西濃鉄道石灰石専用列車と
大垣赤坂金生山05
 通称「矢橋ホキ」って知っていますか?貨物列車の1編成から産業と故郷を考えます。
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 赤坂金生山1 山の歴史 化石館 虚空蔵  

 矢橋ホキを追っかけて、赤坂金生山の麓まで来ました。ここらでその本家本元の赤坂金生山について説明します。ここは鉄道の説明ではなく社会科や理科の勉強です。矢橋ホキは脇役です。 


【参考文献一覧】     

 金生山化石研究会編『金生山 その文化と自然』(金生山化石研究会 1981年)

 金生山化石研究会編『金生山 西美濃の生いたちをさぐる』(金生山化石研究会 1997年)

 大垣市文化財保護協会編『金生山 空と海と石』(大垣市文化財保護協会 1995年)

 赤坂町史編纂委員会編『赤坂町史』(赤坂町役場 1953年)

 大垣市編『大垣市史 青墓編』(大垣市 1977年)

 貝沼喜久男著『金生山讃歌』(1995年)


 写真05−01 南荒尾信号所を通過する矢橋ホキ             (南荒尾@積 撮影日 08/07/12 )

 朝1番の石灰石列車が美濃赤坂線から南荒尾信号所を通過して東海道線に入ります。背後には、矢橋ホキが石灰石を積み込んだ金生山が見えます。中央部の緑がはがれている山がそれです。もちろん、石灰石の採掘によって緑は失われています。その手前の緑は金生山の南にある独立の丘陵、お勝山(標高53m)です。
 国道21号線の高架橋の土手から撮影しました。
 余談ですが、
お勝山は1600(慶長5)年に日本の歴史の舞台に登場しています。この年は、この地域の少し西の美濃国関ヶ原で、徳川家康と石田三成による天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦がありました。両軍が関ヶ原に布陣する前、石田三成は大垣城に入り、江戸から攻めてくる徳川家康方軍勢を待ちました。ところが、攻城戦を回避しようとした徳川家康軍は大垣城に近寄らず、のちに中山道と呼ばれることになる街道沿いの町であるこの赤坂の地に布陣しました。
 この時徳川家康が布陣したのが、この
お勝山の高台です。最も当時は、この丘陵は岡山と呼ばれていました。戦いののち、徳川家康の戦勝を記念して、お勝山と呼び名が代わりました。 

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 金生山とは1 写真と地図から

 金生山とはどんな山なのでしょうか?
 まず、右の
地図03を見てください。この地図は、国土交通省ウエブマッピングシステムにある1987年のカラー空中写真を4枚合成した元写真から作りました。20年前の写真ですから市街地の様子等細かい点は違いますが、地理的な位置関係はほぼ現在と同じです。
 金生山は池田山山系の南東端にあたり、全山石灰岩の山です。石灰岩の採掘は、現在では東側および中央部で行われており、河合石灰工業・マルアイ鉱業・三星砿業(矢橋石灰鉱業へ供給)・上田石灰製造の4社が、
露天の石灰岩をベンチカット採掘法(階段状に面を作って順に掘り下げていく方法)によって採掘しています。右図の中央部「金生山」の文字の左右に、階段になった部分が見られます。大型パワーショベルやブルトーザーで起砕した原石を大型ダンプカーに積載して、山裾の工場へ運んで、加工しています。工場群は、東から南及び西にかけての山裾に展開し、特に右図「金生山」の文字の左下の昼飯地区には、巨大な工場群が展開しています。
 頂上部
Lには、持統天皇時代の創建と伝えられる虚空蔵菩薩で有名な真言宗の寺院、金生山明星輪寺があります。
 やや南に下った
Kには、金生山化石館金生山神社があります。
 のちにページを代えて説明する
西濃鉄道は、現在では、金生山の東の山裾を通るの市橋線を運行しています。地図には南の山裾を巡るの昼飯(ひるい)線が描いてありますが、この路線は、2006年3月31日をもって廃線となりました。いずれも、美濃赤坂駅JR美濃赤坂線と接続しています。
 赤坂の町の中央部には、東西に
旧中山道が通っています。
 
Bは東海道線の下り本線です。関ヶ原へ向かう昇り急勾配を避けて山よりに迂回する緩勾配の路線です。

東海道線下り本線については、「岐阜県の東海道線 垂井線の謎」を参照してください。(→  


 金生山とは2 文献から

 金生山とはどんな山なのでしょうか?文献からの引用で、その姿を概観します。

 ※赤い太字は引用者が施しました。

「 大垣市街のほうから北西の方向をながめると、地肌がむき出しになった小高い丘のような小さな山が目に飛び込んでくる。標高217m、東西約1km、南北2kmの小さな山である。周囲の山と違って緑が少なく、姿こそ少々痛々しいのだが、私たちの生活にもかかわりが深い大切な山なのである。
 
