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各地の鉄道あれこれ13
 全国各地の鉄道の話題あれこれについて紹介します。

 各地の路面電車 その3 松山(伊予鉄道)

 2010(平成22)年3月13日・14日に道後温泉に宿泊して、伊予松山を観光しました。
  ※旅行記:「土佐高知・伊予松山旅行記」は、こちらです。→
 
 松山は、全国の路面電車を運行している19事業体のうち、
伊予鉄道の路面電車が走っているところです。早速、いつものテーマ、「路面電車と天守閣」に挑戦してみました。 

参考文献 このページの記述には次の本を参考にしました。
服部重敬著『路面電車新時代 LRTへの軌跡』(株式会社 山海堂 2006年)
大野鐵・速水純著『伊予鉄が走る街 今昔 定点対比50年』(JTBパブリッシング 2006年)


 伊予鉄道

 下の地図をご覧ください。伊予鉄道は、松山市内の軌道線と、中心部から郊外へ延びる3本の鉄道線を持つ、50万都市松山とその都市圏を支える重要な鉄道です。
 その歴史は古く、1888年に、
三津−松山間が開通したのが最初です。三津は、松山北西の伊予灘に面した松山の外港です。外港と市内中心部を結ぶ路線としてスタートしました。
 現在は、通常の1067mmの軌間ですが、開業当時は762mmの狭軌で、いわゆる
軽便鉄道でした。1911年には現在の1067mmに改軌されています。



 坊ちゃん列車

 観光客の増加に熱心な伊予鉄道は、2001年から坊ちゃん列車を運行しています。
 この列車は、伊予鉄が開業時代から67年間運行していた軽便鉄道の蒸気機関車と客車をモデルにしたものです。元の機関車は、ドイツのクラウス社と言うところから輸入されたもので、762mmの軌道の蒸気機関車ですから、とてもかわいい機関車でした。
 夏目漱石の松山中学赴任時代にはもちろん走っており、小説『坊ちゃん』にも、「マッチ箱のような汽車」として登場することから古くから
坊ちゃん列車という愛称があり、そのレプリカとして登場したのが下の写真の列車です。
 蒸気機関車風の機関車は、実は最新式のディーゼル機関車で、煙突からは煙に見立てた蒸気が出ています。 


 写真13−01 坊ちゃん列車              (撮影日 10/03/14)
 道後温泉駅の待避線には、坊ちゃん列車占用の待避線があります。立派な説明版付きです。

 写真13−02 坊ちゃん列車の客車           (撮影日 10/03/14)
 道後温泉駅で出発待ちです。

 写真13−03 城南線           (撮影日 10/03/14)
 城南線大街道電停に近づく坊ちゃん列車。

 写真13−04  夜の道後駅              (撮影日 10/03/13)
 道後駅に並ぶ左モハ68号(昭和37年製)と右モハ57号(昭和29年製)。

 写真13−05 大街道電停のモハ2002号           (撮影日 10/03/14)

 どこの路面電車もそうですが、車両の多くは、相当古いものが現役で頑張っています。
 それともう一つ、あちこちの路面電車から移籍してきたものが何輌もあります。モハ2002号は、京都市電の最後の新造電車で、1964年から65年にかけて製造されたものですが、1977年に移籍してきました。小改造が行われ、1979年〜80年にかけて運行をはじめました。


 写真13−06  勝山町電停のモハ2101号          (撮影日 10/03/14)

 アルナ工機(現アルナ車両)の開発した国産型超低床車「リトルダンサーシリーズ」のうちの一つとして、2002(平成14)年から導入された車両。現在は、合計10両が走っています。


 路面電車と天守閣

 さて、このページの本題、路面電車と天守閣です。
 まず、下の中心部路線図をご覧ください。
 この松山市も町の中心に平山城があり、その南側には県庁と市役所があります。そして、うってつけに、天守の真南に南北に路線が走っている部分があります。まるで、電車と天守閣を撮影してくださいと、誰かがわざと作ったようなシチュエーションです。 




 写真13−07  東堀端通り          (撮影日 10/03/14)

 天守閣から望んだ東堀端通りと市役所庁舎


 写真13−08 東堀端通りの2101形           (撮影日 10/03/14)

 2101形がやってきました。これだけ天守閣から見えるのであれば、下からもきっといいアングルで撮影ができるはずです。


 写真13−09 天守閣           (撮影日 10/03/14)

 東堀端通りの市役所前電停から天守閣を仰いだ撮影です。


 写真13−10 2101号と天守閣           (撮影日 10/03/14)

