各務原・川崎航空機・戦闘機08
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 □五式戦誕生 −空冷式エンジンへの換装−
     
 液冷エンジンから空冷エンジンへ                   

 飛燕の試作機が完成し、試験飛行が行われていた1942年当時、すでに、この機のエンジンの問題点が指摘されていました。
 この時点で、日本の陸海軍の制式機で唯一の液冷式エンジンであった川崎のハ−40は、高度な細工のため製造するに難しく、また、前線の飛行戦隊の整備兵にとっては、不慣れなためメインテナンスしづらいエンジンだったのです。
 したがって、このエンジンではなく、当時の日本の主流エンジンであった空冷式星形エンジンに変更してはどうかという意見は、かなり早い時期から出ていました。
  すでに、1943年末に、陸軍の航空審査部の中からも、空冷式への換装(取り替え)を意見具申する人物もいました。
 
V型(または逆V型)液冷式エンジンと星形空冷式エンジンのどちらがすぐれているかという点については、1930年代後半には、ドイツのメッサーシュミットBf109やイギリスのスーパーマリンスピットファイアーの登場によって、一時期、液冷優位と考えられたこともありました。
 機体前面面積が小さい液冷式エンジンは、機体そのものをほっそりとすることができ、空力上速度を速くさせる点で優れたものと考えられたのです。
 ほっそりとスマートな機体の見た目の印象もあったかもしれません。

 しかし、アメリカでは、ライト社やプラットアンドホイットニー社などは、大馬力の星形複列空冷式エンジン次々と開発し、スピードという点でも成果を上げていました。
 つまり、機体が多少太くて大きくても、それ以上に大きな馬力を実現できれば、速度では優位に立つことができるのです。
 したがって、日本に優秀な星形エンジンがあれば、飛燕のハ−40とそれとを付け替えることは、選択肢としては十分に考えられたことです。
 川崎航空機自身には優秀な空冷エンジンの余剰は、ありませんでしたが、幸い三菱製金星62型エンジン(空冷式星形複列エンジン、1350馬力、陸軍の呼称H112)という代替候補がありました。
 土井技師のもとへも、このエンジンでの換装の提案が陸軍の一部から話されました。
 戦闘機は、芸術品ではなく大量生産しなければならない兵器ですから、たくさん作れなければ意味はありません。
 もと川崎航空機のエンジン設計技師であった林貞助氏は、それについて、やや詳しく次のように書いておられます。


 スポーツ機や輸送機に対するのと異なり、国家間の戦争の勝敗につながる軍用機のエンジンとして、特に最重要の戦闘機エンジンとして空冷式がよいのか、液冷式がよいのかの議論は重大な結果につながるおそれがあり、ドイツにおけるナチス勃興、その再軍備宣言の少し前からこの論議が再び各国で真剣かつ活発に行なわれた。だが、空冷式及び液冷式のそれぞれにそれぞれ異なる特質があり、実際的な結論からいうと、代表的な空冷側の14ないし18気筒星型と汲冷側の正立または倒立X型12気筒とを比較し、冷却器装備を含めての液冷エンジン装備機の抵抗面積C・Sは、最良のNACAカウリングを持つ空冷エンジン装備機のそれより平均値として20%内外小さくなる代わりに、同じエンジン重量を前提に、空冷エンジン側の出力は、冷却器、冷却液を伴う液冷エンジン側のそれに比ベ20〜25%は大きく、水平速度は両者ほぼ相匹敵する。しかし機体の上昇速度および上昇限度において空冷機が液冷機に勝り、空冷機側の多少の劣速ありとしても上昇速度が大きい利点を利用して液冷機より上位を占め、ダイプにより勝速をかち取り得る可能性もあるが、さりとて眼に角立てて両者の優劣を論議するほどの差は無く、あとは兵器としての生産性、信頼性、稼動率等の争いになるはずである。
 DB601の日本版ハー40の性能向上エンジンであるハー140が排気弁焼損その他故障が頻発して完成が遅れ、岐阜工場で「飛燕」の首無し機が多数ならび出した頃、陸軍・川崎連絡会議の席上、当時空冷エンジン設計部門にいた筆者が、「飛燕」を空冷エンジン装備に変えるべきではないかと、上記の理由を述べて意見具申したことがあったが、誰も聞こうとしてくれなかった。昭和19年10月の三式戦より五式戦への転換命令の2年前にこれが実現していたらと今改めて思う。
 空冷エンジン及び液冷エンジンの両陣営において、エンジン設計上およぴその蟻装上のその時々の技術革新により、ある時には空冷が液冷を押さえ、ある時には後者が前者を押さえるといったシーソーゲームを繰り返しながら推移して行ったのが実状で、一方が他方を押さえ放しという事態は遂に起こらなかった。」
 ※林貞助「空冷vs液冷 エンジン性能くらべ」雑誌「丸」編集部編『図解軍用機シリーズ2 飛燕&五式戦/九九双軽』
       (光人社 1999年)P116        

