岐阜県の東海道線あれこれ26
 岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 岐阜貨物ターミナル4 コンテナ輸送とJRの貨物輸送 11/11/07記述

 このページでは、JR貨物のコンテナ輸送の詳細を、岐阜貨物ターミナル駅等の写真と数々のグラフ・表・説明図を使って、やや詳しく説明します。写真はそれほど貴重品ではありませんが、グラフ・表・説明図の中には貴重なものもあるかと思います。

  ○国鉄及びJRのコンテナ輸送の発達 
   ・「表05 国鉄・JRコンテナ列車速度推移」      ・「説明図16 JRコンテナ貨車の開発系統図」
  ○JRコンテナと私有コンテナ(ついでに私有貨車) 
   ・「説明図17 JRコンテナの開発系統図
   ・「表06 私有コンテナの推移
  ○ちょっと余談ですが・・・・、あの時の新鶴見操車場の貨車群は?ー国鉄廃棄貨車売却ー
   ・「説明図18 国鉄貨車売却の損得勘定」    ・「グラフ03 JR貨物の保有貨車の内訳
  ○究極のスピードアップは・・・スーパーレールカーゴ
   ・「説明図19 M250系スーパーレールカーゴの編成

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 国鉄及びJRのコンテナ輸送の発達

 鉄道の強みの一つは、長距離を高速を利して短時間に時刻どおりに輸送することです。
 東海道線が全通した1889年当時は、新橋(1914年に東京駅の開業にともない路線が変更されて、貨物専門の汐留)ー大阪間は、40時間から50時間ほどの時間がかかっていました。しかし、その時間は次第に短縮され、1934年の丹那トンネル開通後には、大阪梅田ー汐留間の急送品列車は、15時間45分で走りました。
 1959(昭和34)年に汐留ー梅田間に始めた走った
コンテナ専用特急貨物列車たから号は、両駅間を10時間55分で走りました。貨車操車場方式によらない拠点直送方式のコンテナ輸送に活路を見出そうとした国鉄は、一般貨物列車の高速化と同時に、コンテナ列車の高速化・輸送量の拡大を進めます。
 国鉄の経営は1964年度から赤字に転じますが、貨物部門においては、1970年代中盤にかけてしばらくは幹線における輸送需要は衰えてはいませんでした。特にコンテナ輸送の将来性を見込んだ国鉄は、24ページ(→)で示したように、この状況を受けて、東京貨物ターミナル(1973年開業)などの新設を行いました。
 コンテナ車の改良も進み、1971年から
コキ50000形式(37トン積み、最高時速95km)を量産し、国鉄時代の高速コンテナ列車「フレートライナー」の拡大を支えました。
  ※参考文献1 『貨物鉄道百三十年史 下巻』P425−429
  ※参考文献2 『写真で見る貨物鉄道百三十年』P148−149
 
 JR貨物となってからもコンテナ列車の高速化のための開発・整備の努力は続けられ、現在では、
コキ100系を中心とした最高時速110kmの高速コンテナ車両が多数派を占め、列車そのものは、時速110km列車100km列車が中心となっています。
 普通の駅で電車を待っている時にコンテナ列車が通過していく場面に遭遇する時がありますが、そのスピードといい全体の重量感といい、ものすごい迫力です。
 次の表はJR時代になってからの運転速度別コンテナ列車の推移です。 



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 これらの努力の甲斐もあって、コンテナ列車の運転所用時間は、年々改善されて来ています。
 東京-大阪間を例にとれば、1975年8時間30分、1985年7時間47分、1986年6時間59分、2000年6時間38分、そして、2004年には6時間12分となりました。(6時間12分という現在の最高速列車については、下で説明します。)
  ※参考文献1『貨物鉄道百三十年史 中巻』P335・478


 コンテナ列車の形式をすべて説明するのも煩雑ですから、以下に現在の主力である最高時速110km/hのコンテナの開発系統図を掲載します。その次に、代表的なコンテナ貨車を紹介します。



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 写真26−01    コキ50000形式コンテナ車              (撮影日 11/10/24 名古屋貨物タ)

 1971年から量産された国鉄時代を代表するコンテナ車(37トン積み)。10.7ft(5トン)のコンテナを5個、もしくは20ft(10トン)のコンテナを3個積載。金属ばね式の台車と新しい制御弁を用いた空気ブレーキを装置を備え、速度95km/hのコンテナ車となりました。総計3609両が生産され、現在も80%ほどが活躍しています。   


