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※パーキンソン病のその後については,「日記」のパーキンソン病DBS体験記2」に続きがあります。

49 父の記① 昭和の時代 満州・シベリア  24/06/29

 ファミリーヒストリー,最後は「父の記」の登場である。今まで出番のなかった父はわが家ではどういう存在だったのであろうか。私に何を残したか。 
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【いきなりの脱線 元旦や】
 いきなり脱線をしてしまうが,さだまさしという人物をご存じだろうか。
 同世代及び昭和後半生まれまでの方であれば,説明するまでもなく,「精霊流し」や「秋桜」のヒットで有名な,フォーク歌手である。
 それより後の世代の人には評判は多様である。時々NHKに登場するおじさん,ライブコンサートトークを出した人,エッセイを書いて日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した人,そして小説『精霊流し』・『解夏』を書いた小説家などなど・・・・。
 もちろんこれまでこの未来航路のあちこちでくどいくらい書いてきたように,私たち夫婦の人生に大きな影響を与えた人物でもある。  ※→「なんだこりゃ」37 笑顔同封

  さだまさしに関してはもう書くネタはないだろうと思っていたら,なんともっともつながりがなさそうな父とつながりが見つかった。
 さだまさしのもっとも最近のエッセイ,『さだの辞書』の中に次のように書かれていた。必要なのは最後の三行だけなのだが,前の文章との落差が重要なのでちょっと多めに引用する。

「 そうして元旦,目覚めると既に雑煮の匂いがしていた。
 前夜に珍しく夜更かしをした子どもは何処か頭の芯が定まらず,暫くぼうっとしたあと慌てて着替え,父がすでに着物姿で著を飲んでいる食卓に集まって新年の挨拶をしてから家族そろって屠蘇をいただく。正式な作法は年少者から,というが,我が家ではまず父から胚を取り,長男,次男,、長女,と続いた後で最後に父が母に屠蘇を注いだ。それから父が懐から恭しくお年玉の袋を取り出し,子どもたちに手渡しした。いくら入っていたか憶えていないが幾らであろうと嬉しかった。いずれ全て母の手に渡るものだ。
 そうしてようやく雑煮が出る。輪切りにした冬大根がじっくり煮えて,焼いた丸餅が一つ。それに赤と薄緑の,厚手に切った鳴門蒲鉾が一切れずつ入った簡素なわが家の雑煮は江戸前の鳥出汁である。これに浅葱を撒いて熱々をふうふうといただく。年末に年末に鬱々と母の懐を推し量ってオロオロするばかりだった気の小さな長男が開放される瞬間である。
「元日や餅で押し出す去年糞」
 父はかならず下品なことを言い,母は必ず不快そうに窓の外を見た。
正月が来た。」
 ※さだまさし著『さだの辞書』(岩波書店 2020年) P6-7

 いくら厳粛に正月の儀式をしたとしても,最後にこの俳句が出てきてはもうぶち壊しである。
この句の非常に優れている点は,最後の2文字(漢字1文字)を見聞きしないとそのたまげるような下品さに気づけないことである。逆に言えば聞き手は,正月の晴れの空気の中である種の期待感をもってこの句を聞き,最後に天国から地獄へ突き落されのである
 この落差がすごい。
 去年からつながっているということに気付くことを偉大と褒めたたえるか?糞の下品さを非難するか?
 
 さだまさしによれば.彼の父は正月になるとこの俳句を面白げに披露し,彼の母(幼少期からむすこ(まさし)にヴァイオリンを習わせるぐらいの上品な文化の中で育つ,私はハモニカを習わせられた)の顰蹙を買った。
 「不快そうに窓の外を見た」のです。

 なんとこのシーンは我が家でも展開されたのです。
 父の得意そうな顔,母のまたかという辟易とする顔,この対照的な二つの顔が
わが家でも私が,そんな5年とか10年とかの近い過去とかではなく,3~40年ものずいぶんの昔から正月に見られた気がする。
 さだまさしのファンをやって長くなる(1974年,19歳の時から)がこのネタはそう昔に聞いたものではなく,自分の耳には自分の父の声で入ったことは事実である。
 さだまさしの父親と私の父が同じことを言っている。
 これはともかく光栄なことではあったが,ではこの句は一体誰のものか?

 最近はこういうネタを調べるのは非常に楽になった。 Wikipedia を調べればよい。
  ①誰か有名人の句        ②誰ともわからないその辺の市井の人々の句

 果たしてどちらであろうか?
 これがなんと,2018年に98歳で大往生された俳人金子兜太氏の代表句とのことだった。
 俳号伊昔紅(いせきこう),現代俳句協会名誉会長,日本芸術院会員のひとである。(1919 - 2018)
 これには正直驚きだった。金子さんがどうこうではなく,わが父がどうやってその句を学んだかである。何しろ私が小学校の時は,上がりの三畳間に本棚が置いてあったが,その中には本はたったの1冊しかなかった家である。(その本の題名は『家庭の医学』)父が本を読んだとは思えない。では何か。
 Wikipedia には,落語家桂三木助が蛇含草を演じる際に必ず枕で触れ,そしてビートたけしが「オールナイト・ニッポン」(1981ー1990)の中で触れたと書いてある。これもあり得ないことではないが,落語も深夜ラジオもたしなまなかった父には可能性は極めて低い。父はどこであの下品な句を覚えたのであろうか?
 「いや.こういう可能性も」と思われる方・うちの親父もこの俳句を言うとったという方は,掲示板のページを開設しましたので,どうぞご意見をお願いします。
     
 ※参考文献  さだまさし著『さだの辞書 』(岩波書店)2020年
   さだまさし著『やばい老人になろう 』(株式会社PHP研究所)2020年

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【十代半ばで人生を決める 満蒙開拓青少年義勇軍
 父は, 1926(大正15)年10月に生まれ,2014(平成24)年8月に他界した。大正生まれであるが,生まれて2カ月半で天皇崩御昭和改元となり生まれて3か月目で昭和2年となった。昭和前半期は歴史的には「戦争の時代であり,父の運命も戦争に翻弄された。
 ところで,親が子に何をどういう方法で伝授していくかは,親によってさまざまである。
 母のように目に見える形でいわば積極的に伝えるという思いもあれば,そうでない場合もある。
 