   
 しかし、主に航空兵器の増産促進のために設置された軍需省は、換装による一時的な生産減少を嫌うことから、また、エンジンの研究部門である第二陸軍航空技術研究所は、唯一の液冷式エンジンに固執する理由から、液冷式から空冷式への換装に反対し続けました。
 また、川崎の設計陣も、液冷式から空冷式に換装する際には技術的な困難が生じることや、自社内のエンジン部門が苦労して作製している液冷式エンジンから、三菱ハ112型という他社製のエンジンに換装することはなかなか言い出せないということもあって、「決断」は遅れたのです。
 しかし、「首なし飛燕」の増加という現実には目をつぶることはできず、ついに、
1944年10月、ハ112型エンジンへの換装機、つまり飛燕の液冷式エンジンを空冷式エンジンに取り替えた飛行機の試作命令が出されました。
   ※川崎重工業株式会社航空事業部編『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』(1987年)P 36
 
 このあたりの事情は、このシリーズの記述に際して参考にしたいくつかの文献にも書かれていますが、ちょっと留意すべき点があります。

1944年 4月

飛燕2型用ハ−140エンジン試作型、故障が完治できず。

6月

飛燕2型用ハ−140エンジン量産型、機体工場へ納入され始める。しかし、最初から完成台数が予定を大幅に下回る。

8月

陸軍、飛燕2型用ハ−140の生産予定台数を減らす。

9月

飛燕2型の組立生産、本格的に開始。

10月

飛燕2型の空冷エンジン換装型の設計開始命令。

1945年 1月

飛燕首なし機体合計364機に。(1型134機2型230機)この月、飛燕1型の生産終了。

2月

飛燕2型を改良し空冷エンジンを搭載した機の生産開始。飛燕2型の生産は継続。


 こうして年表にしてみると、飛燕2型から空冷エンジン搭載型への切り替えは、そう簡単には、進まなかったことが分かります。 


 改造戦闘機、五式戦誕生                          | このページの先頭へ | 

 土井技師ら川崎の設計陣は、1944年10月から、突貫工事で空冷「飛燕」の本格的設計に入ります。試作機として、キ100の番号が与えられました。
 エンジンを取り替えるのですからそう簡単ではありませんが、特に、大きな問題点が一つありました。
 正面面積が小さい液冷式エンジンを飛燕は、ほっそりした機体に特色があり、機体の幅は84cmしかありませんでしたが、新しく装備する空冷式エンジンは、直径121.8cmもあったのです。空冷式エンジンに、カウリングというカバーを付ければ、機体幅はもっと増加します。
 つまり、そのまま装着すれば、エンジンのある頭部が胴体部より片側20cm以上大きくなり、カウリングと胴体の部分に段差ができてしまいます。
 20cm以上も段差があると、飛行機が高速で飛んだ場合、その部分に空気の渦巻き(渦流)生じてしまい、スピードが出せなくなってしまいます。

 しかし、この難問は、ドイツ軍戦闘機
フォッケウルフFw190Aを参考にすることで解決しました。
 この飛行機は、1943年に潜水艦でドイツから運ばれてきたものですが、エンジンの排気を後方に吐き出す排気管を、カウリングの後縁の左右に集めて、排気を後方へ吹き出すようにしていました。
 こうすると、排気がロケット噴射のような形となり、渦流を吹き飛ばしてしまうのです。
 昼夜兼行の作業の結果、設計は1944年12月に終了。
 キ100試作第1号機は、翌1945年1月下旬に完成しました。
 そして、2月1日各務原でテスト飛行が行われました。超スピードの作業ぶりです。 


キ61三式戦飛燕 キ100五式戦
 右のキ100は、細い胴体に、太いエンジンが付けられているのが分かる。
 五式戦の操縦席の風防は、当初は飛燕と同じファストバック方式だったが、のちには通常の戦闘機のように水滴型風防となった。
 飛燕には胴体下部に冷却装置があるが、キ100にはない。この分、軽量化した。

 急ごしらえの試作機キ100に乗ったパイロットは驚きました。
 その性能が、非常によかったからです。

飛燕2型 項目 キ100(五式戦)
ハ−140 1350馬力 エンジン ハ112 1350馬力
610km/h 最大速度(高度6000m) 580km/h
6分 高度5000mまでの上昇時間 6分
 

最高速度こそ、飛燕2型より30km/hほど下がったものの、上昇性能は同じで、この時期「大東亜決戦機」として期待されていた、4式戦疾風よりは上回っていました。
 正面面積が増加したのにこのような高性能となったのは、液冷式より軽い空冷式エンジンを搭載したためと考えられました。エンジンそのものと冷却器等を合わせて、自重が300kgも減少していました。

