各務原・川崎航空機・戦闘機05
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 □飛燕、初飛行そして量産 −液冷式エンジン−
     
 軽戦キ61                        

 ドイツ空軍、とりわけメッサーシュミットBf109の活躍は、日本の陸海軍の戦闘機設計思想に影響を与えました。
 それまでの、格闘性能優先一辺倒から、速度を上げることも重要という認識にいたったのです。ただし、このことは、軽戦から重戦へと完全に発想を転換したというわけではありませんでした。
 あくまで格闘性能を重視し、それに加えて、スピードもという軍の要求だったのです。

 これにこたえる形で、海軍機としては1940年制式化の
零式艦上戦闘機、陸軍機としては1941年制式化の一式戦闘機隼が作られました。この両機は、軍がスピードと格闘性能の両方をも要求すると言った無茶な状況で作られた戦闘機で、設計者は非常な苦労を強いられました。
 
 しかし、陸軍は1940年になると、海軍よりはより明瞭に、重戦をも指向するようになります。
 この年2月、陸軍航空技術研究所を通じて各社に示された試作機作成計画は次のようになっていました。

川崎

キ60重戦、キ61軽戦、、キ64重戦、キ66急降下爆撃機・・・

中島

キ62軽戦、キ63重戦・・・

三菱

キ65重戦、キ67重爆撃機・・・

※碇義朗著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(光人社NF文庫 1996年)P74など

 各社に重戦の試作が命じられたのがよく分かります。
 川崎に命じられたもののうち、どれがのちの飛燕かというと、実は、キ61軽戦です。
 川崎の航空機設計の中心人物となっていた土井武夫技師は、設計課長として、これらの試作機すべての設計を統括しました。 


 飛燕のエンジン、液冷ハ40                      | このページの先頭へ | 

 4の「飛燕開発前夜」でお話ししたように、陸軍は、ヨーロッパで大活躍しているメッサーシュミットBf109に搭載しているダイムラー・ベンツのエンジンDB601を輸入して、川崎にその国産化をさせようとしていました。
 試作機キ60やキ61は、ドイツから直輸入したエンジンを積みましたが、量産機は、DB601をまねた国産エンジンを積むことになっていました。
 川崎では、機体の設計と同時に、エンジンの開発が始まります。このエンジンは、のちに
ハ−40と名付けられます。


 ダイムラー・ベンツのエンジンDB601をまねた川崎ハ−40エンジン。

かかみがはら航空宇宙博物館の展示写真です。飛燕のエンジンについても詳細に学習できます。

 空冷式の星形エンジンとは違って、シリンダーを左右に1個ずつ6列、逆V字型に並べた逆V型12気筒の液冷エンジン。
 排気穴は、左右に6個ずつ付いています。
 空気を直接取り入れて冷却する空冷星形エンジンは、シリンダーを空気にさらす必要から、シリンダーの間隔を広げなければならず、エンジンの正面の面積が広くなりました。
 これに比べて、液冷式では、正面面積は小さくてすみ、スマートな機体となりました。


零式艦上戦闘機

 上から、空冷星形エンジンを積んだ、日本の零式艦上戦闘機ゼロ戦とアメリカ海軍グラマンF6Fヘルキャット、アメリカ陸軍。

 比較できるよう、模型の縮尺と写真のサイズはすべて同じにしてあります。

 断面は円形となり、特に2000馬力エンジン搭載機グラマンF6Fの正面は、いかにも太く、でぶっちょ感は否めません。
 
 一番下は、液冷エンジンを搭載のアメリカ陸軍P51ムスタング。
 パッカードマーリンエンジン搭載で、時速700kmを越える驚異のスピードを出しました。スマートな正面、細身の胴体、断面も楕円形。

