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 34 「おごるな上司」 マイノリティの発想   07/03/25           

 4年前、私の所属に新任の長として、Fさんが赴任された。
 Fさんは、赴任の挨拶として、次の趣旨のことを言われた。
「人間、年齢が高くなっていけば、しだいに、組織の中での地位が向上し、動かせる権限も大きくなる。一声の指示や命令が、多くの人間に大きな影響をあたえるようになる。
 この時大事なのは、人が動くことによって、自分の人間としての力そのものが大きくなったのだと勘違いしないことだ。
 みんなが動くのは、決してその人物の人間としての力が大きくなったからではなく、ただ単に、権力のあるポストにいるからだけなのだ。ところが、往々にして人は錯覚する。その錯覚が怖い。
 逆に言えば、教師という存在にとって大事なことは、人をその地位で従えることではなく、あくまで、人格と指示する内容で人を動かすことだ。
 地位を離れても、人を動すことができるような存在でありたい。」

 聞いていて、「なるほど」と思いました。


 同じ内容のことを、元最高検検事の堀田力氏が書いています。

堀田力著『堀田力の「おごるな上司!」−人事と組織の管理学』(日経ビジネス文庫 2003年)P212−214堀田氏は法務省の人事畑の経験が深い方です。(赤字は引用者が施しました。)

「 昇格して上のポストにつくことは、それだけ権限が増えることでもあります。
 官庁でも企業でもそうですが、地位が上がり権限が増えると、それにつれて態度が大きくなり、威張り出す者がいるものです。当然、その人に媚びる人も多くなるから、ますます自分が大きな力を持っているものと思い込んでいくのです。
 権限を得たことでそうした錯覚におちいると、自分に対して忠告めいたことを言ったり自分の意見に反対したりする人に対して、「無礼なやつだ」などと怒ったり、気に入らない部下を飛ばしたり、左遷させたりするようになることもあります。
 これが重役ともなれば、秘書がつくし、運転手付きの車がつくし、自分への出迎え方が違ってくる、座る席も違ってくる・・・・と、それまでにない待遇がいろいろと出てくるから、なおさら、それが自分の力だという思い違いが激しくなるようです。
 現に、命令すれば部下はそのとおりに動くわけだから、それなりの権限があることは事実です。しかし、それをいかにも自分の力で動かしたと思うのは完全な錯覚であり、実際はそれは組織の力であって、自分はたまたまそのポストにいたというだけにすぎないのです。
 従来、とくに日本の社会は年功序列制できましたから、経験の長い者、年齢が上の者から順に高いポストについていく傾向があり、必ずしも欧米のような実力評価になっていません。そのため、裸で比較した場合、年の若い部下のほうが優れているといったケースだってあるでしょう。
 日本の場合、実力よりもっと別の要素が相当入ってポストを決め、権限を決めていますから、そのときの権限の力は、その人の実力とは限らないということを、立場が上になればなるほど自戒しなくてはなりません。
 そこを勘違いした瞬間から、堕落がはじまります。権限が自分の実力だと思い込んでいるから部下の意見や忠告に耳を貸さなくなる。社外の人との折衝でも、自分と相応のポストより下の人の話に対しては、聞く耳を持たなくなる。そして、自分の誤った意見をも、権限の力で押しつけるようになる。こうなったら、もはや組織にとっては明らかなマイナスです。
 ところが、そのことに本人はなかなか気がつかない。
 また困ったことに、思い違いをしている人に限って、間違った指示を強引に押しつけてくるものです。それは、彼が部下から上がってくる報告に耳を貸さず、それを指示の中に生かそうとしないからです。
 堕落したら、その人の能力は伸びず、逆に退化していくだけです。組織内におけるその権限の役割も、行使する人が堕落したために死んでしまうことになるわけで、つまり、管理職が堕落した瞬間から組織は腐りはじめます。
 したがって、こういう人をそれ以上のポストにつけるのは危険であるのみならず、人事権者は彼をそのポストに据え置くことすら考え直さなければなりません。」


 高校に勤務していると、同窓会の事務局の仕事をやることがままありますが、受け付け事務の仕事をした時にも、上の話と同じ種類の経験をしました。
 ○○高校同窓会総会には、普通のサラリーマン、医者、弁護士、企業経営者、国会議員などなど、年齢も地位もいろいろバラバラの方がやってきます。
 普通の方は、受付で名前をいいます。
 ところが、受付で名前をいわない方がいます。
 企業の社長、議員さんなど、いわゆる「顔が通っている」方々です。誰もが自分の顔と名前を知っていると錯覚している方々です。
 そうはいっても、比較的年齢が若い受付役の教員は、年配の「大物」の顔を知っていることはむしろ少なく、名前を名乗らない方を知らない場合の方が普通です。
 そんな方に、
「失礼ですがどちら様ですか」と聞くと、露骨に、
「おまえ、俺を知らんのか」といった感じの顔をされます。

