また、少し違う視点から、同じ部分に通じる別の話を司馬遼太郎さんが書いています。
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司馬遼太郎著『街道をゆく21 芸備の道と神戸・横浜散歩』(朝日新聞社 1983年)P50 赤字は引用者が施しました。
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「吉田の町に出ると、おまわりさんでさえ古色を帯びている。
町の一角にある警察署の建物は新築だが、その隣りのふるい民家(商家だろう)の横壁が、瓦とともに古びてなんともおもしろく、散歩中、同行の長谷氏に、あの壁はいいですね、といった。長谷氏は芸備の古い町並や山河の写真をとりたいといって同行したから、仕事着のままである。長髪でもある。かれはひとりのこって、警察署の前から、その隣家を撮りはじめた。
すると署内から若いおまわりさんが出てきて、不審尋問をした。ゆったりと明治風に威張りかえっているというか、署の玄関に立ち、右腕をゆるゆると水平にまであげて、十数歩むこうの長谷氏に対し、掌でさしまねいた。来い、というのである。
用があればそばへ来るのが、各国共通の礼儀である。しかし明治のころ、御一新で三百万人失業した士族の救済策として東京や各府県の警官に採用した。当然、警官たちは市民を素町人と見、自分たちの対人文化の基礎をつくった。それが吉田ではいまなお生きているのだろうか。
長谷氏の年齢は、出版局の写真部主任だから、四十前後だろう。やむなく器材を路傍に置き、身一つで玄関までゆくと、
「何をしている」
若い人がいうのである。江戸時代の同心が裏店から出てきた手伝い大工の熊公に対しているようで、長谷氏は時代劇のエキストラに出たような気持だったろう。
「写真をとっています」
「どこを撮っている」
どこをとろうと勝手じゃないかとおもわず大声が出かけたが、長谷氏はそこは年の功で我慢をし、あの家の壁のぐあいを撮っているんです、と言い、しかし応答がおわったあと、ひとことだけ、
「あなた、そこにいて私をさしまねいたでしょう、そういうの、私はあまり好きじゃありませんね」
と、いった。しかしそういう婉曲な言い方が若者には通じなかったようで、署内に入ってしまった。
警察署の前は車が何台も置けるような広さのコンクリート敷きになっている。そのときは一台もなかったし、むろん長谷氏が車を持っていたわけでもなかった。ただ道路から二、三歩入って、その前庭のはしから隣接する民家を撮っていたにすぎない。警察署という公共施設の前庭に市民は一歩でも足を踏み入れるなという法規があるならやむをえまいが、まずそういうことはないだろう。要するに街路にいる者を、咎めだてがましく若い警察官がさしまねいたのである。あるいは署内に上司がいて、窓ごしに民家撮影中の長谷氏を見、怪しいやつだと思い、若い警察官に接触して来いと命じたのかもしれない。そのいきさつはどうであれ、問題は若い警察官の態度である。
「いやな町ですね」
そのあと、路上で遭遇した長谷氏は、私にいった。吉田にあこがれて入ってきたのだが、あの警察署の一郭だけは、どうも気分よく通る気になれない・・・・。
私は、少年(年少)ニシテ高臺(こうだい)二上ルハ一ノ不幸ナリということばを思いだした。江戸期や明治のひとがさかんに慣用句として喋っていたことばで、べつにむずかしい言葉ではない。年少で高い地位につくのは身の不幸の一つだという意味である。まだ初々しい若者が、警官の制服を着たがために、高臺ではないにせよ権力意識ができ、日本人としてのふつうの礼がとれなくなったということも不幸にちがいない。」
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教師も、「若くして高臺(こうだい)に登」っていると、いえなくはありません。
子ども相手に尊大な気持ちになれば、上の話の若い警官と同じでしょう。
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