 グラマンF6Fヘルキャット

 ノースアメリカンP51ムスタング


  飛燕の設計思想                          | このページの先頭へ | 

 川崎の土井技師らは、「軽戦」と定義された試作機キ61をどのような設計思想で作ろうとしたのでしょうか。

 設計主任の土井技師から、キ61の設計副主任に命じられた大和田信技師の証言があります。
「戦場にあらわれる敵機の種類は多種多様である。だが、戦闘機はいかなる敵機に対しても有利に戦い、これを撃墜し、制空権を確保できるものでなければならないことは当然だ。
 この考え方からすれば、戦闘機を重戦と軽戦とに、はっきり区別することは不可能なことである。この事実は戦争の推移とともに明らかにされたところだが、戦闘機は結局、速度、上昇力、急降下、急上昇、軽快性などの総合性能で敵機に優るものでなければならないし、強力な火力と適当な装甲と必要な航続性能とをもつものでなければならない。『戦闘機はあくまで戦闘機であって、これを重戦、軽戦に区別するのは不合理だ』という考え方は、飛燕完成の総指揮者土井武夫氏は勿論、われわれ設計者の確固とした持論だった。」
 ※碇義朗前掲著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(光人社NF文庫 1996年)P81
 
 土井氏は、敵戦闘機に勝てる戦闘機という基本コンセプトをもち、軽戦・重戦にこだわらない戦闘機の設計を目指しました。結果的に、飛燕は「中戦」とでもいうべき、両者の長所を兼ね備えた戦闘機になります。

 飛燕は、メッサーシュミットBf109の活躍の影響を受け、そのエンジン、ダイムラー・ベンツDB601を利用して製作が始まりました。
 外形がメッサーシュミットBf109に多少似ていることもあって、「
和製メッサーシュミット」などと気軽に呼ばれたこともありましたが、実際には、日本陸軍航空隊の戦闘機として想定される諸条件の中で、少しでも優秀な性能を発揮するように作られた、日本人の手による日本のオリジナルな戦闘機でした。
 

飛燕1型とメッサーシュミットBf109E型の比較

       飛燕1型      

項目

メッサーシュミットBf109E型

20.00平方メートル

翼面積

16.17平方メートル

3470kg

全備重量

2500kg

590km/h

最大速度

570km/h

1800km

航続距離

670km


 両飛行機の諸元を比べると、その違いが分かります。
 飛燕の方が翼面積が広く、速度一点張りではなく、速度と格闘性を調和させようとしていることが明瞭です。
 特に大きな違いは、航続距離です。
 大陸国家であるドイツでは、戦闘機は、戦場に近いところに設営された自分の基地から飛び立って、相手をやっつけたらすぐに自分の基地へ引き返すという発想のもとで作られました。
 太平洋戦線を想定して、海の上を飛んで戦いに行くことも想定されて作られた日本の戦闘機は、当然、航続距離は長くなっているのです。

日本陸軍 飛燕1型模型 

ドイツ空軍 メッサーシュミットBf109G型模型

日本海軍 零式艦上戦闘機(ゼロ戦)模型 

アメリカ海軍 グラマンF6Fヘルキャット模型 

 上の4つの模型の写真は、同じ縮尺にしてあります。
 飛燕とゼロ戦と比べると、液冷エンジンを積んだ飛燕の方が細身であることが分かります。
 同じエンジンのタイプを積載する飛行として設計されても、メッサーシュミットBf109と飛燕とでは、飛燕の方が翼面積を広くしているのが分かります。
 空冷2000馬力エンジン搭載機であるグラマンF6Fは、胴体の太さも、全体の大きさも、他の3機に比べてビッグです。
 ちょうど、日米の自動車の違いのようですが、この違いを生み出す背景は、またのちの項目で説明します。 


  飛燕の誕生                             | このページの先頭へ | 

 試作開始から1年10ヶ月後の1941年12月、おりしも日米開戦の直後、各務原の川崎航空機試作工場でキ61の試作機は完成しました。試作機は、すぐさま隣接する各務原飛行場で試験飛行に入りました。
 製造物というものは、多かれ少なかれ、設計時に期待した性能と、実際に作られた現物の性能とは違うものです。
 土井技師らは、キ61はメッサーシュミットBf109より旋回性能ではまさるものの、速度は、それほど速くはないと予想していました。