父は弁が立つわけでもないし上級の学校を出て知識があるわけでもなかったが,それでも子の私の人生に大きな影響を与えた。何が原因で影響をあたえることになったか。このページではその理由がご理解いただければ幸いである。
 中央の学生服のあどけない顔の学生服を着た少年が私の父であり,少年の向かって右が父の祖父,つまり私の父方の曾祖父であり,少年の右上が父の父,つまり私の祖父である。
 そして,少年の向かって左下が少年(父)の祖母であり,さらにその左隣が少年(父)の母である。
 この写真の判読については,いろいろ苦労した。私には父以外の方々については全く面識がないからである。この為,現在のご当主のところに伺いお寺のご住職が先代のために書き残されていた「法名軸」(浄土真宗の
大谷派の寺院が過去帳に基づいて,故人の名前・信徒の没年・法名を書いた掛け軸。仏壇内に掛けられている。}を見せてもらい,故人の没年等を確認して,ようやく判読に成功した。
 ちなみに,その法名軸によれば,現代のご当主は5代目で初代の当主は江戸時代の終わりの時代に活躍し,江戸時代末に亡くなっているとのことである。
 家系図等を調べ Family History を紡いでいくと,「どの人でも一人として欠けたら自分は存在しない」という祖先に対する感謝の念を持つ。

 右上の集合写真は父が人生の「出発」をする際に撮影されたものである。
 どこへ出発しようとするのか?
 
満蒙開拓青少年義勇軍の一員として,満州(現在の中国東北部)への出発であった。
 日本が中国大陸への侵略をを始めるきっかけとなった満州事変は,1931(昭和6)年に起っている。
 1932年には清朝最後の皇帝溥儀を執政とする満州国が建国された。建前は漢民族とは異なる満州人の建設した国家であったが,実質は日本の関東軍が操る傀儡国家であった。
 日本は中枢を握ることができたが,満州の国土は広い。それを開拓するため設置されたのが一般民間人による満蒙開拓団と満蒙開拓義勇軍である。
 ※満は満州,蒙は現在の中国領内モンゴル自治区のこと。
 「何故満州へ」という根本的な問いに対する答えの一つは,1930年代前半に起こった昭和恐慌における農村の疲弊(生糸などの農産物価格の暴落)であった。政府が作った満蒙農業移民百万戸移住計画 などに基づき ,敗戦までに27万人の日本人が、貧しさからの脱出を目指して満蒙の地に入植した。そして,ソ連の参戦・敗戦の混乱の中で多数の犠牲者がでた。
 一方,満蒙開拓青少年義勇軍の方は,小学校を卒業したばかりの 満年齢 14歳から17歳までの青少年が対象であった。そんな年端もいかぬ少年がどんな気持ちで満蒙へ出かけて行ったのだろうか?
 もちろん父の手記などという気の利いたものは残っていないので、静岡県の出身の生徒,佐野洋の手記を参考文献から引用する。
私の両親は典型的ともいえる朴訥な田舎者である。 人前ではろくな会話もできない。 まして文字を書くなどと言いったことは, 私が知っている限りにおいて全然ない。 祖父母の残した借金の返済, 子供たち8人の生活を守るために, ただ,黙々として田を鋤き畑を耕し, 富士の麓で貧しく慎ましく暮らしていた。 だから。 私は小さな頃から,そうした父母のことをいつも考えていた。 上の学校へ進むことなんか思いもよらぬことだった。
・・・満州への移民について私は私なりに真剣に考えていた。長男でない 私、しかも兄や姉の多い家、 将来の生活, 独立への道は自分で拓かなければならない。14歳の少年はひそかに決意した。 もうこれ以上はびた一文も親に迷惑をかけないぞ。見知らぬ天地へのあこがれ,不安,難しいことはわからなかったが,少年の素朴な決意は動かなかった。満州へ行くと言った時,父は黙ってうなずいた。母は「こんな小さいのに」と声を詰まらせたまま勝手場へ入り込んでしまった。」

 父がどういう理由で義勇軍を選んだか? 詳しいことはわからない。しかし,おおむね上の引用文のような状況があったと思われる。
 父の写真と系図を見ていただきたい。父は男4人と妹の5人兄弟の3人目で,実家は,現在の羽島市南及(みなみおよび)の当時ではごく普通の貧しい農家であった。もちろん,男兄弟4人で田畑を分割相続した場合,それだけで生計が成り立つだけの田地の面積が配分されることなどありえなかった。

 ※参考文献  全国拓友協議会編著『写真集満蒙開拓青少年義勇軍(家の光協会 )1975年,P10
   文芸春秋編『されど,わが「満州」』(文芸春秋)1984年,P130~P231
   森本繁著『ああ満蒙開拓青少年義勇軍』(家の光協会)1973年,P72
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 こうして,国は青少年の親や家を思う一途な気持ちと貧しい現実を利用して,彼らを満州開拓の先兵としていく。
 14・15歳のいたいけな少年に満蒙の国防を担わせるように仕向けたわけであるが,これは別に義勇軍に限ったことではない。予科練(海軍飛行予科練修生),陸軍少年飛行兵,陸軍少年戦車兵,海軍特別少年兵などみな同じ仕組みであった。
 少年義勇軍は少なくとも農業の知識・技術が必要である。そこで父たちは岐阜県庁に集合するや模擬軍隊組織の形をとって300人前後の中隊に組織され,汽車で日本国内の訓練地である茨城県内原に向かった。
 内原訓練所は水戸市中心部から10kmほ
満州における現地訓練所での父(後列中央)
皆さん少年から青年へ成長。
ど南西にある義勇軍の訓練のために作られた専用施設で,隊員はここで思想・農業知識技術・開拓の知識技術・集団生活の基本などを2・3か月の間に厳しく訓練された。最盛期には10,000名の隊員が訓練を受けていた。
 その訓練を終えるといよいよ渡満である。
 訓練を終えた中隊ごとに進発し,途中各隊の県庁所在に立ち寄って故郷の家族等に別れを告げ,市街中心を行進してその威儀を見せつけてから,日本海側の新潟,敦賀等から乗船して清津(朝鮮の日本海岸の最北の港町)・大連(遼東半島の港町)へ向かった。
父「神田町通りを中隊全員で行進した。俺の人生で一番晴れがましい瞬間だった。」

