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舞鶴引揚記念館その3 我が父の満州・シベリア2


 この小旅行記の5は、引き続いて、引揚の話と我が父の満州・シベリア体験を続けます。
 

@

舞鶴という町

A

引揚について

B

満州とシベリア

C

舞鶴引揚記念館と我が父の満州・シベリア1

D

舞鶴引揚記念館と我が父の満州・シベリア2


D 舞鶴引揚記念館と我が父の満州・シベリア2 | このページの先頭へ |
我が父の満州・シベリア−敗戦時、そしてシベリア虜囚編−

 関東軍の一部隊に入隊してから、舞鶴に帰還するまで、またいくつかのエピソードに分けて、当時の日本軍と日本兵の実情を紹介します。


我が父の満州・シベリアでの年譜2「敗戦時・シベリア虜囚編」

西暦

元号

月日

 で  き  ご  と

1944 19 4月

 開拓団として、新しい入植地、北安省綏稜県北黒馬劉(キタヘイマリュウ)に入る。義勇軍の栗田中隊長はそのまま開拓団長に就任。岐阜開拓団と称す。
 住居もないまったくの原野に土地だけを割り当てられ、まずは住居造りからはじまる。(先遣隊の入植は、03/18から)
 宿舎・道路の建設、農地開墾と開拓の仕事が本格化。

1945 20 2/16

 徴兵検査

5/19

 招集により陸軍入隊、北安から北へ200kmの満ソ国境近くの黒河にある第269部隊砲兵隊に配属。15センチ榴弾砲の砲員となる。

7月

 部隊は400km離れたチチハル南方に徒歩で移動。
 直後、各部隊から選抜されて結成された
挺身大隊に転属。

・ソ連の戦車の攻撃に対して、挺身(わが身を犠牲にして)それを阻止する特別部隊。・箱爆雷という木製の箱の中に火薬が入った爆雷をもって穴(タコツボ)に身を潜め、ソ連戦車が頭上を通過する際、その爆雷を戦車にぶつけて破壊する訓練を続けた。

8/08

ソ連対日宣戦布告

8/09

ソ連第1・第2極東方面軍、ザバイカル方面軍、満州国へ侵入
同日夜、父親の挺身大隊、および原隊の第269砲兵部隊は、
チチハルからハルピンへ列車で撤退。

8/19

ハルピン競馬場で武装解除

10月初旬

牡丹江よりシベリアへ向け出発

10月下旬

タイシェットの第7地区34km地点カスタマロフ収容所へ入所

1946 21 2月

第7地区100km地点収容所へ移動

1947 22 6月

第7地区117km地点第19収容所へ移動

1949 24 6月

第7地区117km地点第19収容所の大半に帰国命令

6月

第19収容所近くのグリコン農場へ移動

8月

グリコン農場収容者へ帰国命令

09/21

栄豊丸にて舞鶴へ引揚(8年3か月ぶりの日本)


戦場における父の幸運、戦地における運命は紙一重

 父は、1926(大正15)年生まれでしたから、北黒馬劉の岐阜開拓団からは、1945年5月に出征しました。
 入隊したのは、北部の満ソ国境に隣接する
黒河の砲兵部隊でした。15センチ榴弾砲という比較的大型の砲の弾込め係として訓練を受けました。
 しかし、入隊2か月にも満たない時期に、部隊が国境地帯から後方のハルピンに移動となりました。
 幸運のその1は、この部隊の移動にありました。
 この地域の部隊は、8月9日のソ連の侵入後、ソ連戦車隊と激戦を演じ、中には部隊丸ごとほとんど全滅という不運な部隊もありました。もし最初の配置のままでいたら、父親の生還率はきわめて低かったと思われます。
 

 黒河の東、国境の町(あいぐん、世界史の教科書にも登場する、帝政ロシアと清との国境線を確定した条約の締結地)では、独立混成第135旅団が終戦の日を過ぎても徹底抗戦を続け、多大の犠牲を払ってソ連軍の侵攻を阻止しました。

 余談ですが、黒河からチチハルまでは、直線でおよそ400kmあります。途中には小興安嶺という山地を越える難路です。この時の移動は、全行程徒歩で行われました。いかにも日本陸軍らしいやり方です。15センチ榴弾砲は馬6頭に引かせるのです。
 小興安嶺を進む際、野営(荒野でよるテントを張って宿営すること)する場合は、馬を中央にし、その次に大砲を並べ、その外に兵隊がテントを張り、さらに一番外側に四方八方にかがり火をたいて、警戒して夜を過ごしました。
 何に警戒するかというと、匪賊(満州現地人武装勢力)はもちろんですが、現実的に一番怖いのは、
でした。