 ところが、初飛行後まもなく、キ61は日本の戦闘機としては驚異的な時速590kmを記録するのです。予想外の性能でした。当時は、航空力学・流体力学が十分発達しておらず、また、現在のようなコンピュータによる計算ということもありませんでしたから、土井技師にも、予想外の性能の原因ははっきりとは分かりませんでした。ただ、胴体の高さを少し低めにしたこと、冷却器の位置を工夫したことがよかったという考えでした。
 結果的に、細型の液冷エンジンを積んだスマートな機体が、期待どおり、高速戦闘機を誕生させたと考えられました。
 のちの話ですが、1942(昭和17)年12月21日に行われた陸海軍合同の戦闘機研究会の席上では、海軍のパイロットから、飛燕の舵の利きがいい(方向舵・昇降舵の反応がよい)と褒められました。
 この時土井技師は、飛燕の高性能を次のように説明しています。
「わが社では昔から縦に細長い液冷エンジンを使ってきた関係もあり、胴体は伝統的に細長い角形断面を採用しておりますが、これが方向安定その他に、最も影響をしているのではないかと思われます。」
 ※碇義朗前掲著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(光人社NF文庫 1996年)P120

 陸軍の審査でも高性能を発揮したキ61は、エンジンの油漏れ、冷却器の不調等の問題はあったものの、いずれ解決されるだろうと予想のもと、1942(昭和17)年8月に、川崎航空機岐阜工場で、キ61(1型)の大量生産化が始められました。(制式化は1943年になってからで、三式戦(三式戦闘機)と命名されました。なお、飛燕という愛称は、正式には1945(昭和20)年1月に名付けられています。)

 この時の大増産によって、川崎航空機はこれまでの工場用地周辺に、いくつかの組立工場を増設しました。そのひとつは、戦後岐阜市内に移築され、「市民センター」として使用されました。現在の市民文化センターの建物の建築前にあった、まるで飛行機の大きな格納庫のような建物です。年配の方なら覚えておられると思います。
 ※川崎重工業航空事業本部編『川崎重工 岐阜工場50年のあゆみ』(1987年)P30

 エンジンの方は、1940年に明石に開設した発動機工場(明石工場)で製造され、汽車で各務原まで運ばれて、組み立てた機体に取り付けられました。 


  飛燕の活躍                          | このページの先頭へ | 

 新しい戦闘機が完成すると、それを使用する部隊が決められ、普通は飛行戦隊まるごと、機種改変(以前の飛行機から、新しい飛行機への変換)を行います。
 
 最初に飛燕を乗機とした飛行戦隊は、第68戦隊です。
 この部隊は、最初満州のハルビンで編制された対ソ連用の部隊でしたが、南方戦線の強化のために転属が決まり、1942(昭和17)年12月、それにあわせて、それまでの使用機種、九七式戦闘機から飛燕への機種改変が行われました。場所は、三重県の明野基地です。ここで部隊ごと新しい飛行機になれるための訓練(未修訓練といいます)が行われました。 
 

 当時の陸軍の飛行戦隊というのは、3個飛行中隊で編制されていました。それぞれの中隊は3個小隊からなり、1小隊は、時期によって異なりますが、この時点では戦闘機4機で編制されていました。
 予備機等も含めて戦隊全体では、約50機ほどの戦闘機が所属していました。(実際は、編制当初は多くの機数を保有していても、戦地では、戦いが続くにつれて、飛行機・搭乗員ともに損耗して、それだけの補充が行われず、定数以下となっていきます。)


 飛燕の最初の活躍場所は、当時、激戦が続いていたニューギニア戦線でした。
 第68戦隊は、1943年4月に南方の日本軍最大の航空基地、ラバウルに移動し、やがて、遅れてやってきた第78戦隊とともに、ニューギニアのウエアクに進出し、第4航空軍所属の第7飛行師団第14飛行団に属する戦隊となりました。1943年7月のことです。
 最初に試験飛行をしてから2年6ヶ月、けっこう長い時間が経過しています。戦闘機がデビューするというのは、そう簡単にできることではないのです。しかし、これでも戦時中というわけで、急ぎに急いだ結果です。このように急いだことが、飛燕には、より困難な状況を作ります。

 ニューギニアに進出した第68戦隊と78戦隊は、到着するとすぐに戦闘に参加します。当時のニューギニアは、東から日本軍に圧力をかけつつあったマッカーサー率いるアメリカ陸軍と戦いが熾烈になっており、両戦隊もすぐさまその戦闘に投入されたのです。  


