各務原・川崎航空機・戦闘機07
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 □苦境に立つ飛燕 −首なし飛燕−
     
 首なし飛燕                                     | このページの先頭へ | 

 飛燕の生産は、1943年12月には、目標どおり月産200機を達成しました。
 しかし、1944年になると、前線の搭乗員や整備員からのいろいろな改善要求を実現するための改良が施され、生産ラインは修正を余儀なくされました。
 このため、1944年5月には、月産120機にまで後退します。

 そして、さら新たな問題が生じます。
 1944年8月から、明石工場におけるエンジン(発動機)の生産が大幅に停滞し始めるのです。
 これが、「飛燕の大活躍を阻んだもの」の理由その2、飛燕のエンジンの問題です。

 このエンジン生産停滞のため、各務原工場では、機体本体は組み立てたものの、エンジンを取り付けることができない機体、いわゆる、「首なし機体」が、工場の周りにあふれてしまったのです。

 1944年の後半、「首なし機体」の数は、飛燕1型・2型あわせて、次のように増加していきます。  

8月 132機 9月 172機 10月 248機 11月 不明 12月 354機


「各務原飛行場の北側に沿って、岐阜から美濃加茂市に向かう国道21号線のバイパス道路(注 現在は正式に21号線となっている)があるが、昭和19年当時は開通したばかりで、未舗装で石がごろごろしているひどい道路だった。あまり利用価値がないこの道路が、工場からあふれた“首なし”飛燕の絶好の置き場となった。岐阜に向けて道路上に並んだ首なし機は日ごとに増えつづけ、ついに2キロ以上にわたったとき、はじめは事情を知らないままにたのもしく思っていた工場周辺の人たちもさすがに心配しだした。」 
 ※碇義朗著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(光人社NF文庫 1996年)P224 


 上で引用した碇氏の文章の内容を地図上に示すと、上図のようになる。
 中山道は名鉄各務原線とは三柿野駅の西で交差し、線路の南を西へ向かう。そして、現在の国道21号線は、蘇原駅から南進した道との交差点のやや西で、旧中山道と分岐して、点線のルートをとる。
 このあたりに首なし飛燕の機体が並んだということであろう。
 右の写真は、現国道21号線の航空自衛隊岐阜基地の北側の部分。名鉄各務原線跨線橋の坂の途中、車中で撮影。
 各務原台地全体の地図はこちらへ
 各務原台地戦隊の航空写真はこちらへ


 以下は、かかみがはら航空宇宙博物館に展示してある、飛燕生産関係の展示品・パネル等の写真です。ここでは、飛燕の開発について、大変ビジュアルに学ぶことができます。
 ※同博物館の紹介は、このテーマのNo1にあります。

 飛燕の設計図の一部。枠線の部分が、機体外部に取り付けられている、水・潤滑油冷却装置。

 飛燕のエンジン、ハ40の部品。このエンジンの問題点については後述します。

 左の写真は組立ラインの様子がよく確認できる。
 組立ラインは3列で、画面の奥の方では、まだ結合前の主翼と胴体が並んでいる。画面の手前に来るほど組立が進んでいて、飛燕の組立工場の様子。この写真は、首なし飛燕が生じる以前のものである。 

写真の説明は、雑誌「丸」編集部編『図解軍用機シリーズ2 飛燕&五式戦/九九双軽』(光人社 1999年)P23より。


 ハ−40エンジンの限界                       | このページの先頭へ | 

 「首なし飛燕」の大量発生という事態は、どうした起こってしまったのでしょう。
  
 それには、大きく二つの理由があります。
 ひとつは、当初から飛燕に積載されていたダイムラー・ベンツエンジンDB601をまねて製作した、川崎製のエンジン、
ハ−40エンジンの大量生産がうまくいかなかったことです。

 このエンジンは、水冷式逆V12気筒という、当時の日本の主流であった空冷星形とは異なるエンジンでしたが、次のような点にも特色がありました。これは、非常に専門的な内容で、大変難しいですが、とりあえず書いてみます。