 写真26−02    コキ100形式コンテナ車              (撮影日 11/09/19 岐阜貨物タ)

 1971年から量産されたコキ50000形式のコンテナ車は最高速度95km/hであったため、JR貨物時代となってさらに高速輸送を目指すためには不十分でした。そこで開発されたのがコキ100・101形式です。最高速度が110km/hに上がっただけではなく、床面高さ8ft6in(2591mm)の国際海上コンテナも輸送できるよう車台の床面を110cmから10cm低い100cmに下げ、荷重は長さ20ftコンテナを3個搭載できるように40.5トンとし、新しい制御弁を採用したCLE電磁自動空気ブレーキ装置をつけ、また台車のオイルダンパ機構を改良し軸ばねに防振ゴムを装備しました。
 また、塗装は、車体色はJR貨物カラーのコンテナブルー、台車と床下機器はグレーになり、それまでの
コキ50000形式の茶色からはイメージが一変しました。
 上の写真の
コキ100−60は、全体に車体の青色がくすんでしまい、文字の所だけがきれいにされています。4両を1ユニットとし、コキ101+100+100+101で運用されています。
 
コキ100・101形式はその後改良されて、コキ102〜106・コキ110・コキ107形式が開発され、このコキ100系が現在のJRコンテナの主力となっています。
 ※参考文献1 『貨物鉄道百三十年史 下巻』P450−453 参考文献2 『鉄道ジャーナル2005年5月号』P60−61  

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 写真26−03    コキ200形式コンテナ車              (撮影日 11/10/24 名古屋貨物タ)

 このあまり見かけない赤いコンテナ車は、2000年に開発されたもので、総重量24トンのタンクコンテナを2個積載できる48トン積みのコンテナ車です。重いタンクコンテナを運ぶため、100形式に比べて車長は短く、また、台車の間隔も狭くなっています。 

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 国鉄・JRコンテナと私有コンテナ(ついでに私有貨車)

 同時にコンテナそのもの開発も進みました。
 国鉄時代最初のコンテナである1959年に開発された
5000形式は、現在の12ftのコンテナサイズよりはややこぶり10.7ftのコンテナでしたが、荷物は5トン積載でき、これがその後の「5トンコンテナ」の始祖となりました。その後、1970年代前半のコンテナ輸送の拡充に合わせて、1971年には長さ12ftの5トンコンテナ、C20形式が開発され、以後35,934個も量産されて活躍しました。
 ※参考文献1 『貨物鉄道百三十年史 下巻』P496

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 写真26−04 C20コンテナ(下)(撮影日11/10/20)

 写真26−05 C20コンテナ (撮影日 11/10/24)

 国鉄時代の主力コンテナ、C20形式。荷重5トン・長さ12ft(3658mm)・容量17立方mは、現在のコンテナに直接つながる基本形となりました。
 左は、岐阜貨物ターミナル駅のコンテナホームの東端に放置されている
C20−17855。倉庫でもないようです。
 右は、地元の岐阜市西郷地内の会社の倉庫になっている
C20−30933。どちらも産業遺物ですね。


 JR貨物は、会社発足後すぐにコンテナ輸送の発展のために利便性及び物流効率化に効果的な新しい規格のコンテナを多数製作しました。これが18A形式以降のシリーズです。コンテナ種類一つ一つ説明していては、貨車以上に煩雑になりますから、以下にそのまとめを掲載します。
 コンテナにあまり興味のない一般の方でも、この26ページを印刷して、
説明図16・17の系統図等を持っていれば、駅で見かけるコンテナ列車やコンテナの番号に興味が湧くかもしれません。(無理か、(-_-;))

 
2011(平成23)年1月5日現在のJRコンテナ保有個数61,763個で、バブル期直後の1995年の77,862個をピークに少し減少しています。
  ※参考文献3 『2011 JR貨物時刻表 平成23年3月ダイヤ改正 創立60周年記念号』P166

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 写真26−06・07  左:V19C19EV19B  (撮影日 11/10/31)  右:20C    (撮影日 11/10/08)