「火に驚いたのかどうか知らんが、何十匹何百匹もの狼が、ウォンウォンと一晩中鳴いていた。生きた心地がしなんだ。」

 チチハルについた父は、砲兵部隊から選抜されて、挺身隊へ配属になりました。
 この挺身隊というのは、このころ関東軍各地で編成された、ソ連軍の対戦車攻撃用の特別部隊です。本来、戦車の進撃を防ぐには、同じく自軍の戦車で対決するか、対戦車砲という大砲で反撃するのが常道です。
 ところが、日本にはソ連軍戦車に対抗できる戦車も大砲もありませんでした。性能的にも量的にもなかったのです。
 そこで、挺身攻撃が考案されました。
 歩兵が対戦車豪という穴に潜んで、箱爆雷という対戦車爆雷を手に持ち、敵戦車が近づくと自ら身を乗り出して爆雷を破裂させ、自分の命もろとも戦車を破壊するという攻撃でした。(詳しくは下の写真の説明をご覧ください。)
 
 この部隊がソ連軍戦車隊と遭遇したら、父はほぼ戦死となる運命でした。ところが現実はまたもやラッキーなことが起こるのです。


 左 第二次世界大戦中のソ連の主力戦車T34。
 各種のタイプ合わせて、35000両以上作られた。主砲は42口径76.2mm砲。
(イギリス・ロンドンの帝国戦争博物館の展示品 撮影日 2001年8月10日)

 右 日本軍の主力戦車、97式中戦車。短砲身の47mm砲もしくは57mm砲では、T34の厚い装甲を破ることはできず、進撃を食い止めるには、歩兵の挺身攻撃に頼る以外は術はありませんでした。


 挺身隊の攻撃とはどうやってやるのでしょうか。

「箱爆雷というのはどんな形なの?」

「1尺(約30cm)四方ぐらいの大きさの箱の中に火薬が入っていて、それを蛸壺(対戦車郷壕)の中に潜んでいて、戦車がきたら、箱をぶつけて爆破させる。」

「自分も死んでまうがね。」

「それだから挺身攻撃というんじゃ。特攻隊じゃ。」

「起爆装置はどうなっているの?」

「そんな難しいもんはない。
箱の中からヒモが出ていて、それを軍服のボタンに結んでな、爆雷を抱えている時は、ヒモの長さが短いため爆発せんが、手を伸ばしてヒモが伸びると爆発する仕組みになっていた。」

「とても原始的。」

「それで頑丈なソ連戦車は壊せるの?」

「戦車そのものは壊れやせん。キャタピラーを狙って、キャタピラーを壊す。動けなくする。」

「訓練はどうやってやったの?」

>「リヤカーみたいな木造の『敵戦車』があって、それを動かして、演習用の爆雷でうまくあてられるか訓練した。」

「その木造戦車は動いたの。」

「いやー、ロープで引っ張った。」

「じいちゃん、悪いけど、ソ連軍戦車隊に勝てそうな気がしない。」

「今から思うと、そうじゃ。でもな、そん時は必至だった。」


<父親が訓練していた対戦車挺身攻撃> 

 戦争とは残酷なものです。

アニメスタート

アニメ繰り返し


 下の地図をご覧ください。
 1945年8月8日ソ連は日本へ宣戦布告し、満州に隣接する3つの方面から侵入を開始しました。

余談です。
通常、
ソ連の対日宣戦布告は8月8日、ソ連軍が満ソ国境を越えたのは、8月9日未明(午前0時過ぎ)ということになっています。これは事実です。
しかし、次のように改まって表現すると嘘になります。
「ヤルタ会談にもとづき
8月8日にソ連が日本に対して宣戦布告し、翌9日にソ連軍は150万人の圧倒的兵力をもって南サハリン・中国東北部・朝鮮に進軍した。」
森武麻呂著『集英社版日本の歴史S アジア太平洋戦争』(集英社 1993年)P310

 
 
桃色字の文章と青色字の文章は、それほど違いはないような気がしますが、実は、桃色字は事実に少し近い表現、青色字は、ずいぶん遠い表現なのです。
 時間の経過の問題です。
 ソ連が宣戦布告の文章を、在モスクワの日本大使を呼んで手渡したのは、モスクワ時間8月8日の午後5時過ぎです。
 これがポイントです。
 この時間は、満州や日本の時間ではいつになるか?
 東経38度のモスクワと、東経135度線を標準時に使う満州や日本とでは、時差は、7時間あります。
 
