各務原・川崎航空機・戦闘機13
| メニューへ | | 前へ | | 次へ |

 □追加2−航空自衛隊岐阜基地 航空祭ー
     
 はじめに                                       

 2004年10月17日(日)、各務原市の航空自衛隊岐阜基地で、今年の航空祭が行われました。
 現在の岐阜基地について補足します。


2004年10月17日の航空祭の写真T

 格納庫前に並べられた列機。航空祭は人人人。午後2時頃のブルーインパルスの飛行がメインイベント。

 主力戦闘機F15と見学者。順番に操縦席を見学できます。ただし、写真撮影は駄目です。


 キャンプ岐阜                                    目次へ

 1945(昭和20)年8月の敗戦後、陸軍の各務原基地には、アメリカ軍が進駐しました。同年10月、アメリカ陸軍第6軍第25師団第27連隊の将校兵士約4100名が、名古屋港経由でやってきました。
 また、陸軍航空廠には、アメリカ軍横浜重車両工場の一部も進駐し、基地はキャンプ岐阜と呼ばれるようになりました。
 
 爆撃で破壊された基地も修復され、施設や滑走路が整備されました。また、名鉄三柿野駅には、アメリカ軍輸送司令部の命令で、基地内に入る引き込み線がつくられました。JR高山線で那加駅まで来た軍事物資の輸送列車は、那加駅から隣接する名鉄各務原線に入り、三柿野駅からキャンプ岐阜に入っていきました。
 また、米軍の活動によりもろもろの雇用が発生し、日本人労働者も2000人ほどがキャンプ岐阜にやとわれました。

 そして、戦後日本の各地で見られたよく知られた物語が、各務原でも起きました。
 那加の街にはアメリカ兵が闊歩し、子どもたちは、彼らからガムやチョコレートをもらいました。
 また、アメリカ兵を目当てとする日本人女性たちが、那加やその周辺の街に出現しました。
「米兵が来ると同時に若い日本女性が那加の街へ移住してきて、それぞれ民家に下宿して、その数は約2000人といわれました。米兵相手の自由恋愛の女性たちで、通称「パンパン」と言っていましたが、複数の米兵を相手とする「フリー」と、特定の一人を相手とする「オンリー」とに分かれていましたどちらかといえば、「オンリー」は下士官以上が相手であり、「フリー」に対して優越感を持っていたようです。
 ※各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時体験 平和な21世紀を目指して』
                                            (各務原市教育委員会 1997年)P269

 1950年朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍歩兵第27連隊に出動命令が出され、兵士たちはあわただしく出征していきました。朝鮮戦争中、基地は、軍需物資の補給基地として機能し、戦後も、朝鮮復興資材の集積場になりました。名古屋港から、送られた資材が一度集積され、目的別に貨車に積載されて運ばれていきました。5時間ごとに貨車25輌から35輌による編制の列車が、三柿野駅を出発していったそうです。
 ※前掲『各務原市民の戦時記録 平和な21世紀を目指して』P279


 航空自衛隊岐阜基地                                  | このページの先頭へ |

  サンフランシスコ講和条約が締結(1951年)結ばれてから6年目の1957(昭和32)年に、米軍から基地の一部が返還され、翌年には全面返還となりました。
 それにともなって、1957年から航空自衛隊の所部隊が移駐してきました。航空自衛隊は、1954年に発足し、2004年の今年がちょうど50年目になります。
 
 岐阜基地のパンフレットによると、部隊の設置・移駐は次のようになっています。

1957年

第2補給所、飛行開発実験団、岐阜地方警務隊、技本岐阜試験場岐阜気象隊、岐阜管制隊

1962年

岐阜病院

1972年

第4高射群

1975年

調本岐阜調達管理事務所

1976年

岐阜地方連絡部各務原事務所

 基地内の施設の配置概要は、以下の地図のとおりとなっています。


 岐阜基地は、通常の日でも、見学を申し込むことができます。
 基地の広報係が担当で、HPから電話番号を捜して連絡し、所定の書類を出すと見学許可となります。ただし、見学の2週間前に書類を提出しなければなりませんから、急な計画は認められません。
  ※航空自衛隊岐阜基地のHPはこちらです。

