小さな艦艇で、速力も潜水艦の水上速度に対応して最大16ノットでした。船団を護衛して外洋を航海するにはいささか心許ない艦艇でしたが、そのかわり製造は安価で簡単なため短期間で大量建造が可能でした。チャーチル首相はこの船の建造に最優先権与え、1940年から1944年までに、イギリスとカナダとで合計258隻が建造されました。
 このPICOTEEは、1940年9月に就役しましたが、船団護衛中の1941年8月に、U568の雷撃によって、アイスランド南沖で沈没しました。
 大戦中にフラワー級コルベット艦は、合計25隻が撃沈されましたが、戦果としてUボート38隻の撃沈を記録しています。(大戦中の全Uボートの喪失数は739隻)
 ちなみに、フラワー級コルベット艦が外洋航海には困難をともなうため、これを克服するために建造されたのがより大きめのリバー級フリゲート艦(排水量1,370トン、全長92m)です。これは、大戦中に138隻が建造されました。コルベット艦とフリゲート艦を合計すると、396隻です。
 ちなみに、大戦中の日本海軍は、船団護衛用の艦艇としてコルベット艦と同じ程度の艦艇として
海防艦を建造しました。その数は、171隻に及んでいますが、そのうち72隻を喪失しています。ドイツ軍は空母機動部隊を保有せず、連合国軍の護衛艦艇は、航空機の襲来は全く気にしなくてよく、ドイツの潜水艦だけが相手でした。一方、日本海軍の場合は、優勢なアメリカ陸海軍航空機の襲来に備えなければならず、その危険度は連合国軍の比ではありませんでした。  


 写真11−05 爆雷投射機 (撮影日 10/11/13)

 写真11−06 6ポンド砲  (撮影日 10/11/13)

 左:コルベット艦等に標準装備された4型爆雷投射機と7型爆雷
 解説文には、チャーチルの著書『第二次世界大戦』から、「大戦中の全期間を通して、
Battle of Atlantic は戦争を左右する要素だった」という引用が示されています。
 右:コルベット艦に増強装備されたホッチキス社の6ポンド砲。浮上したUボートに打撃を加えるため、艦橋の前面、艦橋横の張出部分に増強されました。
 


 写真11−07    新兵器ヘッジホッグ             (撮影日 10/11/13)

 イギリス海軍が1942年から実用化した対潜水艦迫撃砲。
 24個の弾体を艦の進路方向に向かって発射することができ、24個の弾体は0.2秒の間隔で2発ずつ発射され、直径約40mの円形の範囲に着水して沈降しました。
一つ一つのヘッジホッグは、一つが潜水艦に接触するとすべてが爆発する仕組みとなっていました。通常の爆雷より火薬の量は少ないですが、一つが命中するとその衝撃波で残り23発も同時に爆発するため、全体として潜水艦に取って脅威的な兵器となりました。


 1941年の半ばからイギリス軍が、ドイツ軍の暗号電報を解読し、ドイツ潜水艦司令部と各潜水艦の間の交信を解析して、その狼群戦法の待ち伏せ場所を察知して、連合国船団を迂回させるという戦法を取りました。イギリスでは毎日、Uボートの位置情報を作成し、アメリカ軍にも送りました。
 これを支えていたのは、イギリス西部のウィンチェスターにあるドイツ潜水艦隊の伝播を傍受する部隊でした。ここでは、ドイツ潜水艦の動きをかなり詳しく解析していました。Uボートの艦長の中で戦闘後捕虜となって収容所に送られた者の回想の中には、相手が尋問をする際に自分たちの情報を詳しく知っていて驚いたという表現が多数見られます。
 ※参考文献11 メラニー・ウィギンズ著並木均訳『Uボート戦士列伝 激戦を生き抜いた21人の証言』P96 