 岐阜県の青少年によって構成された栗田中隊は,1941年3月に内原訓練所入所,同6月11日渡満であった。この年,父は満15歳であり,その12月には日米開戦となる。結果的に岐阜県からは栗田中隊など2,596名の義勇軍が渡満した。(一般開拓民は,9,494名)
※全国拓友協議会編著『写真集満蒙開拓青少年義勇軍』(家の光協会 )1975年,P188
※義勇軍については,次を参照 →若狭・丹後・但馬旅行 舞鶴引揚記念館
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 【満州開拓】
 父は清津に上陸してそこから鉄路で哈爾濱(ハルピン)の東にある現地訓練所のひとつである一面波(イーメンパと発音する。右図の
●,但し最後の文字は波ではなくサンズイの代わりにツチヘンを書く。以下同じ)の現地訓練所へ入った。本来ならこの地で2年間の現地訓練を受けるのだが,この中隊は途中でよりよい訓練場所を目指して移動し鉄麗(テツレイ,右の地図上の,レイの正しい漢字は馬編に麗,以下上と同じ)に変更となった。

 ここでは隊員は農業以外にいろいろな知識・技術を習得して来るべき開拓生活に備えた。右は父の属した班のメンバーである。 
  この写真は小さすぎて判読が難しいが,拡大すると中央の人物の横に「窯業班」と墨書された紙が写っている。昔父に聞いたことがある。
「窯業というのは,皿とかの食器でも焼いて作ったのかね」

「いやいやほとんどはレンガ等を焼いていた。食器を焼くには釉薬だの焼成温度だの難しいことがいっぱいあっての」
 大工・鍛治・自動車運転・会計事務・獣医・畜産などを学び,この他にも訓練所では,満州の特殊な地域的要求に応じて,匪賊(外敵。現地政府からも自立した武装集団)に対する防衛訓練も重要であった。  
 
 オオカミの襲来におびえ,冬は氷点下何十度にもなる土地で3年間訓練を受けた父は無事訓練所卒業となり,1944(昭和19)年4月に,北安省綏稜県北黒馬劉(キタヘイマリュウと発音,印の位置)に岐阜県の開拓団として入植した。もし先の戦争がなければ,父はここで開拓団員として暮らしたのかもしれない。満州の大平原に沈む夕日は魅力的であった。

 【徴兵・従軍】
 しかし,現実はそうではなかった。
 戦争は昭和18年(ニューギニア・ソロモン方面で米軍攻勢に出る)・19年(中部・西部太平洋で米軍の攻勢が進む)と日本の敗勢が明らかとなり,その結果として満州にも影響が及ぶことになる。
 1941年の独ソ戦争開始以来,在満関東軍は,いつでも国境線を越えてシベリアへ侵攻できるように精鋭部隊を配置していた。しかし,ドイツの敗北や日本の太平洋方面での劣勢によってその機会は失われ,逆にその精鋭部隊がやむなく太平洋方面へ転出するという事態になった。
 しかし,そうなると満州の防備が手薄になるため,空いた穴を埋めるための若い男子の根こそぎ動員が行われたのである。結果,父は北黒馬劉への入植後1年足らずの1945年2月に現地で徴兵検査に合格し,5月二等兵となり,ソ満国境に近い黒河の陸軍砲兵隊に新兵として入隊した。18歳の時のことである。
 父の部隊は日本陸軍の野砲としては最大口径の15センチ榴弾砲を装備した部隊で,本来なら国境線付近でソ連軍機械化部隊と対峙してそれを蹴散らすのが任務であった。
→|挺身攻撃をアニメで表現すると|| このページの先頭へ
 15センチ榴弾砲
 またここで脱線である。
 私の米国人の友人から次のメールが来た。
「先日家族で近くのPellaという郡で開かれていたチューリップ祭りに行ってきた。そこで面白いものを見つけたので写真を送る。旧日本軍の大砲の写真だ。詳しいことは何も説明がない。ひょっとするとあなたの家にステイした時にあなたの父親が私に話をしてくれた15センチ榴弾砲ではないか?」
日本陸軍四式15センチ榴弾砲

 この友人,スティーヴンはアメリカ中部のアイオワ州に住んでいる元地歴公民科の高校教師で,1992年アメリカの財団のお世話で互いにホームステイしあって以来,30年以上も交流を続けている。
  →旅行記 アメリカとの草の根交流

 我が家に離れで父親の義勇軍や従軍の話を聞いたことが日本への旅行のもっともよい思い出の一つと言ってくれており,父が扱った大砲には,ちょっと思い入れがある。

 この大砲の英文の説明文,大砲の製造に関する日本語の刻印などを調べた結果色々なことが分かった。まず,この大砲はアメリカ軍が第二次世界大戦の戦利品として持ち帰ったものであること,
 「四年式十五糎榴弾砲 №31号 大阪工廠 昭和二年製」
 この大砲は大正四年に制式採用された日本陸軍の15センチ榴弾砲で,大阪陸軍工廠で製造された280門のうちの一門であること。車輪など6つのパーツに分解でき,「6馬曳」,つまり馬6匹によって牽引移動されていたこと,
 昭和11年に後継砲である九十六式15センチ榴弾砲が制式採用されたが,四式の完全換装は進まず,第二次世界大戦終了時まで活躍したことなどである。 
 

もちろん,父の部隊とこの大砲の関係まではわからなかったが,思わぬところに戦争遺物のつながりが生じて興味深かった。
| siberia prison挺身攻撃をアニメで表現すると
 【敗戦そしてソ連抑留】
 ところが,南方への兵器供出などの理由で,部隊には十分な砲が配備されておらず,人員の方が余り気味であった。大砲に頼らず敵戦車を迎え撃ち之を破壊する方法はないか?
 そこで考案されたのが兵士による挺身攻撃(ていしんこうげき)である。つまり,わが身に爆弾を抱いて戦車が突進してくる予定コースに掘った穴に身を隠し,戦車が穴の周辺に来た時に穴から出て,体当たりによって戦車を爆砕せしむるという攻撃方法である。わが身と引き換えに敵を屠るという点では,航空攻撃によるカミカゼと本質的には同じである。
ソ連の攻撃とシベリア抑留の詳細は,こちら
 1945年8月9日,ソ連軍は3方向から大軍をもって満州国へ侵入した。本来国境線近くの黒河に駐屯していた父の部隊は,怒涛の如く侵入してくる敵の攻撃を受け止めて玉砕するというのが当初の想定されるストーリーであった。
 しかし,父の部隊は,すでに最前線から後方へ移動しており,それは関東軍全体のシナリオであった。
 結果的には父らは玉砕を免れ,終戦後ソ連の捕虜となり,さらにはシベリアの中央部タイシェットの収容所に抑留されて,日本へ帰るまでおよそ4年余の歳月を送ることになる。
 バイカル湖周辺のタイガの森を列車で走るシーンでは,
「あのなぁ,朝,貨車の窓から見た森と湖,それと同じ森と湖が,夕方にもある。違うのは,朝陽と夕陽だけ。」これはわが父にしては,いささか詩的でした。
「寒いシベリアの収容所では,立小便がする先から凍っていく」こちらの方がわが父に似あっている。でも嘘くさい。
「露助はたわけばかりじゃ。全員集合っていうから人員点呼で並んでやる。5人ずつ,10人ずつなら何とかなるが,3人ずつ4人ずつになるともう誰も数えられなくなる。」軍隊の士官はともかく,下士官・兵までも掛け算ができるという日本の軍隊は,凄い存在だった。

