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 ここが製糸工場です    | 全行程目次・地図へ | | 説明図06北関東の地図へ |

 このページでは、現代に残る富岡製糸場の建造物群の紹介をします。
 話のネタは、実際に現地でボランティアのガイドさんから聞いた話と、以下の参考文献から構成しています。

佐滝剛弘著『日本のシルクロード 富岡製糸場と産業遺跡群』(中公新書ラクレ 2007年)


今井幹夫著「富岡製糸場の歴史と文化 フランス人技術者ブリュナを中心として」洞口治夫編『大学教育のイノベーター 法政大学創立者・薩■正邦と明治産業社会』(書籍工房早山 2008年)(■の字は「土」偏に「垂」)

長谷川秀男著「富岡製糸場と近代産業の育成」高崎経済大学附属産業研究所編『近代群馬の蚕糸業』(日本経済評論社 1999年)

農林水産省「最近の蚕糸業を巡る事情  http://alic.lin.go.jp/topics/18silksaiseikoubo-2.pdf

富岡製糸場 世界遺産推進ホームページ http://www2.city.tomioka.lg.jp/worldheritage/index.shtml


 まずは、航空写真を利用して工場全体の様子を確認します。



 建物の配置です  | 全行程目次・地図へ | | 説明図08製糸場航空写真へ | | 先頭へ |

 工場内の建物の配置を詳述します。
 敷地は東西およそ200m、南北およそ300mの長方形です。
 市街地に東を向いて開かれている正門を入ると、真正面に、長さ100m以上の長大な建物、東繭倉庫が目に入ります。南北に長く建てられています。
 同じものが中央部分を挟んで敷地の西端にもあって、これが西繭倉庫です。敷地中央部分は創業当時は蒸気機関で動力を起こす施設がありました。
 繭から糸を繰る、繰糸工場は二つの繭倉庫の南側に東西に長く建てられていました。1号館・2号館・3号館は、お雇い外国人の居住施設です。

見学をする場合は、団体はもちろん、個人でも、1時間ごとに開催される「解説案内」に参加すべきです。約1時間、ボランティアの方が解説していただけます。解説者の方はシルバーエイジの方が多いですが、私たち夫婦が参加した時は若いお嬢さんのボランティアで、とても説明が上手で、素敵な見学タイムとなりました。

上の説明図07と08は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から引用して作製しました。国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)
 元の写真は、富岡製糸場が操業中の1975(昭和50)年のもので、建物や街路の詳細は現在の様子とは多少異なっていますが、基本的な位置関係は同じです。


 説明写真04−01 製糸場内の説明資料                 (富岡製糸場の資料室にある説明図)  

 教科書にも載っている有名な絵図です。東南の上空から見た鳥瞰絵図です。中央に蒸気機関が設置され煙突が立っています。


 写真04−02  製糸場の全景写真                     (富岡製糸場の資料室にある写真)  

 明治期よりはもっと後の写真と思われます。上の絵図とは違って北側上空からの撮影です。


 建物の説明です  | 全行程目次・地図へ | | 説明図08製糸場航空写真へ | | 先頭へ |

 これまでの写真は、4枚とも借り物でした。以下は、私が撮影してきた写真です。 

 東・西繭倉庫

 写真04−03  正門から撮影した東倉庫です。                      (撮影日 08/08/10)  

 右の碑は、2005(平成17)年の国の重要文化財指定を記念して建てられたものです。
 繭倉庫は、南北に長さ104m、高さは約14mの総二階建て、幅は12.3mで、名前の通り繭を貯蔵しておく倉庫です。正確には1階は事務室や繭の取扱所として使用され、繭は2階に保存されました。
 明治前半は、繭の生産は、現在とは違って年に一度、春のみでした。そのため、春に1年分の製糸の原料の繭を集めて、倉庫に保存しておかなければならなかったのです。現在では、温度管理のよって繭の生産は1年に数回できますので、事情が違っています。
 繭は運ばれてくると、中庭にある乾燥室で乾燥されました。
 繭は蚕が糸を出して作ったものですから、内部には蚕自身が蛹(サナギ)になって残っています。乾燥の目的は、蛹を殺しさらに、長期の貯蔵でカビが生えたりしないようにするためでした。
 運ばれた繭は、乾燥器械で最高120度から115度の温度に熱しられ、徐々に温度を下げながら約5〜6時間かけて乾燥されました。そのあと、東西の繭倉庫に運ばれて保管されたわけです。