 さらに、ドイツ潜水艦が発する電波を逆探知し、その位置を解析して、航空機を派遣し、レーダー等によって、確実に補足して航空攻撃により撃沈する場合が増加しました。
 Uボートは、電波を発して狼群戦法をとれば、それによって逆に位置を探知されるという状況に陥いりました。
 また、Uボートが連合国軍の航空機探知装置(メトックス)から電波を発すると、それが逆に補足されて、航空機に攻撃をされるということも起こりました。1943年8月まで、ドイツはこのことに気がつきませんでした。


 そして、決定的だったのは、連合国軍の航空機による哨戒・攻撃です。
 ドイツは、大戦初期の優位な時においても、Uボートと航空機を結びつけた有効な攻撃、つまり、航空機の哨戒によって船団を発見して攻撃をする、もしくはUボートに連絡して共同で補足撃滅するという発想を具体的に戦術として確立することはできませんでした。
 ただし、ほんの僅かですが成果を挙げた時もありました。
 1941年2月には、
デーニッツは、「おおよそ飛ぶものは私ものだ」と豪語していたドイツ空軍元帥ゲーリングから、一時第40爆撃航空団を自らの指揮下において潜水艦隊のために使用することに成功しました。この部隊は、ドイツ唯一の4発爆撃機Fw−200コンドルを有する部隊で、アイルランドの南または北を回ってグラスゴーもしくはリヴァプールに入ろうとする連合国軍船団を、フランスの基地から飛び立ってノルウェイに降り立つコースで偵察をし、船団を発見した場合はUボートに連絡をしました。
 しかし、これに費やされたFw−200の機数は僅かであり、長く続きませんでした。

 一方、連合国軍は、次の図に示すされるように、イギリス・アイスランド・カナダ・アゾレス諸島・ジブラルタル・バミューダ諸島などに航空基地を整備しました。そこから飛び立った長距離哨戒機・爆撃機などは、レーダーやUボートの出す無線波の逆探知などによって、Uボートを補足し、海上艦艇と共同して「
Uボートハンター」としての実績を上げていきました。
 大西洋上には、一部、陸上からの連合国軍の航空機が哨戒できないエリア、「ブラック・ピット」が存在しましたが、連合国軍は、商船改造型などの護衛空母を大量生産して、しだいに空からの圧迫を強めていったのです。



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 写真11−08 イギリス軍の飛行艇の模型、海洋博物館の展示物。以下のものも同じです。(撮影日 10/11/13)

 左はカタリナ飛行艇、右はショート・サンダーランド飛行艇です。
 
カタリナ飛行艇は、アメリカのコンソリデーテッド・エアクラフト社が大戦前に開発し、1937年からアメリカ海軍に配備された機です。大戦期を通して各地で大活躍をしました。
 
ショート・サンダーランド飛行艇は、イギリスのショート・ブラザーズ社が製造し、1938年からイギリス空軍に配備されたエンジン4基の大型飛行艇です。
 これらの機は、1942年後半からレーダーと投光器を備えはじめ、夜間に浮上しているUボートをレーダーで捕捉し、急行して投光器で確認しつつ航空爆雷を投下するという戦法でUボートを苦しめました。
 Uボート側も、レーダー波を逆探知する装置や、のちには1944年からシュノーケル装置を装備して潜水したままディーゼルエンジンで高速航行ができるように改良しました。しかし、連合国軍は、さらに波長の短いセンチ・メートル超短波のレーダーを開発し、1943年前半から使用しはじめました。これはUボートの逆探知機の性能を凌駕し、シュノーケル航行しているUボートの海の上出ている小さなシュノーケルを発見するということも可能となりました。
 こうした結果、フランス西海岸を出港して戦場に出かけるUボートは、まず、ビスケー湾を抜け出すことさえが最初の危険となりました。この湾がイギリス本土やジブラルタルからの哨戒機が飛来エリアにあるためでした。
 リヴァプール・マージーサイド海洋博物館の説明によれば、連合国軍の空軍機は、大西洋で155隻のUボートを撃沈しました。ただし自らの損害も大きく、事故等も含めて646機が失われました。