つまり、宣戦布告の手交は、日本時間の8月8日夜23時過ぎだったのです。
 そして、1時間とたたない8月9日0時過ぎには、ソ連軍は満ソ国境を越えました。


 
青色字の表現では、真実からは遠いことがおわかりいただけると思います。 


 父がいた北西部正面からは、ソ連のザバイカル方面軍が侵入してきました。
 しかし、国境のやや内側のハイラルにあった独立混成第80旅団が必至の抵抗をしたおかげで、ソ連軍戦車隊は、終戦前にチチハルに到達することはできませんでした。

 そして、何よりラッキーだったのは、ソ連の宣戦布告が分かると、チチハルの南に守備していた
第149師団(父の所属)は、師団が属する関東軍第3方面軍第4軍(司令部は在ハルピン)の命令によって、戦わずして、チチハルからハルピンへの移動を開始したことです。
 命令上は「移動」ですが、これは明らかに
退却です。
 この退却は、ソ連の宣戦布告にビックリして怖じ気づいたとかそういう場当たりのものではありません。関東軍の計画的な退却だったのです。

 関東軍司令部は、度重なる精鋭部隊の太平洋戦線抽出によって、戦力の低下が起こっていることを認識していました。いくら根こそぎ動員で兵員数だけをそろえても、大砲もない戦車もない、部隊によっては歩兵銃さえも行き渡っていない部隊では、冷静に考えれば、勝ち目がないことは明らかです。
 この結果、
司令部は、対ソ開戦の場合は、満州全土の大半を放棄し、大連−新京・新京−図們の線より南側の朝鮮に接する部分(下の地図10のの部分)のみを死守するという作戦に変更していました。

 父の所属した
第149師団の退却は、この作戦にそうものでした。
 おかげで、父は、T34戦車への挺身攻撃によって散華することから免れました。 

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収容所では鉄道敷設、伐採作業

「収容所では何をやっていたの?」

「後で聞いたら、各地域でいろいろな作業があったようじゃが、俺らぁは鉄道建設と木材の伐採をやっとった。」

 父が最初に収容されたのは、タイシェット地区の34km地点の収容所です。
 下の地図をご覧ください。
 タイシェットというのは、シベリア鉄道でナホトカとモスクワの中間地点の少し手前にある都市です。父はこの都市の東方で、鉄道建設に当たりました。

 その鉄道が何かについて説明します。
 それは、現在は、タイシェットからシベリア鉄道と別れてがバイカル湖の北側を通って、日本海沿岸の
ワニノまで通じている、バイカルアムール鉄道(略してバム鉄道第2シベリア鉄道ともいう。路線距離4800km)です。

 この鉄道を作る計画は、満州事変が起こった段階で日本との戦争を想定し、極東地域の輸送力を強化するために第2のシベリア鉄道をつくらなければならないということで、提唱されました。
 しかし、労働力と資材不足から、タイシェットから東へ向けてのほんの一部と、ワニノから西へ向けてのほんの一部、つまり両端の一部だけがつくられただけで第二次世界大戦が始まってしまい、建設は中断されてしまいました。

 戦後ソ連はこの鉄道の建設を再開し、その労働力として日本人捕虜を使用しました。つまり、父たちは、タイシェットから東へ向けての鉄道建設に当たったのです。1949(昭和24)年夏までの正味3年半ほどに、日本人捕虜の手によって、タイシェット−ブラーツク間が開通しています。

 ただし、その後一時建設は再び中断されました。
 1970年代になってまた再開され、1984年になってようやく全線開通しました。当初は、軍事用の路線ということで外国人は利用できませんでしたが、現在では、観光客も利用できます。 




 レールの運搬と敷設。機械はありません。ひたすら、人力です。この写真は、舞鶴引揚記念館の展示写真です。以下の写真は、すべて同記念館で撮影したものです。(撮影日 06/08/11)  