 父らはタイシェットの地で来る日も来る日も木材の伐採に従事した。結果的にその労働は,アムール鉄道(第二シベリア鉄道)の建設につながる。
 そして,終戦から4年後の, 1949(昭和24)年9月21日,父は栄豊丸で舞鶴に復員し,満州と合わせれば通算8年3ケ月の「外国暮らし」に終止符を打ったのである。
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 【戦後編 母と結婚】
 当時の復員兵,特にシベリア帰りについてはいろいろと噂が立っていた。曰く,
「ソ連の教育のおかげで,復員兵はみんな共産主義に洗脳されている。日本の左翼勢力と手を結んですぐに赤旗を振り始める。」
 父が外国にいた8年余の間に,父の祖父,そして父の父さえも亡くなってしまっていた。
 この為,家督を継いでいた父の長兄は,父がその道に走らぬよう,舞鶴から「復員」の電報が舞い込むと,次兄と弟を迎えにやり,父の両脇を抱えるようにして連れ帰らせたとのことである。
 現実には,父は収容所では共産主義を学ぼうともしない反動分子であったから,そんな心配は全くしなくてもよかった。そういうと逆に,「それじゃ右翼だったの」と生前の父に聞いたことがあったが,「象徴天皇」を「天ちゃん」と日頃呼んでいた父には,天皇に対する常識的な尊崇はあっても,それ以上のものはあるはずもないと感じていた。 
 さて,父は復員後岐阜市内の電気屋で職を得た。電気屋といっても今と違って家庭には電気製品などない時代である。設備・配線の仕事であった。職場も会社などという立派な組織ではなく,平たく言えば職人としての丁稚奉公みたいなものであったろう。
 父は結婚するまで,そこに「通勤」した。
 
 結婚前後の父。のちの生活では考えられないようなネクタイ・背広姿の正装。驚いたのはその会社の場所である。
「どこにあったの」と尋ねたら,父はごく普通に,
「正木,今のマーサ,昔の川島紡績のそば。そこへ自転車で通った。当時は舗装道路は所々しかなく,砂利道だった。自転車がよくパンクした。」
 家のある羽島の北及から岐阜市の正木までは,距離にして14km。たっぷり1時間はかかったであろう。今の道なら高校生には,「頑張れ」というところだが,当時の道では本当によく頑張ったとしか言いようがない。 

 誰がどう父と母の縁をとりもったのか?昔しつこく聞いたことがあったが,本人たちも詳しくわかっていないようだった。
 想像するに,祖父の商売(廃品回収業)の回収問屋を経営するS氏というちょっと顔の広い人がいて,その人のつてでシベリア帰りの復員者と高女卒の十六銀行員をが結びついたようである。
 
 この二人の吊りあいは,そうなると,母の方が有利に思える。なにしろ高女卒の十六銀行員である。
 ところが,母の方にもいくつも弱い点があった。養子に来てもらうのに,肝心の家がない。(爆撃で焼けたままのバラック),祖父の前歴(盗品故買で前科一犯)。そして,そのバラックには長姉の長男,次氏の長女が同居していて,父はまだ学齢期の彼らを養育しなければならなかった。そんな圧倒的なマイナス要因でも,父は不平も言わずに母と結婚し祖父母の養子となってわが家に婿入りした。
「色々な不利な条件が後から出てきて,それで(結婚)を断ったんじゃ,男が廃る。」
 父はかっこいいセリフを言って,母をかばった。あとで説明する様に,色々面倒なことを説明するよりは,「俺がやってやる」といって仕事を引き受け,決して交渉によって状況を有利に展開するということはできない性分だったので,この時はこれが人生最大の決断だったのかもしれない。父と母は1952年2月11日に結婚し,それを機に父は電気屋への奉公を辞め,S氏の経営する廃品回収業の問屋(今流に言えば,リサイクル・センターかな)に勤めることになった。通勤時間は歩いて3分になった。
 その翌年には家を建て,その2年後に母は私を出産するのである。
 まず家から思い出を書こう。
 1・2階合わせると,今流の3LDKとなり,公団住宅並みといえようが,今とは異なる点がいくつかあった。
 まず玄関から続く土間である。
 玄関を入るとそのまま土間があって奥に続いていた。土間とは読んで字のごとく土の床で,玄関わきの靴箱とそれに続く場所に自転車が置いてあった。我が家は1959年の伊勢湾台風で被害を受けた。屋根に本瓦ではなく,セメント瓦を使っていたため,風で東南隅の瓦が飛び,そこから雨漏りして玄関部分が水浸しとなってしまった。
 父の悔しそうな顔と土間にたまった雨水に浮かんでいた私の赤と黄色模様のサンダルを覚えている。
 この土間は後に北半分が床になって箪笥と本棚置き場に変わった。
 最初の土間は台所へ直通していた。その方が食材等を運ぶのに便利だったからである。そして一番奥にも別の土間があった。今なら台所の部分で,そこには水場とくどがしつらえてあった。くどとは,ご飯を炊きおかずを煮たりするかまどのことである。私が小さい頃はご飯はまだかまどで炊いていた。
 この図の中には電気製品が一つも書いてない。あえて書かなかったのかというとそうではない。本当になかったのである。政府が経済白書に「もはや戦後ではない」と謡ったのは1956(昭和31)年、この小さな家が建って3年目のことであった。
 しかし,高度経済成長が人々の目に見えて,家庭生活が変化してゆくのは,1965年前後からであった。電灯と扇風機とラジオしかなかったわが家にも,4歳の時の皇太子ご成婚時の白黒TVを皮切りに,電気炊飯器,電気掃除機,電気冷蔵庫,ステレオ,カラーTVと近くの電気屋さん(ナショナルの販売店)から運ばれてきた時の記憶はいずれも鮮明である
 この家に今と比べてないものがある。風呂である。
 都市の平均的住民にとって家風呂はぜいたくな代物であり,週3回~4回の銭湯通いが楽しみのひとつであった。また,風呂上がりのなぜかフルーツ牛乳はまた格別であった。
 これが父が作った1軒目の家であった。
母が常々言っていたことがある。
「お前の父ちゃんは,魚釣りばかりに熱中して出世には無関心で,満州やシベリアの話ばかりをしとった。それでも一つだけ凄いところがある。
 一生のうちに3軒も家を建てた。」
 

