飛燕について、長良さんの冊子からの引用です。
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「なによりも、機体の先端が尖った、飛燕のスマートな機体に目を見張った。私は最初、機体の組み立てをしていたが、間もなく、10人ほど選抜されて、川崎航空機の技能者養成学校へ行って、1カ月ほど電気の基礎知識について教育を受けた。電気のプラス・マイナス、ボルト、アンペアなどについて学んだあと、第二全組工場の東南隅にあった電気装備課へ配属された。機体内部の電気配線、ハンダ付けの作業をした。」
「日本各地が爆撃されるようになって、飛燕の液冷エンジンを製造していた明石市の工場も空襲を受け、造れなくなってしまった。そこで、先の尖っている飛燕の胴体の頭の部分を鋸で切断して、空冷星型エンジンを取り付けテスト飛行をしたところ、飛行性能が素晴らしく、東条総理大臣から感状がきた。朝礼で読んで聞かせてもらったことを覚えている。この戦闘機は「キ100」と命名された。」 |
組み立てていた機体について確認したところ、当初は、液冷エンジンのキ61(飛燕です)、途中で、空冷に換装した機体を組み立てていたとのことでした。後者は、上の冊子文のキ100、通称五式戦です。
この両機について、工場では、液冷の飛燕、空冷の飛燕という言い方もされており、キ61とキ100の違い、飛燕と五式戦の違いは、必ずしも正確には認識されていません。
1945(昭和20)年6月22日と26日のB29による爆撃や、艦載機の空襲についての記述です。
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「第二全組のいちばん西のフロアに1トン爆弾が落ちて、直径10数メートル、深さ5メートルほどの大穴が開いた。その穴を、モッコで土を運んで埋めた記憶がある。工場内のキ61の機体は、爆弾の破片による穴だらけで、板金工たちはジュラルミンの”ばんそうこう”を貼るのに大忙しだった。
忘れられないのは、同級生三人がこの空襲で亡くなったこと。A君は防空壕へ逃げ込んだものの、爆弾の破片を腹部に受けて亡くなった。B君は防空壕がつぶれて亡くなった、という話を後で聞いた。
C君は、大阪から母親の里である谷汲村に、母親と共に疎開し、転校手続きの書類がまだ学校にあって、この日初めて第二全組に出動したその日に、初めて工場に出勤したその目に、爆撃で亡くなったことを、ずっと後になって恩師の手記を読んで知った。」
「私は一回目の空襲があった3、4日前に、飛燕の主翼の上で作業中に転落して足首を捻挫、出勤できず、自宅にいて助かった。二回目、6月26日は出勤していた。空襲だというので、北の川崎山へD君と逃げていった。松林の中を走っていた時に、東のほうから爆撃が始まった。地面に伏せて、両手で目と耳をふさいだ。爆風で眼玉や鼓膜がやられないように、あらかじめ教えられていたので。
我々の周辺に1トン爆弾が盛んに落下して、全身が揺さぶられた。静まったので頭を上げたら、松の木が何本も途中からポキボキに折れていた。工場への帰り道には、血まみれの死体がいくつも転がっていた。道路沿いに並ぶ、高さ10メートル以上もありそうな松の木の枝に、足やら手やらの肉片がぶら下がっていた。第二全組の北側にあった高射砲陣地は、爆撃による爆弾の穴だらけで、逃げていく時に見た兵隊たちの姿はなく、一面に肉片が散らばっていた。なんとも無残で、痛ましい情景だった。」
「艦載機が時々飛んできて、機銃掃射をした。艦載機が飛び去ったあと、工場周辺で友達と、艦載機が落としていった薬莢を拾い歩いて、憲兵に叱られたことがある。」 |
第二全組の工場の外には、戦争当初に日本軍が南方地域を占領した際に戦利品としたアメリカ陸軍の大型爆撃機B17が置いてあり、また、戦争前にドイツから購入した、飛燕と同じ液冷式のドイツ戦闘機メッサーシュミットBf109戦闘機も置かれていました。
