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 33 少年時代・学生時代6  鎮守の森   06/07/1            

「遊びに行ってくるは。」

「どこへ行くの?」

 小学生の頃、この答えは、2種類しかあり得なかった。「学校」(小学校のグランド)と「お宮さん」(近くの溝旗神社の境内)であった。
 近くの神社の鎮守の森(もり)でよく遊んだ。
 しかし、この2つは、同じ遊び場でも、その位置付けは大きく違っていた。

 学校では、まずは、グランドでのソフトボールの三角ベースかまたはドッジボール。そうでなければ、グランドの周囲のスペースや、遊具や砂場でのもろもろのゲームが我らの遊びだった。石蹴りや陣地とり・・・などなど。
 しかし、残念ながら学校には、今も昔も、「よい子はもう帰りましょう」という、下校時間の規制があって、そう遅くまで遊んだ記憶はない。


 わざわざ説明するまでもないが、いつもの癖で、この話に出てくる地域(19歳まで住んでいたところ)を、現代の衛星写真を使って解説する。

@

自宅

A

白山小学校

B

溝旗神社

C

名鉄本線名鉄岐阜駅

D

名鉄各務原線名鉄岐阜駅

E

JR岐阜駅

F

柳ヶ瀬

 ご覧のように、昔住んでいた小学校校区は、岐阜市の真ん中にある。
 今住んでいる郊外の自然豊かな所(6月には自宅の網戸に蛍がとまる)とは、比較にならないくらい、町の真ん真ん中である。
近くに田んぼなどない。

ちなみに今住んでいるところはこちら。

 だからこそ、少年たちにとって、「お宮さんの森」は、大きな意味があった。

この地図は、いつもの、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の衛星写真を使って作成。  

 昔の自宅の前から、西を向いて撮影した写真。
引っ越してから、33年。元の家の周りは、大きく変わった。
 写真の「とまれ」のある交差点の左側は、八百屋さん、右側は駄菓子屋さんだった。
 もうとっくの昔に廃業となった。その向こうにあった炭屋さんなどは真っ先になくなり、そろばん塾もなくなった。
 家々は、あるいは立て替えられ、あるいは駐車場となった。 

 二つだけ変わらないものがある。
 写真には映っていないが、私の生まれた家(昭和30年という時代だから、もちろん病院での出産ではなく家で産婆=助産婦さんの手によって誕生した)は、他の家族の所有となったが外装が変わった以外は昔のまま残っている。 
 そして、今も昔も、通りの突き当たりには、あい変わらずに、お宮さんの鎮守の森が見える。
(撮影日 06/07/15)


 一方、お宮さんといえば、境内でのかくれんぼ、鬼ごっご(名前や詳細は忘れてしまったが、いろいろな役のある複雑なルールの「鬼ごっこ」)、ぽこぺん、缶蹴り、だるまさんが転んだ、などなどいろいろな遊びに日の暮れるのを忘れて遊んだ。
 夏の陽の長い時などは、学校を下校時間に追い出されて、そのまま「お宮さんで2次会」という時もあった。

 お宮さんでのこれらの遊びは、神社の境内というのが、末社の小さな祠、灯籠、狛犬、手水社、大きな木々などが魔術のように配置された空間であり、それらの遮蔽物や障害物が子どもにとって絶好の遊び空間を作っていたことでなりたっていた。小学校とは異なる魅力だった。

 遊び仲間がたくさんいない時は、少人数で、社殿の背後にある本来は立ち入り禁止の「奥の森」に侵入し、いろいろな昆虫や、トカゲ、ダンゴムシなどを相手にして遊んだ。当時は、奥の森との間に厳重な障壁や有刺鉄線などという無粋なものはなかった。

 ただし、秋のドングリ拾いはやった経験がない。
 鎮守の森の木は、カシ・シイなど常緑の広葉樹林が多く、それらの樹木の小ぶりの木の実であるシイの実・カシの実は、子どもにとってあまり魅力のないもので、採集の標的とはならなかった。(私たちが通称「ドングリ」と言っていた大きな木の実は、落葉広葉樹林が多くある、金華山の支峰の水道山や梅林山に行かないと拾えなかった。)
 
 何にしても、ちょっとした面白い遊びを見つけると、それに熱中したもんだ。


  この溝旗神社の創建は、境内に掲げてある「御事歴」によれば、用明天皇の2年である。 この天皇は、推古天皇の2代前の方で、西暦に直すと、586年のことになる。本当なら、1400年以上の歴史のある神社ということになる。
 この年、このあたりの村々に疫病が流行り、多くの村人が亡くなった。このため人びとは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)に助けを願ったところ、霊験が顕著となり、疫病がおさまったいう。
 その恩を顕彰するため、それ以後、この地に素戔嗚尊を祀る社殿が建立され、それがこの神社のルーツになったと記載されている。