 結婚式後の記念撮影。 
 結婚式は今と違ってホテルや結婚式場ではなく,近くにある神社,溝畑神社で行われた。そのあと
 S氏と祖父は,祖父は結構知識があり,役所へ提出する書類も作成できるが,S氏は残念ながら若いころの教育を受けさせてもらえなかったことから,読み書きに不自由であったために,書類が書けず,祖父が内緒で作ってあげるという関係であった。



 
 母が私を出産した日は,鳩山一郎率いる自由民主党が選挙で勝利した日であった。いわゆる,55年体制が始まった年に私はこの家で,生まれた。

 【子が父母から引き継いだこと】
 父は積極的な人物ではない。周囲から「仏の〇○」と呼ばれていたのは,誉め言葉が半分,皮肉が半分であったろう。お人好しで,子どもながらに父を怖いと思ったことはほとんどない。
 いわゆる社交性に乏しく,人に説明したり技術や知識を教えるのは苦手だが,与えられた枠組みの中では文句も言わずに精一杯の努力をする。父の好きな言葉は,「勘考する」であった。これは岐阜の方言かもしれない。共通語でいえば,「工夫する」という意味である。
 その意味で父の大好きな趣味が魚釣り(ヘラブナ釣り)であったのは的を射たものであったと言える。ひとり努力して疑似餌と仕掛けを作り,5時間でも,10時間でも魚と対峙する。これこそ父が最も愛した時間の過ごし方だったであろう。
 一度母が誤解していて,父が怒ったことがある。
「魚釣りなんか何が面白いの。
1日ボーとして。しかも.食べられない魚なんか釣って。」
 この母の批判の後半部分は正解である。
 ヘラブナは釣っても食べられない魚であり,釣った後釣り人はヘラブナを湖に逃がしてしまい,他の海釣り・川釣りのように,家族が釣果の分け前に預かるということもない。
 だから,父の怒りは母の批判の前半部分に向けられた。
「たわけ!!!ボーとしとったら魚は釣れん。常に
かんこう。」 
 同じく岐阜弁で他人には一見つまらなく思えることに努力を傾倒するアスペルガー的気質・行為を,,くつずるという。 父は社交的ではない分,自分の世界に浸る時間が長い人間であった。私は母から几帳面さを継承し,父からは他人があきれるくらいくつずるという小世界観を受け継いだ。 
 
 福井県の三方五湖の一つ九々子湖でのヘラブナ釣り

 時には優勝することも
取って食べるとかではないんじゃ,どうやって釣るか,魚と人間の知恵jyらべ,それがいいんじゃ。
 息子の私はというと,「くさい」「気持ち悪い」「ぬるぬる」これでは後継者になれない。

 【スジ屋ー時間割】
 父や母は私を何にならせたかったのだろうか。
 中学校3年生の秋ごろ,進路をどうしようという時の会話である。
母「一番は医者,それから弁護士。まず高校に行って,それから大学。」
私「エンジニアもいい。工業高専はどうか?」
父「満州や農業はやめとけ」
母「もう,そんなのありゃせん。まだこの段階では目標を絞らず,大学に行ける様にしとくべき。」
私「もう子どもみたいに,
電車の運転士になるとは言わないけど,列車ダイヤを編成する係,スジ屋って言うんだけど,それには憧れる。
父「性格的には,向いている。」

 大学へ進学し文学部で歴史学を学んだ私は紆余曲折ののち,結果的に4年制時に教員採用試験に合格し,教師の道に進むことになった。
 しかし,それでもその時に内定をもらっていた民間会社は,名古屋鉄道であった。かっこよく言えば進路を決めるということは,だんだん自分の可能性を絞っていく(狭めていく)ことに他ならない。この時私は,教師になるということは鉄道(スジ屋)という道は諦めるという決断をしたと思っていた。
 ところが,人生とは面白いもので,教師の世界にもそれと同じような気分を味わえる仕事があったのである。もちろん,教科を教えるとか部活動を指導するとかの仕事ではない。校務分掌といういわゆる生徒指導とか進路指導とかの仕事のひとつに,
教務部時間割係というのがあり,その係がスジ屋的気分の仕事であった。ちょっと脱線してそれを説明しようかと思う。
 高等学校では多い場合は1学年10程のクラスがあり,それぞれ毎日6時間の授業が行われる。何か決められた
スケジュール表がなければ,同じ時間の同じクラスに教員が重なってしまったり,誰も先生が来ないクラスができてしまう。
 そのスケジュール表が
時間割表であり,その作成にあたる際に不可欠の元となる「装置」が時間割盤である。
 但しこの時間割をゆっくり時間をかけて作るのならそう難しくはないかも知れない。しかし,実際には次の日程で素早く正確に実施しなければならない。
1 4月1日職員会議 諸情報入手作成開始
2 4月3日時間割原案完成
3 4月4日各主任に点検依頼
4 4月5日時間割完成 印刷
5 4月7日職員会議
6 4月8日始業式・入学式

 つまり,当たり前のことであるが,時間割はそれが全生徒に向けて発表される4月8日には完成されていなければならず,短期間でそれを仕上げてしまう緊張感がたまらないという代物なのである。
 私はこの仕事に3つの学校で計14年間携わり,「列車」を走らせることができた。

 母に買ってもらったプラレール。最も初期の型でモーターはついていない。但し,レールは後世の柔らかいプラスチックのものを使っている。初期型レールは硬質プラスチック製でつなぐ部分がよく折れた。

