飛燕は活躍しました。
しかし、結果的に大活躍はできませんでした。
その要因は、3つあります。
一つ目は、アメリカ戦闘機の手強さです、。二つ目は、当時の戦況です。そして、三つ目は、飛燕のエンジンの問題です。
1 アメリカ戦闘機の手強さ
飛燕がニューギニア戦線に投入された時、主に相手となったアメリカ陸軍の戦闘機は、カーチスP40ウォーホークとロッキードP38ライトニングです。
カーチスP40ウォーホークは、太平洋戦争開戦前から配備されていた戦闘機で、最高速度570km/h、武装も12.7mm機関銃×2、7.7mm機関銃×2であり、さして強敵ではありませんでした。
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余談ですが、この戦闘機は、ハワイ真珠湾の陸軍航空基地に配備されていて、日本海軍の真珠湾攻撃の時に反撃に出る戦闘機です。
あの映画「パールハーバー」では主人公の二人が、日本軍の一方的に攻撃を受ける中で迎撃に飛び立ち、ゼロ戦を撃墜するシーンがありました。アメリカでは映画館のアメリカン人観客がやんやの喝采を送ったそうですが、その時に乗っていた戦闘機がこのカーチスP40ウォーホークです。
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ところが、ロッキードP38ライトニングは、なかなかの強敵でした。
この機は、本来、アメリカを来襲する敵の高々度爆撃機を迎撃するための高々度迎撃戦闘機として開発され、1939年に初飛行しました。
液冷V型12気筒1325馬力エンジン2基をもつ、双胴の戦闘機で、アメリカ軍の反攻に伴ってソロモン、ニューギニア戦線に登場しました。海軍の連合艦隊司令長官山本五十六を撃墜した戦闘機として有名です。
最高速度は、640km/h、武装は20mm機関砲×1、12.7mm機関銃×4で、すでに排気タービン(ターボ)過給器を積んで、高々度でも高馬力が発揮できました。
この機はもともとが高々度迎撃戦闘機でしたから、旋回して格闘戦を使用とする発想はまったくなく、高速と高々度への上昇能力をいかして、ひたすら一撃離脱戦法に徹する戦闘機でした。
そして、ニューギニア戦線に飛燕が登場した時期にやや遅れてやってきたのが、上の模型写真で説明したリパブリックP47サンダーボルトです。
最高速度690km/h、12.7mm機関銃×8。飛燕は性能的にはこの飛行機の敵ではありません。
ただし、ロッキードP38ライトニングとは異なり、この機は、一撃離脱戦法に徹するというわけではなかったそうで、のちに現地軍は「三式戦で対抗し得る」と判断しています。
※渡辺洋二著『液冷戦闘機「飛燕」』(1998年朝日ソノラマ)P167
しかし、これは、楽に勝てるという意味ではありません。
さらに、海軍機グラマンF6Fヘルキャットにも苦戦をします。
ただし、飛燕がグラマンF6Fヘルキャットと戦うのは、ニューギニア戦線ではなく、飛燕のデビューから1年後の1944(昭和19)年のフィリピン戦線です。
来襲したアメリカ機動部隊の航空母艦搭載戦闘機グラマンF6Fヘルキャットは、飛燕とは運動性能も互角、最高速度(603km/h)、上昇力、火力(武装12.7mm機関銃×6)では飛燕を凌駕していました。
これらの、アメリカ軍機の個々の性能とは別に、日本軍全体としてアメリカに劣っていることがありました。
それは、飛行機に搭載されている無線機の性能の悪さです。
映画では、戦闘機に乗っているもの同士が無線電話で通話するというのが常識ですが、旧日本軍では陸軍機・海軍機ともこれがうまくいきませんでした。
「 近距離用の九九式飛三号無線機の聞こえがたさには定評があり、雑音の多さ、周波数の不安定などを訴える声が航空本部にあいついだ。地上ではいちおうの感度、明度が保たれ、空中でも巡航でおとなしく飛んでいるときは、編隊間ぐらいはなんとか聞こえないでもないが、ひとたびエンジン出力を上げると、各部の電源や配線などから出る火花放電による電気的雑音をひろってしまい、空対空、空対地とも交信不能になった。エンジン出力を高めると聞こえないのでは、戦闘時に役に立たせようがない。」