 新鋭機飛燕が派遣された戦場、東部ニューギニア。左の地図の青線で四角で囲まれた部分の拡大図が右図。
 第68及び78戦闘機隊は、ニューギニアのウエワク(ウェアクとも表記)基地に展開し、敵飛行場の爆撃、来襲機の迎撃などに活躍した。


 飛燕は戦闘機としては、期待どおりの性能を発揮しました。

 それまで、南方戦線の陸軍の戦闘機は、これまでも紹介した、中島飛行機製の
一式戦闘機隼でした。
 この機は、航続距離と旋回性能とある程度のスピードを実現したバランスのとれた陸軍の「名機」でした。
 しかし、その分犠牲にしたところも少なくありません。
 第1に武装は、12.7mm機関銃2門のみであり、第2に、最高速度は510km/h程度と特に早いわけではなく、特に、機体強度の不十分さから、急降下の際にはアメリカ軍機に比べてあまり高い速度は出せませんでした。

 開戦劈頭において、当初から東南アジアの植民地に展開していた英米蘭豪軍の戦闘機と戦う際には、さして苦労はありませんでした。
 しかし、アメリカ軍の反攻に伴って登場した、速度が速く防御力が高い陸軍戦闘機ロッキードP38ライトニングや、ボーイングB17爆撃機・コンソリデーテッドB24爆撃機を撃墜することは、非常に苦しい状況でした。

 
飛燕は、最高速度590km/hの高速と、優れた急降下性能、12.7mm機関銃4門の武装によって、一式戦隼にはない強さを発揮したのです。
 特に土井技師の工夫による機体構造の結果、飛燕は素晴らしく「頑丈な機体」となっており、どんなに激しい降下を続けても空中分解を起こすようなことはありませんでした。
 飛行機には、降下する際には、重力の加速度によって通常の水平飛行以上の速度が出ます。ただし、あまり無茶なスピードを出すとそれだけ力がかかりますから、空中分解を起こしてしまいます。このため、降下制限速度が設定されています。
 ゼロ戦の降下速度は約670km/h(52型まで)でしたが、飛燕のそれは、なんと850km/hでした。
飛燕がいかに頑丈な機体であったかを物語ります。

 戦闘参加早々からロッキードP38ライトニングコンソリデーテッドB24爆撃機の撃墜が報告されました。また、急降下して逃げるリパブリックP47サンダーボルトでさえも、低空なら互角に戦えるという実例も示されました。
 これまでの
一式戦隼なら勝負にならなかった相手が、飛燕なら何とかなると期待されました。
 ※小山進著『あゝ飛燕戦闘隊 少年飛行兵ニューギニア空戦記』(光人社 1996年)P63

 特に、途中から主翼に20mm機関砲を装備した改良型(20mm機関砲×2、12.7mm機関銃×2装備)が登場すると、特にアメリカ軍爆撃機に対しては、これまでにない威力を発揮しました。

 飛燕は、これらの点では期待どおりの新鋭戦闘機となりました。 


リパブリックP47サンダーボルト戦闘機
 排気タービン(ターボ)過給器を付けた空冷星形複列18気筒2300馬力エンジンを積み、最高速度は690km/h。全備重量は6623kgもあり、飛燕のそれの3160kgの2倍以上でありました。 武装は12.7mm×8門と強力でした。飛燕が登場するのにやや遅れて、ニューギニア戦線に登場しました。

 同じ縮尺の三式戦飛燕リパブリックP47サンダーボルト、大きさの違いが一目瞭然。
 アメリカはこの戦闘機を15,660機生産しました。これは、一般の方(その道のマニア以外という意味)にはあまり知られていませんが、すべてのアメリカの戦闘機中、最大の生産機数です。もちろん、グラマンF6Fヘルキャット(12,275機)、ノースアメリカンP51ムスタング(14,819機)よりも多いということです。
 
 P47サンダーボルトは、アメリカの技術力の高さと強大な生産力を如実に示す戦闘機です。
 ※野原茂著『【図解】世界のレシプロ軍用機集1909〜1945』(グリーンアロー出版社)より


  飛燕の大活躍を阻んだもの                      | このページの先頭へ |  

 飛燕は活躍しました。
 しかし、結果的に大活躍はできませんでした。
 その要因は、3つあります。
 一つ目は、
アメリカ戦闘機の手強さです、。二つ目は、当時の戦況です。そして、三つ目は、飛燕のエンジンの問題です。
 
