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 このGWの旅行はまたまた強行軍自動車旅行  09/05/31記述 09/06/28修正

 2009年5月4日未明から5日夜にかけて、本年度のゴールデンウィークを利用した旅行に行きました。妻と二人の旅行です。

「今度も君と二人旅だ。1泊2日で遠出しよう。」

「高速道路料金も安くなるし、高速道路使って遠くへ行こう。」

「よし、我が家の得意技、人が利用していない時間帯に一気に走るというのをまた採用しよう。」

「行き先は?」

「特に希望がないのなら、半分は鉄道シリーズ、半分は今話題の越後春日山城。あの上杉謙信と直江兼続の。それでいい?」

「春日山はそれでいい。鉄道はどこへ行くの?」

「ひとつは碓氷峠アプト式って知ってる?もうひとつは、谷川岳の下の地下の駅、土合駅。あの映画『クライマーズ・ハイ』で見たやつ。」

「アプト式は知らない。映画『クライマーズ・ハイ』は覚えている。地下から階段をず〜と上がる駅ね。」


 ルート説明と経費      | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 というわけで、日程の基本方針と目的地が決まりました。
 我が家の得意の、『
人が利用していない時間帯に一気に走る』というのは、高速道路は渋滞が予想されますので、他の人が寝ている、未明から早朝、または深夜に走るという作戦です。

 今回は、岐阜の自宅を午前3時半に出発して、360kmほど離れた軽井沢駅に、4時間後の早朝7時30分には着いてしまおうという作戦です。今回の旅行のポイントの一つは、この迅速な移動です。
 結果的に以下の行程・日程になりました。 


 <訪問地と時間、走行距離>
 
日付 時間 行 程 距離 
4日 03:30 岐阜出発 0km 
     
07:28 軽井沢駅着 360km
07:57 軽井沢駅発   
   
08:55 横川駅着 380km
12:30 横川駅発  
   
15:00 草津温泉通過 444km
   
16:55 水上駅着 524km
18:45 水上駅発
     
19:15 越後湯沢着泊 551km
5日 08:00 越後湯沢発  
     
09:50 直江津駅着 631km
13:37 直江津駅発  
   
16:15 滑川着 737km
17:30 滑川発  
   
22:35 岐阜着 983km
  ※全走行距離は983kmとなりました。実質運転時間は19時間30分でした。(休憩、写真撮影時間を含む)

 この旅行の二つ目のポイントは、鉄道を使わず安い高速道路を使用するので、費用が大変安く上がったことです。
 参考までに、経費です。 

項 目

説 明

一人分

二人分合計金額

高速道路料金

岐阜・関(東海北陸)−碓氷峠(上信越)

1,000

2,650

水上(関越)−越後湯沢(関越)

650

滑川(北陸)−郡上大和(東海北陸)

1,000

ガソリン代

全走行距離983km@ 燃費16.9km/リットルA
ガソリン単価 116円/リットルB @÷A×B 

6,747

6,747

鉄道料金  

しなの鉄道 軽井沢駅 入場料

180

360

鉄道文化村入園料+トロッコ列車 

900

1,800

上越線 水上−土合 往復

460

 920

信越本線 直江津−春日山 往復 

280

560

宿泊

越後湯沢ホテルニューオータニ

15,600

31,200

駐車場料金

直江津駅前 駐車場料金

1,000

1,000

総費用

(交通費・宿泊費の総額) 

 

45,237

 今回の二人分の総費用は、45,237円となりました。
 昨年の群馬・新潟・佐渡旅行の総費用が合計 134,720円 であったのに対して、今回は、ホテルが1泊一人15,600円という比較的豪華版であった割には、とても安い旅行となりました。


 最初のテーマは旧信越本線碓氷峠です | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 今回の旅行の最初のテーマは、旧信越本線碓氷峠です。
 旧信越本線というのは、上の行程図↑にあるように、群馬県の
高崎から碓氷峠(群馬・長野県境)−軽井沢長野直江津(新潟)−長岡−新津と経て新潟を結んでいた鉄道路線です。
 現在では、
横川-軽井沢の間は廃線となり、また、軽井沢-篠ノ井間は、JRとは別のしなの鉄道の経営に委ねられています。

 ちょっと堅苦しいですが、
信越本線に関する年表です。


信越本線に関する年表 

年・月

開通区間及び事件

 
1869年 11

政府、東西を結ぶ鉄道の建設を決定

鉄道建設準備期
1872年 09

日本で初めての鉄道、新橋−横浜(29km)開通 

1874年 05

神戸−大阪(32.7km)開通 
 ※この年御雇外国人技師長ボイル、
碓氷峠を実地調査(翌1875年2回目の実地調査) 

