各務原・川崎航空機・戦闘機06
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 □戦時下の各務原基地と川崎航空機工場 −戦争遺跡T 誘導路− 

 飛燕大増産                                

 前回、「飛燕の活躍」で説明したように、飛燕の性能は、それまでの陸軍の制式戦闘機、一式戦隼のそれを、最高速度でも、急降下時の機体強度でも、武装でも期待以上に上回るものであり、陸軍からはその生産増加に大きな期待がかけられました。
 川崎航空機岐阜工場では、その期待にこたえて順調に生産機数を伸ばしていきました。
 左は、1943年の岐阜工場における飛燕の増産状況を示しています。

 1943年12月、川崎航空機の土井技師は、飛燕設計の功績を認められて、陸軍大臣東条英機(首相と陸軍大臣を兼任)から表彰状を受けました。
 その文面には次のように書かれています。
「右ハ水冷式発動機一基ヲ装備セル金属製低翼単葉単座戦闘機ニシテ 
速度ト格闘性能トヲ総合セル戦闘性能ニ於テ世界ノ水準ヲ凌駕シ以テ国軍航空威力ノ発揮二貢献セル処顕著ナリ
 仍テ茲ニ陸軍技術有功章状並ニ徽章ヲ授与ス
      昭和十八年十二月二十一日 陸軍大臣東条英機」 
   ※碇義朗前掲著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(光人社NF文庫 1996年)P168
    右の表の数値も同書による。  

1943(昭和18)年
川崎航空機岐阜工場 
飛燕月別生産機数

4月 37
5月 44
6月 40
7月 53
8月 60
9月 70
10月 87
11月 100
12月 200

 陸軍三式戦飛燕海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の模型側面写真(同縮尺)
 1944(昭和19)年1月から始まったキ61の改良型(キ61型改、飛燕1型改)では、航続距離を伸ばすための燃料タンクの増設と防弾装置(ゴム製のセルフシーリング)の取り付け、パイロットの背後の防弾鋼板の改良、これまでの12.7mm機関銃4門から、20mm機関砲×2門+12.7mm機関銃×2門などの改良が施され、機体総重量は10%近い250kgの増加となりましたが、速度の減少は、約10km/hの580km/hにとどめることができました。

 ちなみに、初期型から取り付けられていたパイロットの後ろ側にある防弾鋼板は、土井設計技師の設計思想の表れでした。パイロットの命を守るためのこの当たり前の装置も、ゼロ戦など大戦開始当初の日本の戦闘機には、重量が増えるという理由から、まったく取り付けられていませんでした。

 当然ながら防弾版のおかげで命拾いしたという記録は、戦記にも書かれています。
  ※小山進著『あゝ飛燕戦闘機隊 少年飛行兵ニューギニア戦記』(光人社 1996年)P63
 
 アメリカ軍が作った『日本陸軍便覧』には、飛燕について、
日本軍最初の近代化した液令直列発動機および防弾板装備機」と評価しています。
 ただし、パイロットの背後を広く覆った防弾鋼板を取り付けていたアメリカ軍機と違って、飛燕のそれは、頭部と背中の部分を覆うだけで、後部の下方からの銃弾をはね返す鋼版はありませんでした。 

菅原完訳 岩堂憲人・熊谷直・斎木伸生監修
『米陸軍省編 日本陸軍便覧 米陸軍省テクニカル・マニュアル:1944』(光人社 1998年)P81
 ただし、正確には、日本の戦闘機で最初に搭乗者の背後に防弾鋼板を付けたのは、陸軍の2式戦鍾馗です。
 この本は、全体としては、アメリカ軍が開戦当時からさまざまな角度から情報を集めて、いかに精度の高いマニュアル本を作り上げていたかを示す証拠となるものです。しかし、2式戦鍾馗は、開戦直後にビルマ戦線に出動した以外は、もっぱら本土防衛用の戦隊に配備されていて実戦に参加することがなかったため、アメリカ軍の情報網にはひかからなかったものと推定されます。

ついでにアメリカ軍の情報戦略について補足説明します。
 アメリカは、ソロモン・ニューギニア戦線などで日本軍の飛行機の機体の捕獲につとめ、本国に持ち帰って詳細に分析しました。こうして、各機体の構造や性能があきらかとなっていきます。
 
 防弾鋼板や燃料タンクのゴム製セルフシーリングが、ほとんどの機体にないことは正確に見抜かれていました。
 アメリカ軍戦闘機は、大戦後半から登場した機体は、機銃として、20mm機関砲は装備せずに、12.7mm機関銃を装備していました。
 これは、20mm機関砲などという大きなものを装備しなくとも、日本の戦闘機は12.7mm機関銃で十分撃墜できるという冷静な分析によるものです。
 