 当然ですが、空冷式エンジンとなったおかげで整備しやすく、燃料とオイルさえ入れればいつでもすぐに飛べる扱いやすい戦闘機となりました。
 この改造戦闘機の優れた性能を確認した陸軍航空本部は、まだ試験飛行が完全に終わっていない、
1945年2月中に、キ100の制式採用を決定しました。この機は、五式戦となりました。 
 このくらいなら、始めから空冷式戦闘機で作ればよかったものをと思われるかもしれませんが、液冷式エンジンを搭載することを前提として機体設計をした結果、このようなスマートな機体が生まれたわけです。始めから空冷式なら、このような機体は、設計できなかったことは言うまでもありません。
 
 川崎航空機岐阜工場では、生産ラインの途上にあった完成前の三式戦の機体をできるだけ五式戦にまわし、また、工場内外にたまっている「首なし飛燕」(2月の時点で200機)を五式戦に改造する処置を決めました。


 【追加写真】 2011年4月4日追加 

 ロンドン空軍博物館(RAFMuseum)に展示されている世界に唯一現存する五式戦の本物 (撮影日 10/11/16)
 →これについては、旅行記「マンチェスター・ロンドン研修記12 RAFMuseum 五式戦」で詳しく紹介しています。


 五式戦の評価                                | このページの先頭へ | 

 はじめて、五式戦が配備された部隊は、第18戦隊です。
 この部隊は、1944年に飛燕を配備されてフィリピンに渡った部隊で、現地で壊滅状態となり、1945年2月には千葉県柏に戻って部隊の戦力建て直しの途上にありました。

 五式戦に搭乗したパイロットからは、非常によい評価が得られました。
「97戦を高性能にしたような、ぴったりくる感じで、空冷エンジンだから非常に安心感があった」
 第18戦隊は、このあと、五式戦で関東の防空を担当します。
 
 また、当時中島飛行機で大量生産が続いていた、1944年の制式化の4式戦疾風との性能比べも行われました。
 4式戦疾風は、中島飛行機製の2000馬力エンジン(誉、ほまれ)を搭載した機で、最高速度624km/hの高性能機でした。陸軍は、「大東亜決戦機」(大東亜戦争の決戦の鍵を握る戦闘機という意味)と呼び、この時期、増産に懸命でした。結果的に、この機は、終戦までに合計3499機作られ、これは、日本の戦闘機として、海軍のゼロ戦、陸軍の一式戦隼につぐ、3位の生産機数となりました。(ちなみに、飛燕は第4位)
 
 ところが、大量生産にはいると、誉エンジンが期待どおりの性能を示さず、評判が落ちていました。南方からの石油の輸入が減少し、使用するガソリンのオクタン価が低下したのもその原因でした。
 その状態の疾風と五式戦の比較です。

 檮原中佐は常陸教導飛行師団・教導飛行隊長として転任の途上、航空本部に立ち寄り「五式戦一機は四式戦三機以上の価値がある。即刻、五式戦の生産に全力をそそいで下さい」と課長に訴えたところ、大量産中の四式戦をけなせば士気に影響する、五式戦はすぐには機数がそろわない、と叱られ相手にされなかった。
 これ以前に、檮原中佐の赴任先の常陸教導飛行隊では、中隊長の真崎康郎大尉と、同じく小松豊久大尉が、新着の五式戦と四式戦の性能比較を実施していた。二人はともに航士五十四期、真崎大尉は飛行第四十七戦隊で、小松大尉は二百四十四戦隊で中隊長を務めており、腕は互格と見ていい。
 結果は、真崎大尉の言葉をかりれば「文句なく五式戦が上」だった。両大尉が交互に乗って比べたところ、高位戦(優位戦)なら自在に攻撃をかけられ、低位(劣位)からでも二〜三回の上昇で五式戦が四式戦を迎えこむ。突っこみだけは四式戦が速いが、上昇や旋回性能は五式戦がずっと優れていた。」
 ※渡辺洋二前掲書『液冷戦闘機「飛燕」』(朝日ソノラマ 1988年)P311    

 
 防空任務についた五式戦の初陣は、1945年3月10日未明の東京大空襲でした。
 この時点では、硫黄島がアメリカ軍の手に落ちており、しばらくすると、その基地を発進したアメリカ陸軍のP51ムスタングが、B29爆撃機編隊の護衛に付くようになっており、非常に苦しい状況の中でのデビュー戦でした。
 五式戦の生産機数が増加する5月になると、二式戦屠龍三式戦飛燕から五式戦に機体を変更する戦闘機部隊が増加していきます。 


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