1875年  03

中山道幹線鉄道計画により中山道鉄道の測量に着手 

1877年 02

大阪−京都(43.1km)開通

1880年 07

京都−大津(18.2km)開通 ※これにより神戸−京都(94.2km)間が開通

1882年 03

金ヶ崎−長浜(38.6km)開通 ※途中の柳ヶ瀬トンネルは未開通。2年後開通。

1883年  05

長浜−関ヶ原(23km)開通

07

日本鉄道(私鉄)、上野−熊谷(61.2km) 08熊谷−本庄 12本庄−新町 それぞれ開通 

10

太政大臣、中山道幹線の建設を指令(新たに大垣−高崎間の建設)

1884年 05

関ヶ原−大垣(13.6km)開通
日本鉄道、新町−高崎開通 ※これにより上野−高崎間全通
鉄道局長官井上勝、中山道を実地調査に出発

1885年 03

工部省鉄道局長決定「東西幹線は加納(岐阜)から名古屋を経て中山道に入るべきである」

10

官営鉄道の高崎−横川(29km)開業

1886年 07

幹線鉄道建設を中山道から東海道に変更 伊藤内閣総理大臣が東海道幹線鉄道着工指令
中山道幹線鉄道への資材運搬支線として計画されていた、直江津−上田-軽井沢-横川間は、北陸-長野-東京を結ぶ日本横断線として建設続行

1887年 04

直江津-高崎線の上田-軽井沢間着工

1888年 12

直江津−高崎線の上田-軽井沢間完成、これにより直江津-軽井沢間開通
 ※これにより未開通部分は、横川-軽井沢間のみとなる

1889年 07

鉄道による新橋−神戸間全通(1895年、東西幹線の名称を正式に「東海道線」と制定)

1890年 10

碓氷峠越えの諸ルート・運行方法の中で、アプト式の採用決定

1891年 05

碓氷峠中尾ルートの測量完了、06着工

1892年 12

横川−碓氷峠−軽井沢のアプト式を含んだ路線完成 ドイツ製アプト式蒸気機関車が横浜に到着

1893年 04

横川−碓氷峠−軽井沢、アプト式で開業(高崎-直江津間全通 直通列車運行) 




式期
1895年 02

官設鉄道の名称を統一 高崎-直江津間は信越線となる(のち信越本線と改称)

1900年 07

横川-丸山間 複線化 

1906年 03

鉄道国有法施行 

1910年 04

横川-軽井沢間電化工事開始

1911年 11

横川-軽井沢間電化工事完成(横川火力発電所 丸山変電所 矢ヶ崎変電所できる) 

1912年 05

ドイツ製アプト式電気機関車(10000形、後の分類ではEC40形)による列車運行開始 

1919年 06

国産アプト式電気機関車1020形完成(のちのED40−1) 

1921年 05

蒸気機関車全廃 

1934年 03

アプト式電気機関車ED42形配置される  

1960年 09

信越本線電化にともなう運転整備計画を発表 

1961年 04

碓氷新線の起工式行われる  

1963年  09

09/30アプト式旧線廃線 

10

碓氷新線での営業開始 EF63形電気機関車による全列車粘着運転開始 



63粘着運転期
1971年 11

特急白山(489系電車特急)とEF63機関車との協調運転開始  

1987年 04

国鉄分割民営化、JR各社発足  

1989年 08

北陸新幹線高崎−軽井沢間起工  

1996年 01

4者協議会(運輸省、JR,群馬県、長野県)、新幹線開通後の横川−軽井沢間の廃線を正式決定 

1997年
(平成9)
 
06

国の運輸審議会、横川−軽井沢間の廃線決定 
軽井沢−篠ノ井間は第3セクター「
しなの鉄道」への移管を認可  

09

09/30をもって横川−軽井沢間廃線  

10

北陸新幹線高崎−長野間(117.4km)開業 長野新幹線と呼称

廃線

1999年

04

碓氷峠鉄道文化村開園  

 ※この年表の作成には、以下このページの一番下に掲載(↓)してある参考文献一覧を参照しました。 

 あまりにも長い年表でしたので、簡単に整理します。次の質問に答えてください。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 北陸新幹線の高崎−長野間(通称長野新幹線)の完成に伴い、信越本線の横川−軽井沢間は廃止となりました。その理由は、新幹線の開業によって、同区間を利用する乗客数が激減すると推定されてからです。
 また黒板クイズです。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 この数字では、路線の維持はできません。部分廃線もやむ得ないところです。 