 一見すると、20mm機関砲を搭載した飛燕と、12.7mm機関銃のグラマンF6Fとでは、なにか飛燕の方が優れているといった錯覚を覚えますが、実は違うと言うことです。
 20mm機関砲は、次の点で、機関銃として問題がありました。まず、威力は大きいですが、機銃弾が大きいため、一度に装備できる機銃弾の数が少なくなります。
 また、機銃弾の重量が大きいため、敵機が遠くにいればいるほど銃弾の弾道が地球の重力の影響を受けて放物線を描いてしまうことになり、命中精度が落ちてしまいます。
 そういう点では、機関銃弾がたくさん積載できて、弾道がまっすぐで命中させやすい、12.7mm機関銃のほうが、より確実な兵器だったのです。グラマンF6Fは、脆弱な日本機を撃墜するには、これで十分だったわけです。

 アメリカ軍の情報解析は、さらに、なんと、日本軍機の機体に貼り付けられていた、製造年月日と製造番号を示すラベルにも及びました。同じ戦闘機ごとの無数のラベルを集めて分析することにより、ゼロ戦などは、三菱における毎月の製造機数までほぼ正確に推定されていたのです。
 日本軍の戦力の限界は、しっかりと読まれていたわけです。
 「情報」というものに対するアメリカと日本の認識の相違は、大きかった。
  この部分は、柳田邦男著『ゼロ戦燃ゆ 熱闘編』(文藝春秋 1985年)P368−383を参照にした。


 飛燕の増産にともなって、ニューギニア戦線で奮戦中の第68戦隊、第78戦隊に続いて、1944年になると、まず第17、18、19の戦隊が飛燕装備の戦隊となり、この年半ばにフィリピン戦線に向かいました。
 また、1944年7月にサイパン島がアメリカ軍の手に落ち、新型爆撃機による本土空襲が予想されると、第244戦隊など飛燕による本土の空を守る防空戦隊も誕生していきます。


  戦時中の岐阜基地と川崎航空機岐阜工場          | このページの先頭へ | 

 ここで、簡単に、戦時中の陸軍の岐阜基地と川崎航空機岐阜工場の様子を見てみましょう。
 大正年間に、陸軍の航空第一大隊と第二大隊が各務原飛行場を本拠地とした結果、それ以来終戦まで、各務原台地の基地は中央西よりの西飛行場と、東よりの東飛行場に別れて発展してきました。
 大正から昭和にかけて、両飛行場には、何回も名前は変わりましたが、二つの大隊の系譜を引く部隊が駐屯していました。
 1925年には大隊は編制と呼称が代わり、連隊となりました。この時全国には、8個飛行連隊が存在しましたが、そのうち、各務原には、2個連隊がいたわけです。
 
 1938年には飛行戦隊と呼称が代わります。 
 そして、1939年、飛行第1戦隊はノモンハン事件に際して満州へ進出し、以後南方へ転進しました。また、太平洋戦争開戦後の1943年には、飛行第2戦隊も満州のチチハルへ進出し、以降、各務原基地には、第一線の戦闘機部隊は存在しなくなります。
(1945年7月に群馬県新田飛行場で編制が始められた飛行第112戦隊が、終戦時には東飛行場に移ってきていたという記録もあるが、詳細は確定できていません。) 
 1945年の初頭には、東西飛行場には、陸軍教育整備学校第二教育隊と第一教育隊が展開していました。整備部門の要因を養成する学校です。
 一方、1920年には、
陸軍航空本部補給部各務原支部が新設され、浜松以西の航空各部隊のための航空機材の保管と補給や航空機の修理などを行いました。
 この組織も何度も組織改編と名称変更がありますが、1945年時には、
各務原陸軍航空廠として、5000名以上を有する巨大な組織となっていました。
 1943年からは、輸送部が独立し、川崎航空機で生産した飛行機を戦地へ運びました。
 生産された飛行機は、航空廠が受領し、5機に1機ぐらいを抜き取り検査にかけ、あとはこの輸送部隊がテスト飛行等を行い整備した上で前線へ空輸したのです。
 また、1940年からは技能者養成所が併設され、航空機の生産や整備にあたる技術者の養成も行われました。

 また、名鉄三柿野駅の北側及び南側には、
川崎航空機の工場が広がっていました。この立地は現在も同じです。
  ※各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録』(各務原市教育委員会 1999年)P250などより 