 写真04−04  東繭倉庫の南半分   写真04−05  木骨煉瓦造り    

 建物の構造は「木骨煉瓦造り」といって、木の柱の間に煉瓦を積み上げた作りです。鉄骨ではなく木骨です。柱は1辺が1尺(約30cm)ほどある太いもので、屋根まで継ぎ目なしの1本柱となっています。

 設計者はエドモント・オーギュスト・バスチャンというフランス人です。この人物は、同じくフランスの技術者に任せられていた横須賀製鉄所の船工・製図職工のお雇い外国人でした。
 フランスの技術を使って設計・施工された富岡製糸場の建物は、随所にその痕跡が見られます。この写真の煉瓦の積み方、つまり、煉瓦の長い面と短い面を交互に組み合わせて積んでいく方法は、「
フランス積み」と呼ばれるものです。フランス北部のフランドル地方に起源があり、「フランドル積み」とも言われます。
 明治初期の煉瓦造りの建物は各地に数件残されています。しかし、例えば横浜港の赤煉瓦造りは鉄骨煉瓦造りですし、小樽港の倉庫群の多くは木骨石造りです。それぞれ微妙に異なっていて、木骨煉瓦造りの建築物はほかにはあまり例の無い作りとなっています。


 写真04−06                                            (撮影日 08/08/10)

 東繭倉庫の入り口にある「明治五年(1872年)」のキーストーン
 フランス積み煉瓦の壁は、厚さは煉瓦の長辺分、つまり約22cmあります。接合部分にはセメントではなく漆喰を使って固定されています。この時代の日本ではセメントは貴重品で、富岡製糸場では一部にしか利用されていません。(日本の技術者によるセメント国産化の最初は、1875年です。)
 また、当初は日本人職人が煉瓦の焼成に慣れていなかったため、煉瓦の焼き具合がまちまちになっていて、それが煉瓦の色の濃淡に現れています。


 写真04−07                                            (撮影日 08/08/10)

 西繭倉庫です。
 現在は庭園となっている敷地中央部分から西側を撮影しました。木骨煉瓦積みの建物の屋根は日本家屋の瓦積みとなっており、和洋折衷の建築です。
 2階部分に見えるのは白い手すりと廊下です。写真04−03・05の東繭倉庫の写真には、この廊下は写っていません。つまり、倉庫の外側には何もありませんが、内側(中庭側)には、倉庫から繰糸工場まで繭を運ぶための廊下が付いているわけです。
 現在では1階部分の廊下は取り外されています。


  さてここで一つ日本史の勉強をしましょう。
 明治政府は、これ以降の模範となる官営器械製糸場を、なぜ群馬県の地に建設したのでしょうか?
 まず、次のクイズに挑戦してください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


  現在の養蚕農家数では、群馬県が圧倒的な割合を占めています。
 この数値、つまり日本に於いてどの県が繭の生産県かという状況は、実は現在も明治時代も変わりません。
 つまり、群馬県の地に官営器械製糸場が設置された理由のうちの最大のものは、
群馬県や隣県が原料繭の大供給地だったからです。
 1883年のデータで確かめれば、富岡で使用された繭は下の県の生産でした。
 ちなみに、農林水産省の統計によれば、現在の養蚕農家数は右の表のようになっています。
 もうすでに、13県では養蚕はまったく行われていません。何度も言いますが、養蚕・製糸産業そのものが「絶滅危惧種」です。


