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48 Family history 母の記 戦中・戦後時代 24/06/29 |
このページでは,母のことを中心にFamily History を描いてみようと思う。 |
井納氏はおば(系図のF)の葬式で出会った時は,まだ上武大の4年生で,これからドラフト会議を待つという時期だった。結局この時は指名を受けず,社会人野球のNTT東日本に入り3年後にプロ入りが実現した。2019年には年俸6100万円の評価を得けるまでになった。このオフ・シーズンにフリー・エージェントの権利を獲得し,巨人と移籍交渉を行って,2年契約総額2億円の高評価で移籍が実現した。 私も含めて大方の縁者が,「DeNAに残っていればよかったのに」と思っていたが,そのとおり巨人では2年で12試合の登数板にとどまり,2022年末に引退した。 「あのままDeNAにいれば,もう少し登板数も増加しいい成績だったかもしれん。金に目がくらんだか」という声もあちこちで聞いた。さもありなん。 これについては賛否両論があろう。しかし,私の祖父(井納氏の曾祖父)の「要領よくかせぐ」という発想からは満点がもらえるかもしれない。 勝手に家を飛び出した母の次姉については,私も子ども心にあまりいい感情は持ってなかった。 私が小学校4年生の冬,祖父はもう死の数か月前で2階で床に臥せっていたある日,私が学校から帰るとすぐ,40歳ぐらいの見知らぬ男性が訪ねてきた。 「このうちに●●という方はおられますか?」 「はい,●●さんは僕のおばさん,母のお姉さんです。」 「今ここにおられますか」 「いいえ,おばさんはずーと前に家を出て,ここにはいないです。」 さも,今も実家と付き合いがあるかのように装い,相手を安心させて金品等を借りるのは,叔母の常とう手段であると母から聞かされていたので,それを踏まえて説明した。 何をどう騙されたのですかと尋ねたい気分であったが,子どもが聞くことではないと唾を飲み込んだ。 2階に祖父がいるとはいえ,もしこの人が怒ったらどうしようと,怖かったが男性は,しょんぼりして帰って行かれた。何か空気が切なく澱んだ。 |
遺伝といえばもう一つ,母の次姉は祖父母から勘当され母自身も彼女とは絶縁状態であった。2008(平成10)年,隣県の全く知らないところから訃報が届いた。「あなたの姉という人がこちらで亡くなった。身柄を引き取ってほしい。」 知らないという突っぱねる手もあったが,母は父・私・妻の了解を得て,自分の金で葬式を出し戒名を得て墓に刻んだ。さらに長姉の先夫との子(系図のH)や次姉の娘Iについても,「どこかで野垂れ死にしとらへんやろか」と死の直前まで気遣っていた。残念ながら今も消息不明である。 その次姉が母を驚かしたことが一つある。母は祖母に似て整理整頓については異常にこだわりがあり,棚・引き出しなどは見事にきちんと整理整頓するタイプであった。 次姉の荷物を処分しに出かけた母が戻って言った。 「アパートの狭い部屋に箪笥が置いてあって,その引き出しの中は,見事に綺麗に整理整頓されていて,嬉しくて思わず涙が出た。」 血は争えない。 では私はというと,無論妻があきれるくらいの整理整頓派である。この親孝行者!! |
【祖母の残した贈り物】 母はすでに前項で述べたように長姉・次姉の我儘な所業によって,末娘にも拘わらず家を継ぐという大役を果たさなければならなかった。具体的には養子をもらって家名を遺さねばならない。 このことを容易にした祖母の母への最大の贈り物は,母を高等女学校へ入れたことである。このことはすでに前ページの【祖母の見栄っ張り】でも触れたが,この時代(母は昭和16年3月白山尋常小学校卒)の岐阜市の小学校でも,娘を中等教育機関である高等女学校へ入学させる親は少数派であった。しかも,公立ではなく私立の富田高等女学校へ入学したのであるから,近所の口さがないおばあ連中が,「授業料が払えずに夜逃げするぞ」と半分やっかみも含めてうわさしたのは,無理からぬことであった。 しかし,無理をした効果は絶大であり,母にとっては女学校卒業は幸福な未来をプレゼントされたこととなった。 |
