岐阜県の東海道線あれこれ24
 岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 岐阜貨物ターミナル2 国鉄の苦闘と岐阜貨物ターミナル 11/10/17記述 11/11/05訂正

 このページでは、岐阜貨物ターミナル駅の説明と国鉄の貨物輸送について説明します。
 このページの目次は次のとおりです。
  ○岐阜貨物ターミナル駅の建設 「地図44 岐阜貨物ターミナルの建設」表03 岐阜貨物ターミナル駅の意義
  ○国鉄末期の苦悩と貨物駅の整備-貨車操車場の機能分化と発展、そして挫折-
   ・「地図45稲沢貨物操車場」「地図46吹田貨物操車場」「地図47郡山貨物操車場
   ・「表04鉄道貨物輸送の衰退
  ○コンテナによる拠点間直行輸送の拡充とターミナルの整備-配送センターの必要性-
   ・「地図48東京貨物ターミナル駅」「地図49岐阜貨物駅
  ○初の着発線荷役駅(E&S方式の駅)、岐阜貨物ターミナル


 岐阜貨物ターミナル駅は、1986(昭和61)年11月1日に、岐阜駅西方の岐阜市今嶺4丁目18-1に開業しました。以下は、岐阜貨物ターミナルが建設された地域の建設前と建設後の写真です。ほとんど人家のない、水田の中に建設されました。



上の地図の写真は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から借用しました。
 →国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)


 ※上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、現在の岐阜貨物ターミナルの写真です。


 この岐阜貨物ターミナル駅について、『貨物鉄道百三十年史』下巻は、「第1章建設と施設 第4節貨物停車場の整備 7経営再建と貨物駅の再配置 (4)直行輸送体制の徹底とその後の貨物駅整備」の中で、次のようにその意義を説明しています。 

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  ここには、以下の3点が述べられています。
 ①貨物駅から貨車操車場の機能分化と発展、そして挫折
 ②新しい配送センターの必要性、
 ③今後のコンテナ駅として着発線荷役(E&S)駅の整備
 
 岐阜貨物ターミナル駅の意義を理解する上で大切なことですので、以下順に説明していきます。

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 国鉄末期の苦悩と貨物駅の整備-貨車操車場の機能分化と発展、そして挫折-

 前ページでは、鉄道の貨物輸送の推移を見ました。(グラフ02「鉄道貨物輸送量の推移」
 これによると、1970年に620億トンキロを越えて史上最高を記録した鉄道による貨物輸送量は、その後一気に衰退へ向かい、国鉄として最後の年になる1986(昭和61)年には、最盛期の3分の1の、200億トンキロ余りに激減してしまいました。
 この数字だけ見ても、この間の国鉄の苦闘はなかなかのものだったと想像できます。

 直接その時期の話をする前に、ちょっと歴史をさかのぼって、日本における貨物輸送を概観します。
 日本の鉄道貨物輸送の中心は、「何時でも、何でも、何処へでも」を実現する集結輸送方式でした。できるだけ身近な駅で荷物を引き受け、拠点駅で方面ごとに貨物列車を編成し、拠点に着いたらまた格目的地別の貨車に乗せて、できるだけ近い駅まで送り届けるというのが、この方式の基本です。
 明治時代に鉄道網が発達し、それに伴って貨物輸送も拡大しました。その結果、
貨物駅は独自の発達を遂げます。まず、旅客と貨物の併用駅から貨物駅が分離しました。貨物駅の数は戦前から戦後に掛けて次第に増加し、1958(昭和33)年には3,358駅の最大数を記録しました。(ちなみに、現在は300駅ほどとなっています。)
 さらには、1906年の鉄道国有化法によって全国規模の路線網ができあがると、貨車の効率的な運行を促すために、
貨車操車場(英語ではyard、ヤード)が新たに建設されました。最初の本格的貨車操車場は、京都駅から分離した梅小路操車場で、その完成は、1914年7月のことです。
 その後、貨車操車場は各地に建設され、のちに日本の三大操車場と呼ばれる
吹田操車場(関西地区、1923年開業)、稲沢操車場(中京地区、1925年開業)、新鶴見操車場(京浜地区、1929年開業)の大規模操車場が次々に開設されました。