 碓氷峠 信越本線の現況   | 全行程目次・地図へ || 先頭へ |

 1997年10月1日以降、横川駅−軽井沢駅間は廃線となり、 横川駅と軽井沢駅は、それぞれ「終点の駅」となってしまいました。下の地図は、現況を示しています。

 この地図は3D地図ソフト『カシミール』を使って描きました。『カシミール』http://www.kashmir3d.com/index.html


 軽井沢駅        | 全行程目次・地図へ || 先頭へ || 軽井沢・横川地図1 現在へ |

 岐阜を未明の03:30に出発して、中央高速−長野自動車道−上信越自動車道路と走って、07:28には軽井沢駅前に着きました。

 写真01−01現軽井沢駅正面(撮影日 09/05/04)

 写真01−02 記念館 (撮影日 09/05/04)

 以前の信越本線軽井沢駅は、現在は北側のしなの鉄道軽井沢駅と南側の長野新幹線軽井沢駅となっています。
 南北を自由通路で結ぶため、新駅は全体が橋上駅の構造に作り替えられました。
 それまでの軽井沢駅は、1910年(1912年説もある)に建てられた明治時代末の面影を残す由緒ある建物でしたが、1996年3月より解体されました。そのすべてを移築することは不可能でしたが、屋根の胸飾り、妻飾り、室内装飾品などが保存移築されて、新駅舎の西側に資料館、旧軽井沢駅舎記念館としてオープンしました。右上の写真です。 


 写真01−03     旧軽井沢駅に展示してあるEC40形アプト式電気機関車    (撮影日 09/05/04)

 記念館の南の待避線路には、記念物として2台の電気機関車が展示されています。
 ひとつは、上の年表(↑)の1912年の項目に登場する、日本最初の電気機関車です。ドイツから輸入され、当初は
10000形と呼ばれましたが、後にはEC40形となりました。

 この碓氷峠の路線で、
日本で最初の電気機関車が走った理由はおわかりですね。
 横川−軽井沢では開業した当初は
アプト式蒸気機関車が使われていました。しかし、蒸気機関車では急な坂をしかも時間をかけて登坂するのは、蒸気機関に石炭をくべると言うことからして、筆舌に尽くしがたい困難を伴いました。

 蒸気機関車による運転が開始されたときの様子を、当時の新聞は次のように伝えています。
 1893(明治26)年4月3日の「読売新聞」の記事です。

「7哩(マイル)に26のトンネルなれば、まるで地下鉄と称すべく、殊に急坂の事とて汽車の速力も極めて遅く、7哩の短距離も1時間を要することなれば、通常鉄道のトンネルよりもなお一層トンネルの長きを覚え、そのトンネルに入りては車窓を閉じ、そのトンネルを出でては車窓を開く。殆ど乗客をして繁忙に堪えざらしめ、若しその繁忙をきらうて車窓を閉じざれば、炭煙は直ちに列車に侵入すべく、またこれ開かざれば窓際より入りし炭煙を散んぜしむる能はず。その不愉快実に言ふべからず。
 乗客の困難はさのことながら機関車員の困難に至っては名状すべからず、炭煙のために面部を黎墨にされ、その光る目と赤き唇を以て機関車を下り来る処は突然人間の不動尊たり。」 

 ※小林收著『碓氷峠の歴史物語』(株式会社 櫟 1997年)P111より

 その結果、1893年の開業から17年後にこの区間のみ全国に先んじて電化を行うことが決定し、1910年に工事が始まりました。そして、1912年には電気機関車による運行が開始されました。横川駅の西にはこの路線に電気を供給する専用の火力発電所が作られ、後述しますが変電所も2カ所作られました。

 下は、 展示されているEC40形機関車の説明版です。 
 写真01−04 (撮影日 09/05/04)  

 文中のラック区間というのは、アプト式の区間という意味です。アプト式については、「長野・群馬・新潟・富山旅行2」で詳しく説明しますが、電気機関車のピニオンとレールの間に敷設した第3のレール(ラック)とをかみ合わせて急坂の登坂力を得る仕組みです。こうすると通常の機関車の動輪(動力を伝える鉄の車輪)と鉄のレールとで生じる摩擦力だけでは登坂できない急な坂でも登ることができます。
 ただしそのアプト式の区間は、
時速18kmというとても遅い速度でした。


 写真01−05    しなの鉄道の電車です。                 (撮影日 09/05/04)