1 アメリカ戦闘機の手強さ
 飛燕がニューギニア戦線に投入された時、主に相手となったアメリカ陸軍の戦闘機は、カーチスP40ウォーホークロッキードP38ライトニングです。
 カーチスP40ウォーホークは、太平洋戦争開戦前から配備されていた戦闘機で、最高速度570km/h、武装も12.7mm機関銃×2、7.7mm機関銃×2であり、さして強敵ではありませんでした。

余談ですが、この戦闘機は、ハワイ真珠湾の陸軍航空基地に配備されていて、日本海軍の真珠湾攻撃の時に反撃に出る戦闘機です。
あの映画「パールハーバー」では主人公の二人が、日本軍の一方的に攻撃を受ける中で迎撃に飛び立ち、ゼロ戦を撃墜するシーンがありました。アメリカでは映画館のアメリカン人観客がやんやの喝采を送ったそうですが、その時に乗っていた戦闘機がこの
カーチスP40ウォーホークです。

 ところが、ロッキードP38ライトニングは、なかなかの強敵でした。
 この機は、本来、アメリカを来襲する敵の高々度爆撃機を迎撃するための高々度迎撃戦闘機として開発され、1939年に初飛行しました。

 液冷V型12気筒1325馬力エンジン2基をもつ、双胴の戦闘機で、アメリカ軍の反攻に伴ってソロモン、ニューギニア戦線に登場しました。海軍の連合艦隊司令長官山本五十六を撃墜した戦闘機として有名です。
 最高速度は、640km/h、武装は20mm機関砲×1、12.7mm機関銃×4で、すでに排気タービン(ターボ)過給器を積んで、高々度でも高馬力が発揮できました。
 この機はもともとが高々度迎撃戦闘機でしたから、旋回して格闘戦を使用とする発想はまったくなく、高速と高々度への上昇能力をいかして、ひたすら一撃離脱戦法に徹する戦闘機でした。
 
 そして、ニューギニア戦線に飛燕が登場した時期にやや遅れてやってきたのが、上の模型写真で説明したリパブリックP47サンダーボルトです。
 最高速度690km/h、12.7mm機関銃×8。飛燕は性能的にはこの飛行機の敵ではありません。
 ただし、ロッキードP38ライトニングとは異なり、この機は、一撃離脱戦法に徹するというわけではなかったそうで、のちに現地軍は「三式戦で対抗し得る」と判断しています。
 ※渡辺洋二著『液冷戦闘機「飛燕」』(1998年朝日ソノラマ)P167
 しかし、これは、楽に勝てるという意味ではありません。

 さらに、海軍機グラマンF6Fヘルキャットにも苦戦をします。
 ただし、飛燕がグラマンF6Fヘルキャットと戦うのは、ニューギニア戦線ではなく、飛燕のデビューから1年後の1944(昭和19)年のフィリピン戦線です。
 来襲したアメリカ機動部隊の航空母艦搭載戦闘機グラマンF6Fヘルキャットは、飛燕とは運動性能も互角、最高速度(603km/h)、上昇力、火力(武装12.7mm機関銃×6)では飛燕を凌駕していました。
 
 これらの、アメリカ軍機の個々の性能とは別に、日本軍全体としてアメリカに劣っていることがありました。
 それは、飛行機に搭載されている無線機の性能の悪さです。
 映画では、戦闘機に乗っているもの同士が無線電話で通話するというのが常識ですが、旧日本軍では陸軍機・海軍機ともこれがうまくいきませんでした。
「 近距離用の九九式飛三号無線機の聞こえがたさには定評があり、雑音の多さ、周波数の不安定などを訴える声が航空本部にあいついだ。地上ではいちおうの感度、明度が保たれ、空中でも巡航でおとなしく飛んでいるときは、編隊間ぐらいはなんとか聞こえないでもないが、ひとたびエンジン出力を上げると、各部の電源や配線などから出る火花放電による電気的雑音をひろってしまい、空対空、空対地とも交信不能になった。エンジン出力を高めると聞こえないのでは、戦闘時に役に立たせようがない。」
 ※渡辺洋二前掲著『液冷戦闘機「飛燕」』(1998年朝日ソノラマ)P160−161

