各務原・川崎航空機・戦闘機06 |
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□戦時下の各務原基地と川崎航空機工場 −戦争遺跡T 誘導路− |
飛燕大増産 | |||||||||||||||||||||
前回、「飛燕の活躍」で説明したように、飛燕の性能は、それまでの陸軍の制式戦闘機、一式戦隼のそれを、最高速度でも、急降下時の機体強度でも、武装でも期待以上に上回るものであり、陸軍からはその生産増加に大きな期待がかけられました。 |
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陸軍三式戦飛燕と海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の模型側面写真(同縮尺)
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飛燕の増産にともなって、ニューギニア戦線で奮戦中の第68戦隊、第78戦隊に続いて、1944年になると、まず第17、18、19の戦隊が飛燕装備の戦隊となり、この年半ばにフィリピン戦線に向かいました。 |
戦時中の岐阜基地と川崎航空機岐阜工場 | このページの先頭へ | |
ここで、簡単に、戦時中の陸軍の岐阜基地と川崎航空機岐阜工場の様子を見てみましょう。 |
上の草地と森のように見える写真は、実は、戦時中の東西飛行場の存在を現代に物語る証拠写真です。 |
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実は、Aの部分には、両飛行場をつなぐ誘導路(飛行機が移動する道)があったのです。コンクリート製のトンネルが作られ、県道の方が誘導路の下をくぐっていました。 |
左上の写真は、トンネルを主要地方道江南関線の東側の台地上から見たもの(東側から西を見て撮影)です。自動車が走っているところが江南関線で、中央の白い棒のようなもの(実は看板)の左に見える灰色の部分が、上の写真のトンネルのコンクリートの外側面です。 |
工場拡張と学徒動員 | このページの先頭へ | |
第二次世界大戦は、開戦時の各国郡部の予想を上回って、航空兵力が戦いの帰趨を決定する戦争となりました。いわゆる、制空権をとった方が、戦局全体を支配するようになったのです。 |
※この表には、設計技師など当時のホワイトカラー(呼び方は職員)は含まれていません。
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10代後半の学徒の割合は、戦争末年の1945(昭和20)年には、22%にも達していました。また、徴兵で戦地に赴いた男性労働者の穴を埋めるべく、女性労働者の割合も激増し、同じく1945年には、25%に達していました。
日本の工業力の、いわば基礎体力のなさは、川崎航空機の飛燕にも、重大な影響を落としつつありました。 |
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