 軽井沢駅の1番線から発車しようとする、しなの鉄道の普通電車です。これは1番線のホームですが、3両編成の電車の最後部の遙か向こう、線路は途切れ、車両止めになっているのが確認いただけますか。
 左手の駅舎側が
記念館で、上で説明したEC40形機関車EF63形機関車が野外展示してあります。


 写真01−06      EF63形2号機                  (撮影日 09/05/04)

 1997年の廃止まで、峠越えに活躍していたEF63形機関車。アプト式ではない通常形式の粘着輸送型の電気機関車です。本当はこの記念館に入って詳しく説明版等を読みたかったのですが、朝の07:30に到着してしまったものですから、この記念館は開館前でした。早朝に移動すると、この点だけはうまくいきません。  


 写真01−07      2番線の東の端。ここから先は廃線。      (撮影日 09/05/04)

 しなの鉄道(旧信越本線の線路は、)ホームの東の先で途切れています。向こうに見える車両は、長野新幹線の整備車両です。新幹線の駅は、しなの鉄道軽井沢駅の南、写真右手側にあります。  


 写真01−08 碓氷峠へ向かう国道18号線旧道から撮影した軽井沢駅方面 (撮影日 09/05/04)

 カーブしているのは長野新幹線の線路です。
 軽井沢から高崎方面へ向かう新幹線線路はここから長いトンネルに入り、峠の北を大きく迂回して、信越本線横川駅の北8kmほどを通過して、安中榛名駅の西でトンネルを出ます。このトンネル(新幹線碓氷峠トンネル)は、長さが6,110mもあります。この大迂回のおかげで、新幹線の最急勾配は、30/1,000にとどめられています。碓氷峠の線路の勾配については、P2以降に詳しく説明します。
 廃線となった旧信越本線は写真一番右の線路です。こちらもここからトンネルに入り、碓氷峠の最頂部をくぐって、群馬県側に出て行きます。


 本題からそれますが、新幹線開業に伴う在来線の第三セクター化について補足します。
 新幹線開業にともなって、在来線の営業が成り立たなくなることから、それまでの在来線を第3セクター化するという発想は、このしなの鉄道が初めてです。ところが、この方式にはいろいろ問題があります。
 

 写真01−09     しなの鉄道の列車 長野駅にて           (撮影日 08/06/13)

 これは長野駅3番線の写真です。途中で分断されています。南側(向こう側)はしなの鉄道の列車が入ってくるホームとなっています。しなの鉄道は、軽井沢から篠ノ井間の鉄道となっていますが、電車は長野駅まで入っています。
 線路のつながりから言えば、篠ノ井−長野間もしなの鉄道の管轄となっても不思議ではありません。この区間は、旅客輸送量も多く、赤字に悩むしなの鉄道としては、直接経営したいところです。さらに、北陸新幹線は今は長野止まりとなっており、事実上長野新幹線ですが、いずれは直江津経由で石川県金沢までつながります。そうなった場合は、当然、長野以北の信越本線も第3セクター化され、少なくとも長野県内の長野−黒姫間は同じくしなの鉄道に委ねられると想定されます。そうなると、篠ノ井−長野間は、一部分だけJR東日本に残ることになっていまいます。
 ところが、この篠ノ井−長野間のしなの鉄道への移管は簡単にはいきません。その理由は、名古屋から来る特急しなの号がこの路線を通っており、JRとしてはこの区間はドル箱路線だからです。しかも長野駅の近くには車両基地もあります。
 しかし、このままではJRの「いいとこ取り」となってしまい、在来線から第三セクター化した鉄道の前途は、暗いものとなります。難しい問題です。 

>
 横川駅   | 全行程目次・地図へ || 先頭へ || 軽井沢・横川地図1 現在へ || 横川1975地図へ |

 軽井沢駅を見学した後、07:57に駅前を出発し、旧国道18号線で碓氷峠を越えて、途中峠の長野県側にあるいろいろな鉄道施設を撮影し、08:55には横川駅に到着しました。
 下の地図・写真は、1975(昭和50)年、つまり横川−軽井沢間廃線前の横川です。


 横川駅は碓氷川が山間部から平坦部に流れ出すことによってできる扇状地の扇頂部にあります。扇状地というくらいですから扇にたとえられているわけですが、扇頂部というのはその要の部分にあたります。
 下の地図では右手が高崎方面、左手が碓氷峠方面です。
 

 上の地図は、いつも利用させていただいている、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムの国土画像情報の写真から作成しました。1975年撮影の航空写真を使っています。 
 国土情報ウェブマッピングシステムのページはこちらです。→http://w3land.mlit.go.jp/
 


