各務原・川崎航空機・戦闘機15
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 □追加4 −戦後60年目 勤労動員学徒の証言−
     
 勤労動員から60年                                       

 「各務原・川崎航空機・戦闘機」を書き続ける際に、当初の構想にはあったものの、機会が得られず実現できなかった残念なことがひとつありました。

 それは、実際に工場で働いていた方にインタビューをして、当時の様子をうかがうということでした。
 実は、幸か不幸か、私の母親は、1930(昭和5)年3月生まれで、終戦の年(1945年)は高等女学校の4年生であり、終戦の前年から勤労動員に行っていました。
 しかし、女学生であったためか、各務原の川崎航空機の本工場ではなく、岐阜市内の忠節にあった部品工場に勤務していました。
 そのため、作っていたのは、「もちろん、飛行機の部品だった」とは言っていますが、それ以上の詳しいことは、覚えていないとのことでした。

 「各務原・川崎航空機・戦闘機」の本編を書き終えてしまった後は、もう、工場のことをインタビューすることは無理と、あきらめていました。

 ところが、その機会が、偶然にも訪れました。
 そのきっかけは、掲示板に、7月24日にいただいた、次の書き込みです。

 ※私の掲示板は、カタカナの「ソ」を書くと、「?#92;」に変換されてしまいます。申し訳ありません。


 さっそく、書き込みをいただいた「長良太郎」さん(もちろんハンドルネームです)に、作ろうとされている「冊子」の文章を引用することと、さらに、お会いしていろいろ質問することは出来ないかを、お願いしました。
 
 嬉しいことに、長良さんからOKのご返事をいただき、しかも、わざわざご友人をともなって、会っていただける時間を作っていただきました。

 長良さんは、1944(昭和19)年、勤労動員がはじまった時は、当時の岐阜市立岐阜商業(現在の岐阜県立岐阜商業高校の前身)の3年生でした。
 当時は、今とは違って、義務教育は6年間であり、尋常小学校を6年間を終えると、それから、4年制または5年制の中学校、高等女学校、実業学校等へ進学する仕組みでした。したがって、中学校や実業学校の1・2・3・4・5年生というのは、通常の年齢で進級する場合は、それぞれ13・14・15・16・17歳ということになります。

 掲示板にある、「冊子」は、長良さんが、同級生の方と合計5名で、戦後60年の節目に作られたもので、その資料や地図の一部に、この未来航路の地図や表を使っていただきました。

 長良さんは、現在76歳とのことでしたが、とてもお元気で、まだまだいろいろな方面でご活躍になっておられます。
 ご友人も含めて、こんな機会にお会いするのでなければ、私のような一教員などがとてもとても、簡単にお会いできないような、方々ばかりです。
 私にとっては、書き込みいただいたことが、大変光栄な巡り合わせになりました。 


 昭和18年・19年の岐阜の勤労動員                        | このページの先頭へ |

 太平洋戦争によって、当時の学徒(当時はこう表現しました)たちにどのような運命がふりかかったかを調べてみました。
 
 岐阜県の学徒に勤労動員が下令されたのは、1943(昭和18)年7月13日のことでした。前月には、閣議で「学徒戦時動員体制確立要綱」が決定されており、これを具体化したものでした。

 この時の対象は、当時の5年生(17歳)の生徒たちで、各務原飛行場の周辺に掩体壕(飛行機を隠して空襲の被害を減じるための壕)づくりでした。
 その様子を、吉田国次著『岐商七十年物語』(岐商創立70年記念事業委員会 1975年)は次のように伝えています。(同書P202より)

「毎日自宅から名鉄長住町駅(現在の名鉄各務原線岐阜駅)に直行し、そこで引率教諭の指揮をうけ、電車で各務原に向かい、就労したわけであるが昼に出る握り飯(芋と麦を握り固めたもの)が魅力でみんながよく働いた。

 航空機の掩体壕というのは陸軍第二航空廠の中型爆撃機(キ102)約二十機を米軍の空襲から護るために同機がすっぼり収まる退避壕を構築するのであった。

 幅5メートル、高さ5メートル、長さ36メートルのコの字型の土壕を背中合わせ(爆風で一挙にやられるのを防ぐため)に20個以上つくろうという次第であった。

 各学校が一個ずつ担当したのであるから市内外の旧制中学校がその数だけ動員された勘定であり、各校が作業能率を競って完成を急いだので1カ月足らずで構築を終わった。
 しかし、2名1組でモッコに土を入れて運び、人海戦術によって土盛りする作業は、炎天下だっただけに、まことにきつい仕事だった。」