 駅を通過していくコンテナ列車を何気なく見ていても早く通り過ぎて何もわかりませんが、コンテナホームに置いてあるものを一つ一つ確認すると、ずいぶん多くの種類があることに気がつきます。 
 左の写真の左上
V19Cは最新型の12ft荷重5トン通風両側開き、中央19Eは12ft荷重5トン有蓋両側開き、右上V19Bは12ft荷重5トン通風妻側2方開きです。
 右の写真の2つはともに
20C、12ft荷重5トン有蓋両側開きです。


 ここまでの説明は、コンテナのうち国鉄やJRが保有するコンテナについてです。
 次は、国鉄やJRではなく、企業等が保有する
私有コンテナについての説明です。

 コンテナの保有形態の基本は、往復いずれも利用が可能な
12ft(5トン)の汎用コンテナ(有蓋コンテナ、通風兼用コンテナ)と一部の20ft(10トン)コンテナはJR貨物が保有し、それ以外のほとんどの20ftや30ftコンテナや、冷凍・タンク・ホッパなどの特殊構造のコンテナは、利用企業・運送会社などが私有コンテナとして保有することとなっています。特殊構造のコンテナは使用が限定されるからです。 
 次の
表06は国鉄時代からの私有コンテナの個数の推移です。

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 表05を見ると、JR時代になってからも、私有コンテナの個数はおおむね増加し、2000年以降は減少気味であると確認できます。
 
 列車やコンテナを見ていて、大変面白いのは、実は上記の各企業の私有コンテナのカラフルな様子です。以下に岐阜貨物ターミナル駅等で見かけた私有コンテナのほんの一部を紹介します。 


 写真26−08 30ftの私有コンテナ                               (撮影日 11/10/08)

 左:日本通運のU47A−38093、30ft(13.7トン積み)で、両側の扉が上に折り曲がって全開(ウイング・ルーフ)するタイプ。先頭の記号は私有コンテナを示します。
 右:大阪に本拠を置く物流企業センコーの
U52A−39520、31ftのウイング・ルーフ型。  


 写真26−09 無蓋車・特殊車                            (撮影日 11/10/31)

 左・右:日本通運の無蓋コンテナ、UM12A−5880、同5854。荷物は不明です。鋼材か何かでしょうか?UM12Aは無蓋コンテナを示す記号です。
 中央:ブリジストンのカーボン・ブラック専用コンテナです。  


 写真26−10 これはホッパ車                                  (撮影日 11/10/08)

 こちらは、MCLC三菱化学物流株式会社のUH17A−5091、5050、5086です。これはポリ・スチロール専用のホッパーコンテナです。下部の穴からペレット状の荷物を降ろすことができます。UH17Aの記号は、ホッパ車を示す記号です。  


 写真26−11 JOTコンテナ  (撮影日 11/10/11)

 写真26−12 タンクコンテナ(撮影日 11/10/08)

 左:岐阜貨物ターミナル駅では一番多く見かけるJOT(日本石油輸送)のコンテナ。日本石油輸送ですから一般的なイメージでは、タンク車やタンクコンテナによる石油や化学品の輸送ですが、広告によると通常の有蓋・通風コンテナでは、青果物や食品を輸送すると書いてありました。写真のコンテナの中味は何でしょうね。
 右:ニューヨークに本拠を置く多国籍物流企業、
Trans America Leasing社PMAーP専用タンクコンテナです。PMA−Pというのは、プロピレン・グリコール・モノメチルエーテル・アセテートという化学物質で、半導体の洗浄に使うもののようです。このコンテナはレアものです。


 写真26−13 トヨタコンテナ (撮影日 08/08/09)

 写真26−14 名古屋臨海鉄道(撮影日 08/07/21)

 左:最も有名な私有コンテナ列車のひとつ、トヨタ自動車の部品等を、知多半島の工場群から名古屋臨海鉄道−東海度本線−東北本線経由で岩手県盛岡まで運ぶ列車。撮影場所は、東京の京浜東北線上中里駅、早朝でした。
 右:割合は少なくなりつつありますが、車扱貨物、つまり、貨車そのものが特定企業の所有となっている貨物もまだ全体の10数%はあります。この写真は東海道線笠寺駅からつながる名古屋臨海鉄道の東港駅の様子です。右端の青い列車名トヨタのコンテナ車、次は通常のコンテナ車、左側には黒いタンク車が列をなしています。いずれも、岐阜駅や岐阜貨物ターミナル駅方面へはやって来ない列車ですから、岐阜県民には珍しく映ります。
矢橋ホキもこの東港駅に停車します。
 ※「西濃鉄道石灰石運搬専用列車矢橋ホキ」 シリーズもどうぞ(→)