 Hさんという、本県の教育界では、知る人ぞ知る超大物の方がおられます。
 しかし、Hさんは、受付で、ごく普通の方として、当たり前に名前をなのられます。
 私は、残念ながら、直接のこの方の下で働いたことはありませんが、実は、この方のことを悪く言う元部下はなく、「実に働きやすい上司」と評判の方でした。

 当たり前の感情や配慮が、普通に、その人の評判を自然に高めます。その「当たり前」が難しいのですね。


 また、少し違う視点から、同じ部分に通じる別の話を司馬遼太郎さんが書いています。

司馬遼太郎著『街道をゆく21 芸備の道と神戸・横浜散歩』(朝日新聞社 1983年)P50 赤字は引用者が施しました。

「吉田の町に出ると、おまわりさんでさえ古色を帯びている。
 町の一角にある警察署の建物は新築だが、その隣りのふるい民家(商家だろう)の横壁が、瓦とともに古びてなんともおもしろく、散歩中、同行の長谷氏に、あの壁はいいですね、といった。長谷氏は芸備の古い町並や山河の写真をとりたいといって同行したから、仕事着のままである。長髪でもある。かれはひとりのこって、警察署の前から、その隣家を撮りはじめた。
 すると署内から若いおまわりさんが出てきて、不審尋問をした。ゆったりと明治風に威張りかえっているというか、署の玄関に立ち、右腕をゆるゆると水平にまであげて、十数歩むこうの長谷氏に対し、掌でさしまねいた。来い、というのである。
 用があればそばへ来るのが、各国共通の礼儀である。しかし明治のころ、御一新で三百万人失業した士族の救済策として東京や各府県の警官に採用した。当然、警官たちは市民を素町人と見、自分たちの対人文化の基礎をつくった。それが吉田ではいまなお生きているのだろうか。
 長谷氏の年齢は、出版局の写真部主任だから、四十前後だろう。やむなく器材を路傍に置き、身一つで玄関までゆくと、
「何をしている」
 若い人がいうのである。江戸時代の同心が裏店から出てきた手伝い大工の熊公に対しているようで、長谷氏は時代劇のエキストラに出たような気持だったろう。
「写真をとっています」
「どこを撮っている」
 どこをとろうと勝手じゃないかとおもわず大声が出かけたが、長谷氏はそこは年の功で我慢をし、あの家の壁のぐあいを撮っているんです、と言い、しかし応答がおわったあと、ひとことだけ、
「あなた、そこにいて私をさしまねいたでしょう、そういうの、私はあまり好きじゃありませんね」
 と、いった。しかしそういう婉曲な言い方が若者には通じなかったようで、署内に入ってしまった。
 警察署の前は車が何台も置けるような広さのコンクリート敷きになっている。そのときは一台もなかったし、むろん長谷氏が車を持っていたわけでもなかった。ただ道路から二、三歩入って、その前庭のはしから隣接する民家を撮っていたにすぎない。警察署という公共施設の前庭に市民は一歩でも足を踏み入れるなという法規があるならやむをえまいが、まずそういうことはないだろう。要するに街路にいる者を、咎めだてがましく若い警察官がさしまねいたのである。あるいは署内に上司がいて、窓ごしに民家撮影中の長谷氏を見、怪しいやつだと思い、若い警察官に接触して来いと命じたのかもしれない。そのいきさつはどうであれ、問題は若い警察官の態度である。
「いやな町ですね」

 そのあと、路上で遭遇した長谷氏は、私にいった。吉田にあこがれて入ってきたのだが、あの警察署の一郭だけは、どうも気分よく通る気になれない・・・・。
  私は、少年(年少)ニシテ高臺(こうだい)二上ルハ一ノ不幸ナリということばを思いだした。江戸期や明治のひとがさかんに慣用句として喋っていたことばで、べつにむずかしい言葉ではない。年少で高い地位につくのは身の不幸の一つだという意味である。まだ初々しい若者が、警官の制服を着たがために、高臺ではないにせよ権力意識ができ、日本人としてのふつうの礼がとれなくなったということも不幸にちがいない。」

 教師も、「若くして高臺(こうだい)に登」っていると、いえなくはありません。
 子ども相手に尊大な気持ちになれば、上の話の若い警官と同じでしょう。


 尊大にならないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。
 私が具体的な場面として考えているのは、自分が弱者、あるいは、マイノリティーとして、尊大な連中から「不当に扱われた」ことを、つねに忘れないという方法です。

 幸か不幸か、私には、そういう状況がいくつかあります。
 まず、血液型がAB型です。
  「そんなことがなんで?」と思われるかもしれません。
 血液型で人の「性格判断」をすることを好む人は、結構たくさんいます。それそのものは私自身は、非科学的なものと思っていますが、とりわけ、AB型に対する扱いは不等そのものです。
 その認識は、A型とB型が混じったものといった感じです。
 私に言わせれば、同じA型でも、AA型とAO型がいるのは科学的事実ですが、そちらは無視して、AB型のみは混ざりもの扱いです。
 血液型性格分類を信奉する人は、そう簡単には自説を撤回しません。それをたわいもない会話の中でお遊びでやっているのならいいですが、困ったことに、先生方の中にも信奉者がいて、「あの子はO型だからリーダーに向いている」などと「分析」しています。