 アメリカ軍機は、普通によく通じる無線を使って、編隊での襲撃・防御に長じていました。
 これに対して、日本軍機は、一度空中戦が始まって乱戦となると、小隊(4機)の各機の連絡はとれなくなり、チームワークを発揮して敵に当たることは事実上できなかったのです。

2 当時の戦況
 飛燕が戦場に到着した1943年7月は、ソロモン諸島やニューギニアに置いてアメリカ軍の本格的反攻が始まってその威力が発揮されている最中でした。
  かの有名なソロモン群島のガダルカナル島をめぐる戦闘は、1943年2月日本軍の撤退をもって終わっていました。アメリカ陸海軍は、カートホィール作戦(車の両輪作戦)と称される本格的反攻作戦を展開中でした。
 つまり、ソロモン群島をハルゼー提督率いる海軍が、ニューギニアをマッカーサーが率いる陸軍が、あたかも車の両輪のように進むというものです。
 ※児島襄著『太平洋戦争 下』(中公新書 1966年)P38

 アメリカ軍のたのみは、本国で軌道に乗った桁外れの工業生産力です。
 いわゆる物量作戦と呼ばれる戦いぶりは、航空戦闘に於いても発揮されました。飛燕の戦隊が苦労して20機、30機で戦いを挑む戦場に、アメリカ軍は戦闘機・爆撃機あわせて100機、200機といった大群で襲いかかったのです。

 第68戦隊、第78戦隊がいたウエワク基地は、8月17日、18日両日、アメリカ軍の大空襲を受けます。
2日間で戦闘機157機、爆撃機153機が襲いかかり、飛燕戦闘機体もほぼ壊滅しました。もちろん、また回復はしていきますが、大局的には、絶望的な戦いです。
 ※新人物往来社戦史室編『日本軍航空機総覧』(新人物往来社 1994年)P230
 
 これでは、性能的には互角またはそれ以上の飛燕でも、多勢に無勢、焼け石に水です。
 次の項目で説明するように、この間にも、岐阜の各務原には、それこそ老若男女が懸命に飛燕の増産に励んでいました。
 しかし、アメリカの生産力とは、桁が違っていました。
  →ニューギニア戦については、次で説明しています。クイズ日本史「ココダとはどこの島 オーストラリアとの戦い」

 加えて、輸送力の問題もありました。
 アメリカの場合、飛行機を輸送する場合は、専用の運送用の航空母艦があって、難なく大量の飛行機を本国から戦場へ運びました。
 ところが、日本の場合、貴重な航空母艦をそういう任務に使用できる場合は限られていました。
 それでは、どうやって戦場に運んだのでしょうか?
 実は、戦地に赴任するパイロットまたは輸送役専門のパイロットが、戦地まで飛ばして運んだのです。

 前掲小山進著『あゝ飛燕戦闘隊 少年飛行兵ニューギニア空戦記』(光人社 1996年)P30には、各務原から福岡→宮崎→沖縄→台湾→ルソン島(フィリピン)→ミンダナオ島(フィリピン)→セレベス島(インドネシア)→ハルマヘラ島(インドネシア)→西部ニューギニア→ウエワクと、10日間かけて飛燕を戦地へ運んだ記録がかれています。

 無事到着すればよいのですが、輸送の際、途中落伍(墜落、行方不明、機体損傷、故障等)する機も多かったのです。
 6月16日の第78戦隊の現地赴任の場合、各務原を出発したの飛燕は45機でしたが、戦地に到着したのは、33機でした。12機は途中落伍です。
 この6月の川崎航空機各務原工場の飛燕生産機数は40機であり、移動するだけでせっかく製造したうちの3割が失われたことになるのです。

 各務原からニューギニアのウエワク基地までは、直線でも5,400kmあります。実際の輸送距離は9,000kmもありました。輸送力も考えずに伸びきってしまった兵站線。
 ニューギニア・ソロモン戦線における日本陸海軍の崩壊は、目前に迫っていました。

 次は、戦時中の各務原工場について説明します。
 大活躍を阻んだ3つ目の理由、
飛燕のエンジンの問題は、次次回になります。


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