 写真11−09    ハドソン爆撃機とウェリントン爆撃機の模型              (撮影日 10/11/13)

 ハドソンは、アメリカロッキード社の哨戒爆撃機で、大戦勃発時からイギリス沿岸警備隊に配属され、本土近海の哨戒にあたりました。ウェリントンはイギリス・ヴィッカース社の爆撃機で、大戦勃発時からドイツ爆撃やUボート攻撃に活躍しました。 


 写真11−10   B24リベレーターの模型             (撮影日 10/11/13)

 B24リベレーターは、アメリカコンソリデーテッド・エアクラフト社が1942年から本格配備した4発の大型爆撃機です。大戦中各地で活躍しました。大戦勃発時からのアメリカ陸軍の主力爆撃機だったB17は、堅牢でしたが航続距離が短い点が難点でした。しかし、このリベレーターは航続距離が長く、対潜水艦の哨戒・爆撃にはもってこいの機体でした。
 この機は大戦後半には機首の下部にセンチメートル波レーダーを装備し、機首の両横にはロケット弾発射装置を装備しました。


 写真11−11   100ポンド航空爆弾、航空機からの潜水艦攻撃用爆弾        (撮影日 10/11/13)


 写真11−12   イギリス護衛空母オーダシティ(AUDACITY)の模型     (撮影日 10/11/13)

 イギリス海軍初の護衛空母。1939年に捕獲していたドイツ商船を改造して建造され、1941年12月に就役した。搭載機は、アメリカから供与されたグラマンF4Fワイルドキャットです。
 この艦は、1941年12月、イギリス南方でU751の雷撃によって沈没しました。
 イギリス海軍は、このオーダシティを皮切りに、大戦中に45隻の護衛空母を運用しました。そのうち、39隻は、アメリカにおいて商船から改造された艦で、アメリカとイギリスの間で結ばれた武器貸与法によってイギリスに供与されました。

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 こうして、Uボートは、次第に追い詰められていきました。
 1943年3月17日から20日、10隻を超える狼群集団が、連合国軍の複数の護送船団を補足し、「
大戦果」をあげました。Uボート1隻を失っただけで、商船22隻撃沈を成し遂げたのです。この結果、この月の総撃沈数は60万トン超となりました。しかし、これがUボート部隊の「最後の大戦果」となりました。→「表23 大戦全期の連合国軍の船舶喪失量」参照。
 
 このあとは、アメリカ陸軍航空隊は、ニューファンドランドの基地から航続距離の長いB24コンソリデーテッド・リベレーター爆撃機を使って、グリーンランド西南方のエリアも哨戒空域に加えたため、「ブラック・ピット」はさらに縮小していきました。
 1943年3月のUボートの「大勝利」の2か月あと、1943年5月には、1か月にUボートが38隻撃沈されるという状態となりました。

 次の引用は、1943年6月の状況です。
「イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアの航空機サンダーランド、リベレーター、カタリナ、ハリファックス、ウェリントンといった各機種が、装甲を強化し、機銃も増やし、爆弾を満載してしじゅうビスケー湾上空にあり、Uボート・グループを視認もしくは探知するとハゲ鷹のように集まって、安全な距離をおいて旋回を続ける。そのうち充分な機数がそろうと、Uボートの対空砲火を分散させるため、四方から攻撃を加えるのだ。
 同時に彼らはビスケー湾の端、Uボート主要航行路近くに待機する駆逐艦、フリゲート艦、コルヴェット艦から成る対潜グループを呼びよせ、仕上げはこの手練の狩人たちが慌てず騒がずにやる。必ずしもうまくいくとは限らないが、成功は多かった。まさに多すぎた。
 彼らは新戦術を編み出していた。以前のように、アスディックで捉えてから運を頼んで体当たりなどはせず、2隻で狩るようになった。1隻が探知コンタクトを保ち、僚艦に信号でUボートの位置を教える。深度200メートルを音もなく進むUボート乗員に追跡音が聞こえぬよう低速でやってきて、合図とともに死の荷物を投げこむ。一発で油が、続く何発かで大気泡とともに残骸が浮きあがることも稀ではない。」
 ※参考文献10 ヴォルフガング・フランク著松谷健二訳『デーニッツと「灰色狼」下』P261−62