 このあと、日中戦争が始まった1930年代後半には、貨車操車場の第二次設置期があり、また戦後1960年代にも第三次の貨車操車場の設置期があり、1983年段階では、日本全国に110カ所の貨車操車場が存在していました。
 つまり、20世紀の70年間ほどの間は、日本の鉄道輸送においては、貨物駅で集められ、貨車単位に積まれた荷物が、まず操車場に運ばれ、そこで方面別に編成されて目的地に近い拠点操車場に運ばれ、そこで更に個々の最終目的駅に向かう列車に編成されていくという方式、いわゆる
ヤード方式の貨物輸送(別の言い方では、貨車集結輸送方式)が主流となっていたのでした。

参考文献1 『貨物鉄道百三十年史 下巻』P169-202 

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 たくさんの貨物を操車していた1975年の愛知県稲沢操車場です。左手にハンプ(小起伏)があり、そこから貨車をヤード側に落として、惰性ですでに停車している他の貨車に連結させました。ハンプの下にはカーリターダ(1969年設置の軌道貨車制御装置、貨車の車輪を制動桁で挟んで速度を調節する)があり、速度調節は自動で行われました。普通の操車場は、その作業は人力で行い、貨車に乗った作業員がブレーキをかけて貨車の速度を調節しました。
 貨車操車場の他、機関区・検車区もあり、総面積1,108,000平方キロメートル、長さ5,700m、最大幅425m線路総延長118kmの大操車場でした。
 自分が小学校の頃、東海道本線で岐阜から名古屋に向かう際、この操車場の脇を電車が通る時には、わくわくしてその作業注視したものでした。

 広大なヤード部分は、現在は、一部はショッピングモールと駐車場、一部は住宅地、一部はその他の商業施設、そして一部は空き地となっています。
 このページには、ヤードと貨物ターミナルの古い写真が4カ所登場します。いずれも現在と比較するために、別のページが作成してあります。
 ■現在の稲沢操車場跡との比較はこちらです。→  

 ■現在の吹田操車場跡(吹田信号所)との比較はこちらです。→
 ■現在の郡山操車場跡(郡山貨物ターミナル)との比較はこちらです。→
 ■現在の東京貨物ターミナルとの比較はこちらです。→

上の地図の写真は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から借用しました。以下、地図46・47・48も同じです。 →国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)


 写真24-01  夜の稲沢駅です。                         (撮影日 11/09/19)

 稲沢旅客駅の南側から、駅ホーム(左端)と機関車区を撮影したものです。機関車の上の端は、東口と西口を結ぶ歩行者用跨線橋です。その後に、かつての貨物操車場の跡地に再開発によって建てられた高層住宅群がそびえています。

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 「東洋一」といわれた吹田操車場は、日本で唯一、上り方向と下り方向の両方のハンプ(貨車を惰性で動かすための起伏)を持ち、1日の処理能力6000両、構内線路延長150kmを誇りました。
 現在は、配線を全く変更して信号場となっています。
 ヤード部分50haの再利用が計画され、そのうち27ha分については、2007年に新しい貨物駅の建設がはじまりました。また、残る23ha分については、吹田市と摂津市による都市再開発事業が計画されています。
 ■現在の吹田操車場跡(吹田信号所)との比較はこちらです。→  


上の地図の写真は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から借用しました。
 →国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)


  しかし、すでに国鉄全体の経営は、1964(昭和39)年に初めて赤字となり、1969年には、「国鉄財政再建10カ年計画」を発表しなければなりませんでした。したがって、1970年にピークを迎えた鉄道貨物輸送量が、それ以降急速に減少していく中で、貨物輸送経営においても合理化が迫られていきます。
 その際に課題となったのがヤード方式です。貨物輸送量が右肩上がりに増加していく場合は、大規模の貨車操車場が稼働する意味はありますが、輸送量が減少していく中では、その存在は大量の人員を無駄使いするものとなってしまいます。
 ヤード方式は、拡大しつつあるトラック輸送に比べれば、技術的にも次の欠点がありました。
  1 トラックから貨車への積み替えに時間がかかる。
  2 ヤードに貨車が停留する時間に予測が付かず、目的地までどれぐらいで配達できるのかが約束できない。

