飛燕の試作機が完成し、試験飛行が行われていた1942年当時、すでに、この機のエンジンの問題点が指摘されていました。
この時点で、日本の陸海軍の制式機で唯一の液冷式エンジンであった川崎のハ−40は、高度な細工のため製造するに難しく、また、前線の飛行戦隊の整備兵にとっては、不慣れなためメインテナンスしづらいエンジンだったのです。
したがって、このエンジンではなく、当時の日本の主流エンジンであった空冷式星形エンジンに変更してはどうかという意見は、かなり早い時期から出ていました。
すでに、1943年末に、陸軍の航空審査部の中からも、空冷式への換装(取り替え)を意見具申する人物もいました。
V型(または逆V型)液冷式エンジンと星形空冷式エンジンのどちらがすぐれているかという点については、1930年代後半には、ドイツのメッサーシュミットBf109やイギリスのスーパーマリンスピットファイアーの登場によって、一時期、液冷優位と考えられたこともありました。
機体前面面積が小さい液冷式エンジンは、機体そのものをほっそりとすることができ、空力上速度を速くさせる点で優れたものと考えられたのです。
ほっそりとスマートな機体の見た目の印象もあったかもしれません。
しかし、アメリカでは、ライト社やプラットアンドホイットニー社などは、大馬力の星形複列空冷式エンジン次々と開発し、スピードという点でも成果を上げていました。
つまり、機体が多少太くて大きくても、それ以上に大きな馬力を実現できれば、速度では優位に立つことができるのです。
したがって、日本に優秀な星形エンジンがあれば、飛燕のハ−40とそれとを付け替えることは、選択肢としては十分に考えられたことです。
川崎航空機自身には優秀な空冷エンジンの余剰は、ありませんでしたが、幸い三菱製金星62型エンジン(空冷式星形複列エンジン、1350馬力、陸軍の呼称H112)という代替候補がありました。
土井技師のもとへも、このエンジンでの換装の提案が陸軍の一部から話されました。
戦闘機は、芸術品ではなく大量生産しなければならない兵器ですから、たくさん作れなければ意味はありません。
もと川崎航空機のエンジン設計技師であった林貞助氏は、それについて、やや詳しく次のように書いておられます。
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スポーツ機や輸送機に対するのと異なり、国家間の戦争の勝敗につながる軍用機のエンジンとして、特に最重要の戦闘機エンジンとして空冷式がよいのか、液冷式がよいのかの議論は重大な結果につながるおそれがあり、ドイツにおけるナチス勃興、その再軍備宣言の少し前からこの論議が再び各国で真剣かつ活発に行なわれた。だが、空冷式及び液冷式のそれぞれにそれぞれ異なる特質があり、実際的な結論からいうと、代表的な空冷側の14ないし18気筒星型と汲冷側の正立または倒立X型12気筒とを比較し、冷却器装備を含めての液冷エンジン装備機の抵抗面積CD・Sは、最良のNACAカウリングを持つ空冷エンジン装備機のそれより平均値として20%内外小さくなる代わりに、同じエンジン重量を前提に、空冷エンジン側の出力は、冷却器、冷却液を伴う液冷エンジン側のそれに比ベ20〜25%は大きく、水平速度は両者ほぼ相匹敵する。しかし機体の上昇速度および上昇限度において空冷機が液冷機に勝り、空冷機側の多少の劣速ありとしても上昇速度が大きい利点を利用して液冷機より上位を占め、ダイプにより勝速をかち取り得る可能性もあるが、さりとて眼に角立てて両者の優劣を論議するほどの差は無く、あとは兵器としての生産性、信頼性、稼動率等の争いになるはずである。
DB601の日本版ハー40の性能向上エンジンであるハー140が排気弁焼損その他故障が頻発して完成が遅れ、岐阜工場で「飛燕」の首無し機が多数ならび出した頃、陸軍・川崎連絡会議の席上、当時空冷エンジン設計部門にいた筆者が、「飛燕」を空冷エンジン装備に変えるべきではないかと、上記の理由を述べて意見具申したことがあったが、誰も聞こうとしてくれなかった。昭和19年10月の三式戦より五式戦への転換命令の2年前にこれが実現していたらと今改めて思う。
空冷エンジン及び液冷エンジンの両陣営において、エンジン設計上およぴその蟻装上のその時々の技術革新により、ある時には空冷が液冷を押さえ、ある時には後者が前者を押さえるといったシーソーゲームを繰り返しながら推移して行ったのが実状で、一方が他方を押さえ放しという事態は遂に起こらなかった。」
※林貞助「空冷vs液冷 エンジン性能くらべ」雑誌「丸」編集部編『図解軍用機シリーズ2 飛燕&五式戦/九九双軽』
(光人社 1999年)P116 |
しかし、主に航空兵器の増産促進のために設置された軍需省は、換装による一時的な生産減少を嫌うことから、また、エンジンの研究部門である第二陸軍航空技術研究所は、唯一の液冷式エンジンに固執する理由から、液冷式から空冷式への換装に反対し続けました。
また、川崎の設計陣も、液冷式から空冷式に換装する際には技術的な困難が生じることや、自社内のエンジン部門が苦労して作製している液冷式エンジンから、三菱ハ112型という他社製のエンジンに換装することはなかなか言い出せないということもあって、「決断」は遅れたのです。
しかし、「首なし飛燕」の増加という現実には目をつぶることはできず、ついに、1944年10月、ハ112型エンジンへの換装機、つまり飛燕の液冷式エンジンを空冷式エンジンに取り替えた飛行機の試作命令が出されました。
※川崎重工業株式会社航空事業部編『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』(1987年)P 36
このあたりの事情は、このシリーズの記述に際して参考にしたいくつかの文献にも書かれていますが、ちょっと留意すべき点があります。
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1944年 |
4月 |
飛燕2型用ハ−140エンジン試作型、故障が完治できず。 |
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6月 |
飛燕2型用ハ−140エンジン量産型、機体工場へ納入され始める。しかし、最初から完成台数が予定を大幅に下回る。 |
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8月 |
陸軍、飛燕2型用ハ−140の生産予定台数を減らす。 |
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9月 |
飛燕2型の組立生産、本格的に開始。 |
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10月 |
飛燕2型の空冷エンジン換装型の設計開始命令。 |
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1945年 |
1月 |
飛燕首なし機体合計364機に。(1型134機2型230機)この月、飛燕1型の生産終了。 |
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2月 |
飛燕2型を改良し空冷エンジンを搭載した機の生産開始。飛燕2型の生産は継続。 |
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こうして年表にしてみると、飛燕2型から空冷エンジン搭載型への切り替えは、そう簡単には、進まなかったことが分かります。
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