※渡辺洋二前掲著『液冷戦闘機「飛燕」』(1998年朝日ソノラマ)P160−161
アメリカ軍機は、普通によく通じる無線を使って、編隊での襲撃・防御に長じていました。
これに対して、日本軍機は、一度空中戦が始まって乱戦となると、小隊(4機)の各機の連絡はとれなくなり、チームワークを発揮して敵に当たることは事実上できなかったのです。
2 当時の戦況
飛燕が戦場に到着した1943年7月は、ソロモン諸島やニューギニアに置いてアメリカ軍の本格的反攻が始まってその威力が発揮されている最中でした。
かの有名なソロモン群島のガダルカナル島をめぐる戦闘は、1943年2月日本軍の撤退をもって終わっていました。アメリカ陸海軍は、カートホィール作戦(車の両輪作戦)と称される本格的反攻作戦を展開中でした。
つまり、ソロモン群島をハルゼー提督率いる海軍が、ニューギニアをマッカーサーが率いる陸軍が、あたかも車の両輪のように進むというものです。
※児島襄著『太平洋戦争 下』(中公新書 1966年)P38
アメリカ軍のたのみは、本国で軌道に乗った桁外れの工業生産力です。
いわゆる物量作戦と呼ばれる戦いぶりは、航空戦闘に於いても発揮されました。飛燕の戦隊が苦労して20機、30機で戦いを挑む戦場に、アメリカ軍は戦闘機・爆撃機あわせて100機、200機といった大群で襲いかかったのです。
第68戦隊、第78戦隊がいたウエワク基地は、8月17日、18日両日、アメリカ軍の大空襲を受けます。
2日間で戦闘機157機、爆撃機153機が襲いかかり、飛燕戦闘機体もほぼ壊滅しました。もちろん、また回復はしていきますが、大局的には、絶望的な戦いです。
※新人物往来社戦史室編『日本軍航空機総覧』(新人物往来社 1994年)P230
これでは、性能的には互角またはそれ以上の飛燕でも、多勢に無勢、焼け石に水です。
次の項目で説明するように、この間にも、岐阜の各務原には、それこそ老若男女が懸命に飛燕の増産に励んでいました。
しかし、アメリカの生産力とは、桁が違っていました。
→ニューギニア戦については、次で説明しています。クイズ日本史「ココダとはどこの島 オーストラリアとの戦い」
加えて、輸送力の問題もありました。
アメリカの場合、飛行機を輸送する場合は、専用の運送用の航空母艦があって、難なく大量の飛行機を本国から戦場へ運びました。
ところが、日本の場合、貴重な航空母艦をそういう任務に使用できる場合は限られていました。
それでは、どうやって戦場に運んだのでしょうか?
実は、戦地に赴任するパイロットまたは輸送役専門のパイロットが、戦地まで飛ばして運んだのです。
前掲小山進著『あゝ飛燕戦闘隊 少年飛行兵ニューギニア空戦記』(光人社 1996年)P30には、各務原から福岡→宮崎→沖縄→台湾→ルソン島(フィリピン)→ミンダナオ島(フィリピン)→セレベス島(インドネシア)→ハルマヘラ島(インドネシア)→西部ニューギニア→ウエワクと、10日間かけて飛燕を戦地へ運んだ記録がかれています。
無事到着すればよいのですが、輸送の際、途中落伍(墜落、行方不明、機体損傷、故障等)する機も多かったのです。
6月16日の第78戦隊の現地赴任の場合、各務原を出発したの飛燕は45機でしたが、戦地に到着したのは、33機でした。12機は途中落伍です。
この6月の川崎航空機各務原工場の飛燕生産機数は40機であり、移動するだけでせっかく製造したうちの3割が失われたことになるのです。
各務原からニューギニアのウエワク基地までは、直線でも5,400kmあります。実際の輸送距離は9,000kmもありました。輸送力も考えずに伸びきってしまった兵站線。
ニューギニア・ソロモン戦線における日本陸海軍の崩壊は、目前に迫っていました。
次は、戦時中の各務原工場について説明します。
大活躍を阻んだ3つ目の理由、飛燕のエンジンの問題は、次次回になります。 |