 以上の説明を図に示すと、以下のようになります。
 ※各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時写真』(各務原市教育委員会 1998年)裏表紙見返しの地図などより


航空自衛隊岐阜基地周辺の戦争遺跡は次のページで紹介しています
誘導路 □戦時下の各務原基地と川崎航空機工場 −戦争遺跡T 誘導路−
飛行機掩体壕 □空襲に備えて −戦争遺跡U 飛行機掩体壕−
塀の機銃弾痕 □追加3 −航空自衛隊岐阜基地その2 戦争遺跡V 弾痕−



 上の草地と森のように見える写真は、実は、戦時中の東西飛行場の存在を現代に物語る証拠写真です。
 この写真の左手の森のように見える部分の左側には、現在の航空自衛隊岐阜基地があります。航空自衛隊岐阜基地の位置はというと、昔の東西両飛行場の敷地をそのまま引き継いでいるのではなく、西飛行場の敷地のみを引き継いでいます。
 東飛行場の部分はどうなったのかというと、戦後、民間に払い下げられ、当初は開拓団が入所して、農地の開発が行われました。現在は、一部は宅地化しています。
 もともと両飛行場の間は、県道が走っていました。それが図中のAで示された道路です。 

 実は、Aの部分には、両飛行場をつなぐ誘導路(飛行機が移動する道)があったのです。コンクリート製のトンネルが作られ、県道の方が誘導路の下をくぐっていました。
 現在、東飛行場はありませんから、もう誘導路はありません。ところが、その当時のトンネルと県道が、今も残っています。
 上の写真のどの部分か分かりますか?
 実は、左の森のような部分にトンネルのコンクリート一部が見えます。
 それを拡大すると、左下の写真のようになります。
 
 このトンネル位置は、現在の主要地方道江南・関線すぐ脇です。上の写真で、中央の白い自動車運搬用トレーラーが写っている部分が江南・関線です。
 このトンネルは、各務原市に現在も数々残っている、
戦時遺構の一つなのです。
  ※各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録』(各務原市教育委員会 1999年)P274 などより

 左上の写真は、トンネルを主要地方道江南関線の東側の台地上から見たもの(東側から西を見て撮影)です。自動車が走っているところが江南関線で、中央の白い棒のようなもの(実は看板)の左に見える灰色の部分が、上の写真のトンネルのコンクリートの外側面です。
 ここの地形は、台地の中央に当たり、台地の表面の水を集める小さな川(北から南へ流れる)の浸食によって、小規模な谷となっている部分です。
 ここに、明治時代に県道ができましたが、県道の道路面は、左上の写真でわかるように、台地面からは標高が数メートル低い部分となっています。これは、現在の主要地方道江南関線も同じです。

 したがって、東西飛行場を結ぶ誘導路を作る際には、誘導路が県道をまたぐ形となってトンネルが造られたのです。

 右上の写真は、左上の写真の撮影場所から反対に、北東の方角を撮影したものです。旧東飛行場の跡地は、農地や宅地となっていますが、この部分は国有地となっており、未開発のただの草っ原です。


  工場拡張と学徒動員                     | このページの先頭へ | 

 第二次世界大戦は、開戦時の各国郡部の予想を上回って、航空兵力が戦いの帰趨を決定する戦争となりました。いわゆる、制空権をとった方が、戦局全体を支配するようになったのです。
 破竹の勢いでヨーロッパ大陸を席巻したドイツ軍が、1940年秋にイギリス上陸をあきらめざるを得なかったのは、イギリス空軍とドイツ空軍との死闘、「バトル オブ ブリテン」で敗れたせいでした。
 
 また、日本がアメリカ軍とのガダルカナル島の「補給戦」に敗れたのも、制空権を失ったからでした。
  ※これについては、日本史クイズ「太平洋戦争期1」905・906参照

 そのため、日本もアメリカも、国民を大動員して飛行機の増産に向かいました。
 日本では、まだ太平洋戦争が始まる前の1939(昭和14)年、すでに戦争経済の強化を目指して、国家総動員法が制定されていました。
 これに基づいて、同年国民徴用令が公布され、男子は16歳以上50歳未満、女子は16歳以上25歳未満の者を、重要産業に強制的に配置することが可能となっていました。
 通常、男子が兵役にとられる際に受ける通知(召集令状)は、ピンク色の紙で印刷されていたため、「赤紙」と呼ばれていましたが、国民徴用令に基づく徴用命令通知は普通の紙に印刷されていましたので、「白紙招集」と呼ばれました。
 これによって、多数の国民の飛行機工場への徴用が行われ、または、会社ぐるみで、飛行機工場へ転用される事態も生じました。