 過給器の動力伝達システムが「フルカン接手駆動」となっていた。

 この装置は、エンジンの過給器(スーパーチャージャー)を動かす仕組みです。
 飛行機のエンジンは、車のエンジンと違って、過給器という物が必ず必要です。これは、高度が高いところで空気中の酸素濃度が低くなってもエンジンの出力が低下しないように、高度に応じて、燃焼室にたくさんの空気を送るものです。

 第2次世界大戦後半期には、排気を利用する排気ターボ過給器が登場しますが、それまでは、普通のエンジンでは、クランクシャフトの回転を歯車で伝えて、翼車(空気を送り込む羽根車)を駆動する方式でした。
 ただし、高度が高くなればなるほどそれに比例して翼車を速く回す必要がありますが、実際使われていた装置では、2段変速しかできませんでした。

 ところが、DB601の技術を引き継いだハ−40は、この仕組みに、フルカン接手という技術を使っていました。

 これは、動力を伝える部分に、オイルを使い、その量によって回転数を変える装置です。つまり、ポンプでオイルを送り込み、その油量の増加(=油圧の増加)によって、クランク軸の回転を無段階でなめらかに空気を送る翼車に伝える装置です。
 こういうのを流体クラッチといって、基本原理は現在の自動車のトルコン(トルク・コンバーター)装置(オートマティックのギア・チェンジ装置)にも応用されています。
 ※雑誌「丸」編集部編『図解軍用機シリーズ2 飛燕&五式戦/九九双軽』
       (光人社 1999年)P45などを参考にしました。以下、2・3も同じです。 
 

 燃焼室の中に燃料を送り込む装置が燃料噴射ポンプとなっていた。

 これまでのガソリンエンジンでは、通常は、気化器(キャブレター)で燃料と空気を混ぜて混合気をつくり、それをシリンダーの中に送り込む、気化式の方法でした。
 しかし、このエンジンでは、気化器は使わずに、圧力を加え燃料を霧状にしてシリンダー内に噴射する燃料噴射方式が採用され、これまで日本にはあまりなじみのない燃料噴射ポンプが使われていました。
 これだと、燃料の供給が急上昇や急降下、急旋回などによってGのかかり方がいろいろ異なっても、常に一定の燃料を送り込むことができます。
 しかし、その分だけ装置が複雑になります。
 ※前間孝則著『マン・マシンの昭和伝説 上−航空機から自動車へ−』(講談社 1993年
P191
  など参考にしました。

 エンジンの各部にドイツの工業水準の成果を発揮した複雑な仕組みが使われたいた。

 これはエンジンの一つの部分のことではなく、全体に関することです。
 たとえば、逆V12気筒の一つ一つの気筒には、4個の弁がありましたが、一つ一つがそれぞれカムで動かされていました。
 また、クランク軸の軸受けにも、精巧なローラーベアリングが使われていました。これによってメッサーシュミットBf109は、僅かなオイルでも焼き付くことがない、あまり暖機運転しなくてもさっと始動して飛べるなどの特徴を発揮しました。
 ※黒田光彦著『プロペラ飛行機の興亡』(NTT出版株式会社 1998年)P246−47参照


 これらの、水準の高い構造や装置は、日本におけるエンジン生産の一般的なレベルを超えるものであり、ハ−40エンジンの量産や順調な稼働を大きく阻むものとなりました。 

 クランク軸のローラーベアリングについて、当時川崎航空機のエンジン担当技師であった林貞助技師は、次のように言っています。
「私は何回かドイツのエンジン工場を見た経験から、デイムラーベンツは斬新なことをやっているが日本の工作技術ではむずかしいから、むしろユンカースのエンジンのほうがいい、と意見具申した。結局デイムラーベンツを購入することになってしまったが、国産化におよんで私の危惧が適中した。
 DB機の特徴であるクランク軸のローラー・ベアリングなども、その一つだった。ベアリング(軸受)のローラーの角の部分を顕微鏡写真に撮って、DBと国産のとをくらべてみたことがあった。するとドイツのは自動研磨盤か何かでやったらしく、角はきれいな二次曲線の丸味をおびていたが、日本のはベアリング工場の女子工員が手作業で角研磨をやっていたので角が立っていた。しかも角の立ち方が一個ごとにちがっていた。これではローラーに荷重がかかって弾性変形(荷重を除くともとにもどる)をしたとき、荷重のかかり方が一様でないから、きつくあたったところの金属結晶が破壊されてピッチツグをおこし、クランク軸消損の原因となった。
 たしかに
DBは、ドイツ的なすぐれたエンジンではあったが、わが国の一般の基礎工業技術水準からみて買うべきではなかったと思う
 ※碇義朗前掲書『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(光人社NF文庫 1996年)P134