 無事撮影できたモハ2101形と松山城天守閣です。


 写真13−11 76号と天守閣           (撮影日 10/03/14)

 モハ76号と天守閣です。


 熊本(→各地の路面電車その1)、そして高知(→各地の路面電車その2)に続いて、この松山でも、路面電車と天守閣のセット撮影に成功しました。
 江戸時代からのお城のある城下町とそこを走る路面電車。
 定番の風景が松山にありました。
 伊予鉄道は、松山都市圏を支える私鉄です。バスも運行しています。
 他の都市の路面電車と同じく、最盛期に比べて利用客数は減少していますが、あの手この手の経営努力で頑張っています。坊ちゃん電車しかり、超低床車導入しかり。下は、400円で購入できる「1Dayチケット」です。私が利用したもので、平成22年3月14日の利用であることが分かります。
 市内均一料金は150円です。この日私は、道後温泉−大街道、市役所前−大街道、大街道−道後温泉と3回乗りましたから、もう元手はとれた勘定です。 


 写真13−12 伊予鉄道市内線電車・バス 1Dayチケット       (撮影日 10/03/14)

 おらが町の鉄道会社だから、ちょっと苦しくても、経営努力が続けられます。
 
 実は、我が岐阜市も、かつてはお城と路面電車が同時に撮影できる時代がありました。1911年に路面電車が開業し、2005年3月31日に廃線となるまでの、94年間もの長い間です。
 しかし、残念ながらその電車は廃線となってしまいました。 


 写真13−13 岐阜城と路面電車             (撮影日 04/11/07)

 岐阜城と背景に、長良川の忠節橋橋梁を渡る、ありし日の名鉄電車岐阜市内線モハ780形です。


 そうなってしまった事情があります。
 天守閣と路面電車と言っても、岐阜の場合は、熊本や高知や松山とは少し事情が違っていました。
 まず、城は市街地の中心にある
丘陵上の平山城ではありません。金華山上の岐阜城は、標高329mの金華山頂部にある山城です。これは、電車が廃線となった間接的な理由です。
 山城では、、町全体を観光化するには不十分です。平山城の周りに市街地を形成するという具合にはいきません。現に市内中心部の歓楽街と、城の登り口は、距離にして3kmほど離れています。これは、観光客の動線という点では、不都合なものでした。

 もうひとつは、決定的な違いです。
 走る電車は、
名鉄電車の岐阜市内線です。岐阜市交通局の路線ではありませんし、美濃電気鉄道の路線でもありません。
 市内電車は、1911年に開業した時は、岐阜市内に本拠を置く、美濃電気軌道の路線としてスタートしました。ところが、美濃電気軌道は、尾張北部から木曽川を越えて岐阜に進出してきた
名古屋電気鉄道と1930年に合併し、名岐鉄道となりました。さらに、名岐鉄道は、名古屋以南に勢力を持つ愛知電気鉄道と1935年に合併し、名古屋鉄道(名鉄)になりました。
 結果的にこの
名古屋鉄道は、尾張南部・北部と美濃を勢力下に置く、大手私鉄となりました。

 各路線の営業成績が好調の時代は、「大きなものの傘下に入る」ことは、地方都市岐阜にとって好都合でした。大資本の資本投下を促すことができたからです。
 しかし、地方路線の営業成績が悪化してからは、
美濃電気鉄道ではなく名古屋鉄道であったことが、結果的に岐阜市内線の廃線につながりました。
 名古屋に本拠を置く大鉄道会社にとって、本体の利益を守るためには、地方の不採算路線を切り捨てることは、至極当然な論理だったからです。
  ※名鉄の岐阜市内線の廃止については、次を参照にしてください。岐阜・美濃・飛騨の話「名鉄揖斐線廃線物語」
 
 歴史に「もし」は禁物ですが、もし、美濃電気軌道が合併されずにそのまま岐阜を拠点に残っていたら、この危機に対して営業努力をするか、岐阜市との結びつきを深めるか、いずれにしても、簡単には廃線の道を進まなかったと予想されます。廃線となれば、会社そのものが消滅してしまうからです。
 
 この点でも、「岐阜は名古屋の植民地」というのは、悔しいですが的を射た表現です。
  ※これについては、次を参照してください。岐阜・美濃・飛騨の話「JR北口織田信長像と岐阜の歴史」

 松山から我が郷土岐阜の話になってしまいました。
 伊予鉄道の今後のますますの隆昌を祈ります。  


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