 2005年に廃線となった名鉄揖斐線の「列車運行図表」。
 タテ軸に駅とと距離,ヨコ軸に時間が設定してあり,斜めの線が電車を意味する。


 現在も使われている時間割盤(2020年岐阜高校教務部の協力で撮影(以下同じ)
 作成作業前の時間割盤。
 左3列は各クラスの列(一番左が1年1組)に授業に来る先生のコマが入り,黒い枠より右の列には,国語・公民・地歴・・・・の各教科の教員の列に授業に行くクラスのコマが入る。

 各教科のクラス・コマ(例 1-1)は教科ごとに色分けされている。現在は印刷されたシールを貼るが,30年前は昨年のコマの上に同色のスプレーをかけて消し,その上に新しい文字を手書きで入れた。より職人的だった。

 ピンク色は国語のコマ。人物の列にクラス名を書いたコマを埋め込む。
| 満蒙開拓青少年義勇軍とは | 満州開拓 | シベリア・プリズン戦後編
 そういう点では,自分の人生で嫌々向かない仕事を我慢しながらするということをあまり経験しなくてよい「天職」に恵まれた仕事人生だった。
 「几帳面でくつづることが得意」,この天分を与えてくれた父母には,感謝の言葉しかない。 尤も一つだけ期待通りでは無かったことがある。
 管理職や退職後の教員に対して,世の中からある期待を込めて講演を依頼するということを見聞きしたが,私は誰からも依頼されたことはない。そりゃ,「上手な時間割の作り方」という演目では,誰も聞きに来ない。(-_-;)」 

 作成開始。
 左側クラス係が先導して,1-1,3時間目,体育,〇○先生などと言って,コマを埋める。
 右側教科係がそれに応じて,体育の〇○の3時間目のところに1-1というコマを埋める。
 
 通常時間割と言えば,こちらを指す。

 ほぼ完成した時間割盤。
 左の写真,左3列はクラス時間割。月曜日1時間目から,各クラスごとに担当者が入れられている。
 上の写真,教科別の教員ごとの時間割。
どちらも,この鮮やかな色合いが徹夜作業の苦労を吹き飛ばす。

【戦争映画】
 結局私は,大学の文学部史学科に進学し,そこで日本史を専攻して,高校の日本史の教師となった。分かりやすいといえば本当にわかりやすい人生であった。
 ここでも、日本史を専攻する理由となった二つの要因のうち一つは.父の私に対する「教育」であった。
 ここではまず,2つの要因のうちの、父にはあまり関係のない方をさきに説明する。
 私の誕生日は,
1955(昭和11)年の2月26日であったが,これより19年前の1936年の同じ日は,義務教育の教科書にも掲載されているかの有名な,二・二六事件が起きている。すなわち,陸軍の皇道派の青年将校がクーデターを起こし,大蔵大臣高橋是清等を殺害したのである。このクーデターは失敗に終わったが(→クイズ日本史::満州事変・日中戦争期Quiz908),それでも以降はクーデターを鎮圧した陸軍統制派が次第に日本の政治の主導権を握っていくことになる。
 別に年月日が事件の名前になっているのは,五・一五事件,三・一事件など他にもたくさんあり,これだからといって,その人物が日本近代史を好きになる理由としては希薄である。
 しかし何故かしら私の場合は,このことが太平洋戦争史を学ぶ大きな決め手となってしまったのである。全く不思議なものである。
 もっとも,2月26日に生まれたからといって,だれもが歴史研究の道に進むわけではない。
 私より1歳下の1956年2月26日に湘南に生まれた彼は,歴史とは関係なく現代日本を代表するシンガーソングライターとして大活躍中であるし,またちょうど一回り,12歳下の1967年2月26日生まれの別の彼は,若くから日本サッカー界のエースストライカーとして活躍し,今年2024年もゴールを決めるといきまいている。人生それぞれである。

 私が日本史という教科に興味を持ちそれを専攻するということになったもう一つの理由は,父の教育のせいである。とは言っても父は,母のように私に家庭教師をつけるとかいうような「明確な」手段は使わなかった。 しかし,父は私にそういう方法ではなく別の形でその人生に大きな影響を与えたのであった。
 ちょっと寄り道しながら説明する。
 先の戦争から十数年を経た1960年代半ば,戦争をどうとらえるかにおいて,人は大きく二つのグループに分かれていた。
 「戦争絶対反対。子どもたちに平和な世界を!!」という人々と,「戦争は反対だが,軍隊やその武威にノスタルジーを感じ軍歌も好き,それが崩れていく中に虚しさを感じ戦争を否定する」というグループである。
 父は後者の方だった。
 何かというと満州・シベリアの昔話をし,私が小さなころから私を映画館へ連れて行き,戦争映画を片端から見させたのである。
 漫画にも世相は反映する。
 戦後第一世代(いわゆる団塊の世代)は.あくまで平和を求める世代であったが,戦後第二世代は政治の保守化,反動化を反映して,その父世代のもっていた戦争やミリタリー組織への撞着をアレルギーなしに受け止めた世代である。
 昭和30年前後に生まれたこの世代の一部は,漫画・映画・プラモデル・軍歌などを通して彼らの父の世代の「あの戦争」を比較的肯定的に受け止めていった。
 以下の漫画雑誌の表紙はその証左である。
 →なんだこりゃ23 少年時代・青年時代 軍国少年1

 私が小学校4年生の時,1964年の週刊少年サンデーの表紙。恐ろしく復古調で前方にロ号潜水艦とそこで見張り等に立つ少年兵。日本の潜水艦といえばイ号が当たり前だがここでは敢てより小型の,ロ号を登場させている。背景の大型艦は戦艦山城。
 
 同じく1964年の週刊少年サンデー第37号の表紙。
日本陸軍の戦闘機疾風と米軍の戦闘機カーチスP40との空戦シーン。 
 海軍のゼロ戦とグラマンF6Fならともかく,大戦後期を舞台にして,大東亜決戦機と称された陸軍四式戦闘機疾風と大戦前半からの名機を組み合わせるなんて,なかなかにくい組み合わせである。
 このぐらのことは知っていてほしいといわんばかりの画面設定である。
 この少年サンデーが出版された年は1964年,つまり先代の東京オリンピックが開催された年である。私はこの時9歳。まだ日本は先の戦争を引きずっていた時代であった。
 昭和50年代に「宇宙戦艦ヤマト」が大ヒットしたが,このアニメは当時の子どもに受けたのではない。「ガミラス軍太陽系方面艦隊司令長官ゴメス提督」などというポストを子どもが理解できるはずがあろうか。
 ところが,この後少年雑誌の表紙は,急速に軟化していく。表紙にアイドル歌手が登場する時代がやってくる。