【母の女学校時代】 母にとって女学校とは何であったか。ここであまり嬉しいことではないが大事なことを話しておかなければならない。1930年生まれの母は,1941年の春に白山尋常小学校を卒業し,岐阜県の進学希望の娘なら誰しも希望む県立岐阜高等女学校(岐高女)を受験した。ところが,運悪くかそれとも勉学が水準に至らなかったためか,不合格となった。実は私立富田高等女学校は滑り止めの第2志望の学校だったのである。 「くやしかった。岐高女へいきたかった。」 話がこの時代のことに及ぶとそれから何十年が経ていようと,母は必ずそう繰り返した。この怨念?は,のちの私に影響を与えることになる。 このようにしていろいろあって進学した富田高等女学校での学園生活は,母にとっては期待に反するものであった。その原因はといえば,その時期の大日本帝国の国策にあった。 母が小学校2年生の時の1937年に中国との全面戦争が開始されたが,以降国民生活は国家総動員法に基づく国民徴用令や価格統制令の施行によって社会的統制が強まっていく。「統制」は価格統制令・衣料等の切符制,コメの配給制と市民経済の不自由度をますます奪っていき,それを打破しようと1941年12月8日,対米英との戦争(アジア・太平洋戦争)が開始された。 この戦争は母の女学校時代と重なっており,まさに母は国策に翻弄される小国民であった。 |
実はこの時代の教育によって母が大きなハンディキャップを負ってしまったことに,私もほんの数年前まで気が付かづにいた。 もちろん,太平洋戦争に入ると英語が敵性語・敵国語として教育できない状況となり,当時の中学生・女子学生の教育内容に影響を与えたことは知っていた。 しかし,「英語はわからん。習っていない」と恥ずかしげもなく言う母の本当の悲しさを分からないまま,そのときまでずっと過ごしてきたのだ。 市橋の新居に移ってすぐ,母が突然に提案した。 「何か生きがいがないといかん。これまで書いてきた日記をパソコンに入力して書いてみたい。」 「それは見上げた志。私が一から教えてあげよう」 書くて俄パソコン教室が開かれた。 ところがその日のうちに重大な障害にぶつかった。 母はいわゆる「かな漢字変換」の基礎となる「ローマ字がわからないのである。 「『TOYOTA』って何と読むの」 「英語は分からないって言っとるがね。」 私は,これは英語ではないローマ字だ,なんて野暮なことは言わなかった。女学校時代から70年間,英語もローマ字も教えてもらえなかった母の悲しみを誰が分かってあげられようか。 この親不孝者!! |
母がローマ字を学習し始めまだ悪戦苦闘していたころ,三男が壁に貼れるような大きな「五十音ローマ字ひらがな対照表」を買ってきてくれた。 母はその表を見ながら小学生になったばかりのひ孫と競争するかのように一生懸命ローマ字を覚えた。 しばらくたって,まだ自動車の運転ができた私が母を眼科へ連れて行った帰りに,自宅近くの環状線を南下すると,母が嬉しそうに元気な声で自問自答していた。 「あれはホンダ,あれはトヨタ。」 「あれはスズキ」 屋根の上の看板などを見て,自分の知識を一つ一つ確かめている。 「もっと前からあの看板の文字が読めていたら,こうやって町の中を走っていてももっと楽しかっただろうね。」 「これは何?」 「マクドナルド。これは難しい。」 「もっと勉強する」 それは少女の声だった。 |
この英語を敵性語〈太平洋戦争前)・敵国語(太平洋戦争中)として教育しないというのは,実は実際よりも話が大きくなっているという説が現代では有力である。確かに,年表中に引用したように,日本高等学校野球連盟は,野球用語に関して英語に代わる日本語を示した。しかし.このような敵愾心をあおる感情的な対応はむしろ例外であり,各帝国大学・高等学校・中学校・海軍兵学校・陸軍士官学校では,普通に英語が重視され英語教育がおこなわれていた。 冷静に考えればこれは当然のことである。敵の情報を入手・分析するには敵の言語を知っていなければ始まらない。アメリカは戦争が始まると陸軍・海軍の日本語学校を設置し,卒業生は戦争後期には,文字情報の解読や捕虜の尋問にに活躍する。 ※中田誠一著『トレーシー 日本人捕虜秘密尋問所』講談社,2010年,P58-63 ※今野鉄男著「戦中の英語教育 ー昭和18年制定中学校教科教授要目「外国語科」を中心にー」『日本英語教育史研究第5号』日本英語教育研究会編,1990年,P92 では,母の置かれていた環境はどうであったか。 女学校は本来良妻賢母の育成を目指すものであり,もともとカリキュラムに英語・数学・理科などの比重は低かった。当然戦時下においては,銃後の守りを固めるため,より扇情的な教育が中心となったとしても,無理からざるものがあった。 |