 そして、翌1944(昭和19)年5月からは、本格的な勤労動員がはじまります。
 岐阜商業からも、3年生以上の生徒が、名鉄電車の定期券をもらって、川崎航空機の工場で働きました。


 川崎航空機第二全組                             | このページの先頭へ |

 長良さんが、終戦までの1年4カ月に渡って勤労に励んだのは、川崎航空機の第二全組と呼ばれた組立工場です。
 当時も現在も、川崎の工場は、名鉄各務原線の北側に主要部分がありますが、この
第二全組は名鉄各務原線三柿野駅の真南にありました。下記の地図のAの記号の部分です。

 ここで、長良さんたちは、飛燕の組み立てに従事しました。


 飛燕について、長良さんの冊子からの引用です。

「なによりも、機体の先端が尖った、飛燕のスマートな機体に目を見張った。私は最初、機体の組み立てをしていたが、間もなく、10人ほど選抜されて、川崎航空機の技能者養成学校へ行って、1カ月ほど電気の基礎知識について教育を受けた。電気のプラス・マイナス、ボルト、アンペアなどについて学んだあと、第二全組工場の東南隅にあった電気装備課へ配属された。機体内部の電気配線、ハンダ付けの作業をした。」

「日本各地が爆撃されるようになって、
飛燕の液冷エンジンを製造していた明石市の工場も空襲を受け、造れなくなってしまった。そこで、先の尖っている飛燕の胴体の頭の部分を鋸で切断して、空冷星型エンジンを取り付けテスト飛行をしたところ、飛行性能が素晴らしく、東条総理大臣から感状がきた。朝礼で読んで聞かせてもらったことを覚えている。この戦闘機は「キ100」と命名された。」

 
 組み立てていた機体について確認したところ、当初は、液冷エンジンのキ61(飛燕です)、途中で、空冷に換装した機体を組み立てていたとのことでした。後者は、上の冊子文の
キ100、通称五式戦です。
 この両機について、工場では、
液冷の飛燕空冷の飛燕という言い方もされており、キ61とキ100の違い、飛燕と五式戦の違いは、必ずしも正確には認識されていません。
 
 1945(昭和20)年6月22日と26日のB29による爆撃や、艦載機の空襲についての記述です。

「第二全組のいちばん西のフロアに1トン爆弾が落ちて、直径10数メートル、深さ5メートルほどの大穴が開いた。その穴を、モッコで土を運んで埋めた記憶がある。工場内のキ61の機体は、爆弾の破片による穴だらけで、板金工たちはジュラルミンの”ばんそうこう”を貼るのに大忙しだった。
 忘れられないのは、同級生三人がこの空襲で亡くなったこと。A君は防空壕へ逃げ込んだものの、爆弾の破片を腹部に受けて亡くなった。B君は防空壕がつぶれて亡くなった、という話を後で聞いた。
 C君は、大阪から母親の里である谷汲村に、母親と共に疎開し、転校手続きの書類がまだ学校にあって、この日初めて第二全組に出動したその日に、初めて工場に出勤したその目に、爆撃で亡くなったことを、ずっと後になって恩師の手記を読んで知った。」

「私は一回目の空襲があった3、4日前に、
飛燕の主翼の上で作業中に転落して足首を捻挫、出勤できず、自宅にいて助かった。二回目、6月26日は出勤していた。空襲だというので、北の川崎山へD君と逃げていった。松林の中を走っていた時に、東のほうから爆撃が始まった。地面に伏せて、両手で目と耳をふさいだ。爆風で眼玉や鼓膜がやられないように、あらかじめ教えられていたので。
 我々の周辺に1トン爆弾が盛んに落下して、全身が揺さぶられた。静まったので頭を上げたら、松の木が何本も途中からポキボキに折れていた。工場への帰り道には、血まみれの死体がいくつも転がっていた。道路沿いに並ぶ、高さ10メートル以上もありそうな松の木の枝に、足やら手やらの肉片がぶら下がっていた。第二全組の北側にあった高射砲陣地は、爆撃による爆弾の穴だらけで、逃げていく時に見た兵隊たちの姿はなく、一面に肉片が散らばっていた。なんとも無残で、痛ましい情景だった。」