 しかし、こうした課題や欠点があるにもかかわらず、国鉄はヤード方式をすぐさまあきらめるという手立てはとりませんでした。おりしも財政再建策が発表される直前の1968(昭和43)年には、最も近代化されたヤードである
郡山操車場(福島県)が完成していました。全自動ハンプ式と呼ばれたこの操車場は、カーリターダ(自動速度制御器)をコンピューター制御によってコントロールする画期的な操車場でした。このような自動操車場は、形式が異なるものも含めて、高崎(1970年)、塩浜武蔵野(1974年)、北上周防富田(1978年)と次々と開設されていきました。
 つまり、国鉄は、操車場の効率的な運営と近代的な拠点の整備によって、貨物輸送の改善を図ろうとしたわけです。

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 日本で初めての自動化操車場、福島県郡山操車場。1968年開業。地図左手の方向からハンプ(貨車を自動で操車場線へ落とし込むための起伏)を越えて送られた貨車は、貨車重量・貨車速度・風向風速などが測定されたのち、ポイントによって編成別に仕分けされ、さらに、カーリターダ(自動制御器)によって速度が調節されてすでに停車している貨車群に向かい、その端に自動的に連結されます。全体のコントロールは、コントロールセンターで行われます。
 このシステムはターゲットシューティング方式と呼ばれました。
  ※参考文献2 『写真で見る貨物鉄道百三十年』P164-165

 ■現在の郡山操車場跡(郡山貨物ターミナル)との比較はこちらです。→

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 しかし、これと同じ時期には、1978年10月のダイヤ改正によって初めての貨物列車本数削減(約300本削減されて、1日5342本)がなされました。これ以降は、貨物輸送量が減ったから貨物列車本数が減らされ、それがまた輸送量の減少を招き、それが更に列車本数の削減となるという悪循環に陥っていってしまいました。
 この時期の貨物輸送量と主な出来事、駅の数を数字で示すと、次のようになります。



 輸送量は、1970年を最高に、急速に減少します。特に、車扱輸送の減少が激しく、ヤード方式そのものがもはやトラックや内航海運とは勝負できない存在となっているのは明らかでした。   


 ヤードの近代化・自動化では、鉄道貨物輸送量の急激な減少という事態に対応できないことは明らかとなりました。
 この結果、国鉄は、貨物輸送の改善のために思い切った手立てを打ちます。
 一つは
ヤード輸送方式の廃止であり、もう一つは、それに代わるコンテナ輸送方式の拡大です。
 
 ヤード方式の限界を認めた国鉄は、1983年3月1日に重大な発表を行いました。ヤード方式の貨物輸送貨車集結輸送方式)の全廃とそれに代わる
拠点間直行輸送方式への全面的な転換です。
 これに基づいて、
1984(昭和59)年2月1日のダイヤ改正では、駅の位置づけとしての貨物操車場(ヤード)が全面的に廃止され(ヤード的機能そのものはこの時点でもいくつかの駅に残され、1986年に全廃されました)、貨物列車の1日の本数は、それまでの3204本から一挙に1670本減の1534本とされました。半分以下となってしまったわけです。
 ついでにいうと、この時大量の国鉄貨車が不要となり、民間にも売却されました。今でも、家の庭先や田畑の脇に倉庫代わりに置かれている元貨物車両はその時に売られたものが大半です。(これについての詳細なレポートは、26ページの→「ちょっと余談ですが・・・・、あの時の新鶴見操車場の貨車群は?ー国鉄廃棄貨車売却転売ー」を参照して下さい。)

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 参考までに、国鉄自身が分析した、「国鉄貨物輸送の衰退の要因」を引用します。(要約してあります)