 1939年9月の大戦開始から2年後の1941年8月までのUボート喪失隻数は105隻でしたが、それから大戦終了までの3年8ヶ月間には、500隻以上が失われました。
 1944年2月、デーニッツは、イギリス本土西方での潜水艦戦をあきらめました。狼群戦法の放棄です。
 1944年4月には、新型の]]T型(ほとんど潜航した状態で高速航行ができる潜水艦、25ノットで10時間以上航行可能)が初就航し、今後も増産できる体制が整いましたが、これだけではすでに大きく傾いた退勢を挽回することはできませんでした。
 
 1945年5月のドイツ降伏時、連合国軍に捕獲されることを潔しとしないUボート軍は、北海やバルト海、またはドイツの諸港の沖合で自沈しました。その数は、221隻と伝えられています。かくて、大西洋の戦いは連合国軍の勝利に終わり、Uボート艦隊は消滅しました。
 デーニッツのUボート艦隊は、連合国軍船舶2775隻、総計1457万3000トンを撃沈しました。一方、Uボートは739隻が失われました。(754隻という算出もある)Uボート乗組員の犠牲者は、2万7491名でした。

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 写真11−13  ショート・サンダーランド飛行艇の実物             (撮影日 10/11/16)

 次ぐページで紹介するロンドンにあるイギリス空軍博物館(RAFmuseum)には実物の飛行機が多く展示されています。この飛行艇はとても大きなもので、カメラにはおさまりません。


 【第二次世界大戦と連合軍とドイツUボートの戦い 参考文献一覧】
  このページ11の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスW』(帝国書院 1981年)

鳥巣建之助著『回想の潜水艦戦−Uボートから回転特攻まで−』(光人社 2006年)

大井篤著『海上護衛戦』(朝日ソノラマ 1992年) 

雨倉孝之著『海軍護衛艦物語』(光人社 2009年)

デヴィッド・ミラー著岩重多四郎訳『U−BOATS The illustrated History of the Raiders of the Deep Uボート総覧 −図で見る「深淵の刺客たち」発達史−』(大日本絵画 2001年)

 

三野正洋著『日本軍の小失敗の研究』(光人社 1991年) 

 

マイケル・ギャノン著秋山信雄訳『ドラムビート Uボート米本土強襲作戦』(光人社 2002年)

 

ヴォルフガング・フランク著松谷健二訳『デーニッツと「灰色狼」上』(学習研究社 2000年)  

 

W・チャーチル著佐藤亮一訳『第二次世界大戦2』(河出文庫 新装版 2001年)

  10 ヴォルフガング・フランク著松谷健二訳『デーニッツと「灰色狼」下』(学習研究社 2000年) 
  11 メラニー・ウィギンズ著並木均訳『Uボート戦士列伝 激戦を生き抜いた21人の証言』(早川書房 2007年) 


 ひえ〜い、ずいぶん長い勉強になってしまいました。
 たった1時間だけ滞在した
リヴァプール・マージーサイド海洋博物館なのに、レポート枚数は、2ページにも及ぶ長大なものになってしまいました。マンチェスター・ロンドン研修記はこれで終わりではありません。
 また、ロンドンについては一言も書いていません。
 次のページから、やっとロンドンが登場します。
 「えらく長くてもう飽きた」というご感想はやまやまですが、次ページは、おもむきを変えて空の話題です。
イギリス空軍博物館についてレポートします。

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