 日本の基礎的な技術は、そのような高度な面ではもちろん、もっと簡単な部分でも劣っている部分がいくつかありました。
 たとえば、日本の飛行機は飛燕だけでなくしょっちゅうオイル漏れを起こしていました。
 これは、金属パイプと金属パイプをつなぐ部分など、結合部分でオイルを密閉しておくためのゴム製のパッキングが不良なことに原因がありました。
 ゴム原料が豊富でなく、合成ゴムなどの石油化学工業の技術も未熟であった日本の限界でした。

 また、高分子化学工業でも遅れていた日本では、ドイツのように、今あるようなビニールで被覆した電線を使うことは一般的ではなく、電線を外側から糸や紙で巻いて、その上から塗料を塗ったものを普通に使っていました。このため電気回路の絶縁が良好ではなく、雨や熱ですぐに回路が不良に陥りました。
 日本の
航空機の機上無線は、ほとんどの場合使えなかったというのが常識ですが、それは、こんな単純なことにも起因していました。
 それでも、1943年までは、東南アジア占領からの戦略物資の輸送もまずまずの量が達成されており、工場内部においても熟練工が比較的多くいて一定水準が維持されていた結果、素材・技術の両面において、生産はなんとか維持されていました。
 
 ところが、1944年になると、戦局に不利によって、東南アジア占領地からの物資の輸送が滞り、良質の材料が手に入らなくなりました。さらに、前項の学徒動員で説明したように、熟練工の徴兵や工員の水増しによって、工場内に未熟練工が増加し、工場全体の技術力が低下してきます。
 こうなると、一定の品質のエンジンを大量に作っていくことは、現実的に非常に困難な状況となってきたのです。
  


※工業水準について
 工業水準というのは、その判定が難しいものです。
 たとえば、戦艦大和ができたから立派なものだ、ゼロ戦が飛ばせたから立派なものだ、それは確かにそうでしょう。
 しかし、明治以降、あわてて近代化を図った日本は、意外なところで多くの弱さを持っていました。
 上記の説明は、その一部ですが、他にも次のような点がありました。

  1.  日本は航空機のプロペラを開発できず、戦前にライセンス生産を取得したアメリカハミルトン製の可変ピッチプロペラをずっと使っていました。

  2.  日本は機関銃・機関砲の自前開発が不得意で、ほとんどは、戦前に獲得したイギリスのビッカーズ社、アメリカのブローニング社、スイスのエリコン社などの製品のライセンス生産品を使うか、模倣品を使っていました。

  ※渡辺洋二著『液冷戦闘機「飛燕」』(朝日ソノラマ 1998年)P20−21
 大きな戦艦やいい機体はできても、それを支えるさまざまな補助的な装備はまったく立ち遅れている、それが戦前の日本の実情でした。


【写真追加 06/07/16】

 太平洋戦争開戦前にデビューしたゼロ戦などは、その時点で新聞報道もされ、国民にも知られた存在でした。
 しかし、太平洋戦争がはじまってからデビューした航空機や軍艦は、秘密が原則でしたから、国民に宣伝されることは希でした。
 しかし、飛燕は、「新鋭機」として、紹介されました。それがこの新聞記事です。
 戦局も悪くなり、B29の空襲がはじまったこの時点で、国民に希望を与える戦闘機という意味で、発表がなされたのでしょう。

 何新聞かは不明です。以下に記事の全文を掲載します。


皇土を護る「飛燕」 日本刀のような新鋭機
  B29を迎へ撃つわが戦闘機は、帝都上空に、或は洋上に、めざましい戦果をあげてゐいます。
 この新鋭機こそ、わが科学陣のあらゆる力を注いで作った「飛燕」であります。まことに燕の飛ぶやうに軽快な高性能を持ち、日本刀の切れ味のやうに敵を制してゐます。先月3日帝都空襲の時、B29に躯當たりを行って見事に撃墜して、奇跡の片肺生還をした四之宮機も、この新鋭機「飛燕」でありました。