  神社のタイプとしては、京都の八坂神社や愛知県津島の津島神社などと同じ、素戔嗚尊を祀って、夏の疫病除けを祈願する神社なのである。
 岐阜県神社庁岐阜市支部編『岐阜の神社』(1958年刊 P16−17)によれば、この神社の境内には、いつの頃からか、真言宗の寺院ができ、牛頭天王を祀るようになり、天王山聖寿院と呼ばれた。つまり、明治維新以前ではどこでも当たり前にそうだったように、神仏混交の状態となっていた。
 しかし、明治政府の神仏分離例によって、神社として独立し、村名をとって、社号を溝旗としたという。
 この地域は、私の元の家があったところも含めて、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月の岐阜空襲で焼け野原となっており、この神社の本殿や樹木も直撃弾を受けて焼け落ちた。(撮影日 上は06/05/27 下は06/07/10))


 つまり、学校はいわばルールに則った人工の空間であったが、一方神社は、もっと自然で創造的な空間だった。
 私は小さい頃は、球技はとても苦手で、学校ではグランドの隅の「陣地とり派」だったが、神社の鬼ごっこで智恵を使ってゲームに勝つことは大好きだったし、奥の森の中で孤独に遊ぶことも好きだった。
 神社には、神主さんの一家の住居があったが(今もある)、よほどひどいことをしない限りは、叱られたりはしなかった。子どものこういう意味での悪さにはおおらかな時代だった。今のように、近所の遊園地で遊んでいるだけで、近隣から「うるさい」という苦情が入るのとは大違いである。
 
 しかし、一度だけ、ひどく叱られたことがある。
 当時の子どもたちの遊び道具だった、2B弾と爆竹を使って、地面に掘られた蟻の巣の大破壊活動を試み、調子に乗って住居近くまで近づいてパンパンやったからだ。家の近くで、パンパンと火薬を爆発させられては、普通の神経ならほっておくはずはない。
 この時の我ら少年部隊の作戦は、「ジャングルのトンネルに潜むベトコンの掃討」だった。小遣いをはたいて2B弾と爆竹を買い集め、用意周到で作戦に臨んだ。

 蟻も気の毒だったが、アメリカ帝国主義に毒されていた少年たちは、残酷で怜悧だった。
 (こういう「時代用語」を今の子どもに理解させるには、何時間も授業が必要だ。)


 日常の思い出もずいぶんあるが、この溝旗神社の思い出といったら、なんといっても、夏の提灯祭りである。
 この神社の発祥は、夏に流行った疫病退治であるから、当然例大祭は、八坂神社の祇園祭などと同じく、夏に行われる。この祭りそのものの起源は、江戸時代末期といわれている。

 毎年、旧暦6月15日の満月の日に、近隣の氏子は、魔除けの意味を込めた提灯を持って、この神社に集まり、厄除けのお札をもらって帰る。
 氏子が町内ごとに提灯を持って参拝することから、提灯祭りと呼ばれている。
 私の町内では、この祭りのためにつくってある竹竿を組み立てた大きな台に提灯を一杯付けて準備がなされた。町内の戸数分だけ提灯をつるすのである。
 夕方、薄暗くなると、みんなが集まってきて、提灯に火をともし、大人も子どもも一緒になって町内ごとに隊列をつくって、提灯を300m先の神社まで運んだ。
 祭りのうきうきした気分というのは、子どもたちにとっては、出発前に母からもらった小遣いを、しっかり手に握って、これを何に使おうかと考えながら歩く時の華やいだ気分を意味する。
 
 昭和40年代にはいるとずいぶん雰囲気も違ったが、それ以前は、「綿菓子の味、アセチレンの匂い、君は一つホオズキを買った」(さだまさし作詞「ほおずき」)という感じだった。
 アセチレンランプといっても、これまた、今の子どもには説明が難しい代物である。
 そうたくさんはない小遣いの中から、悪友たちと相談しながら、綿菓子を買い、舌が真っ赤になる飴やキャンディーをなめ、絶対に獲れないただ金の無駄遣いになるだけの輪投げの商品を、毎年懲りずに狙い続けた。
 この日は、小学生にしては帰りが多少遅くなっても、父母は許してくれた。

 旧暦なので、その年によって太陽暦の日付は変わる。2006(平成18)年は、7月10日に行われた。
 たまたま、息子の学校の用事で夕方に仕事を休む必要性があったので、用事の行き帰りに、久しぶりに溝旗神社に行ってみた。
 自分が高校生の時はもうこの祭りから「卒業」していたので、14歳の時以来、37年ぶりということになる。


 暗くなる前の境内前の広場。社務所に聞くと、昔はここも境内地だったそうだが、今は岐阜市の公園となっている。(撮影日06/07/10 以下同じ)


 広場の南にも、店が並ぶ。綿菓子や輪投げなど、40年前と同じ種類の店もある。
 私が小さい頃は、写真の奥に見える部分にはこんなに豊かな木々はなかった。古くから住む友人に偶然出会い、確かめてみた。
 「あれから40年たっんだ。自分たちも年をとった。木だって成長したんだ。」
 確かに、あれから、40年近い歳月が流れているのだ。