 およそ教師というのは、子どもたちの無限の成長や「進化」を信じることができてこそ、教育ができると思います。たった4つの血液型で人間を分類しては、いろいろな未来を否定することの方が多くなるでしょう。
 困ったものと思っています。


 私自身がマイノリティーに属しているというのの二つ目は、酒が飲めないことです。
 最近、私の若いころよりは幾分、酒に弱い人を作るアセトアルデヒド分解酵素不活性化遺伝子なるものの存在が認知されてきていますが、学校の授業で習うレベルのものではありませんから、その周知度は高くありません。
 初めての人との宴会で、「どうですか一杯」と進められたのを、「いや私は酒は飲めませんから」断る時がよくあります。
 その時、多くの方が、「そんな風には見えないけど」とおっしゃいます。
 私の風体のどこが、「酒が飲める人」に見えるのか分かりません。いや、正確には、多くの人が、「お酒が飲めることが普通」、もしくは「お酒が飲めることが善」と思っていることが根底にあって、こういうセリフが発せられると思います。
 酒に強いと賞賛を浴びますが、酒に弱いことは決して賞賛の対象にはなりません。

酒に弱い強いについては、以下のページでたっぷり説明しています。

なんだこりゃ「酒が飲めない男のjひとごと」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるT 「現代日本人のルーツ」

目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるU 「酒に強い人弱い人」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるU 「酒に強い人弱い人」の東西分布
「クイズ日本史原始〜古墳時代編」005・・・あなたの縄文人度・弥生人度をテストします
「現物教材リスト」へ・・・酒に弱いかどうかをテストするアルコールパッチテストの教材 


 血液型と酒が飲めないことは遺伝上のことですが、弱いものの立場を感じることその3は、自分で選択していることです。
 それは、乗っている乗用車が、年齢の割には、あまり大きくはない車だと言うことです。

 2007年3月に、それまで乗っていたトヨタ・カリーナ1800ccを2万円で売って、新車を購入しました。
 1995年に購入した旧車は、エンジン本体や駆動部分はまったく故障することなく長持ちし、12年間で17万2000kmの走行距離を記録して、無事引退となりました。
 普通なら、52歳の男が次に買う場合、ちょっと高価なワンボックスカーか、おきまりの名セリフ「いつかクラウン」路線にしたがって、クラウンもしくはそれに近づく車種を購入する場合が多いかと思います。
 私は、あえて、同じグレードの1800cc車、アリオンを購入しました。カーナビ付きで230万円の価格ですから、そりゃ、ヴィッツよりは高価ですが、マークX・クラウンなどなどの高級車とは違います。

 高級車を買わない理由は二つあります。
 1つ目は、当たり前ですが、基本的に高額所得者ではありませんから、無理はできません。
 2つ目は、無理して大きな車を買うと、上で引用した、「若くして高臺」現象に取り憑かれたり、自分が偉大になったと錯覚してしまうからです。

 私が妻の愛車ヴィッツで田舎の狭い道を走っているとします。
 その時に、RV車、2000cc以上のセダンやワンボックス・カーなどが対向してきて、すれ違わなければならないとしましょう。
 小さなヴィッツがスムーズに道を譲る時は何の諍いも起こりません。
 しかし、道幅がひどく狭くそもそもすれ違うこと自体にに無理があって、ヴィッツの方がもたもたすると、大きな車の運転手の顔がすぐに曇ります。
 関西弁で言うと、「なにもたもたしとるんじゃ。はよどかんかい。」ってなかんじです。
 もちろん、大きな車の運転手全員がそうとは言いませんが、経験上不満げな顔をする方が多数派です。

 しかし、ヴィッツの運転手の私は、こう思います。
「この狭い道、ヴィッツどうしなら、比較的簡単にすれ違えるのに、あんたの車が大きいからうまくすれ違えない。でかい図体の車で尊大な気持ちにしかならないのなら、狭い道を通るな。他人迷惑な。」

「車が高級、でかい=俺様はえらい、下々のものは道を空けろ。」(男に負けず、奥様方にも結構おられます。こういう方。)
 
 私も、高級車に乗ったらこのように尊大になるでしょう。だから、アリオンで結構です。


 マイカー、トヨタ・アリオン1800cc。


 さてさて、地位、権力と人間性について、いろいろな角度から考えてきました。

 「で、なんなんだ」とのご意見もありましょう。
 いえ、何もありません。これだけです。
 ただ、スマートに生きるにはどうしらいいか、それをちょっと考えてみただけです。

 お疲れ様でした。


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