全山が石灰岩でできているため、古くは江戸時代から石灰岩が掘り出されており、現在では日産約1万tもの石灰岩が取り出されている。石灰岩はそのままか、あるいはふもとの工場で消石灰などに加工されて、さまざまな方面に供給されている。たとえば、製鉄の副原料、化学薬品やセメントの原材料、食品添加物などに使われている。
 石灰岩の主成分は炭酸カルシュウムであるが、どこから来たものだろうか丸いものや貝の破片のようなものもある。それらの多くは
太古の海に生活していたフズリナやサンゴ、二枚貝などの化石で、体を作っている殻や骨格がカルシュウム分でできている。その成分が岩石全体に広がっているのである。
 金生山の化石は江戸時代の博物学者木内石亭がその著書「雲根志」に紹介しているが、明治になって初めて学問的に研究されるようになり、国内外の多くの地質・古生物学者が訪れている。そのため世界的にも有名となり日本の地質学・古生物学の発祥〈はっしょう)の地と言われるほどになっている。
 明治の初めのころは、まだ日本では古生物学的な研究が行われていなかった。ヨーロッパの古生物学者、ドイツの
ギュンベルは・明治7年(1874)赤坂石灰岩から初めてフズリナ類を認め、シュードフズリナ・ジャボニカと命名している。明治16年(1883)にはやはりドイツから来たシュワガーもその著書に赤坂石灰岩から採集されたたくさんのフズリナ類を記載している。そうした外国の学者の研究に日本の学者も注目し始め、明治31年〈1898〉には小藤文次郎、明治35年(1902)には脇水鉄五郎〈1867〜1942)が金生山の地質学的な研究を発表している。
 脇水鉄五郎はハンマーーつで精力的に山を調査し、一週間はどで論文を完成したという逸話も残っている。その中にある「赤坂石灰岩分層配布図」は現在も採石や研究の基礎資料となっている。その後は矢部長克博士や小沢儀明博士によりフズリナに関する有名な研究がなされている。
 今でも休日や夏休みともなると、金生山には学生の巡検や小学生の一団と、さまざまな人々が訪れハンマーをふるっている。皆、太古の生物に出会うことに心をときめかせながら何時間もがけや岩石にはりついて見てまわる。こうした人の中からも、将来の日本の地質学や古生物学の研究を引き継ぐ学者が生まれるのではないだろうか。」 

 金生山化石研究会編『金生山 西美濃の生いたちをさぐる』(金生山化石研究会 1997年)P9−10

  
 引用文によれば、金生山の意義は、
1石灰石の産地2化石研究のメッカ、ということになります。もう一つ付け加える必要があります。3建築資材としての大理石、また、大理石による置物等の加工品の産地という点です。

 3つ目の分野の代表的な企業が、1901(明治34)年創業の矢橋大理石株式会社です。美濃赤坂駅の東には同社の原石ヤードがあり、巨大なクレーンが目を引きます。赤坂産の大理石は、国会議事堂や日本銀行旧本店、旧岐阜県庁(原岐阜県総合庁舎)の石材として使用されています。

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 写真05−02   美濃赤坂駅と矢橋大理石工業                 (撮影日 08/12/27)

 石灰石より先に、大理石の説明をします。美濃赤坂駅の東に隣接して、矢橋大理石の原石ヤードが有ります。駅構内には、まもなく到着する矢橋ホキ2番列車空荷を待つ、DE機関車がいます。(右端)上の地図03のの位置からの撮影です。


 写真05−03  矢橋ホキを待つEF65。背景は矢橋大理石の原石ヤード。    (撮影日 08/12/27)

 矢橋ホキ一番列車の石灰石積み込みを待つEF65機関車です。背景は矢橋大理石の原石ヤードです。

 写真05−04         (撮影日 08/07/05)

 矢橋大理石の原石ヤードの北部にある巨大なクレーン。
 美濃赤坂駅からこの矢橋大理石構内へは引き込み線が敷設されており、以前は大理石も美濃赤坂線を使って運搬されていました。 
 

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 金生山の石灰岩はどうしてできたか 理科の勉強です

 上述のように、金生山は石灰石・大理石の産地であると同時に、化石の宝庫であり化石研究のメッカです。石灰岩と化石の結びつきは、日本に存在している石灰岩がどのようにして生まれたのかを確かめると理解できます。
 日本は良質の石灰岩を豊富に産する国です。他の鉱産資源は石油・鉄鉱石などほとんど輸入に頼っていますが、石灰岩は豊富に産出し、輸出までしています。
 日本に石灰岩鉱床が豊富に存在する理由は、
プレートテクトニクス理論で説明されます。プレートテクトニクス理論とは、例の大陸移動や地震の原因を説明する理論です。金生山の場合、次のように説明されます。