英語や数学の勉強をする代わりに政府が女学校の少女たちに求めたのは,フルタイムの工場勤務であった。本巣高等女学校や岐阜高等女学校のように,学校内に工場が作られた場合もあったし,富田高等女学校のように学校(開校時から終戦直後までは学校は岐阜市梅ヶ枝町にあった。梅ヶ枝町は西野町交差点の東南にあたる)の近くにある繊維工場を改造した工場(母の記憶では岐阜市忠節町にあった片倉製糸の工場。各務原の川崎本工場や学校内の分工場で働いたという記録もある)へ出かけ,4年生以上は朝から晩まで飛行機の部品造りをした。 ※富田学園百年史編纂委員愛編『学園の軌跡 富田学園創立100周年記念誌』2008年,P32 この時の母の思い出である。 「工場に働きに行って,何か面白いことはあった?勉強はしなくてもいいのだろ?」 「とろくせぇーこといっとりゃーすな,何が面白いことがありやーす。朝から晩まで班長の監視下で休みなく働くんや。ちょっとでも間違えたりすると,「バカヤロー」の罵声が飛んでくる。おそがーて,おそがーて,みんなびくびくして仕事しとった。」 母は手先が不器用な方でしかも運動神経も今一つだったので(缶詰の蓋を缶切りでうまく開けられない30歳過ぎても上手に自転車に乗ることができない),こういう工場でキビキビと動き回ることは,さぞかし苦労の連続だったに違いない。 「それで,製造していたのは飛行機の部品と聞いているが,なんという飛行機のどの部品かわかるかね?」 「たわけ,そんなもん軍の機密で,わかるわけないやろ。」 これはこれはまさしく私の方が「おたわけさん」だった。工場で働く女学生はそんなことに興味を持ってはならないのであった。 |
これについては別の視点から10年前に調べたことがある。 →岐阜・美濃・飛騨の話○各務原・川崎航空機・戦闘機 岐阜県といえば航空機の生産は各務原にある川崎重工業(川崎航空機)である。終戦時にそこでどのような飛行機が作られていたか。 資料の数値が誤っていたり,調査不足の点もあり真相にはなかなかたどり着けなかったが, 「1945年の時点で,動員学徒を含め3万人以上が日夜働き,航空機の生産拠点の一つとなっていた各務原。それ故に,市政も施行されていない一地方の町村であった各務原が,B29爆撃機やP51ムスタング戦闘機や艦載機グラマンF6Fによって何度も襲撃され,たくさんの犠牲者を出しました。 特に大きな被害を受けた1945年の6月22日と26日の空襲の時,各務原の航空機生産の中心的施設であった川崎航空機岐阜工場では,主に陸軍の五式戦戦闘機が生産されていましたが,両日の空襲で壊滅的な被害を受けました。」 こう叙述するのが,正しいと言えるのではないだろうか。 このことについて,イギリスに研修に出かけた後,母のもとに土産を持参して,報告した。 「あなたの作っていた飛行機は五式戦だった。」 しかし,母の反応は期待とは遠いものだった。 「そんなもん,どうでもええ。思い出したくもない。」 亡くなった320万人もの方には心からご冥福を祈りたい。同時に生き残った方々の心にも目を向けなければ。 この親不孝者!! |
陸軍三式戦闘機飛燕(2023年5月16日各務原航空宇宙博物館にて撮影) 液令エンジン搭載,スマートな機体,その下にある冷却用空気取り入れ口など日本の他の戦闘機には類を見ないフォルムである。 陸軍五式戦闘機(2010年11月19日ロンドンの帝国空軍博物館にて撮影) 飛燕の液令エンジンンそのまま空冷エンジンに置き換えた。そのため胴体のサイズがあわず,カウリングの部分に段差が見られる。 三式戦飛燕も五式戦も現存しているのはこの一機ずつしかなく,両機の写真をそろって掲載できる著作権者は少ない。 |
母の記をつづける。 太平洋戦争は母から勉強を奪っていったが,昭和20年7月10日未明のB29による岐阜市空襲によって,母は日常生活のすべてを失った。空襲によって岐阜市中心部は灰燼に帰したが,その中には高森町の自宅,梅ヶ枝町の学校,いずれも含まれていた。 空襲の時,祖父母や母はいったい何をしていたのか。 映画やTVドラマでは,空襲に遭遇した一般市民は,防空壕に避難したりまたバケツリレーによって防火用水から水を運んで消火に努めるというシーンが必ず出てくる。母に聞いてみた。 「防空壕を掘ったのか。」 「じいさんが掘った。表には場所がなかったので裏に掘った。そしたら裏の奥を流れている用水のせいか,水が染み出てきてだめだった。」 「ほんなら,空襲当日はどうしたの」 「逃げた,逃げた。3人して命からがら墓のある上加納山まで逃げた。」 「消火活動は?バケツリレーは?」 「たわけたこと言っとたらいかん。怖くてそんなこと考えとる余裕なんか,ありゃせん。逃げなんだら焼け死にだがね。」 この親不孝者!! |