この両機や撃墜されたアメリカ軍艦載機に残骸について、長良さんは、日本とアメリカの技術力の比較という点から、鋭い観察をしておられます。
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「(B17爆撃機は)主翼は外されて、胴体だけだった。驚いたのは機体の表面が実に滑らかなこと。ジュラルミン板が機体を覆っていたが、ジュラルミン板同士が水平にぴったり合わせてあって、塗料が吹き付けてあるので継ぎ目が分からない。ところが、飛燕の場合は、ジュラルミン板の接合部分を上下に重ね合わせて鋲打ちをした。その鋲の頭もでこぼこなので、飛燕の機体は、表面が不規則に波打っていた。B17を見た時、日本の技術水準の低いことを思い知らされ、とても悲しかった。」
「 第二全組の広場に置いてあったメッサーシュミット戦闘機も、B17並みの機体だった。当時、機体は潜水艦でドイツから運んだと聞いていたけれど、戦後、私が入手した飛燕回想記によると、日本がドイツから購入して、輸送船で運んだ、と書いてある。
ドイツからパイロットも来て、各務原飛行場でデモ飛行をしたそうだ。(碇義朗著『戦闘機・飛燕、技術開発の戦い』より)
日米の機体のちがいについて思い出したことがある。アメリカの艦載機が撃墜されて、現場を見に行った。焼けただれた操縦席を見て、ショックを受けた。パイロットの背中に装着されている防弾鋼板の厚みが2センチくらいもあった。飛燕のは、正確に記憶していないが1センチそこそこ。「機体を軽くするためだ。日本の操縦士は勇敢なんだ」と、いまから思うと、とてもおかしなところで感激した。“教育”の恐ろしさだ。主翼に収められているガソリン・タンクは、弾丸が命中してもガソリンが漏れにくいように、生ゴムで覆われていた。その生ゴムの厚みも、アメリカの艦載機は、すごく分厚かった。」 |
五式戦の改良型に取り付けられて性能向上を目指した、排気による過給器についても、記憶しておられます。
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「B29の編隊は1万メートルくらいの上空を飛んで来る。飛燕は高空へ行くと、空気が希薄になるためスピードが落ちる。そこで、第二全組の西にあった航空支敵で、キ100のエンジンわきに過給器(空気圧縮装置)をつけ、テスト飛行を繰り返しているうちに終戦になってしまった。B29はすごく大きな過給器をつけていて、超高空でもスピードが落ちなかった。それに気づいて、日本もそれをまねたらしい。僕は、好奇心が強かったらしく、こんなことをよく覚えている。」 |
6月の2度の空襲の後、工場は、生産設備の復旧が図られましたが、結局は元に戻ることなく、終戦を迎えます。
7月9日には岐阜市が夜間焼夷弾空襲を受けて壊滅しました。この時点では、労働者の勤務、部品・材料の供給のどちらの点からみても、すでに航空機生産体制は、崩壊の時を迎えていました。
終戦時についてです。
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「終戦のご詔勅は第二全組で聞いた。確か正午だった。「これから重大放送がある」との先生の話で、第二全組の西側屋内で全員が整列してNHKラジオ放送を聴いた。
でも雑音がひどくて、全く聴き取れなかった。後で知ったが、国民がいちばんラジオを聴く時間帯なので、正午が選ばれたのだのだそうだ。
何の放送だか分からなかったけれど、みんなが頭を垂れて聴いた。放送が終わると、先生から、明日から学校へ戻る、工場へは釆なくていい、と言われた。それから数日後、日本の爆撃機が岐阜市の上空へ飛んで釆て「戦争は継続する」と、ビラを空から撒いた。
実は、第二全組電気装備課の僕のロッカーに、いつも昼休みに広場で吹いていたハーモニカを置いてきたので、数日経ってから取りに行った。でも、工場の周囲には鉄条網が張り巡らされて、立ち入り禁止になっていて、とても残念だった。」 |
長良さん、貴重な体験談をありがとうございました。 |