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 ちょっと余談ですが・・・・・、あの時の新鶴見操車場の貨車群は?−国鉄貨車売却−

 ちなみに、全国の貨車の総数は、最盛期の1969(昭和44)年には169,240両を数えましたが、2004(平成16)年3月の時点ではその数は、私有貨車も含めて、14,841両となっています。
 この激変の課程でもいろいろなドラマがありました。


 上記のようにコンテナ列車のスピードアップやコンテナ輸送の拡大がなされていきましたが、その間の1984(昭和59)年2月1日のダイヤ改正においては、駅の位置づけとしての貨物操車場(ヤード)が全面的に廃止され(ヤード的機能そのものはこの時点でもいくつかの駅に残される)、貨物列車の1日の本数は、それまでの3204本から一挙に1670本減の1534本となりました。
 コンテナ列車が輸送の主流となるとともに、それまでの通常の
貨車輸送は、ほとんど廃絶となってしまったわけです。(→詳しくは24ページの「国鉄末期の苦悩と貨物駅の整備−貨車操車場の機能分化と発展、そして挫折−」を参照
 その結果、次のようなこともおこりました。


 写真26−08  神奈川県の新鶴見操車場です              (撮影日 1984年)

上の写真は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から借用しました。方位は右側が北、下が東です。   →国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)

  航空写真で見るとまるで小さな虫の行列のようにも見えるこの物体は、新鶴見操車場に停留されている、貨車群です。といっても仕分けされてこれからどこかへ向かうという列車ではなく、上記の国鉄の貨物輸送の改正とヤードの廃止によって必要がなくなり廃車となる運命の貨車群です。1983年末には85,000両もあった貨車群のうち、45,000両が廃止対象となりました。
 ただし、これらのうち、27,000両は本当に廃棄されましたが、残り
18,000両は廃棄とは異なる扱いを受けました。
 
 実は、
屋根付き貨車で老朽化していない18,000両は、民間に売却されたのです。
 この事実は、1983年・84年のことですから、現在インターネットで検索しても、詳しいことはわかりません。また、27年も前のことですから、現在30代半ばより上の方でないと、そんな事実があったこともご存じないかもしれません。
 過去の事実を埋もれさせないために、ちょっと古い新聞を調べてみました。
 
国鉄貨車売却の話は、1983年9月の新聞に報じられていました。

「売り出しは、来月1日からで、本社や全国九ブロックの地方資材部を窓口とする予約システム。国鉄では「市販の簡易倉庫より割安。すでに一部の木魚などから引き合いがある」というが、肝心の売れ行き見込みについては「見当が付きません」。
 貨物部門の合理化は、赤字の大きな原因となっているヤード(操車場)系輸送をやめて拠点間直行方式に変換、取扱駅も457駅に半減しようという計画。これにより、貨車45,000両、機関車700両が不要になる。最盛時の44年には152,000両あった貨車が3割足らずに減る勘定だ。
 このため国鉄では、特に貨車を中心に開発途上国への「払い下げ」や魚礁への利用など、あの手この手で活用を探ってきたが、決め手は見つからずじまい。結局、大半はクズ鉄にして売るにしても、できる限り倉庫用などに売却することにした。(中略)
 これまでも不要になったコンテナや企業や農家、学校、スポーツクラブなどで倉庫や物置代わりに使われており、56年度は1500個、57年度は850個売れた実績があり、この「コンテナ人気にあやかりたい」ということのようだ。」 

『朝日新聞』1983(昭和58)年9月20日朝刊 

 一応計算すると、以下の様な数字がはじき出され、国鉄にも、購入する民間団体・個人も利益があるという寸法です。
 しかし、新聞の論調にもあるように、当初は、果たして購入する人がどのくらい出るのか、うまくいくのかどうか全く予想できない状況でした。

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 ところが、蓋を開けてみると、この貨車売却商売は、大成功を収めました。その様子を新聞で見ていきましょう。
 先の記事から、僅か10日後には次の記事が掲載されました。

「国鉄は貨物部門の大合理化でいらなくなる貨車を売りに出すことを先に決めたが、予約受付の来月1日を待たずに、すでに504件、約1800両の申し込みがあった。国鉄が29日集計したもので、それによると用途は、倉庫や用具入れはもとより、別荘やレストラン、喫茶室から魚礁用と、幅広い。これによる収入はざっと3億円前後。「正直なところ、思ったより好評」と気をよくした国鉄は、1日からの正式受付へ向けて、さらに宣伝攻勢をかける考えだ。」 