アメリカ軍が用いた集積焼夷弾 |
JR岐阜駅の2階にある,岐阜市平和資料館の展示物。前のページで紹介したわが家の→家宝の焼夷弾は, M69焼夷弾(六角形,直径8cm,重量6ポンド=2..7kg)とよばれるもので,親・子の子爆弾である。 上の写真はそのM69を38発束ねた親爆弾・E46集束焼夷弾(重量250ポンド)である。夜間爆撃の場合高度3000m付近から投弾し,高度600~700mで開裂し子爆弾に散開する。焼夷弾が燃えながら落ちてくるという目撃談については,一説にこの時生じる小爆発により以降,姿勢を安定させるストリーマー(リボンのようなもの)が炎上し,焼夷弾が燃えて落ちてくるように見えるという説と,この時の開裂・散開は物理的なもので,炎上にはつながらない。ストリーマーが地上の炎を反射してきらきら光り、火がついて落ちてくるように見えるという説の二つが考えられる。 |
【女学校卒業】 空襲は岐阜の市街地のほとんどを焼き尽くした。消火活動などにかまっておらず,とっとと逃げるというのは正解であった。我が家及び周辺は,白山小学校も含めて一面の焼け野原になった。 祖父は数日のうちにどこからか柱やトタンなど焼け残った資材を調達してきて,とりあえず雨露をしのげるバラックを立てた。 「昭和20年の冬は寒かった。布団のすぐ際まで雪が降りこんで・・・」 学校もなかなか再興されないまま自宅待機が続き,卒業の期日となって,「卒業」となった。 母にとって女学校というのは何だったのだろう。 「卒業証書は?」 「持ってない。覚えとらん。」 学校が旧歩兵68連隊の兵舎を借りて長森野一色の地に復興したのは,敗戦の翌年,1946年の9月1日のことであった。 |
今時の子どもたちに日本が経験した戦中・戦後の生活を説明することは非常に難しい場合が多い。 バラックというのもその一つである。 barracks は,もともとは英語である。「兵士たちのために建設された安上がりの粗末な兵舎」というのが本来の意味である。 空襲で家を失った人々はとにかく住む「家」を確保しなければならない。そこで燃え残った壁・トタン・柱・レンガ,何でも利用した。 写真は,焼夷弾と同じく岐阜市のアクティブGにある歴史資料室に掲載されている終戦直後の岐阜市中心部のそれである。 Aは神田町通り旧名鉄岐阜駅電停で,やや右側に電車を待つ多数の人が見える。Bは現在の名鉄岐阜駅南にあるショッピングセンターの場所である。 Cは岐阜駅,そしてDこそがバラックである。この写真は,十六銀行本店からの撮影と思われる。 左の富田高等女学校の記録については,次の資料を参考とした。 ※富田学園百年史編纂委員愛編『学園の軌跡 富田学園創立100周年記念誌』2008年,P34-36 |
祖父・祖母と母のバラック暮らしは数年続いた。その間に起った奇跡的な出来事は,母が就職に成功したことである。しかも,第一志望の十六銀行に。 十六銀行といえば岐阜県では大垣共立銀行と一,二を争う金融機関であり,就職の際には聞き合わせ(面接・学科試験ではなく,関係者の個別の内偵が就職希望者に対して行われた)もしっかりと実施されたであろうに,極貧の暮らしに苦しむしかも定職はなく前科一犯(盗品故買)の親を持つ娘が何故お堅い金融機関に就職できたか?母は, 「わからん」と言っていたが, 基本的には,高等女学校卒の効き目,ご利益であったに違いない。 |
【教育ママ】 十六銀行に勤めて7年目,母は父と結婚しいわゆる婿に向かえてM家は無事家名を存続することとなる。(江戸時代かい?) その2年後,男子(私のこと)を出産する。このあたりの詳しい経緯や,父の青春時代については,最終章,「父の記」で詳しく触れることとし,ここではまず母がどのようにして一人っ子である私を育てたかについて話を進めよう。 母の時代に銀行員となることは収入の面ではなかなかのものであったろうが,当時はどこの会社も寿退社を前提としたシステムを取っており,今日のように,育休3年or1年などと途方もない休暇はもちろんない。 そこで前章で紹介したように祖父・祖母が育爺・育婆として登場したわけである。 しかし,母にとって誤算だったのは,元気だった祖母が急性心不全で正しく急逝してしまったことであろう。そもそも病気がちであった祖父に孫の面倒を見させることは無理であった。このため母は祖母の死の半年後には,十六銀行を辞めることになる。勤続17年目の予期せぬ退職であった。 |
