各務原・川崎航空機・戦闘機14
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 □追加3 −航空自衛隊岐阜基地その2 戦争遺跡V 弾痕−
     
 基地内に現在も残る遺物・遺跡  

 現在の航空自衛隊岐阜基地の内部や周辺には、戦時中の遺跡・遺物がたくさん残っています。
 すでに、戦争遺跡Tで西飛行場と東飛行場の間の誘導路(下の地図の地点)を、戦争遺跡Uで長根山・矢熊山周辺の掩体壕(下の地図
の地点)を紹介しました。  


航空自衛隊岐阜基地周辺の戦争遺跡は次のページで紹介しています

誘導路

□戦時下の各務原基地と川崎航空機工場 −戦争遺跡T 誘導路−

飛行機掩体壕

□空襲に備えて −戦争遺跡U 飛行機掩体壕−

塀の機銃弾痕

□追加3 −航空自衛隊岐阜基地その2 戦争遺跡V 弾痕−


 ここでは、基地の壁に残る米軍機の機銃掃射の機関銃弾痕や、基地内の遺物を紹介します。


 その前に、上の地図と下の地図、つまり現在と昔の各務原基地を比べて、違うところ同じ所を確認します。
<同じ点>

  1. 川崎重工業の工場は、ほぼ同じ場所に存在しています。

  2. JR高山線、名鉄各務原線も同じ所を走っています。

<違う点>
  1. 東飛行場の部分は現在は畑や宅地となっています。

  2. 主滑走路は延長され敷地の東西に長く伸びています。

  3. 基地西半分の北側に接して、国道21号線が片側2車線で通っています。

  4. 三井山は、境川放水路の建設の際に建設用土砂として削り取られ、中央部がなくなりました。


 基地の塀に現在も残る機銃掃射の弾痕                      | このページの先頭へ |

 すでにこのシリーズの説明の至る所で触れてきたように、現在の各務原市には、太平洋戦争当時の「戦争遺跡」(戦時遺跡)が多数残っています。

 その中には、ちょっと探検しなければならなかったり、探さなければならなかったりするものが多いですが、「この機銃掃射の弾痕」は、一番簡単に見ることができるものです。
 項目10(こちらです)で説明したとおり、各務原は、1945年6月以降、何度も戦闘機の襲撃を受け、爆撃やロケット弾攻撃、機銃掃射を受けます。

 その機銃掃射の弾丸の痕跡は市内数カ所に残っていますが、最も大量に目立つところに残っているのが、以下の写真です。
 場所は、上の地図の
Cの部分です。

 この地点では、現在は、国道21号線が、名鉄各務原線三柿野駅のすぐ西で跨線橋によって線路をまたいでいますが、その跨線橋の部分のすぐ南に隣接して、国道との間に現在の航空自衛隊岐阜基地の塀が数百メートルにわたって続いています。
 この塀の大部分は、戦時中の陸軍航空廠の塀がそのまま使われており、そのコンクリートの塀にかなり多くの弾痕が残っているのです。
 


 左の写真は、地図のCの部分を跨線橋の下からから見たものです(西向きで撮影)。
 写真の撮影地点の東には、現在の川崎重工業南工場(工場の本体は名鉄各務原線の北にある)の門と航空自衛隊岐阜基地の北門があり、上を国道21号線の跨線橋が通っています。
 写真左手(南側)は、岐阜基地、右手(北側)は跨線橋下の駐車場。

 右の写真は、航空自衛隊岐阜基地の塀を国道21号線沿いの歩道から、東に向かって撮影したもの。左の写真に写っている跨線橋の坂が、右の写真では、国道の先に映っています。二つの写真の撮影地点の間、300メートルほどに、いくつもの機銃掃射の弾痕(または、それらしきもの)があります。


 国道21号線三柿野跨線橋と航空自衛隊岐阜基地の間の細い道を通ると、各務原市歴史民俗資料館お墨付きの、「機銃掃射によって破壊された塀の支柱」を発見することができます。
 左の写真の一番手前の支柱です。右の写真は、同じものを角度を変えて撮影したものです。背景の空色のビルは、航空自衛隊岐阜基地内の建物です。
 右の写真の支柱の右側の塀には、機銃弾によって生じた丸い跡をコンクリートで丸く補修した部分が見えます。


 左上の写真は、跨線橋を西側に降りた所の、国道21号線の歩道に沿った部分での撮影です。弾痕と思われるものが映っています。
 思われるものという表現なのは、ひとつひとつの弾痕らしきものには、「これが機銃掃射の弾痕」などの解説がないからです。市の歴史資料館がちょっと費用をかければできそうですが、まだ作られていません。

 左の写真は、左上の弾痕を正面から撮影したものです。
 右上の写真は、左より、支柱2つ分跨線橋に近付いた場所にある同様の痕跡です。
 この二つは、国道を自家用車で走っていても見ることができます。ただし、交通量が多いところですから、うろうろ探すとあぶないです。この写真で位置関係をよく覚えてから、試してください。


 この2枚写真は、塀の別の部分のものです。
 これがすべてではありません。もうくどくなるからこれでやめますが、塀の至る所に、機銃掃射の弾痕と思われるものが残っていることが理解していただけたと思います。


 基地基地の外には、説明も看板もありませんが、実は、基地の中には、ちゃんと説明版があります。(以下の写真は、友人のT氏の撮影によるものです。協力感謝。)


 基地内からみた外壁部分。塀の向こうの斜めの構造物は、国道21号線の跨線橋です。
 塀の中と外の位置関係は、上の各務原市歴史民俗資料館お墨付きの、「機銃掃射によって破壊された塀の支柱」の部分となります。


 説明板のアップです。こういう説明板を基地の外にも作ってほしいです。


 説明版の西側部分の弾痕です。


 基地内の戦争関連の遺物・碑などなど                       | このページの先頭へ |

 以上の弾痕の他、基地内には、いろいろな戦争関連の遺物や碑が残っています。いくつかを写真で紹介します。


 古くからの格納庫。この撮影のあと、3棟のうち2棟は解体されました。

 陸軍航空廠史跡碑。


 飛行第一連隊の記念碑。

 少年飛行兵の記念碑。


上左:戦時中の零式三座水上偵察機の残骸。

上右:現在の広報本部の建物は、戦前からのもの。戦後アメリカ軍が進駐したときは、この建物に司令部が置かれた。

左:三菱が開発した旧日本軍のロケット推進の戦闘機秋水の模型。
 左上の零式3座水偵の隣には、1998年まで秋水の本物の機体が展示されていました。
 この機体は、1961年、横浜の日本飛行機杉田工場(旧名:富岡工場)の土中から発見されたものです。このままでは、貴重な資料が朽ち果てていくばかりであったため、

 1998年、三菱重工に渡され、機体の修復がなされました。
 2001年に修復が完了し、現在は、三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所小牧南工場・史料室(愛知県豊山町)に展示されており、見学が可能です。
 


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