  神社の祭礼とは別に、公園の一番南の広場では、特設の「ステージ」が作られ、15時頃から、子どもたちによる出し物がはじまっていた。
 これは、この地域の自治会連合会が母体となって結成されている「響(ひびき)  明るい白山まちづくりの会」が街づくりのために平成17年から開催しているもので、この神社の祭礼と結びつけて、町の活性化を図ろうというのである。 
 今この町の最大の問題は、市の中心部ならどこでも同じ、「少子高齢化」である。
 白山小学校も、40年前の私たちの時代は1学年4学級だったが、今では、1学級に満たないという。岐阜市教育委員会の小学校統合計画では、隣の梅林小学校との統合も話に上がっている。
  


 夕暮れになると、各町内から提灯を掲げた氏子が集まってくる。 
 提灯の掲げ方は、町内によってまちまちで、ここのように、竹でできた献灯竿につるしてくるところもあれば、笹に付けてくるところもある。
 これは、19時近く、ずいぶん暗くなってからの風景であるが、実は、多くの町内の提灯は、まだ明るい18時30分前に着いてしまっていた。

 社務所で聞いたら、交通事情などから、年々早くなってしまったという。


 中には、提灯に火を付けないで持ってくる町内もある。
 そりゃ、火を灯してくれば、道中危険もあるだろう。
 だが、これでは、火無し提灯では、本来は風情ある提灯祭りは台無しである。
 


 鳥居をくぐった参詣者は、お祓い所で、お祓いを受ける。
 右のテントでは、町内ごとに、疫病退散のお札を受け取る。


 昔の思い出では、もっとたくさんの火を灯した提灯に囲まれて参拝したような気がするが、まあ致し方ない。


 家族で話題にしてみた。
   ※Yは次男=1986年生まれ現在大学生、Dは三男=1990年生まれ現在高校生。

「お母さんは、神社で遊んだことがある?」

「あるある。小さい頃は、神社のすぐ隣に家があった。神社の境内は、特に夏は、小学校の暑さに比べて、お宮さんは涼しかった。」

「何か面白いもはあったの?」

「洞窟があった。」

「戦時中の防空壕?」

「違う違う。大きな木の根本が地面が掘られて空洞になっていて、雨が降っても子どもが4・5人入って雨宿りできた。」

「君たちは、学校から帰ってきて、夕方、神社で遊んだことはある?」

「あまりない。神社なんかで遊ぶ必要はなかった。」

「あなたは、テレビっ子だった。」

「追いかけっことかしたことはある。でも、小学校低学年の時は、学校の校庭で、一輪車に熱中していた。」

「そうか、君は一輪車を頑張っていたなー。じゃ、土曜日や日曜日は?」

「一生懸命、少年団のサッカーやっとった。」

「同じく。」

「そうだった。」

「この子たちは、こんなに自然豊かな郊外に住んでいて、結局、あまり自然とは遊んでいないみたいね。」

「なんか、ちょとずれてる気がするけどなー。」

 サッカーのリフティングができて、一輪車にも乗れる。
 それはそれでいいことなのだろう。
 世代が違えば、思い出も違って当たり前なのだから。
 いろいろな遊びは、孫に教えてやろう。
 「ジャングルのトンネルに潜むベトコンの掃討作戦」はやめにして、新しいネタで「ダンゴムシ・オームに話しかけて怒りを静めるナウシカ作戦」ぐらいがいいだろうか・・・。ちょっと暗すぎるか。  


 鳥居の左に、手水舎がある。
 1945(昭和20)年の空襲で多くの社殿が焼けた中、この手水舎は被災を免れた。境内入口のこの場所は、遊びには最適の場所で、子どもたちの集合場所だった。手水舎の四角い太い柱は、だるまさんが転んだやポコペンでは、鬼が立つ場所だった。柱の方を向いて、手で目隠しして、「だるまさんが転んだ」と唱えた場所である。
 右の写真は、手水舎の奥、境内左手の脇の末社、秋葉神社参道に入る手前の、石組みである。古来、どの神社もそうであったように、この神社にも水が湧き出ていたに違いない。手水舎の水も、今は水道水であるが、昔は、湧き水であったろう。
 石組みは、この場所に、昔は、自噴水を使った池のようなものがあったことを想像させる。
 自分が子どもだった頃には、もう水は湧いていなかったと記憶している。


 中学生になってからは、もう境内で遊ぶことはなくなっていたし、提灯祭りも、高校に入ってからは、行かなくなった。この神社で遊んだ思い出は、中学3年生の提灯祭りで終わっている。

 しかし、高校時代、たったひとつだけ、この神社で思い出を作った。
 中学校時代から付き合っていて、違う高校へ進学した彼女と、何回かこの手水舎の前で会って、話をした。二人の家の中間にちょうどこの神社があったからだ。
 1年の秋、高校でやっていた部活動で、私は登録選手メンバーに入ることができ、監督からユニフォームをもらった。

「顧問の先生が、1年生は、ユニフォームの番号を相談して決めろと行ったから、自分で選んだ。」

彼女

「で、何番にしたの?」

「○○番」

彼女

「え、どうして?」

「君の名前だから」

彼女

「えっ・・。」

 彼女の驚きの笑顔が、この鎮守の森における思い出の最後となった。 


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