「お七夜,宮参り,夫婦は狂気乱舞」 |
近所の子どもたちと私(後列中央) 昭和30年代中頃の写真であるが、よく見ると道路はまだアスファルト舗装も何もしてなくて,土である。 |
一その母を一番嘆かせたのは,私の小学校の成績が予想以上に良くなかったことである。右のコピーは私の白山小学校1年の時の「昭和36年度 通知表」の「学習の記録」の「Ⅰ 評定」の部分のコピーである。 これを見ると,1年生の1学期はまだ入学したてのこどもを評価することはふさわしくないということで「評定」の欄は空欄である。 しかし,2学期からは各教科別に評定がなされ,私の場合,2学期は,7教科すべて3,3学期は理科が4,体育が2,残り5教科はすべて3という学習評定であった。 ちなみにこの時代の評定は,今と違って厳密な相対評価であり,40人の児童が在籍する学級では評定5を付ける人は,40×0.07(7%)=3人,評定4は10人,評定3は15人と決まっていた。(2002年までの相対評価) 母は息子のこの通知表を見て情けなく思った。 「我が子はなんのとりえもない普通の子どもか」 |
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よくこのような文書が残っていたと思われるかもしれない。確かに,わが家は2度の引っ越しも経験しているし,これらの文書が残ることは常識的には難しい。しかし,聡明な読者の方ならここまでの family storyの中でこういう展開になるだろうと思われる「特技」が描かれていたことを覚えておられるだろう・・・。私たち母子は無類の整理整頓派はであり,50数年前の「通知表」がまるで出番を待っていたかのように登場することは,何でもないことであった。 | |
これで驚いてはいけない。 左はなんと、私自身が生まれたときの母子手帳である。 「岐阜縣No23201」のこの手帳は、昭和29年11月29日発行の本物の母子手帳である。 私は昭和3×年のある日の午後7時50分に誕生した。10ヶ月の正常分娩だった。 体重は3.375kg、身長は50cm。 「小森ぎん」さんというのは、もちろん助産婦(産婆さん)の名前である。当時のこととて、病院ではなく、自宅での出産だった。 ※母子手帳については, →なんだこりゃ36 「女,母,妻Ⅳ やはり強い |
今なら, 「普通の子どもで何が悪い。」と子育ての専門家から正論が出てきそうです。祖母に宿題のプリントをやってもらい.時々癇癪を起しては周囲を困らせる。踏切が好きで列車が好きで,暗くなるまで貨物列車の数を数えては、満足して涙を拭いて家へ帰っていく。 そんな子どもで何が悪い。 しかし,幸か不幸か,母の価値観は当時の主流であった,「少しでもいい大学へ,いい会社に入って高い給料を」だった。 「この成績ではまずい」 母は早速どこからか大学生を連れてきて家庭教師とした。特に算数を教えてほしかったが,うまく教えてもらえず,私がやんちゃを言ったら次からこなくなった。 以下,私が小中学校時代にお世話になった塾や家庭教師の一覧である。母の抱いた危機感がどんなものであったか,ひしひしと伝わってくる。 母の「教育ママ」振りを示すエピソードは話題に事欠かないが,自分では教えられない分,時間がない分,お金を使って息子のためにという姿勢は徹底していた。ただし,ある時,「ハーモニカがうまく吹けん」と言ったら,次の日曜日には近所の知り合いの大学生が,「僕,『ハモニカを教えてって』と言われたんですけど・・・・。どうしましょう」 と言われたときは,怒るより相手に同情した。 しかし,この時代のそこらの塾もいい加減なものだった。国語を教えるといって1時間中書き取りの練習をやらせたり,英語塾と唄って日本語訳ばかりを書かせたり,今思うとまるで詐欺師である。 但し,私にとって非常に幸福だったのは,中2で自分の寺の住職の息子と出会ったことである。彼は岐阜高校卒の名古屋私立大学経済学部の学生だったが,この人にやんちゃしてしくじってはいけないという思いもあり,ちょっとっ我慢しておとなしく言うことを聞いていたら成績は急上昇し,二人はレジェンドの世界に入り,噂を聞いた級友もその塾に参加し,生徒は10人を越えて,大賑わいとなった。 |
