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各地の鉄道あれこれ15
 全国各地の鉄道の話題あれこれについて紹介します。

 各地の路面電車 その5 富山市富山ライトレール 

 前ページで紹介したように、2010年現在、富山県内には、3つの路面電車が存在しています。
 前ページで紹介した
万葉線に続いて、このページでは、富山ライトレールを紹介します。ちなみに、次ページでは、富山地方鉄道富山軌道線(市内線)を紹介する予定です。

このページの記述には、次の文献を参考にしました。
服部重教著『路面電車新時代 LRTへの軌跡』(山海堂 2006年)
土屋靖範著「JR富山港線のLRT転換と課題(上)」『立命館経営学』第43巻第6号(2005年3月)
 http://www.ritsbagakkai.jp/pdf/436_01.pdf
・同(下)第44巻第2号(2005年7月) http://www.ritsbagakkai.jp/pdf/442_02.pdf 




 富山ライトレールとは・・・・

 前ページで紹介した2002年の万葉線の再出発、すなわち、加越能鉄道の万葉線が、第三セクター万葉線となったのは、高岡市と射水市の両自治体と、地域住民の鉄道を支える熱意の賜物でした。
 しかし、富山県におけるこのような動きは、一つ万葉線だけにとどまりません。そこが富山県のすごいところです。
 やや遅れて、
2006年には、富山ライトレールが発足しました。

 この路線は、
JR西日本の通常の路線の一つだった富山港線富山駅−岩瀬浜駅間8.0km)をLRT化して再生を図ったものです。
 
富山港線のもともとのルーツは、1924(大正13)年に敷設された単線電化の富岩鉄道です。この鉄道が1941年には富山電気軌道へ合併され、さらにそのあと、1943年に国有化されました。

 岩瀬は富山の外港に位置づけられる港で、江戸時代から北前船の寄港地として発展してきました。岩瀬地域の人々が、富山市との貨物輸送のための電気鉄道として、富岩鉄道を設立しました。

 戦後は国鉄の路線となりましたが、設立当初の事情から駅間距離が非常に短かい(駅数は10,平均駅間距離880m、大広田−東岩瀬間500mは当時のJR駅中の最短)こと、また北陸本線が交流電化されたのに対して富山港線は当初のままの直流電化方式であること、1986年には貨物線が廃止されたことなどの事情から、国鉄路線を引き継いだJRの中でも、運営維持に課題がある路線となっていました。
 そんな中で1990年代に入ると、利用客数は急激に減少していきました。
 その一方で、2001(平成13)年には、北陸新幹線の建設が決定し、富山駅付近の連続一体高架化が決定されました。これによって、多額の費用がかかる立体化を富山港線も含めて行うのかという問題と、さらに、長野新幹線でも見られたように、新幹線の開通によって、在来線が地域負担の第三セクター化されるという二重の問題が生じました。
  ※旧信越本線と「しなの鉄道」については、→旅行記「長野・群馬・新潟・富山旅行01」をご覧ください。


 この段階で、JR西日本と地元自治体は、JR富山港線について、次のどの道を選択するかの決断をしなければならなくなりました。

 このまま富山港線を維持し、高額の費用を費やして、高架化する。ただし、電流の違いから北陸本線との直通運転などはできない。

 廃線とし、バス輸送に切り替える。

 分離して第三セクターの経営によるLRT化を図る。 

 2003年2月、JR西日本は、富山県の富山港線と岡山県の吉備線を路面電車化し本体と切り離す構想を表明しました。
 早速富山県もこれに応じ、2003年5月には、富山市長が同線のLRT化を受け入れることを正式に表明しました。
 すぐに住民への説明が行われ、6月の市議会には軌道敷設のための調査費用の補正予算案が上程されました。

 7月に設置された富山港線路面電車化検討委員会が行った沿線住民へのアンケートでは、「富山港線の路面電車化」に「賛成」「どちらかと言えば賛成」が合わせて約8割となりました。
 この結果、検討委員会は、第三セクターによる路面電車化、利便性を図るための新駅の増設、15分間隔の運行、超低床車両の導入などを決定しました。