『朝日新聞』1983(昭和58)年9月30日朝刊 

 正式申し込みの前にすでに問い合わせが殺到し、中には全国にチェーン店を持つ外食業者から倉庫として200両から300両の申し込みもあったとのことでした。
 新聞記事で追いかけたところ、申し込みから半年後の
1984年3月31日の集計では、10,591両の申し込みがあり、売り上げ総額は16億4000万円あまりとなったそうです。さらに7月末には、13,400両を越えました。
 地域別に見ると、中部圏の2562両が最も多く、北海道、東北と続くそうです。一番人気の車種は、黒色の方開きドア車ワラ1で、続いて茶色の両開きドア車ワム80000となりました。上記の引用記事以外の用途では、アーケード式の商店、スキー場のロッジ、カフェバー、保育園の遊び場、高校の部活動の部室、居酒屋、お寺の待合室、子どもの勉強部屋、テニスの室内練習場などもありました。
 中でも東京の西武デパートは、国鉄から買い取った貨車に特注のサッシをはめ込み床やカーペットを敷いて別荘や書斎用に改造し、98万円から150万円程度で売り出すという積極的な転売商法に出たということです。

『朝日新聞』1984(昭和59)年3月17日夕刊、同4月19日朝刊、同7月31日朝刊、
『毎日新聞』1984年4月25日夕刊 

 貨車売却から、28年。
 さすがに貨車の耐久年数ももはや過ぎ去り、1万数千両売却されていった貨車も残り少なくなったと想像されます。
 身近に残存している場合は、写真に残しておきましょう。貴重な
産業遺産です。 

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 写真26−09 ワム380000形(撮影日11/10/20)

 写真26−10 売却貨車(撮影日 11/10/24)

 左:国鉄時代最後の新造貨車、有蓋車ワム80000形の一部は、JRに移管されたあと、1991年から荷台の強化、側方扉のアルミ化などを施し、紙輸送専用ワム380000形として現在も使われています。ただし最高速度は75km/hです。
 写真は、岐阜貨物ターミナル駅に朝9時前後に停留している6170列車(梅田→稲沢)の一部です。(→全体は23ページ「紙専用輸送列車」)
 右:岐阜市の西郷地内に残存する、1万数千両が売却された旧国鉄貨車の一つ。現在も農家の倉庫として「活躍」しています。「
産業遺産」になると思います。

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 ついでに、JR貨物全体の貨車保有数とその内訳を掲載しておきます。JR貨車といっても、92%以上がコンテナ車です。