 1号館〜3号館 お雇い外国人

 敷地の東南側に1号館・2号館・3号館が並んでいます。いずれも、開設当時は、生産等の指導を行ったお雇いフランス人達の住居でした。 

 写真04−08  1号館ブリュナ館                             (撮影日 08/08/10)  

 1号館は、ブリュナ館です。フランス人ポール・ブリュナは、富岡製糸場建設の責任者として招かれたお雇い外国人です。1873年に建築された、広さ320坪の木骨煉瓦造りの平屋建ての建物です。高床で回廊風のベランダを持つこの家には、ブリュナ一家とメイドが居住しました。
 ブリュナは1875年の任期切れまで3年半余滞在し、その後この館は、工女の夜学校や片倉富岡高等学園の校舎として利用されました。そのため、内部は大幅に改装され、現在の建物を見学すると、「洋裁室」「第一教室」などと、各部屋には学校に使用された当時の室名札がかけてあります。
 ところでブリュナの給料ですが、当時のお雇い外国人が皆そうであったように、高額なものでした。
 フランス人といえば有名なのが、政府の法律の顧問だったボアソナードですが、彼は年俸1万5000円でした。明治初年は内閣制度がありませんでしたから内閣総理大臣と比較はできませんので、かわって太政大臣三条実美と比較すると、その給料は9600円でした。ブリュナはといえば、30歳の若さながら年俸は9000円ももらっていました。太政大臣に匹敵するかなりの高額です。(外国人の年俸はドル建てです。1872年当時は、1ドル=1円で換算できるとされており、それを用いて換算しました。)


 写真04−09  2号館フランス人女性教師宿舎                   (撮影日 08/08/10)  

 2号館と3号館はほぼ同じ作りをして並んでいます。こちらは2号館です。木骨煉瓦造り2階建てで、コロニアル風の回廊が付いています。2号館は日本人工女に器械製糸の方法を教えるために雇われたフランス人女性教師の宿舎でした。
 3号館は、生糸や器械の検査を担当したフランス人技師の宿舎でした。


 繰糸場

  工場心臓部は、なんと言っても繰糸(そうし)場です。繭から糸を繰(く)る作業場です。この建物がまた圧巻です。

 写真04−10  繰糸場入口                                  (撮影日 08/08/10)  

  繰糸工場の東側の入り口です。外からではこの建物の偉大さは分かりません。


 写真04−11   繰糸場内部(東入口付近から中央部を撮影               (撮影日 08/08/10)  

  これが教科書等に錦絵で紹介されている富岡製糸場繰糸場の内部です。
 この建物は幅12.3m、高さは12.1m、長さはなんと140.4mにも及ぶ長大なものです。世界一長い木造建築は、京都の蓮華王院本堂(通称三十三間堂)で、長さはおよそ120mです。この繰糸場はそれよりも20m長い建物です。純木造ではなく木骨煉瓦造りですから同じジャンルでの比較はできませんが、他に比類を見ない大きさであることは間違いありません。
 上の写真の外観は2階建てのように見えますが、この写真を見て分かるように1階建てです。しかも内部構造は、いわゆるキングポストトラス式で、12万枚もの瓦を乗せる屋根を、内部の柱なしで支えています。この構造の建造物は、横須賀製鉄所(造船所)に次いで我が国で2番目のものと思われます。
 最上部の越し屋根は、操業時に発生する蒸気を逃がすためのものです。
 1872(明治5)年の操業開始から、1987(昭和62)年の操業停止まで、中味の器械は途中で変遷を見ましたが、ずっとこの場所で繰糸が続けられました。
 両側の高い窓は、採光のためのガラス窓です。電灯がない当時としては、作業場の採光が重要な課題でした。 


 写真04−12  トラス構造の説明

 写真04−13  ガラス窓   

  工場の内部には、トラス構造を示す説明模型が置かれています。
 ガラス窓のガラスはすべてフランスから輸入されました。その当時のガラスが残っています。今の製造技術と違ってまったくの平にはできていないため、向こうの景色が波打っています。