「艦載機が時々飛んできて、機銃掃射をした。艦載機が飛び去ったあと、工場周辺で友達と、艦載機が落としていった薬莢を拾い歩いて、憲兵に叱られたことがある。」


 第二全組の工場の外には、戦争当初に日本軍が南方地域を占領した際に戦利品としたアメリカ陸軍の大型爆撃機B17が置いてあり、また、戦争前にドイツから購入した、飛燕と同じ液冷式のドイツ戦闘機メッサーシュミットBf109戦闘機も置かれていました。
 この両機や撃墜されたアメリカ軍艦載機に残骸について、長良さんは、日本とアメリカの技術力の比較という点から、鋭い観察をしておられます。

「(B17爆撃機は)主翼は外されて、胴体だけだった。驚いたのは機体の表面が実に滑らかなこと。ジュラルミン板が機体を覆っていたが、ジュラルミン板同士が水平にぴったり合わせてあって、塗料が吹き付けてあるので継ぎ目が分からない。ところが、飛燕の場合は、ジュラルミン板の接合部分を上下に重ね合わせて鋲打ちをした。その鋲の頭もでこぼこなので、飛燕の機体は、表面が不規則に波打っていた。B17を見た時、日本の技術水準の低いことを思い知らされ、とても悲しかった。」
「 第二全組の広場に置いてあったメッサーシュミット戦闘機も、
B17並みの機体だった。当時、機体は潜水艦でドイツから運んだと聞いていたけれど、戦後、私が入手した飛燕回想記によると、日本がドイツから購入して、輸送船で運んだ、と書いてある。
 ドイツからパイロットも来て、各務原飛行場でデモ飛行をしたそうだ。(碇義朗著『戦闘機・飛燕、技術開発の戦い』より)
 日米の機体のちがいについて思い出したことがある。
アメリカの艦載機が撃墜されて、現場を見に行った。焼けただれた操縦席を見て、ショックを受けた。パイロットの背中に装着されている防弾鋼板の厚みが2センチくらいもあった。飛燕のは、正確に記憶していないが1センチそこそこ。「機体を軽くするためだ。日本の操縦士は勇敢なんだ」と、いまから思うと、とてもおかしなところで感激した。“教育”の恐ろしさだ。主翼に収められているガソリン・タンクは、弾丸が命中してもガソリンが漏れにくいように、生ゴムで覆われていた。その生ゴムの厚みも、アメリカの艦載機は、すごく分厚かった。」


 五式戦の改良型に取り付けられて性能向上を目指した、排気による過給器についても、記憶しておられます。

「B29の編隊は1万メートルくらいの上空を飛んで来る。飛燕は高空へ行くと、空気が希薄になるためスピードが落ちる。そこで、第二全組の西にあった航空支敵で、キ100のエンジンわきに過給器(空気圧縮装置)をつけ、テスト飛行を繰り返しているうちに終戦になってしまった。B29はすごく大きな過給器をつけていて、超高空でもスピードが落ちなかった。それに気づいて、日本もそれをまねたらしい。僕は、好奇心が強かったらしく、こんなことをよく覚えている。」


 6月の2度の空襲の後、工場は、生産設備の復旧が図られましたが、結局は元に戻ることなく、終戦を迎えます。
 7月9日には岐阜市が夜間焼夷弾空襲を受けて壊滅しました。この時点では、労働者の勤務、部品・材料の供給のどちらの点からみても、すでに航空機生産体制は、崩壊の時を迎えていました。


 終戦時についてです。

終戦のご詔勅は第二全組で聞いた。確か正午だった。「これから重大放送がある」との先生の話で、第二全組の西側屋内で全員が整列してNHKラジオ放送を聴いた。
でも雑音がひどくて、全く聴き取れなかった。後で知ったが、国民がいちばんラジオを聴く時間帯なので、正午が選ばれたのだのだそうだ。
 何の放送だか分からなかったけれど、みんなが頭を垂れて聴いた。放送が終わると、先生から、明日から学校へ戻る、工場へは釆なくていい、と言われた。それから数日後、日本の爆撃機が岐阜市の上空へ飛んで釆て「戦争は継続する」と、ビラを空から撒いた。
 実は、第二全組電気装備課の僕のロッカーに、いつも昼休みに広場で吹いていたハーモニカを置いてきたので、数日経ってから取りに行った。でも、工場の周囲には鉄条網が張り巡らされて、立ち入り禁止になっていて、とても残念だった。


 長良さん、貴重な体験談をありがとうございました。


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