この時代の列車には運転手と副運転手がちゃんと二人描かれている 写真手前左から2両目,このころ東海道線にデビューした,ビジネス特急こだまもそろっている。 |
わが家にたった1枚だけ残されていた母の水着の写真。(中央,抱かれているのは私) 場所は知多半島の内海海水浴場。昭和30年代は今から経済史として学習するならば,高度経済成長の前期段階にあたり,戦後の貧しさから抜け出した国民が次は3Cへと向かう時代である。しかし,レジャーという分野ではまだその中味は浅く、夏は近隣の海水浴場が賑わう程度であった。 この時点では名鉄内海新線は未開通で,終点の河和まで行きバスに乗り換えて,内海へ向かった。 毎年夏,私の家族は1泊2日のこのささやかなレジャーを楽しみにしていた。 但しこの写真を撮ったのは私の父ではない。もう一組の家族の父親の方である。父の会社はまだ土曜日も営業しており,海水浴参加は土曜の夜か日曜の朝だった。 |
【教育ママⅡ】 この家庭教師と塾との出会いによって,母の望みはようやく実現に近づきつつあった。 その前に私と母との大事な約束について触れなければならない。 昭和42年4月,私は岐阜市立梅林中学校へ入学した。同時に母は新興の金融機関であった中央信用組合へ入社した。十六銀行時代の経験を買われ中間管理職としての入社であった。母はもともと家に収まって満足しているタイプではなかったが,父が勤務する中小企業の月給が安く,とても専業主婦となって優雅に暮らすというわけにはいかなかったのである。 実は母にはもう一つ心配なことがあった。 私は小学校5年生・6年生と体調を崩しており肺の機能が低下して,治療のため週3日,ひとりで岐阜市蕪城町の加納小児科へ通い注射を打ってもらっていた。 部活はソフトテニス部に入ったが,これも母から「ハードな運動はだめです」とくぎを刺されていたたためであった。本当はサッカーがやりたかった・・・。 中学生になると大きく変わることが二つある。一つは教科として英語が加わることであり,もう一つは高校入試が意識されて偏差値だの順位だのが現実の数値として生徒の能力を左右する。 この二つとも母は私に期待するところがあったが,私はそれを裏切った。まず英語であるが,どういう形で学習を進めていけば分からず,中間テストも期末テストもごく普通の今となっては記憶にも残っていない点数を取ってしまい,評定は「3」であった。 |
これは何の記念でしょうか? |
七五三のお祝い |
学年の順位が出る実力テストの第1回目は,夏休み明けの9月にあった。実は1968年のこの頃は,受験業界がようやく偏差値という言葉を使い始めた時期で学校内の進学指導ではまだ使われていなかった。「何番なら○○高校に合格する」という指導がすべてであった。 私のこの時の学年順位は51番であった。この時の梅林中学校の1学年は各クラス40人弱,それが9クラス,つまり390人中の51位であった。 読者諸氏はどう思われよう。この成績は,良いか,まずまずか,悪いか。 私は自分でまずまずと思って母に報告した。 ところが母は烈火のごとく怒った。 「何この成績」「夏休みは何を遊んどった」から始まって延々と説教が続き,「あんたは,私の無念を晴らし岐阜高校に入る」が結論となった。 |
宴席の母 母も父も酒は飲めない人で,我が家には酒を飲むという文化はなかった。 |
中央信用組合で事務を執る母 |
冷静になった母に確かめると次のように考えていた。 1岐阜高等女学校を不合格だった私の無念を晴らしてほしい 2簡単に言えば,岐阜高校に合格してほしい 3梅林中学からは毎年25名から30名が岐阜高校へ合格する 4少なくとも学年順位は20位ぐらいでなければならない 5特に英語は重要でTOPクラスでなければ大学受験で苦労する →新しく岐阜高校卒の大学生を家庭教師に迎える どんな勉強法が適しているかから根本的に考える あまりおおっぴらには公言できなかったが,こうして親子二人三脚での受験への取り組みが進められたのである(映画の台本みたいならこうなるところですが・・・いえ,ごく普通の人生だった) |
中学卒業時のクラスメイト 本当に住みよいクラスだった |