 もちろん、広報担当は普通のお役所仕事ですから、土日は見学できません。私は、夏休み休暇を利用して行ってきました。実は、当初の予定では息子たちを連れて家族で行く計画でしたが、台風で延期となってしまい、私はひとりの見学となりました。
 この日は、他に見学者はまったくなく、本当に私一人の見学でしたが、広報担当には、丁寧に対応していただきました。
 2時間の見学で、最後に食堂で昼食を食べて、終わりました。(もちろん食費は自分持ちです。)

 本部がある地図中の
の場所、そして、飛行開発実験団の格納庫のの場所で色々なことを聞くことができました。なにしろ、他に誰もいませんから、質問もしたい放題です。

 ただ、
の飛行開発実験団のエリアでは、通常は、秘密区域とかで写真撮影ができずに、残念でした。
 
 


 展示機のF86Fセイバー。初期のゴジラ映画でいとも簡単にやられていたのを思い出す。

 同じくF104。翼面荷重がきわめて大きいこの機は、無理矢理飛んでいく感じで、騒音がすごかった。


  航空祭                                  | このページの先頭へ |

 その点、年に1度だけですが、航空祭は、基地を見せるためのものですから、写真撮影は自由です。
(ただし、同じ飛行開発実験団の格納庫でも、平日の秘密の時と、航空祭のオープンの時とは、まったく様子が違っています。ちゃんと、公開しても差し障りのない仕様にするわけです。)

 では、最後に航空祭の写真の数々です。基本的に上の地図のBのエリアで撮影したものです。
 残念ながら、ブルーインパルスの時間には間に合わなかったので、華麗な写真はありません。(向かう途中のJR高山線の中で見ました。(-.-)) 


2004年10月17日の航空祭の写真U

 ご存じF−15Jです。
右の写真は、右側の主翼の付け根にあるM61A1−20mmバルカン砲です。
写真では、見づらいですが、20mm機関砲が6本束になっていて、回転しながら発射します。最高で、1分間に6000発撃つことができます。
 次の問答は、航空祭の時ではなく、9月の通常見学の時のものです。

「1分間に、6000発ってすごいですね。1秒間で100発でしょ。バリバリ撃てますね。でも、弾丸はどのくらい積むのですか。」

「500発ぐらいです。」

「え、たった500発?それでは、バリバリ撃ったらすぐになくなってしまいますね。」

「映画で見る陸上の部隊の機関銃と違って、長く打ち続けるわけではありません。平均射撃時間は、0.5秒ほどです。」

「え、たった0.5秒?発射したらすぐにやめるという感じなんだ。バリバリどころか、バですね。」

 
 聞いてみないとわからないものです。1分間に6000発という説明だから、10万発ぐらいの弾丸を積んでいくのかと思ったら、たった500発ですと。
 1秒間で100発、0.5秒なら50発(正確には、打ち始めから0.5秒では30発)も撃つのですから、無駄にバリバリとはやらないのですね。


 着陸するC1輸送機。左の写真の右手の背景の山は伊木山。右の滑走中の写真の後方の突起物は、基地の南側にある各務原グリーンスタジアムの照明灯です。スタジアムと基地の間に、かかみがはら航空宇宙博物館があります。


 誘導路を東へ向かい、滑走路の東端から滑走して離陸する早期警戒機E2C。
 背景の山は、左は長根山、右は荒井山。太平洋戦争中はこの二つの山のこちら側(北側)及び反対側(南側)に、航空機を隠す掩体壕がたくさん作られました。
 南側には現在も掩体壕が残っています。その写真はこちらを参照。 


| メニューへ | | 前へ | | 次へ |