<解説> 
 新聞記事に掲載年月日が記載されていませんが、記事中の四之宮機(ただしくは陸軍飛行第244戦隊四宮中尉機)が体当たりでB29を撃墜し、片方の翼を途中から失いながら、帰還したのは、1944(昭和19)年12月3日のことでしたから、それを「先月3日」と記載しているこの新聞は、1945年1月のものと推定できます。
 ※
陸軍飛行第244戦隊のサイトはこちらです。http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/index.htm

戦時中の雑誌に掲載されたB29爆撃機の写真

【追加した写真資料について】
 飛燕や五式戦の写真は、本や雑誌、ウェブサイトなどにあふれていますが、私はこれまでその掲載について、各務原航空宇宙博物館の写真の掲載以外は、慎重な態度でした。
 著作権の問題を考慮してのことです。

 もともとの写真は日本海軍やアメリカ海軍によって撮影されてたものであり、それについては著作権は消滅していると考えられますが、その写真を掲載している雑誌等の著作権は当然あるわけです。
 ウェブサイトの写真の場合も同様ですが、たとえサイト作成者が「転載可」としていても、そもそも、作成者自身が著作権の問題をまったく無視してどこかから無断複写してきている場合があり、注意が必要でした。

 上の2枚は、埼玉県新座市斎藤彰さんの作成のサイト「
終戦前後2年間の新聞切り抜き帳」から転載させて頂きました。
 これらの写真は、斉藤さんご自身が、幼少の頃、切り抜いて保存されていた主に新聞の写真をサイトに掲載されたものです。
 50年以上前のものですから、新聞等のもともとの著作権は消滅していますし、斉藤さんご自身は、「
無断転載OKです。むしろ どしどし利用される事を願っています」とされていますので、安心して掲載させて頂きました。
 実は、斉藤さんご自身が、このサイトの「戦艦大和について考える」を読んでいただき、メールを送付してくださったことが、利用させたいただくきっかけとなりました。心から感謝致します。

 ※「終戦前後2年間の新聞切り抜き帳http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/index.htm


 飛燕2型                           | このページの先頭へ | 

 飛燕の当初型のエンジン、ハ−40は、以上のような点において日本での量産を簡単には進められなくする要素をもっていました。
 本題からはずれますが、この困難さは、また、完成した機体のエンジン整備においても同様でした。
 つまり、それまでの技術とは違った高度なレベルをもつ飛燕エンジンは、新方式の仕組みを十分知らされていない前線の整備兵にとっては、扱いにくい代物でした。
 したがって、前線における飛燕の稼働機数(ある部隊に飛燕が10機配備されていても、エンジン不調等で飛べない飛行機が4機あれば、この部隊の稼働機は6機、稼働率は6割となります)を少なくしていました。
 飛燕は、「
高性能な戦闘機、ただし飛んだ場合」という、ありがたくないレッテルを貼られていました。


 本題に戻ります。
 「首なし飛燕」を大量発生させた原因は、他にもう一つありました。
 それは、飛燕の当初タイプの改造型、飛燕2型の製造です。

 三式戦が制式となった直後の1943年の初頭、ハ−40の性能向上型
ハ−140を搭載した飛燕2型の設計が始まりました。
 途中紆余曲折があって、機体は飛燕1型改のものを利用することになりましたが、1944年4月には、各部の調整を終えた試作機の完成版ができあがり、試験飛行を実施しました。

 その性能は、次の点で、期待どおり飛燕1型を上回るものでした。


       飛燕1型       項目 飛燕2型
ハ−40 1100馬力 エンジン ハ−140 1350馬力
590km/h 最大速度 610km/h
1800km 航続距離 1600km

 上表では表現できませんでしたが、特に高々度での性能に優れ、6000メートルの高度でも、最高時速は610kmを記録し、高度8000メートルに上がっても、590kmを維持しました。飛燕1型を始め、これまでの日本の戦闘機では高度8000メートルの壁を越えると、馬力が低下いて急速に速度が落ちてしまうのが通例でした。
 当時の日本の戦闘機では飛んでいるのがやっとだった高度10000mでの編隊飛行も可能と判定されました。

