各務原・川崎航空機・戦闘機09
| メニューへ | | 前へ | | 次へ |

 □空襲に備えて −戦争遺跡U 飛行機掩体壕− 
     
 本土空襲                                

 1944年7月にマリアナ諸島のサイパン島などを手に入れたアメリカ軍は、超大型の爆撃機B29の基地の整備に入り、本国から続々と爆撃機を送って、本土爆撃の準備に入ります。

 初空襲は、11月24日の東京北西郊外武蔵野町(現在の武蔵野市)にある中島飛行機武蔵製作所の工場群でした。護衛戦闘機のないこの時期は、高度8000メートル以上からの
昼間高々度精密爆撃でした。
 12月13日には、名古屋の三菱発動機・航空機工場が爆撃されます。

 この段階でのアメリカ軍の
爆撃の第一目標は、日本の航空機工業であり、1944年中に、武蔵野の「中島」は3回、名古屋の「三菱」は2回爆撃されました。
 昼間高々度精密爆撃でしたが、実際には天候がよくないことやジェット気流が強すぎて爆撃機の相対速度が高速になってしまったことなどから工場群への命中率は、アメリカ軍の期待したほどではありませんでした。(しかし、以下に示すように、方法を変えた度重なる爆撃で、しだいに効果を上げ、1945年には最終的に工場は壊滅状態となりました。)

 しかし、皮肉なことに、はずれた爆弾は、逆に周辺の民家等に大きな被害を与えました。
 3回の中島爆撃とその威力にショックを受けた武蔵野町の町役場は、中島の工場から少しでも離れたところが安全というわけで、庁舎を移転するといったほどでした。
 ※松浦総三・早乙女勝元・土岐島雄監修朝日新聞東京本社企画第1部編
   『ドキュメント写真集 日本大空襲』(原書房 1985年)P58
 

 言葉遣いが難しいですが、B29爆撃機の日本本土は初空襲は、この年、1944年6月16日の北九州の八幡製鉄所爆撃です。
 ただし、これは、サイパン島などマリアナ諸島からの爆撃ではかく、中国四川省の成都からの爆撃行でした。
 (これについては、詳しくは、日本史クイズ911をご覧ください。こちらです。
 つまり、B29爆撃機の最初の目標は、製鉄所だったのです。

 しかし、マリアナ諸島からの爆撃の時点では、目標が変更されました。
 上述の中島航空機武蔵製作所というのは、この時点で、我が陸海軍の主力戦闘機である、
一式戦隼、二式戦鍾馗、四式戦疾風、海軍のゼロ戦、紫電改のエンジンのすべてを生産する工場でした。
 ここを執拗にねらったことにも、アメリカの戦略の的確さが現れています。
(青木邦弘前掲書『中島戦闘機設計者の回想 戦闘機から「剣」へ−航空技術の戦い』 (光人社 1999年) P174)

戦時中の主な各航空機製造会社の生産実績(エンジン・機体の製造数)は、次のとおりです。               


製造会社名

参入年 機体生産 エンジン生産

 

  1944年 1941-45年 1944年 1941-45年

中島飛行機

1918 7,896 28.0 19,561 28.0 14,014 30.1 36,440 31.3

三菱重工業

1921 4,176 14.8 12,513 17.9 17,524 37.7 41,534 35.6

川崎航空機

1922 3,665 13.0 8,243 11.8 4,255 9.1 10,274 8.8

立川航空機

1926 2,189 7.8 6,645 9.5 - - - -

愛知航空機

1920 1,496 5.3 3,627 5.2 733 1.6 1,783 1.5

川西航空

1920 1,060 3.8 1,994 2.9 - - - -

海軍航空廠

  639 2.3 1,700 2.4 1,847 4.0 4,452 3.8

陸軍航空廠

  303 1.1 1,004 1.4 467 1.0 1,439 1.2

合計

  28,180 100 69,888 100 46,526 100 116,577 100

(前田裕子著『戦時機航空機工業と生産技術形成 三菱航空エンジンと深尾淳二』(東京大学出版会 2001年)P92より作成)

 上表の、日本の航空機メーカーが生産した航空機のうち、生産機数が最も多い機種は、かの有名な海軍の零式艦上戦闘機、ゼロ戦です。
 合計、10,425機つくられました。(試作機は除く)
 ゼロ戦は、三菱の設計によるものですが、実は、戦争後半期には中島航空機でも生産され、最終合計では、本家の三菱は3,880機、中島は6,545機と、本家の三菱よりも中島の方が多くなっています。
   ※青木邦弘前掲書P35
 左の写真は、東京靖国神社に付属する遊就館のゼロ戦です。
 