 石灰岩は、太古の海にいたフズリナやサンゴ等の海洋生物の死骸に含まれていた殻や骨格などのカルシウム分が主成分となって形成された岩石です。

 赤坂金生山は、地質年代でいう古生代の石炭紀やペルム紀に赤道地域の海で形成された珊瑚礁(サンゴ+フズリナなどの死骸)が元になってできた岩石です。今から3億年から2億5000万年ほど前のことです。珊瑚礁ができるためにはそこに島が必要です。海洋の場合、その島の元は、海底から噴火した火山によって誕生した島です。海洋プレートには、時々活動してはマグマを吹き出すホットスポットと呼ばれるマグマの吹き出し口があり、それによって誕生した火山島の周りに、珊瑚礁が形成されていきました。 

 火山島+珊瑚礁は、年間数センチのスピードで動くプレート移動によって、次第に赤道地域から北方へ向かい、北半球にあった大陸(現在のユーラシア大陸の元祖)の方へ近づいていきました。ただし、この時点では日本列島はまだ存在していませんでした。

 大陸の近くで海洋プレートは大陸のプレートと衝突し、その下に沈み込みます。この時、火山島のすそ野の部分は海側のプレートともに大陸プレートの底に沈み込んでいきますが、上部(珊瑚礁の部分)ははがれて陸側のプレートに取り込まれ、大陸側の地層の一部となっていきます。石灰石に限らず、この原理によって、日本列島そのものが大陸側の地層と海側から付加された地層によってだんだん形成されていきました。
 
金生山の元の火山島が大陸プレートと接触したのは、1億5000万年前ジュラ紀(あのジュラシック・パークのジュラ紀です)と考えられています。

  ちなみに、赤道地域のホットスポットでは、何十万年、何百万年の間を置いて、定期的に海底火山が爆発して火山島を作っています。つまり、火山島ができては北に移動していき、また次の火山島ができるという具合に、長い目で見ると、それらが列をなして大陸のプレートに向かって移動していったわけです。そして、金生山と同じように衝突して、大陸側に石灰岩地層の元をなしていきます。
 岐阜県の南部でいうと、北から
郡上八幡、美山、本巣、金生山、養老、藤原(岐阜県の東南境から三重県に入ったところに存在)と並ぶ石灰岩層や、それと並列する伊吹、霊仙の石灰岩層は、いわば、何億年も前に赤道地域で形成された火山島が次々に大陸に近づいて来て取り込まれた結果といえます。 

 1〜5の石灰岩の形成については、「石灰石鉱業協会」のホームページにイラスト付で紹介されています。こちらです。
 トップページ http://www.limestone.gr.jp/
 説明ページ http://www.limestone.gr.jp/introduction/index.htm

 金生山上には、赤坂商工会によって設営された金生山化石館があり、金生山で産出した化石約300点が展示されています。


 写真05−05  美濃赤坂駅で出発を待つ矢橋ホキ           (美濃赤坂@積 撮影日 08/12/27)

 出発を待つ朝一番の矢橋ホキ。美濃赤坂駅の7番貨物線。後方の緑の山が金生山。見づらいですが手前の部分と奥の部分が重なって写っています。手前の山(黒い屋根白い壁の2階建ての家の右手)の山頂部分に金生山化石館があります。自動車でも登れます。駐車場も有ります。


 写真05−06       (撮影日 08/07/05)

 写真05−07         (撮影日 08/07/05)

 金生山化石館の外観です。

 内部には数々の化石が展示されています。

 写真05−08         (撮影日 08/07/05)

 写真05−09         (撮影日 08/12/27)

 石灰産業に関する説明もあります。

 元赤坂小学校校長・元赤坂町長の熊野敏夫先生のコレクションが展示品の中心です。先生を讃える讃える銅像です。


 発展学習です

 上の勉強の確認です。
 以下の説明図のように、濃尾平野の北から西にかけては、3億年から2億5千万年前頃に海で形成された石灰岩層が点在し、各地に鉱山があります。


上の説明図は、NASA World Wind (http://worldwind.arc.nasa.gov/index.html) の写真から作製しました。


 写真05−10 住友大阪セメント岐阜鉱山                   (撮影日 04/12/05)

 廃線になった名鉄揖斐線の薮川鉄橋を渡る電車と住友大阪セメント岐阜鉱山(揖斐郡大野町稲富)です。虹と一緒に撮影できました。
 名鉄揖斐線については、「名鉄揖斐線廃線物語」をご覧ください。(→)