 「南の島に雪が降る」(1961年東京映画 私6歳 主演加東大介 ニューギニアの演劇部隊がパラシュートでつくったのは・・),零戦黒雲一家(1962年日活 私7歳 主演石原裕次郎 ソロモン諸島の前進基地に置き去りにされたゼロ戦部隊の運命は・・・),「史上最大の作戦  the longest day」(1962年20世紀Fox 私7歳 ご存じノルマンディー上陸作戦の姿),「太平洋の翼」(1963年東宝映画 私8歳 主演佐藤允 戦争末期に活躍した松山の第三四三航空隊の勇士),「太平洋の奇跡の作戦 キスカ」(1965年東宝 私10歳 主演山村聰 北辺の島キスカ島から孤立した5000名余の守備隊を密かに撤退させる作戦が発動された)などなど・・・・。同年代の諸氏はこれらのうち,いくつかは覚えておられるだろうか。いずれも私が小学校低学年時代の作品であり,それぞれいくつかのシーンが鮮明に頭の中に残っている。
 「史上最大の作戦」は,父が仕事を終えた平日に見に行った。当然終演は22時を過ぎていた。俳優のセリフの英語はもちろん,字幕の日本語の漢字すらわかるはずもなかったであろうに,我ながらよくぞ眠らずに見ていたものである。
 中でもストーリーに感動して涙ぐんだのは,「南の島に雪が降る」であった。


 この映画は歌舞伎俳優であった加東大介が出征先のニューギニアの西端に近いマノクリで司令官の承認を得て,「演劇部隊」を結成し,色々なキャラクターの兵士を募って素人芝居を行うという物語である。時は1944年,既に日本軍の敗勢は明らかで,ニューギニアにおいてもすでに1943年から北海岸を東から西へ進軍してくるマッカーサー指揮下の米軍の攻勢の前に,日本軍は苦闘を続けていた。前線の将兵は敵弾と熱帯伝染病と飢餓に苦しんでいた。
 マノクワリはそうした苦闘が続くニューギニア北岸の部隊へ物資の補給や援軍を送る位置にあった。援軍といっても全滅覚悟で前線へ向かう将兵にせめて最後の楽しみを味わってもらおうということで編成されたのがこの部隊だった。
 パラシュートを使って雪景色をつくると,
「みんな泣いていた。三百人近い兵隊が,一人の例外もなく,両手で顔をおおって泣いていた。肩をブルブル震わせながら,ジッと静かに泣いていた。」
「今日の部隊は?」
「国武部隊ですたい」
「どこの兵隊ですか」「東北の兵隊ですたい」
(ちくま文庫版 2015年 P222)
 1944年11月から始まったアメリカ海軍と海兵隊による太平洋方面での犯行作戦は非常に有名である。
 しかし,すでに1943年の前半から(ガダルカナル島からのの撤退作戦は同2月)日本軍は,ニューギニアで負け続けていた。
 これについては,オーエンスタンレー山脈を横断するトレイル(ココダ)道について,クイズに出題したことがある。

 →【クイズ太平洋戦争期1】
Qオーストラリアの高校生が歴史の時間に学習するココダ道とはどこの道
か?


左:「マッカーサーと戦った日本軍ーニューギニア戦の記録」田中宏巳著 ゆまに書房
右:ちくま文庫版「南の島に雪が降る」(2015年) 

 この父親のひたすら戦争映画を子に見せまくるという「作戦」は私の人生に大きな影響を与えた。長じて大学の文学部で国史を学び中でも近現代史を専攻した私は,「日本は何故アメリカと無謀な戦争をしたのか。いまどこにむかうべきなのか。」という問いに答えることを生涯のテーマとする教師になった。
 父はユニークな方法で子を育てたのである。
 

  そして父は大学で歴史学を学んだ私に向かって尋ねた。
「勉強したお前から見て,わしが満州へ行ったことやあの戦争はいったいなんやったんや。教えてくれ。」
「帝国主義政策をとった大日本帝国が中国を半植民地化し,その結果起こった英米との世界再分割戦争が太平洋戦争だ。日本が清朝滅亡後なかなか自立できずしかも途中から国共内戦状態となってしまった中国へ正式な宣戦布告もなしに起こした戦争が日中戦争であるし,東南アジアの資源を横取りしようとして起こしたのが太平洋戦争ということだ。」
「そんな難しいことは分からん。俺の前半分の人生は何だったんだ。インテリだけが分かるような言葉でなく,皆が分かるように説明してくれ。」
 この要求に応えるにはとても難しい。どの人間がしたことも,時の流れと場所を考えれば,常に堂々と正義であるとは言えないだろうと考えるからである。
「蒋介石や毛沢東やトルーマンや東条英樹やといった人物を考えるとき,家族の中では普通に優しい父であり爺さんなのだろう。しかし,権力者としてはまた違う顔をみせる。
 アメリカの西部開拓・蝦夷地開拓・満州開拓,開拓ということを描くとき誰の目でそれを描くか。その視点の置き所が非常に重要ではなかろうか。苦労して開拓を進めた農民か,もともとそこに住んでいた狩猟民か。
 親父,常識的に「弱い者いじめ」はやってはいかんだろうに。普通の暮らしの中でも,かっこ悪いに。
 そう考えると,親父の話に出てくる満人の「武装匪賊を撃退してそいつの首を曝すという行為は,行き過ぎていてかっこ悪くはないだろうか」
「なんでー,ほっといたら女子供が略奪されてしまうんやぞ。」

 父との議論はこれ以上なかなか進まなかった。父の青春をなんと位置付けるか。
  〇義勇軍・・子泥棒の手先
  〇イギリス・・世界をまたにかけた大泥棒
  〇アメリカ・・善人の振りができる大泥棒
  〇蒋介石・・自分優先の小泥棒
 これぐらいのアナロジーを父が分かってくれるかどうか。