 この結果この飛燕2型には、ある期待が集まりました。
 この戦闘機がこの性能なら、1944年当時やがて日本を来襲するだろうと予想されていたアメリカの新鋭爆撃機B29に対抗できる有望な機体であったからです。

 1944年9月、飛燕2型は大量生産に入ります。
  ※川崎重工業株式会社航空事業部編『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』(1987年)P 428
 しかし、この時点では、すでに、
ハ−40エンジンの生産の停滞から、飛燕1型(正確には飛燕1型改)の生産が滞っており、下で説明するように、それ以上に難しいエンジンを搭載する飛燕2型を本格生産すると言うことは、非常に危険な賭でした。


 ハ−140エンジンの限界                   | このページの先頭へ | 

 飛燕2型の高性能の秘密は、いうまでもなく、新型エンジン、ハ−140によるものでした。
 
ハ−140は基本的にはハ−40改良型で、液冷逆V12気筒という基本構造は変わりませんでした。つまり、エンジンそのものを大型化したのではないのです。
 それに代わって、燃料と空気の圧縮比を上げてシリンダ内部への吸入効率を改善し、さらに、吸気に
メタノール噴射を行って一時的に最大馬力をあげるという方法を使って、1350馬力という高い出力を得たのです。

 
しかし、この工夫は、ただでさえも複雑だった液冷式エンジンの構造をさらに複雑にさせました。
 この結果、飛燕2型に搭載されるべき
ハ−140エンジンの製造は大幅に遅れることになってしまいました。
 これまでも説明したよう、1944年における質的に低下した供給資材と工員の技術力では、込み入った高度なエンジンを大量に安定して製造することはできにくくなっていたのです。
 これは、たとえれば、もともと技術水準が低い国が、それを克服しようと無理をして、さらに技術的に袋小路に入り込んでしまうと言ったものでした。

 ここにおいても、アメリカは違っていました。
 前にも引用した前間孝則氏の著書に、中島飛行機の中村という技術者が、1944年6月に北九州を空襲して撃墜されたB29爆撃機の搭乗員の捕虜(フライトエンジニア)を尋問した様子が、描かれています。引用します。

「わがほうでは、空戦性能向上のために短時間のメタノール噴射や水噴射をやっているが、F6F(注グラマンF6F)などはどうやっているのか」
 捕虜はニヤリとしながら答えた。
「F6Fではなく、一つ古い型のF4F(グラマンF4F)やコルセアでは、メタノール噴射にトライした。しかし、性能は若干向上するが、そのかわりエンジンが複雑になって、整備が面倒になることがわかった。技術的にはおもしろいが、兵器としては下策である。兵器たるもの、誰でも扱えて、いつでも飛び立てるものでなければナンセンスだからな……」
 中村はまたしても「ウーム、ウーム」であった。
「誉」(注 中島航空機の高出力エンジンの名前)などでさかんに試みられていた過給吸気にメタノールや水を噴射して、一時的に馬力をアップしてやる方法は、大馬力エンジンをつくれない日本の苦肉の策であった。中村がこの質問を持ち出したのは、戦闘部隊の中に、「アメリカさんはこんなうまい手は知らないはずだから、聞いてこい」という者がいたからである。
 しかし、アメリカのエンジン技術は日本のかなり先を行っており、日本でやっていることはすべて、すでにアメリカでは試験ずみで、そうした膨大な実験の上に立って、R3350(注 B29のエンジン)のような方式のエンジンが開発され、大量生産されていたのである。」
 ※前間孝則前掲著『マン・マシンの昭和伝説 上−航空機から自動車へ−』 (講談社 1993年)P235            

 
 
ハ−140エンジンを搭載した飛燕2型の本格生産の開始は、これまで以上にエンジンの製造の遅れにつながり、生産全体を停滞させました。
 かくして、工場の中どころかその外にも、「首なし飛燕」が増えつづけていきます。
 
 
「液冷エンジンをあきらめて、空冷エンジンに付け替える」
 飛燕に見切りを付ける動きが出てこざるを得ない状況となってしまったのです。 


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