 写真04−14  座繰り製糸の説明

 写真04−15  明治期の繰糸の様子  

 工場内部には、いろいろな説明・解説が、パネル・VTRによってなされています。
 左は、器械製糸が出現する前まで、普通に農家などで行われていた座繰り製糸です。動力は使わず、すべて手作業でした。作業台の右に繭を煮る釜があり、その中の繭から糸を繰っている様子を示した人形です。繰糸の基本は、繭を煮て糸をほぐし、その糸を繰ることにありました。
 右は明治期の操業の様子です。釜への蒸気の供給や女工の上部で糸を巻き付ける糸車の動力は、蒸気機関によっていました。この方法は、少し遅い時代のあの「ああ野麦峠」の女工の世界と同じです。
 繭をにる釜の数は生糸工場の生産量の規模を示す基本的数字となります。1870年代の器械製糸工場は、ヨーロッパでも150釜ほどの規模でしたが、富岡製糸場の繰糸工場には、釜が300もあり、建設当時は世界最大の器械製糸工場でした。
 このため、従業員の女工は400人以上が必要であり、操業当初は女工集めに苦労しました。一説に、ブリュナらフランス人が飲むワインが、「女工の生き血を吸っている」と誤解されたという話もあります。 


 写真04−16  繰糸工場中央やや西よりから東の入口を向いて撮影            (撮影日 08/08/10)  

 工場の長さ140.4mというのを実感いただけるのではないでしょうか。
 ところで、左右にあるビニールのようなものは何か、気になっておられると思います。実はこれは、操業停止時まで稼働していた製糸機械が、そのままビニルシートを被せられて保存されているのです。


 写真04−17  休眠中の製糸機械                               (撮影日 08/08/10)  

 ビニルの隙間から覗いた休眠中の機械です。


 

 写真04−18  操業中の機械です                                 (撮影日 08/08/10)  

 これは操業中の機械の様子です。現在我が国で大規模製糸工場として稼働しているのは、たったの2工場だけです。同じ群馬県の碓井製糸農業協同組合と山形県の松岡株式会社です。


 富岡製糸場の意義は、なんといってもそれが官営模範工場であったことです。
 この工場で働いた多くの女工は、地元だけではなく各地域から来ており、器械製糸の技術を身に付けると、再び地元へ帰って新しい器械工場で指導的な立場に就いて、技術の伝播・普及に貢献しました。

開業7年後の1879年までに働いた2400人の女工の出身地を調べると、地元の群馬が4分の1で最も多いですが、その他、滋賀、長野、埼玉、東京、神奈川、静岡、山形、宮城となっています。
 佐滝剛弘前掲著P125
 前ページの参考文献の所でも書きましたが、この佐滝剛弘先生の著書には多くの面白い点が示されています。この2ページで取り上げた以外では、、さらに次の点が興味深いところです。

 1年で250kgも繭を作る東京都で最大の繭生産場所はどこか、それは皇居です。P82

 富岡の女工達の労働時間はどのくらいだったか、「女工哀史」とは異なり9時間弱だった。P41

 碓氷峠越えの信越線(アプト式など)建設は、蚕・生糸輸送手段の確立という目的のためになされた。P150

 この点については、従来は「模範的な役割をあまり果たさなかった」という評価が大勢でした。
 しかし、今日では、富岡で働いた女工達によって長野県の松代、愛知県豊橋、滋賀県彦根など多くの地域へ技術が広がっていったことが判明しています。
  ※今井幹夫前掲論文より、前掲著P204、224 


  これで、2008(平成20)年夏の旅行をもとにした、「産業遺跡訪問記 新潟佐渡・群馬富岡」を終わります。両産業遺跡とも世界文化遺産への登録を祈ります。最後まで読んでいただいてありがとうございました。


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