参考文献1 『貨物鉄道百三十年史 下巻』P447 

【外部要因】

 産業構造の変化により、高度経済成長期の重量物輸送(例 石炭)は急速に減少し、鉄道に依存しなくてもよい軽量物が中心となった。 

 重化学工業の臨海部立地が進み、鉄道輸送ではなく海運への依存が高まった。 

 高速道路など道路網の整備によりトラック輸送が推進された。 

 物流効率化の進展によりジャスト・イン・タイム輸送が求められ、ドア・ツー・ドアー輸送に優れたトラックが有利となった。 

 運輸政策は貨物鉄道への投資よりも道路整備・港湾整備に中心が置かれ、国鉄においては独立採算を前提としたため収支の悪化を招いた。 

【内部要因】

 物流市場の動向が把握できず、販売戦略が不十分で経営力に欠けていた。 

 市場の動向把握よりも国鉄内部の都合を優先し、収支悪化のため頻繁に運賃値上げを行った。参 

 貨物駅廃止や列車本数の削減に重点を置き、のばすべきコンテナ輸送の方式への対応が不十分であった。 

 近代化・合理化が労働組合の抵抗によって計画を下回った。参 

 労働組合のストライキ等によって顧客の信用を失い、また作業変更についても組合との折衝が必要なため、小回りのきくサービス改善の実現が難しかった。 

 大都市部の旅客列車の増発によって、ダイヤ編成上、貨物列車は制約を受け、輸送時間が長くなった。 

   官僚組織的な企業経営体質のため顧客本位の経営を発揮するのが難しかった。

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 コンテナによる拠点間直行輸送の拡充とターミナルの整備-配送センターの必要性-

 廃止が決まったヤード方式に代わって、これからの鉄道輸送の主役として期待されていたのが、コンテナ列車による拠点間直行輸送方式です。
 国鉄がコンテナ輸送を始めたのは比較的早く、1959(昭和34)年のことです。この年3月には5トンコンテナ5個を運ぶ、25トン積みのチキ5000形式のコンテナ専用貨車を作製し、それを用いて、11月には、東京汐留貨物駅と大阪梅田貨物駅の間に、直行コンテナ線用貨物列車「たから号」が運転されました
。汐留-梅田間の所要時間は、10時間55分でした。
 その後、コンテナ輸送への需要は順調に高まり、国鉄は既存の貨物駅のコンテナ積み降し場の拡張を行い、また専用列車を増発を行いました。
 1969年のダイヤ改正では、拠点駅間を直行(途中の駅で停車しない)する高速の特別急行貨物列車を複数運転(コンテナ専用との混載、貨物専用)し、東京地区と関西地区を結びました。この列車は
フレートライナー(この名称は、1980年のダイヤ改正まで使用される)と呼ばれ、この列車運用が、現在のコンテナ列車の基本となります。この時、汐留-梅田間は、8時間51分に短縮されました。
 その一方で、
大量のコンテナを取り扱う大規模駅の整備・新設も図られ、1973年にはその一つとして東京貨物ターミナル駅が開業しました。これまで東海道線の東京都区内における貨物駅といえば明治以来の汐留駅(1872年鉄道初開業当時の新橋駅)でしたが、それに加えてコンテナ輸送の拠点駅として東京貨物ターミナルが新しい役割を担っていきます。

参考文献1 『貨物鉄道百三十年史 下巻』「列車時刻改正」P302-376、「コンテナ輸送」P377-421 

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 東京大井臨海部埋め立て地に建設され、1973(昭和48)年に開業した東京貨物ターミナル駅。5面10線の大規模なコンテナ専用荷役線を持ち、東海道・山陽や東北・常磐の各地域を結ぶフレートライナーの専用駅となった。
  ※参考文献2 『写真で見る貨物鉄道百三十年』P164-165

