各務原地域に初めてB29爆撃機が飛来したのは、1944年11月23日のことです。
※ |
以下、細かい事実関係は特に資料を示さない限り、各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録 平和な21世紀をめざして』(各務原市教育委員会 1999年)P185−206 |
これは、奇しくも、マリアナ諸島からの日本本土初空襲の前日でした。この翌日、11月24日には、東京北西郊外武蔵野町(現在の武蔵野市)にある中島飛行機武蔵製作所の工場群が空襲を受けています。
23日に各務原地域上空に現れたB29爆撃機の目的は、飛行場及び工場などの周辺施設の偵察=航空写真撮影でした。
この時撮影された写真が記録に残っていますが、飛行場やその周辺の工場群はもちろん、川崎の工場の北側にある赤星山・各務山、飛行場の南の三井山などには、倉庫や燃料貯蔵庫などがあると推定される区域のマークが付けられています。
アメリカ軍は、これらの写真をもとに、飛行場とその周辺の模型(ジオラマ)まで作製し、来るべき空襲に備えました。まさしく、周到な準備です。
これまでも説明してきたように、各務原飛行場周辺は、30,000名以上が働く川崎航空機岐阜工場を始め、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所各務原格納庫(名古屋製作所で製作された航空機をここへ輸送して再組立する。従業員8,000名)、陸軍航空廠など、航空機生産関連施設が重点的に立地しているところであり、アメリカ軍としても、一地方都市でありながらも、重要な目標の一つとして認識していました。
1945(昭和20)年4月12日、B29爆撃機1機が、蘇原町持田地区に、爆弾を投下しました。これがなんの目的であったか、偶然のものであったか詳細はわかりません。しかし、結果的にこれが、各務原地域への空襲の最初となりました。
※ |
この日の、爆撃目標は、下関海峡機雷投下、東京都中島飛行機武蔵製作所、福島県郡山市保土ヶ谷化学工業工場で、各務原は目標には含まれていません。目標に達しなかったB29爆撃機が、たまたま単独で投下したと考えられます。
(小山仁示訳『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』(東方出版 1995年) P57−60 ) |
※ |
ついでに説明しますと、上の補足に、下関海峡機雷投下と書きましたが、爆撃ほどには多く取り上げられていませんが、B29爆撃機による、日本の港湾・海峡の機雷封鎖も、日本の経済に深刻な打撃を与えました。
機雷封鎖は、3月末から4月と、5月中旬から6月にかけて、集中的に実施され、合計12000個の機雷を投下しました。機雷による日本船舶の被害は、大戦中の日本船舶撃沈総トン数の約10%に及びましたが、ほとんどが、この1945年のB29爆撃機からの投下機雷によるものです。
1945年初頭にはすでに虫の息だった日本の船舶輸送に、決定的な打撃を与えることになりました。日本は次第に燃料も食料も運べなくなっていきます。(渡辺洋二著『本土防空戦』(朝日ソノラマ 1992年) P387)
|
以下、終戦までに、下表のようにアメリカ軍航空機の攻撃を受けました。
|