 これらの方針に基づき、2004年4月17日には、富山ライトレール株式会社が設立されました。
 資本金は、4億9800万円で、富山市が33.1%、富山県が16.1%、残りは商工会議所と地元有力企業が14社が出資することになりました。

 総事業費として58億円が計上され、2006年4月を開業日として、以下の準備に入りました。

 岩瀬浜-奥田中学校前の改良、新駅を一つ設置

 奥田中学校踏切−富山駅の廃線

 奥田中学校前−永楽町−牛島新町−牛島町−富山駅駅北の新軌道線の敷設、新停留所「インテック本社前」の建設 

   2連接LRV(超低床車)を7編成導入  


 北前船の寄港地として栄えた旧岩瀬浜、現在の富山港です。富山港そのものは、富山新港の築港によって主役の座を明け渡しました。それも富山港線の衰退につながりました。 

 上の地図は、国土交通省「国土情報ウェブマッピングシステム・カラー空中写真閲覧」の写真を利用して作製しました。下の地図04も同じです。同サイトはこちらです。→http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/


 地図04のグレーの部分は廃線となりました。代わって、赤の部分1.1kmが新設されました。 


 富山ライトレールでは2004年に画期的なできごとがありました

 富山ライトレールの設立によって、画期的なことがありました。
 それまで全く線路(軌道)がなかった市道に、線路が敷設されたのです。
 そこでクイズです。 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 富山ライトレールへの軌道事業特許は、2004年11月におりました。これと同じ特許(普通の鉄道ではありません。あくまで、道路上に路面電車の軌道を敷設する許可です)を当時の運輸省が与えたのは、ずっとさかのぼって、1963(昭和38)年までありません。つまり、41年ぶりです。
  ※『北日本新聞』2009年12月19日の記事より

 このクイズは、ズバリ正解というのは、難しいでしょう。しかし、その期間の長さが、同時に、路面電車の「苦難の歴史」であったことを想像していただければいいかと思います。このクイズに「10年、20年」とか答えた方は、失礼ながら路面電車の歴史について、全く分かっていらっしゃらない方です。
 つまり、その間、41年間、路面電車にとっては、廃線・事業縮小の連続であり、道路上に路線を増設する、新設するなどと言うことはあり得なかったということです。
 今回の
1.1kmの新路線は、本当に画期的なことでした。

 それでは、ついでに、全国のほとんどの方は分かりもしない、答えが想像できないクイズをします。
 その43年前の新線(新軌道)の敷設とは、何線だったでしょうか?
 最大のヒントは、「岐阜市民(周辺住民)なら、何とか分かるかも知れません」です。  


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 そうなんです。
 あの
名鉄田神線が、その前の「特許」と言うことになります。
 その田神線は、2005年3月末で廃線となりました。今では影も形もありません。跡地は残っていますが・・・・。
 高岡市や富山市の「偉業」を分析するにつれ、同じ時期に、路面電車を失った我が岐阜市民は心が痛みます。


 追憶のコーナーです。(-_-;)
 ありし日の、名鉄岐阜市内線田神線です。
 左は、競輪場前停留所ですれ違う、モ880形と最新鋭だったの低床車モ800形。どちらの車両も、現在は、福井鉄道で活躍中です。
 右は、田神線の軌道から専用軌道に入り、市ノ坪の岐阜工場の北側にある市ノ坪駅に停車している、名鉄岐阜駅行きのモ800形です。
 詳しくは、→
岐阜・美濃・飛騨の話「名鉄揖斐線廃線物語1」へ 

 写真15−01 田神線と岐阜城(撮影日 05/03/15)

 写真15−02 田神線市ノ坪駅(撮影日 04/10/24)


 富山ライトレール

 かくして、富山ライトレールは、2006(平成18)年4月に開業しました。
  ※
富山ライトレール株式会社のHPです。→http://www.t-lr.co.jp/
 
 富山ライトレールの車両は、ポートラムの愛称で呼ばれています。港とトラムの合成語ですね。
 7編成は、red、orange、yellow、yellowgreen、green、blue、violet の7色に色分けされています。とてもわかりやすいです。  
 

| 地図01 富山県の3路面鉄道地図へ | | 地図02 富山市周辺路線地図へ |  

 写真15−03 富山ライトレールの路線図で           (撮影日 10/05/01)
 富山北駅に掲示してあった、路線案内です。7.6kmを24分かけて行きます。自転車よりやや遅いスピードです。