 ■現在の東京貨物ターミナルとの比較はこちらです。→


 理屈の上では、コンテナを使った拠点間直行方式は非常に効率のいい輸送方式です。
 しかし、東京と大阪間や札幌・福岡などの大都市間だけの荷物を運んでいればいいというわけではありません。それだけでは日本の貨物輸送を担うということはできないでしょうし、また、経営的にも、シェアを広げることは無理です。
 荷物を送りたい顧客(荷主)の願うことは何か。「できるだけ手間がかからずに、早く、安く、安全に」といったところでしょう。
 そこで必要なのは、ドアー・ツー・ドアーを実現するトラック会社との連携と貨物駅における迅速な処理です。このためには、大都市間だけではなく、途中の
中小都市にも一定のエリアをカバーするコンテナ取扱い駅を整備し、トラック輸送と連携した「配送センター」の役を果たすとともに、そこにおいて迅速な積み降し荷役を行い、できるだけ早くコンテナを目的地に届ける必要があります。これは、いずれも貨車集結輸送方式ではできなかったことです。これが、「表03岐阜貨物ターミナルの意義」における「②貨物駅相互間の直行輸送には自ずから限度があり、輸送量を維持確保し、更に拡大させるためには貨車操車場に代わる配送センターが必要」ということの意味です。
 このための新しいタイプのコンテナ駅整備の最初のものが岐阜貨物ターミナルだったのです。 

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上の地図の写真は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から借用しました。
 →国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)

 廃止11年前の1975年の岐阜貨物駅です。岐阜駅の西方600mの岐阜市香蘭地区にありました。通常の貨物駅で、コンテナや小口荷物をホームでコンテナ列車や有蓋車・無蓋車に積み込む形式でした。
 岐阜駅は高山本線との分岐点でもあったため、この貨物駅と岐阜駅の西端との間で、時々貨車の入れ替えが行われました。西陸橋と岐阜駅の間にある加納愛宕町の愛宕踏切は、この貨車操車業務の際に列車が行き来する踏切であったため、岐阜駅周辺では一番の「開かずの踏切」として有名でした。  


 写真24-02 旧岐阜貨物駅跡の脇を通過する矢橋ホキ昼便            (撮影日 09/01/24)

  1986年まで貨物駅があった岐阜市香蘭地区は、面積が狭かったことも幸いし、無事に売却され、国鉄の精算事業に貢献しました。
 現在ではすっかり再開発がなされて、大規模店舗と立体駐車場に生まれ変わっています。これに関しては、上記の稲沢操車場跡や吹田操車場跡が広大でありすぎたために、売却・再開発が必ずしも順調ではないことと対照的です。
 手前の左右の広い通りは、上の地図49の右端にある岐阜西通りです。鉄道高架によって反対に道路の高架橋は撤去され、築堤も削られて平面の道路となりました。(岐阜シティタワー43の展望室からの撮影です。) 

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 初の着発線荷役駅(E&S方式の駅)、岐阜貨物ターミナル

 そこで、上記の課題を解決する期待の駅として、岐阜貨物ターミナル駅が、1986(昭和61)年11月1日のダイヤ改正によって開業しました。
 この、「
着発線荷役(E&S)」とは何でしょうか?

 まずは日本語の方ですが、
着発線とは、文字通り、貨物列車が到着したり出発したりする線路のことです。また荷役とは、ごく普通にコンテナなどの荷物を積み降しする仕事のことです。
 英語の「
E&S」方は、Effective & speedy Continers Handling system の略です。直訳すれば、「効果的かつ迅速なコンテナ処理システム」でしょうか。
 
 これだけの説明でご理解下さいというのは無理な話です。
 では、次のページ3で、
岐阜貨物ターミナル駅と着発線荷役について詳しく説明します。


 写真24-03 岐阜貨物ステーションの全景です。岐阜シティタワー43の展望室からの撮影。(撮影日 11/09/18)


 【岐阜県の東海道線あれこれ24 岐阜貨物ターミナル駅2 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

日本貨物鉄道株式会社貨物鉄道百三十年史編纂委員会編『貨物鉄道百三十年史 上・中・下巻』(日本貨物鉄道株式会社 2007年)

 

日本貨物鉄道株式会社写真で見る貨物鉄道百三十年編集委員会編『写真で見る貨物鉄道百三十年』(日本貨物鉄道株式会社 2007年)

社団法人鉄道貨物協会編『2011 JR貨物時刻表 平成23年3月ダイヤ改正 創立60周年記念号』(鉄道貨物協会 2011年)

鉄道ジャーナル取材班「鉄道貨物輸送のシステムと現状」『鉄道ジャーナル2005年5月号』


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