 
 1945年にはいると、サイパンの第21爆撃集団の司令官に新しくカーチス・ルメイ中将が就任します。彼は、状況に応じて、この年の爆撃作戦を次のように展開していきました。(主なものを記載)

1大都市の市街地(工業地域を含む)に対する低高度夜間焼夷弾攻撃(3月9日〜6月16日)

3月10日未明の東京大空襲に始まる、都市無差別爆撃。

2中小都市の市街地(工業地域を含む)に対する低高度夜間焼夷弾攻撃(6月17日〜8月14日)

県庁所在地など地方の中小都市58市が焼夷弾攻撃を受け、一部の例外を除いて一夜の爆撃で壊滅的な被害を受けた。

3中高度からの優先工業目標に対する高性能爆弾攻撃(4月〜6月)

硫黄島占領後は同等の基地から飛び立つ護衛戦闘機P51が付いたおかげで、昼間中高度からの目視爆撃を敢行。これが、各地の航空機工場にとっては致命的な被害を与え、工場群は壊滅していきます。

岐阜空襲を記録する会編『岐阜空襲誌』(1978年)P18〜23などから

空襲の資料の展示は、全国各地の資料館で行われています。

東京大空襲の戦災資料の展示を行う施設として、2002年東京大空襲・戦災資料館がオープンしました。

 岐阜市の岐阜駅高架下のハートフルスクエアーGには、平和資料室があり、戦時中や空襲の資料が展示されています。サイトはこちらです。


 左上は、マリアナ諸島(サイパン島など)からのB29爆撃機と、硫黄島からのノースアメリカンP51ムスタング戦闘機(右上がその模型)の行動範囲を示したもの。
 硫黄島が占領されるまでは、B29爆撃機は護衛戦闘機なしで飛来したため、比較的高々度での爆撃を行った。
 P51ムスタング戦闘機の護衛が付くと、昼間でも中高度・低高度の爆撃が可能となる。これによって、投下爆弾量が増加し、爆撃目標とされた施設や市街地の被害は増加した。
 また、P51ムスタング戦闘機そのものの機銃掃射による被害も大きかった。
 P51ムスタング戦闘機がB29爆撃機の護衛として最初に飛来した'は、45年4月7日の中島飛行機武蔵製作所爆撃でした。

 その時、それまで同機を見たことがなかった日本軍の迎撃戦闘機部隊は、皮肉にも、液冷戦闘機である同機のシルエットが、飛燕に酷似しているため、同機を味方機飛燕と誤認し、不意打ちを食らってしまうという例が続出しました。
 ※渡辺洋二著『本土防空戦』(朝日ソノラマ 1992年)P355

 さらに、1945年2月以降は、日本の近海まで接近したアメリカ機動部隊の航空母艦から艦載機(グラマンF6F戦闘機=右下がその模型、など)が襲来することも、多くなった。
 


  空襲に備えて                                | このページの先頭へ | 

 サイパン島からのB29爆撃機の空襲の本格化が予想された1944年末から45年初頭にかけて、陸海軍・軍需省は空襲に備えて次の措置を実施しました。

  1. 爆撃目標となる各地の飛行機工場など軍需工場を各地に分散疎開させ、また地下工場化する。

  2. 航空基地周辺に航空機を秘匿する掩体壕を建設する。

 この方針に基づいて、いろいろな施設が建設されました。そのうちいくつかは、現在もいわゆる「戦争(戦時)遺跡」として各地に残っています。
 地下工場

 現在岐阜県下に残っている地下工場跡のうち、航空機関係のものは、次のとおりです。

戸狩(瑞浪市明世町) 川崎航空機岐阜工場 4式重爆撃機「飛龍」組立用

和知(八百津町) 川崎航空機岐阜工場 5式戦組立用

平牧(可児市) 三菱発動機第4工場  

久々利(可児市) 三菱発動機第4工場  

西栃井山楠(川辺町) 三菱発動機第5工場  

岐阜県歴史教育者協議会編『街も村も「戦場」だった−岐阜県の戦争遺跡』(岐阜県歴教協ブックレット2 1995年)

久保井規夫著『写真記録 地下軍需工場と朝鮮人強制連行 隠された戦跡1』(明石書店 1995年)

「証言する風景」刊行委員会『写真集 証言する風景 名古屋発/朝鮮人・中国人強制連行の記録』(風媒社 1991年) 