「毎日何時間働いたの?」

「そりゃー、朝から晩まで。どの仕事にもノルマがあって、それが終わるまで仕事を終わるのを許してもらえなんだ。」

「ノルマって、具体的には何?」

「レールを何メートル敷くとか、溝を何メートル掘るとか、木をいくつ切るとか、煉瓦をいくつはこぶとか、そういう具体的な数字でノルマがあった。」


「一時期は明けても暮れても毎日毎日、木材の伐採ばかりやっていた。」


 舞鶴引揚記念館にある収容所の模型です。

「最初の冬は、食料の供給も不十分で、何人もの仲間が栄養失調や病気で死んでいった。
木の塀の内側に、点々と見えるのは、有刺鉄線(鉄条網)。ちゃんと再現してある。収容所の中は草もない。何でかというと、食料にしてしまうからな。ところが、鉄条網より外壁には近づけなかった。近づくと4隅の見張り所からすぐに打たれてまってな。そこで、鉄条網と外壁の間の部分には、ちょっと草が生えていた。」


 同じく記念館の中にある、収容所内の様子を示した人形群。

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帰国が遅れた反動分子 

「昭和24(1949)年の6月に、その時いた117km地点の収容所にも、ダモイの話が来た。」

「ダモイって何?」

「117km地点というのは・・・。」

「ダモイってのは、帰国のこと。117km地点というのは、タイシェットから東へ117km地点ということ。タイシェットからブラーツクの方へ転々と収容所があった。」

「それで帰れたの?」

「違う。俺ぁ、反動分子だったから、すぐに帰れずに、他のみんなが帰っても、何人か残されて別の農場へ移された。」

「反動分子ってのは?」

「共産党の教育にしたがわなかったやつのこと。」

「収容所では、ちゃんと共産主義の教育があったんだ。」

「そりゃ、日本へ帰って、共産主義を広めるやつをつくるというのも、シベリア抑留の目的やったんやぞ。」

「それで、その教育にしたがわなかったんだね。」

「講義を聞いてノート取るように、捕虜一人一人にノートが配られた。みんな、早く帰れると思って、一生懸命やったふりし取った。俺ぁ、バカらしくて、何ヶ月たってもノートは真っ白だった。」

「それで反動分子のレッテル貼られたわけだ。」

「そうじゃ、名誉ある反動分子よ。なんで露助(ロスケ、収容所の日本人がロシア兵をバカにして呼んだ言い方。)なんかから、共産主義を勉強しならん。」

 父の帰国は、部隊の他の兵隊より遅れました。


 引き揚げ船、興安丸の模型。全長127m、7077トン。引き揚げ船は、数千トンクラスの船でした。


帰国

「舞鶴に帰ってきた日と、船の名前は覚えとる?」

「覚えとる、覚えとる。
 8年3ケ月ぶりやぞ。夢にまで見た日本やぞ。一生忘れん。昭和24年9月21日、栄豊丸や。ナホトカから帰ってきた。」

「誰か迎えに来たの?」

「普通は、舞鶴に着くまでは、誰がいつ帰ってくるかはわからん。援護局に収容されてから、故郷へ電報を打つ。」

「汽車で帰ったの?」

「電報打ったけど、誰も迎えには来んと思とった。東舞鶴の駅で、汽車待っとたら、兄貴と弟が来て、両脇から抱えられんばかりに、家までつれてかれた。」

「病気やったの?」

「違う違う。
 内地(本土)では、シベリア帰りは、アカ(共産主義者)になっとるという噂が流れていたそうだ。それで、兄貴たちは、どこか赤旗振って行ってしまわないように、迎えに来たらしい。」

「反動分子だから、そんなことないのにね。」

「ほー、そのとおり。」


 8年3カ月ぶりに帰った父。
 家は相変わらず農家のままでしたが、農地改革によって、少しの田んぼを所有するようになっていました。しかし、やはり、3男坊では土地をもらって農業をするというわけにはいきませんでした。
  

「満州にいて、成功したら、大地主やったかもしれんね。」

「夢、夢、みんな夢。
そんでも、一生懸命頑張った8年やった。」

「僕らの年には、もちろん、向こうにいたわけだ。」

「Dは高校2年生で、16歳だから」

「その時は鉄驪の訓練所。」

「僕の20歳の時は、」

「タイシェットの収容所。」

「8年は、何だったんだろうね。」

「腹一杯食えん、寒い、えらかった、つらかった。
 ほんでもな、いろいろ工夫すると、結構、暮らせるもんや。人生、今日より明日はうまくいくように、工夫することが大切やぞ。」

「舞鶴、いっぺん、一緒に行くかね。」

「もうええ、もう、舞鶴はええ。」


 帰国船の甲板に鈴なりの引揚者。


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