 現在の様子はこうなっています。
 写真の撮影場所は、上の地図の撮影地点と示したところで、そこから東側の駅の方を向いて撮影しています。


 写真01−10   横川駅の西側から東、駅方面を撮影            (撮影日 09/05/04)

 上の地図03の時はたくさんの線路が駅の西側へ延びていましたが、今は、写真中央の1本だけが道路の中を西に向かっています。この線路が行く先に、碓氷峠鉄道文化村があります。これについては、「長野・群馬・新潟・富山旅行2」で詳しく紹介します。本線は、左手のバスの向こうで止まっています。
 ちなみにこのバスは、
JRバス関東のそれです。横川−軽井沢間の信越本線が廃線となった後、このバスが両地を結んでいます。ただし、定期運行しているのは、1日8往復のみです。1時間30分から2時間に1本です。


 写真01−11   横川駅                         (撮影日 09/05/04)

 横川駅1番線に停車中の高崎行き普通電車。手前には分厚いコンクリート壁が車止めとして立ちはだかっています。 


【追加写真】 
>

 写真01−15   横川駅と碓氷峠の山々                      (撮影日 09/06/26 追加写真)

 現信越本線横川駅と信越国境の山々。
 「終点」横川駅に近づく普通電車の先頭車両からの撮影です。横川駅手前には、25パーミル(1000分の25の勾配)勾配標式があり、横川駅に来るまででも、幹線鉄道としては十分に急な勾配であることがわかります。
 この写真は、連休の旅行中のものではなく、6月26日早朝の撮影のものです。前日から出張で前橋市に来ていたので、この際復習をと、26日9時からの会議が始まる前に横川に行ってきたのです。朝5時起き、6時出発のいつもの強行軍です。


【追加写真】 
>

 写真01−16   横川駅の線路の端                       (撮影日 09/06/26 追加写真)

 横川駅の1番線に停車した電車の先頭からの撮影。
 かつてこの先まで通じていた線路は、今はここで切れています。
 この写真は、写真01−15と同じ追加写真です。


 写真01−12      (撮影日 09/05/04)

 写真01−13       (撮影日 09/05/04)

 横川駅名物、峠の釜めしは健在でした。駅前のおぎの屋本店さんの釜めしは、900円です。
 容器の裏には「実用新案特許」と書いてありました。茨城県の益子焼きの器でした。

 写真01−14        (撮影日 09/05/04))


【追加写真】 

> 写真01−17   横川駅とおぎの屋                       (撮影日 09/06/26 追加写真)

> 横川駅と元祖峠の「釜めし」おぎの屋。手前の私がたっている道路は旧中山道です。すぐそばに道路標識が立っていて、坂本宿まで2.0km、松井田宿まで6.3kmです。
 この写真は、写真01−15と同じ追加写真です。


 このページはこれで終わりです。
 次ページでは、横川駅のすぐ西にある碓氷峠鉄道文化村の話題です。アプト式や展示されている車両の様子も説明します。


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 この旅行記の予習・復習には以下の文献を参考にしました。 

名取紀之編『碓氷峠』(ネコ・パブリシング社 2007年) 

三宅俊彦著『39RM Library 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(上)』(ネコ・パブリッシング社 2002年) 

 3

三宅俊彦著『40RM Library 碓氷峠の一世紀 運転史から見た横軽間の104年(下)』(ネコ・パブリッシング社 2002年)  

 4

浦野護編著『碓氷線シリーズ アプトの道』(あかぎ出版 1998年) 

 5

浦野護編著『碓氷線シリーズ 写真集峠の廃線紀行 碓氷線・EF63の道』(あかぎ出版 1999年) 

小林宇一郎・黒澤眞一監修『信州の廃線紀行』(郷土出版 1998年) 

原田勝正著『日本鉄道史 −技術と人間−』 (刀水書房 2001年)

松本典久・杉本智彦著『カシミール3Dで見る・自分で描く 空から眺める鉄道ルート』(実業之日本社 2006年) 

小林收著『碓氷峠の歴史物語』(株式会社 櫟 1997年) 

10

馬場典明著『馬場典明写真集 信越本線碓氷峠 最後の四季』(光村印刷 1998年) 

11

今尾恵介著『地図で歩く 鉄道の峠』(けやき出版 1997年) 

12

斉木実・米屋浩二著『ニッポン鉄道遺産』(交通新聞社 交通新聞社新書 2009年) 


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