 など参照

 川崎のものは二つですが、これらのものは、すべて各務原市から30kmほど離れたところに建設されましたが、終戦時にはまだ未完成で、機体の生産は実現していませんでした。

2 基地周辺の掩体壕など

 掩体壕(えんたいごう)というのは、上空からの爆撃に備えて飛行機を安全に格納しておくための壕です。屋根の部分まで含めてコンクリート製のものから、山に穴を穿ったもの、コンクリートの土台に木製の屋根を付けたものなどさまざまです。
 現在の各務原飛行場周辺には、戦時中に作られたこれらの施設や、そこは戦闘機を動かすための誘導路などが残されています。

 主なものの場所を示すと次のようになります。

 

 上の地図の赤枠の部分を拡大したものが下の地図です。

  西飛行場の南に、隣接して荒井山と長根山があり、そのさらに南に、独立の小山として矢熊山があります。
  この三つの山の山麓に、上の地図で馬蹄形で示された位置に、全部で14個の掩体壕が作られました。
  そのうち、今でも、A、B、C、Dの4つは、簡単にその遺構を確認できます。
  特に、AとCは、立派な掩体壕です。以下に写真で説明します。


航空自衛隊岐阜基地周辺の戦争遺跡は次のページで紹介しています

誘導路

□戦時下の各務原基地と川崎航空機工場 −戦争遺跡T 誘導路−

飛行機掩体壕

□空襲に備えて −戦争遺跡U 飛行機掩体壕−

塀の機銃弾痕

□追加3 −航空自衛隊岐阜基地その2 戦争遺跡V 弾痕−


 | このページの先頭へ | 

 掩体壕Aの位置を示す写真。矢熊山の南には、眼病に御利益がある前渡不動尊があり、そのすぐ東に掩体壕Aがあります。この写真は、前渡不動尊の駐車場前の歩道橋から撮影したものです。

 掩体壕Aは、ある民家の裏側にあり、お許しを得て裏に回って撮影。家があるため正面からの撮影は無理です。

 掩体壕Aの苦心の合成写真、デジカメ3枚。
 壕は、間口19m、奥行き29m、高さ7mで、戦闘機3機を格納可能でした。整備工場となるはずでしたが未完成のまま終戦を迎えています。


 上は、掩体壕A・Bのある矢熊山を北側から撮影した写真。掩体壕Aはこの山の反対側にあり、掩体壕Bは中央の建物(鶏舎)のやや右にあります。(手前の樹木の茂みではなく後方の山際)
 BはAとは違い、土台をコンクリートで作り、その上に木製の覆いをして、空中から発見されないようにした掩体壕でした。
 写真の右手に飛行場へ通じる誘導路が作られていました。

 | このページの先頭へ | 

 荒井山と長根山の写真。矢熊山西の道路から北側を撮影。右手は前渡の駐在所。写真中央部を左右(東西)に県道が横切る。掩体壕Cはこの写真で言うと、駐在所の建物に隠れて見えません。
 戦時中は、中央の南北の道を北(画面の奥)へ進むと、荒井山と長根山の間の坂を通って飛行場へ行くことができました。その坂は頬白坂(ほおじろざか)と呼ばれ、ここから長根山と荒井山の南側及び、矢熊山に飛行機を移動させるための誘導路が作られていました。(地図参照)

 掩体壕Cは、完全なコンクリート製の格納庫の屋根に土をかぶせて偽装したものです。
 間口22m、奥行き22m、高さ6mのかまぼこ型をしています。飛行機3機が格納できる広さです。
 これは実際に使われていたと言われています。

 現在は、近くの運輸会社の倉庫となっています。

 掩体壕Dは、少なくとも夏は、繁茂している草のために全貌はわかりません。土台のコンクリートが確認でき、掩体壕Bと同じタイプであったと考えられます。

 


 この、荒井山・長根山・矢熊山の掩体壕と誘導路は、各務原飛行場の周囲に作られた同じ目的の施設のほんの一部です。
 これらの施設の建設には、朝鮮人労働者や中国人労働者がたずさわったものがほとんどです。
 各務原市各務おがせ町8丁目には、「中国人殉難塔」が建立されています。
 この近くのおがせや須衛でも、誘導路や掩体壕の建設が進められ、中国人捕虜837人が従事し、過酷な労働と栄養不足のため終戦時までに26名がなくなったとされています。塔は、1968年に建立されました。
 ※各務原歴史民俗資料館編パンフレット「各務原の戦争遺跡」より


| メニューへ | | 前へ | | 次へ |