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 金生山 100年の変化

 金生山は、標高217m、東西約1km、南北2kmの全山が石灰石からなる山です。
 明治時代の研究者脇水博士によれば、その地質構造は右図のようになっていると推定されます。
 南東部の赤坂市街地に近い方が古い地層で、北西に方向に行くほど新しい地層となっています。

 この金生山から、石灰石・大理石が掘り出されたのは、いつからでしょうか?
 古くは、なんと平安時代初期に編纂された史書『続日本紀』に、金生山から大理石が搬出されている記述が見られます。
 江戸時代後半には、石灰石は肥料・漆喰の原料などとして、大理石は工芸品の素材として、さかんに掘られていました。

 しかし、近代以前は採掘技術も未熟なため、それほど大量の岩石が掘られたわけではありませんでした。脇水博士が描いた20世紀初頭の金生山は、山の周辺部のみが採掘されたにとどまっています。(下左の地図04)
 しかし、それから百年後の現在では、採掘箇所は全山に広がり、地図03の1987年と、それから20年余りをへた現在と比べてみても、大きな変化が分かります。(下右の地図05参照)  


 1900年頃の金生山は、南部を中心にほんの山裾の部分が採掘されているにとどまっていました。
 しかし、100年後の21世紀初頭では、グーグルアースの画像で緑が残っている部分は、山全体のほんの一部になりました。 例外的なのは、金生山化石館・虚空蔵菩薩像の付近で、比較的広い面積で非採掘面が残っています。
 脇水博士が描いた時代の金生山の各部分の小山、
愛宕山花崗山月見山などはすでに存在しません。また、標高217mの最高点も、写真では完全に残っているかどうかが確認しづらい状況です。この点については、もう少し正しく調査しなければなりません。 


 以下、現在の金生山の姿をいろいろな角度から写真で紹介します。 

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 写真05−11   金生山全景                             (撮影日 08/12/06)

 岐阜駅前の岐阜シティ・タワー43の43階からの撮影です。中央に中央が金生山の全景です。その真後ろには伊吹山が見えるのですが、残念ながら雲の中です。


 写真05−12  金生山北部の東側面                         (撮影日 08/11/01)

 揖斐川鷺田橋上流の堤防上から撮影した金生山北部の東側面です。中央部は大きくえぐられています。後方は伊吹山です。標高1377.3mです。

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 写真05−13  金生山北部の北東側面                        (撮影日 08/07/19)

 上のと同じ部分を角度を変えてずっと北東側から撮影したものです。中央部のえぐれた部分がよく分かります。


 写真05−14  金生山北面。旧名鉄揖斐線薮川鉄橋から。             (撮影日 05/02/27)

 懐かしい写真ですみません。今はなき名鉄揖斐線の薮川鉄橋を渡る高橋尚子デザインの電車です。鉄橋の右半分の後ろに金生山の最北部が写っています。背景は、岐阜・滋賀・三重県境の霊仙岳です。
 名鉄揖斐線については、「名鉄揖斐線廃線物語」をご覧ください。(→)

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 写真05−15   金生山化石館と虚空蔵菩薩                (撮影日 08/07/19)

 上に比べると緑の多い部分です。左端の緑は金生山化石館がある部分、右の緑は虚空蔵菩薩(金生山明星輪寺)がある部分です。ついでですから、下にその説明を掲載します。


 写真05−16 虚空蔵菩薩(撮影日 08/12/27)

 写真05−17 虚空蔵菩薩説明(撮影日 08/12/27)

 写真を撮ってくるのを忘れましたが、虚空蔵菩薩の裏手(北側)の未採掘部分には、石灰岩地帯につきもののカルスト地形がほんの少し残っていて、「奇岩」を見ることができます。


 写真05−18 金生山南面                            (撮影日 08/09/27)

 手前の道路は名神高速道路です。大垣インタチェンジと養老サービスエリアの中間部分に当たります。大垣養老高校西の牧田川堤防上からの撮影です。中央部のえぐれた部分が痛々しい感じです。

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 写真05−19   金生山南部西側面                         (撮影日 07/12/26)

 西側の東海道線下り本線(緩勾配路線)を米原に向かう、富山行き特急しらさぎ号です。南西部には昼飯地区の大工場群があります。これは次のページで説明します。


 写真05−20  金生山遠景、東南側                (揖斐川鉄橋@積 撮影日 08/12/27)

 このページ最後の写真は、もう一度ちゃんと矢橋ホキの登場です。石灰石を満載して、揖斐川鉄橋にさしかかった矢橋ホキです。背景の低い丘が金生山です。南東側から眺めです。

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 このページはこれで終わります。
 次のページは、「金生山その2」です。
 金生山における石灰採掘の様子、工場の状況、そして、このまま採掘するとあと何年で石灰石は涸渇するのか?
 次も社会科・理科の勉強です。


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