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 究極のスピードアップは・・・スーパーレールカーゴ

 JR貨物の一般的なコンテナ列車の最高時速は、110km/hです。ところが、JR貨物には、1列車(一往復)だけ特別に、最高時速130kmで走る列車があります。
 それこそ、究極のスピードアップ列車として開発された
スーパーレールカーゴです。スーパーレールカーゴは通常の機関車が先頭からコンテナ車を牽引する形式のコンテナ列車ではなく、「コンテナ電車」の形式となっています。
 このコンテナ電車の開発は、1999(平成11)年の「
高速貨物輸送「カーゴ21」プロジェクト」の設置にはじまります。このプロジェクトでは、東京・大阪間の宅配貨物便を高速輸送するというこれまでにない輸送サービスの基本構想にたち、計画の早い時期から佐川急便と協定を締結して新しい車両の開発を進めました。
 新しい車両の基本的条件として、
東京(東京貨物ターミナル)と大阪(梅田)間を6時間以内で運転することを掲げられ、その実現のために東海道線を特急電車と同じ時速130kmで走ることが目標とされました。このため、通常の機関車牽引形式では、出力の大きなモーターを積載した重い機関車の軸重が軌道へ悪影響を与えてしまうことを考慮し、電動車を列車の前後に配置して動力と軸重を分散した貨物電車形式が採用されました。
 高速の貨物電車を走らせるには様々な技術的な壁がありましたが、2002年10月には第一編成が完成し、試験運転を1年半行って問題点を克服し、2004(平成16)年3月1日のダイヤ改正から登場しました。
 このコンテナ電車は、
東京貨物ターミナル駅と大阪安治川口駅間を僅か6時間12分で結んでいます。途中、静岡貨物駅稲沢駅には、乗務員の交代のため停車(両駅とも2分停車)しますが、あとはノンストップで、発着駅間の表定速度(駅間距離を所要時間で割った数値)は90.6km/hを記録しており、これはその昔の東海道線の特急こだま号の84km/hをしのぐスピードとなりました。
 また、荷役や発着時の時間も節約するために、パンタグラフにも工夫がなされています。この編成には前後に電動車が4両あり、それぞれに1個ずつのパンタグラフが付いています。もちろん全力を発揮するためには4個のパンタグラフから集電する必要がありますが、1個からの集電でも動くモードが設定されています。このため、本来
東京貨物ターミナル駅→航空写真はP24にあります)では、荷役線上には架線がないため、発着線に到着したコンテナ列車は、荷役のためにディーゼル機関車が交代してコンテナ車を荷役線に押し込むということが必要ですが(詳しくは→P25の着発線荷役の説明を参照してください)、荷役に邪魔にならないように荷役線の入り口まで張ってある架線を利用して、そこから集電できる先頭電動車の1個のみのパンタグラフを使うだけで編成全体を動かせるようにしてあるのです。このため、ディーゼル機関車に切り替える必要はありません。
 このコンテナ電車は、もちろん岐阜貨物ターミナル駅には停車しません。上り(東京行き)は
午前0時59分に、下り(大阪行き)は午前3時36分に通過します。どちらも真夜中です。残念ながら岐阜周辺では、普通には見ることができません。写真撮影も通常では困難です。
 編成は、次の説明図19のとおりです。
 ※参考文献1  『貨物鉄道百三十年史 下巻』P460−463 

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 写真26−01 コンテナ電車、岐阜貨物ターミナル駅通過              (撮影日 11/11/05)

 「この真っ黒の写真は何だ」、ノートパソコンをご利用の方は、ただの真っ黒に見えているかもしれません。
 非難を承知であえて掲載した、岐阜貨物ターミナル駅を午前0時59分に通過する東京行きのコンテナ電車の先頭電動車です。右端の白い部分は前面のライトです。中央の白っぽい部分は、コンテナです。左端には、電動車後部の青い波の模様の部分が見えると思います。きっと。じっくりそう思ってみてください。(^_^)

 真夜中に130kmの速度で通過するコンテナ電車を撮影することは通常では無理です。東京か大阪の方なら、荷役のために停車しているところを撮せばいいかもしれませんが、岐阜には停まりません。
 しかし、チャンスはないことはないのです。
 上にも書いたように、
真夜中の稲沢駅では、運転士の交代のために、2分ほど停車します。夜でも停車していれば、何とか撮影できます。これに敢えて挑戦するかです。
 実は、すでに真夜中の稲沢駅に2度出かけて、挑戦しました。一度は停車場所がわからず失敗し、一度は手ぐすね引いて待っていたら、何とコンテナ電車自体が運休でした。自宅から稲沢駅まではいくら真夜中でも自動車で50分はかかりますから、往復一時間半以上を費やして、「運休」はこたえました。
 以後、まだ挑戦していません。いつか気分が充実したら、また遠征しようと思っています。


 このページでは、JR貨物のコンテナ輸送について、コンテナ貨車・コンテナ・廃棄貨車・スーパーレールカーゴなどを題材にやや詳しく説明しました。
 次の27・28・29ページでは、岐阜貨物ターミナル駅における着発線荷役の現場での具体的な事象を題材に、さらに詳しく説明します。 


 【岐阜県の東海道線あれこれ26 岐阜貨物ターミナル駅4 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

日本貨物鉄道株式会社貨物鉄道百三十年史編纂委員会編『貨物鉄道百三十年史 上・中・下巻』(日本貨物鉄道株式会社 2007年)

 

日本貨物鉄道株式会社写真で見る貨物鉄道百三十年編集委員会編『写真で見る貨物鉄道百三十年』(日本貨物鉄道株式会社 2007年)

社団法人鉄道貨物協会編『2011 JR貨物時刻表 平成23年3月ダイヤ改正 創立60周年記念号』(鉄道貨物協会 2011年)

鉄道ジャーナル取材班「鉄道貨物輸送のシステムと現状」『鉄道ジャーナル2005年5月号』

  中島啓雄著『現代の貨物輸送』(成山堂書店 1997年)


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