 今や鬼籍で待つ父と,極楽の3丁目か天国の3番街4番地かどこかは知らないが,また会って議論を続けようと思っている。
 母が祖母に似て,旅行好きだったのに対して,父は旅行はあまり好きではなかった。
※鹿児島磯庭園 母と十六銀行時代からの友人の方と
父は旅行者という特殊な集団(人間関係)を作るのがとても苦手だった。

珍しく二人で出かけた国内旅行。どこかの浜で地引網を引いている父と母。
ここでも二人は離れて網を引いている。

その父と母が一緒にしかも二度も出掛けたところがある。母はあまり気が乗らないようだったが,父に頭を下げて頼まれてしぶしぶ二度とも付き合った。

 その場所は,中国である。
   ※北京故宮博物館前の二人
入植地北黒馬劉(きたへいまりゅう)の最寄り駅北安線綏稜。最寄り駅といっても入植地までは40km,歩いて10時間ぐらいの距離であった。

 【学歴・学校歴】
 父にとって一番面白くなかったのは,学歴についてとやかく言われることだったと思う。
 学歴ではないがそれよりもっと父を怒らせたのが,右に掲載した私の進学した学校,岐阜高等学校のPTA会員名簿である。この名簿は現在では個人情報の関係で非常に大切にとりあつかわれている。
 しかし,当時はまだそういう観念がなく悪意なくいろいろな情報が掲載されていた。本人氏名・保護者父母氏名・住所・電話番号,そして保護者の職業役職(どちらか片方)である。これらがA6版の伝票形式の冊子にコンパクトに収められており,もちろん生徒全員に配布された。
 今を生きる皆さんならこの名簿のもつ非常理性に気付かれたであろう。
 両親のどちらかが欠けていることが一目でわかる。また会社等の役職は,社長・部長・課長などそのポストまで一目瞭然。
 右の引用は私の同級生(同学年)の別のクラスの名簿の一部である。父親の立派なポストが一目で把握できる。
 2年生の春休みの作成書類一覧には,この名簿の更新・記入も含まれていた。
私「父ちゃん,この前出世したって母ちゃんと話していたけど,本当。」
母「ダメダメ,父さんは,社長が「手当やるから主任に昇進というはどうやろという申し出」を断った。」
岐阜高校PTA会員名簿 
 よく考えれば社員10人ほどの誰も知らない〇○商店の主任であるか否かは,どうでもいいことであった。
 その思いが顔に出てしまった。

父「満州とシベリアに8年もおったんやぞ。よう生きて帰ってきたと思ってくれ。」
母「また,満州・シベリア」

 実際,父は飲む・打つ・買うはなにもしない,野心はないが勤勉であった。こんな男が何千万人もいたからこそ,日本は高度経済成長の道を歩めたと,私は本当に思っている。
 

学歴・学校歴1
 ちょっと恥ずかしいが,本当のことなのであえて書く。
 中学2年生3学期の試験で初めて学年1位を獲得した私は,それから以降は
他者より秀でた自分の能力(何でも記憶できる能力)とそれに合った勉強方法(大きな枠組みを設定しそこから小さい方向へ絨毯を敷き詰める如くに記憶する)を駆使してテスト等で成果を収め,その地位をおおむね維持した。以前話をした,同じクラスのⅠ君という天才がいて,彼に負けるとクラス2位,同時に学年でも2位という地位に甘んじなければならなかったことは致し方なかったとして・・・。
 当時の岐阜日日新聞模擬テストでの最高席次は中学3年1月実施のもので16位,その翌々月の高校入試学科試験の岐阜高校の入学席次も16番であったから,このあたりが自分と同じ世代における私の学力のポジションであったと思われる。
 
 上に書いた勉強法は高校1年段階までは通用したがそれ以降は岐阜高校の求める高レベルの暗記と閃きを必要とする学習の前に挫折した。
 より応用的な記憶とそれに対応した高度な閃きを蓄積できる新勉強法への転換は遅れ,ようやくこのことが分かってきたのは3年生の秋も深まった頃であった。それから受験までは4ヶ月であったが,本番では何とか対応でき,無事京都大学文学部へ合格・入学できた。京大はその頃から入試の得点開示を行っており,調べたところ文学部の合格最低点は526点であり,私の得点は529点であった。
 3点差で受かろうが100点差で受かろうが,合格は合格である。
 
   私の中学校3年時の各教科評定表
  これを見ると既に主要5教科は2年生末の段階で高みに到達していたようである。
 しかし,5教科はともかく,音楽や美術はどのようにして「5」を取ったのだろう。
 美術では覚えていることがある。写生大会に長良川河畔にでかけた。ちょうど解体中の古いホテルがあり建設中の新しいホテルとセットで絵を描いた。そうしたら美術教師の指導が入った。「テーマが二つあるのは好ましくない。」
 歴史学では両者の比較分析にはむしろ主観んが入らない方がよい。中学生のころからそういう視点を持っていた私は,古いホテルが廃墟になっていくのも,新しいホテルの贅沢できらびやかなさまを身に着けていくのも,「両方ともテーマである」と主張したが,納得してはもらえなかった。
 この様に教師に思い切った意見をぶつけると,教師の方も数学の1+2=3 が絶対正しいというのとは異なる次元の話なので,だんだん軟化してくれるのである。
 でも音楽はどうだろう。今となっては定かでないが,音楽史・音楽理論のテストがあったことや,歌唱テストがあってこれは歌詞を暗記して情熱的に歌えば評価が高かったせいか,これらが「評定5」つながったのかもしれない。
 しかし,後から振り返れば,音楽得意のTさん,ピアノのスペシャリストのⅠさん,歌がうまかったHさん,あなた方の誰かを蹴倒して,5を獲得した私はむごいことをした男です。

学歴・学校歴2
 この合格を一番喜んだのは勿論,父である。
「俺の子が,京大へ受かった。」
 父は嬉しさのあまりこの言葉を生涯何度口にしたことだろう。
「親父,陳腐に聞こえるから,やめとけ。」
「何で自分の息子を自慢したらいかんのや。義勇軍とシベリア帰りの労働者の息子がえらいかんこう(勘考)して立てた大手柄なんや。」

 2011年8月11日午後,父は逝った。最後を看取ったのはわたしひとりであった。それまでちゃんと動いていた救命装置が,いきなり「ビー」とけたたましく鳴り,それがすべてだった。
その少し前に,名前を呼ばれたような気がしたが,錯覚だったかもしれない。

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