あなた(私のこと)の長所を活かした新しい勉強方法 1記憶力が良いことを活かして基本的にたくさん記憶・理解(情報量を増やす)する。 2違いを表現できるように理解・記憶する。 3できる限り関係のある知識・単語等を結びつけ,セットで理解・記憶する。 例 英単語 □ake bake cake make 月 曜日 今までの知識の強制よりも知識の広がりをワクワクするといった感覚が勉強への意欲を生む。そして,先生の知識量を上回っていく時の快感がさらなる難問への挑戦心を生んだ。 この結果私の成績は急上昇し,2年生の最後の試験では,(この時は本当によく勉強した。)生まれて初めて学年1位を獲得できた。母が喜んだのは言うまでもない。 さらに,私が「今こういう大学生に教わっている。面白い。」と話すとそれが評判になって,参加者が増えて自然と塾になった。このタイミングがよくて,1対1なら喧嘩になってしまうところを回避でき,やんちゃをする寸前で友のK君の仲裁が入って大事にいたらずに切り抜けた。K君には本当に感謝である。 ひとりっ子で自己中心的な世界観しか持っていない私は,親の心を読んでその思いに沿うようなことを行うなんてできなかったが,父や母が息子が進んだ大学を嬉しそうに他人に紹介(威張っている)しているのを聞いていると,陳腐と逆らいたくなる反面,これに勝る親孝行はなかったな,とまた振り返って老境の入り口にて思うのである。この親孝行者!! |
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【母原病】 無事岐阜高校に合格・入学し,母を喜ばせた私であったが,高校2年になると,また体調不良に陥った。 母はその症状を見て過剰に反応し,「大きな病院に行きなさい」と命令,山内病院(胃腸科専門)・千手堂病院(循環器系専門病院)・岐阜大学附属病院神経科をはしごさせた。本来ならちょっとした受験ストレスだったのだろうが,「急性胃炎」「肺門リンパ腺」などの診断書をもらい,体育を2か月間見学するということになってしまった。 いわゆる教育ママ的過干渉は,子の成長にマイナスなのではないかと思うようになった私は,遅ればせながら穏やかな反抗期に入り,地元の大学ではなく遠方の大学=下宿をすることを選択し,母親を精神的にも経済的にも大いに悩ました。 精神的な方は数字ではわからないが,経済的な面は証拠書類によって確かめることができる。母が整理整頓して残した父母の給与明細によれば(この書類がわが家に残っていることにまず感動していただきたい,次にそれを61年後に息子が容易に探しうることにも重ねて重ねて感動していただきたい),私が大学を卒業した1977年3月,父の給与手取り額は146,439円,母のそれは122,461円であった。合計,268,900円。ちなみにこの時の実家から私への仕送り額は,月額4万円余りであった。 |
小児科医・精神科医であった久徳重盛が1979年(私が24歳の時)に刊行した『母現病ー母親が原因で増える子どもの異常』(教育研究社)は続編も含め100万部を超す大ベストセラーとなった。 母親の存在と子の成長に一石を投げかけた本であったが.精神医学の立場からの個人的な意見で科学的な根拠は乏しいとされている。 苦労して父母が送った仕送りの半額を,パチンコで僅か1日で擦ってしまったこともあった。 |
【占い・血液型】 母の性格について良い点悪い点はいろいろあるが,私と最も性が合わずその話をし始めると必ず喧嘩になってしまい,責任を負いたくない父はテレビの音を大きくして,聞こえないふりをしてあらぬ方を向いてしまうという喧嘩要因があった。 それは,「〇○によると○○のようにせんといかんそうや。」 というあまり科学的根拠のない話をもとにした占い・予言・通説の類を信じ,他人にもそれを強要することである。 たとえば人の名前である。しかもよくある話だが,いいことにはほとんど目が向かず残念なことだが,ここが悪いということばかり気にして自らもストレスをためてしまうのである。 就職してまもなく,素敵な女性に出会った。小柄でキュートでいろいろな才能に満ち溢れたキュートな女性であった。深くお付き合いしようとしたがその前に諦めた。その女性の名前が母の次姉と同じだったからである。聡明な読者諸氏はそれが何を意味しどういう結末を生むかについて容易に想像されるであろう。 誠に申し訳なかったがその女性とはそれきりとなった。 次に母の方から私の結婚について要望があった,「お前の運勢からすると,25歳から28歳までの間に結婚すると不幸になる。」 馬鹿らしくて根拠は何かとも聞かなかったが,そういう事態を招かないようにするため母が考えたことは,「変な女に掴まらないよう,もっと早く結婚させてしまえ」であった。 それから2年半の間に母つてで,4人の女性とお見合いをした。 