 写真15−04 富山駅北に到着するブルー           (撮影日 10/05/01)
 北側から駅前に入ってきますが、牛島町交差点を左折してから駅前までは、道路の中央ではなく、道路西端の芝生軌道を通ります。

運行時刻表比較
 
 左は現富山ライトレールの平日の富山駅北発の時刻表、右は旧富山港線の同じく平日の富山駅発の時刻表です。
 一見して、ライトレール化によって、運行本数が増えたことが分かります。
 旧JR線時代は、平日1日片道20本でしたが、現在は、66本と一挙に3倍以上になりました。
 地方交通線の衰退のパターンは、「利用者の減少」→「ダイヤの間引き等のサービスの低下」→「さらなる利用者の減少」と言う悪循環に陥ることでした。
 これを考えて、新しい会社は、地域の住民に利用しやすいダイヤ編成を取りました。平日昼間15分間隔のわかりやすいダイヤです。
 また、終電は、以前は、21時31分でした。これでは残業のサラリーマンにも、宴会終了後のお父さんにもちょっときつい終電です。
 現在は、23時15分となっています。
 
 ただし、廃線前の我が名鉄揖斐線も奮発して15分ごとのダイヤ編成を行い、結果的に昼間には空気ばかり運ぶと言う状態になっていました。
 ダイヤは基本ですが、それ以外にも何かがないと、乗客数は増加しません。

 名鉄揖斐線の廃止理由については、
岐阜・美濃・飛騨「名鉄揖斐線廃線物語3」へ
 


 写真15−04         (撮影日 10/05/01)

 写真15−05         (撮影日 10/05/01)

 富山駅北に停車中のブルーです。右の写真は富山駅北口から撮影したものです。富山駅北口からすぐです。ただし、2014(平成26)年には北陸新幹が開業し、駅の様子は、ガラリと変わることになります。


 写真15−06 牛島新町交差点           (撮影日 10/05/01)

 富山駅北から出発したポートラムは、200mですぐに右折します。新しい停留所、インテック本社前を過ぎて、牛島新町の交差点に入ってきました。インテックは、富山ライトレールの出資企業の一つです。


 写真15−07  永楽町にさしかかるレッド          (撮影日 10/05/01)

 ポートラムを色で説明していると、まるで、テレビ朝日の○○戦隊○○ジャーのような感じです。車庫に入っている検査の時とかも在りますから、7色全部撮影するのは、なかなか大変です。
 この春に見た、どこかのTV局の2時間推理ドラマでは、このポートラムが出てきました。ポートラムをアリバイに利用しようとした犯人が、別の日に撮影したポートラムの写真を「当日に乗車した」と主張したところ、あとで刑事に、「事件があったその日は、○○色のポートラムは検査日だった。」と指摘されて、アリバイが崩れるというお話しでした。 


 むすび

 2006年4月に開業して満4年を迎えた富山ライトレールは、今のところ、利用客数は開業前の予想を超え、業績は好調です。第三セクターの鉄道の中には、当初から予想どおり赤字を克服できず、地元からの援助に頼り切っているという事業体も在ります。
 しかし、富山ライトレールは、「自立」して地域住民の期待に応えることができそうな様子です。今後は、2014年の北陸新幹線開業=富山駅の立体化によって、駅の南を走る富山地方鉄道軌道線(市内線)との連絡も計画されており、さらに地域の住民に愛されるLRTとしての位置づけが確立する可能性があります。
 頑張ってほしいものです。 路面電車を失った岐阜市の一市民として、心から健闘を祈ります。

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 写真15−08  富山駅に入線する大阪発札幌行き寝台特急北斗星(撮影日 10/05/28)

 この写真には映っていませんが、富山駅は現在北陸新幹線開業へ向けて、大規模な工事が続いています。後方の白い鉄橋は、北陸本線と高山本線の神通川鉄橋です。 


 富山市には、もう一つ路面電車があります。
 次のページでは、富山地方鉄道軌道線(市内線)を紹介します。 


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