岐阜の原風景・現風景5
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
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 JR岐阜駅北口前広場の織田信長像と岐阜の歴史 その1
 
 JR岐阜駅北口前広場整備事業が完成

 県都岐阜市の玄関、JR東海道線岐阜駅の北口前広場整備事業が完成し、2009年9月26日に完成記念式典が開催されました。
 式典には、岐阜市長を始め、8月の衆議院銀選挙で当選したばかりの方も含め、複数の国会議員等が出席し、幼稚園・保育所・保育園の園児の大合唱、県立岐阜総合学園高校太鼓部の演奏などが賑々しく行われました。


 写真01 岐阜駅北口広場の原風景
 この写真は、大正末期から昭和初期の岐阜駅前広場の様子です。北口駅前を北東方向から撮影しています。この駅舎は、岐阜駅の3代目の駅舎で、1913年7月に完成し、太平洋戦争末期の1945年7月の岐阜空襲で焼失するまで使われました。
 岐阜駅の歴史は、岐阜美濃飛騨の話「岐阜県の東海道線あれこれ 14」で詳しく説明しています。(こちらです→) 

   ※出典 岐阜市役所編『岐阜市史』(岐阜市 1928年)P376の次ページの挿入写真


 写真02 2009年10月整備完成後のJR岐阜駅北口前広場。(撮影日 09/10/03)
 駅正面と駅前通の北側とを結ぶ、U字型の歩行者用デッキが特色です。この写真は、上の大正・昭和期の写真とは違って、駅広場の西側上空からの撮影です。広場西にそびえる岐阜市のランドマークタワー、岐阜シティ・タワー43の43階展望室から撮影しました。


 これは、JR岐阜駅高架化が完成したあと、駅前南口・北口広場の整備事業が行われ、先に完成していた南口広場に続いて、北口広場の整備も完成したものです。岐阜市は、本年が市制120周年にあたり、それに向けて整備事業が進められてきました。
 完成した広場は、約26,500平方メートル(おおむね125m×200mの長方形)の広さがあり、高低7000本以上の木々が植えられ、キャッチフレーズは、「
杜の駅」ということになっています。
  ※『広報 ぎふ No1630』(岐阜市 2009年10月15日号)参照


 写真03 北口正面出口のキャッチコピー (撮影日 09/10/03)
 「岐阜市制120周年 時をこえ心をむすぶぎふ120年
未来への「飛翔」 杜の駅 9/26 祝完成」 


 金々の織田信長像

 さて、この広場で注目すべきものは、式典で除幕式が行われた、広場中央にそびえる金色の織田信長の像です。
 これは、像そのものの高さが3m、台座を含めると約11mもの高さがあるもので、県内の企業や市民の募金によって建立され市に寄贈されたものです。
  ※『岐阜新聞』2009年9月26日夕刊から


 写真04 広場中央の織田信長像 正面         (撮影日 09/10/18)
 岐阜駅のコンコース(ホームが3階にあるため2階になります)から
北口玄関(写真ではそこに私が立って撮影しています)に出ると、階段の向こうに信長像がでんと立っています。


 写真05 織田信長像 背面         (撮影日 09/10/18)
 背面からの撮影です。岐阜駅を真正面に見据えて立っています。信長の右手に見えるのが、広場から駅2階玄関に向かう階段です。


 写真06 織田信長像 正面 像高3m、台座からの高さ11m。         (撮影日 09/10/18) 


 写真07・08 織田信長像 アップ  (撮影日 左右とも 09/10/18)
 新しもの好きの信長」というイメージから、マント西洋の鎧、そして火縄銃という出で立ちです。 右は、コカコーラの看板を背景に。後ろで吹き上がっているのは、あくまでコカコーラです。


 写真09 早朝の電車と信長 (撮影日09/10/18)

 写真10 43階から   (撮影日 09/10/03)

 写真11 中秋の名月と信長像 何を思う  (撮影日 09/10/03)


 何故織田信長か

 JRの駅前に、とりわけ県都の駅前には、どこの県でも、その地のゆかりの文化財や人物などの彫刻があって、その地のイメージを作っています。その意味では、新しくできた織田信長像は、岐阜市のイメージを代表するものとなるかも知れません。岐阜市としては、「岐阜と言ったら信長・・・・」というイメージを作ろうというわけです。
 
 でも、岐阜県民の私から見ても、「う〜ん、信長か−」と、ちょっと考えてしまう部分があります。 「
何故駅前に信長」なのか、これについてちょっと考えてみたいと思います。
 
岐阜にとって信長とは何なのでしょうか信長にとって岐阜とは何だったのでしょうか

 岐阜市が信長にこだわるのは、もともと尾張清洲の出身であった信長が、尾張の統一のあと、隣国であった美濃を征服し、岐阜のシンボル金華山の山頂にそびえ立つ岐阜城を居城としたことによります。

 そこで、まずは率直にクイズです。
 

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 写真12 岐阜城の東に朝日が昇ります。手前の川は長良川。  (撮影日 09/10/18)


 信長自身と岐阜との縁は、僅か、9年です。
 信長は、そもそも先祖から居城としていた清洲城から、北方の尾張
小牧山城に居城を移します。1563(永禄6)年のことです。その目的は、岐阜城攻略の拠点としては、より美濃との国境の小牧山の方がふさわしいとの思いでした。
 信長は、そのときの状況と戦略に応じて居城を移す、非常に合理的な発想の持ち主でした。小牧山を居城としていたのは僅か4年です。
 そのあと、美濃を攻略して1567年に岐阜に移り、岐阜城を拠点としました。ついで、近江を攻略し、京都進出を図りました。そして、
1576年には居城を安土城に移しました。
 したがって、岐阜城在城は、僅か9年です。

 県都には、県の歴史を象徴するイメージのモニュメントがあってしかるべきです。しかし、岐阜の町の長い歴史の中で、たった9年しかこの岐阜にいなかった信長を、その象徴に担ぐというのは、なかなか思い切った発想です。

 そこには、岐阜ならではの、歴史と事情があります。次ページへ続きます。(来週以降掲載) 


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