当時私は漠然と「教え子と結婚したい」という願望を持っていて,その方面で努力していたため,このお見合いの連続には閉口した。うまく断ったりうまく断られたり,これを何とか切り抜け,紆余曲折の末,結果的には28歳2か月で,今の妻(職場の同僚)と結婚することになる。その時点で母は,自分が昔何を言ってどう息子を苦しめたかは,忘れてしまったかのようであった。 そのころ次に母が言い出したのはかの有名な「血液型占い・相性診断」である。結婚して父母と同居することとなったわが家では,当然のごとく,あまりリーダーシップの取れない夫(私)のもとで嫁vs姑のバトルがはじまる。 母「○○ちゃん(妻)はB型でしょう。マイペースだし,ざっくばらんだし・・・。」 私「いや,あなたと同じ○型だよ。」 母「うっそ」 こんな何気ない会話も積もり積もってゆくと大きな滓になってしまった。 この親不孝者!! |
能見(のみ)正比古・能見俊賢父子は1970年代後半から1980年代にかけて血液型と相性について『血液型で出わかる相性』(青春出版社,1971年)などいくつかの本を出版,大ベストセラーとなる。 その出発点は,「私に一人の姉がいた。夭折したがちょっと不思議な才能を持った女性だった。そして彼女こそ血液型と相性の原発見者だったのである。」(前著P10)からはじまるおよそ科学的な根拠のない論旨の展開であったが,それ故にこそ逆に人気を博した。まるで血液型教の教祖である。 母に言わせれば,「私を迷信家と非難するが,そういうあなた方が大好きなさだまさし君も,ちゃんと血液型の歌を歌っているじゃない。」 確かに、「恋愛症候群 - その発病及び傾向と対策に関する一考察 -」は大ヒット曲になった。 しかし,彼はあの歌とその歌詞について,コンサートライブなどではこう言っている。 「この歌は確かにヒットしました。ありがとうございます。でもね、いわばこれはジョークです。これを真っ向から信じてはいけませんよ。」 同僚に血液型相性学の信奉者がいて,周囲を困らせていた。 私「教師なんて生徒の未来を信じる職業がそんなふうに鋳型に嵌めてよいものか。」 |
【送り迎え】 母が家族の一員として最後に担った仕事は,孫の 保育所への送り迎えである。 私には3人の子どもがあり,小学校へ上がるまでの5年間,全員近くの西郷保育所へ通った。岐阜市立の普通の保育所で,私立幼稚園とは違って音楽とか英語とかの売り物の特別な教育は実施しない,保育所である。 また,送迎バスなどもなく,保護者がこどもを毎朝夕送り迎えするのである。 |
我が家の場合,朝は8時半過ぎに保育所へ送り,夕方は私や妻の帰りは早くて5時半過ぎになるので保育所が終わる4時ごろに迎えに行き,連れ戻って面倒を見なければならない。 その仕事を母は当然のごとく黙々とやってくれた。その期間は私も上表にまとめるまではしっかり把握できていなかったが,合計8年にもなった。 もちろん保育所と自宅はそう離れているわけではない。せいぜい500m程であろう。 |
2016年12月の我が家。南側の道路から撮影。 1974年の建築当初は,家族が立っているより後ろの部分しか土地を所有していなかった。 |
しかし,こちらの思い通りスムーズに事が運ぶとは限らない。まずは孫たちである。用事があって早く家に戻らなければならない日もあっただろう。そういう時に限って孫はジャングルジムのてっぺんに上って降りてこない。 また,いつもいつも好天候とは限らなかっただろう。暑い日も寒い日も雨の日も雪の日も,母は文句も言わずにこの送迎を8×365=2920日続けた。 「誕生日に,母の日に,何かプレゼントをもらえるのも嬉しい。だがの,『今日はひどい雨でしたね。ぬれませんでしたか?』『ぬれたがね。びちょびちょ。』という会話も嬉しいがね。」 乳母車を押して孫を保育所へ送り迎えする母の姿は近所の人々の印象に強く焼き付けられた。のち母が自分で希望して施設に入りたいと言った時,近所からこんな声が聞こえてきた。 「孫3人も面倒見てくれた母親を老人ホームへ送るとは・・・」 この親不孝者!! 2023年1月6日早朝,私も含めて皆がホームへ駆けつけようとしている時,母は一人でこの世を去った。 |
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乳母車に乗る長男K この車は都合9年間活躍した。 |
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