 ただし、当然ですが、徴用によって数だけ増えた飛行機工場は、未熟練労働者が多くなりその労働生産性は低下しました。
 戦争末期になると、さらに、学徒勤労動員によって動員された少年少女が飛行機生産に従事するようになります。
 下の表は、川崎航空機岐阜工場におけるその状況を示しています。


川崎航空機岐阜工場の工員・学徒の推移
区分 43年12月 44年4月 44年12月 45年4月 45年8月
工員 24,007 30,239 20,350 18,465 19,288
2,443 3,541 7,496 7,549 7,257
26,450 33,780 27,846 26,014 25,545
学徒 0 752 7,041 6,501 6,152
0 0 1,005 946 893
0 752 8,046 7,447 7,045
比率% 0 2 22 22 22
合計 26,450 34,532 35,892 33,461 32,590
うち女子の比率% 9 10 24 25 25

※この表には、設計技師など当時のホワイトカラー(呼び方は職員)は含まれていません。     
※川崎重工業航空機事業部編『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』(1987年)P35より作製      


 10代後半の学徒の割合は、戦争末年の1945(昭和20)年には、22%にも達していました。また、徴兵で戦地に赴いた男性労働者の穴を埋めるべく、女性労働者の割合も激増し、同じく1945年には、25%に達していました。
 飛行機生産という高度な生産現場に、このように未熟練工の割合が増えていくことは、日本の場合は、ただちに生産性の低下や生産された機械(機体やエンジン)の精度の低下につながりました。

 日本の場合はといいましたが、lこれは戦争の相手国、アメリカを意識してのことです。アメリカに於いても、飛行機の大増産を図らなければならないことは同じ事情でした。
 アメリカはどう対応し、生産事情はどうだったのでしょうか。

 ちょっと長いですが、アメリカの航空機生産の事情を説明した文章を引用します。

「米海軍による航空機増産命令には、民間産業の戦争協力態勢を促進させるねらいもこめられていた。
 アメリカでは、開戦後、特別立法に基づく大統領命令で、民間産業の総動員体制が組まれていた。
 それは、業種別あるいは企業別に、軍艦、航空機、戦事、銃砲などの軍需物資生産に協力させるもので、このうち航空機の生産に協力を命じられたのは、ゼネラル・モータース(GM)、フォード、パッカードなどの自動車産業だった。
 そして、自動車業界では、各社の役割分担や相互調整をするために、戦争協力委員会を作り、その委員長には、GMのタントセン社長が就任した。委員長としての年俸は、「一ドル」だった。
 協力といっても、単に部品を供給するとか機体の一部の組み立てを受け持つといった中途半端なものではなかった。自動車工場の大半を航空機の生産工場に一変させ、自動車工場の技術者と作業員を、そのまま航空機の生産に従事させようという徹底したものだった。例えば、フォード社はコンソリデーテッド社の爆撃機の生産を受け持ち、パッカード社はノースアメリカン社の陸軍用戦闘機を担当することになった。
 このあたりは、自動車産業の発達していたアメリカならではの取り組み方で、日本では、航空機メーカーが、工場を新設したり、古い紡績工場の建物を買収したりして、増産体制を組んでいた。それでも不十分な場合には、機種に優先順位をつけて、例えは最優先の零戦については、三菱だけでなく中島飛行機にも生産させるという方法を採った。
 
だが、アメリカのように、ライン生産に慣れた自動車工場を動員したほうが、大量生産体制を確立するうえで、はるかに機能的だったといえるだろう。
 やはり物をいうのは、産業界全体の底力なのだ。

  ※柳田邦男著『零戦燃ゆ 飛翔編』(文藝春秋 1984年)P266

 川崎航空機も、上掲書に指摘のとおり、各務原やその周辺の紡績工場などを飛行機生産に転用して、増産を図りました。しかし、紡績工場の労働者にとっては、飛行機生産への転換は、決して容易ではありませんでした。

 ※川崎重工業航空機事業部編『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』(1987年)P34  
 
 結果的に、日米の飛行機生産の格差は次のように拡大していきます。
日米航空機生産の推移
年次 日本 アメリカ
1941年 5,088 19,433
1942年 8,861 49,445
1943年 16,693 92,196
1944年 28,180 100,752
1945年(8月の終戦まで) 11,066 不明

※木坂順一郎著『昭和の歴史7 太平洋戦争』(小学館 1982年)P148

 日本の工業力の、いわば基礎体力のなさは、川崎航空機の飛燕にも、重大な影響を落としつつありました。 


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