色丹島との草の根交流記28

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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028 2006年の色丹島状勢7 エピソード4                              

 2006年の色丹島状勢シリーズその7は、その6に引き続いて、今年の8月に色丹島を訪問した岐阜市立N中学校のY先生の写真を中心に、色丹島のエピソード4をお届けします。

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上の地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真をもとに作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。



@冬の色丹島の風景                          島全体の地図へ

 1992年からビザ無し交流がはじまって、2006年の今年で、15年目となりました。鈴木宗男衆議院議員(1995年、日本人の国会議員としてはじめて色丹島を訪問したのは、鈴木議員)をはじめとして、たくさんの人が色丹島へ渡っています。
 しかし、交流が行われるのは、5月から9月までの期間に限られています。つまり、冬の間の色丹島には、通常の交流団は入っていません。
 「誰も行ってはいない」と断言できるほど詳しく調べていませんが、少なくとも本やウエブサイトには、冬の記録や写真はほとんど見つけることができません。

 ただし、ビザ無し交流がはじまる前に、個人的な取材旅行のために冬の色丹島に入った方が一人おられます。交流記27で引用した、有名なエッセイストの岸本葉子さんです。
 岸本葉子著『禁じられた島へ 国後・色丹の旅』(凱風社 1992年)はには、白黒ですが1991年の2月終わりから3月初めの色丹島の写真が何枚も掲載されています。

 私は、ナターシャから送ってもらった冬の写真を掲載したことがあります。

交流記16「あけましておめでとう−冬の色丹島−」

 今回、グーグル・アースの写真の中に、色丹島の中央部だけ冬の写真がアップロードされているのを見つけました。島の中央西部のホロベツ川上流の部分です。


 冬の色丹島中央部の衛星写真。グーグル・アースの写真です。
 2006年10月現在の
グーグルアースの衛星写真は、左の小さな写真のようにちょうど島の中央部の□部分だけ冬の写真が貼り付けてあります。上はその部分のアップです。場所は、島一番の「大河」、ホロベツ川の上流部です。
 ナターシャの話では、積雪はあまり多くはないようですが、特に流氷がやってくる2月以降は、厳しい寒さとなるそうです。

上の衛星写真は、グーグル・アースよりGoogle Earth http://earth.google.com/)の写真を借用しました。特に断らない限り、このページの衛星写真は、グーグル・アースから借りています。


<番外 冬の納沙布岬>                          島全体の地図へ

 ついでですから、古い写真ですが、納沙布岬の冬の写真を掲載します。

 上と下の写真は、1983年3月28日に私が撮影しました。西日本では桜の便りも聞かれそうな季節ですが、この年は特に流氷が多く、この海峡はまだ氷に閉ざされていました。
 
 上は、納沙布岬の見晴台から見た
納沙布岬灯台です。
 下は、
水晶島方面を撮影したものです。
 中央に水路が開かれ、
ソ連の国境警備隊の警備艇が警戒をしています。この流氷の海を漁に出る漁船とかがあるのでしょうか。


Aコーラルホワイト号とロサ・ルゴサ号                    島全体の地図へ

 次に、交流船の話です。
 交流船には、現在、コーラルホワイト号(2002年に私が乗船)とロサ・ルゴサ号が使われています。
 しかし、この両船は、それぞれ、別の目的で造られた船であり、交流船としては満足なものではありません。

この項目は、次のレポートを参考にしました。
東京財団研究報告書「2006-6 北方4島「ビザなし交流」専用船の建造と活用方法に関する提言」(プロジェクト・リーダー 田中義具)
 http://www.tkfd.or.jp/publication/reserch/project_report.shtml


【左上:コーラルホワイト号
1968年建造。334トン。最高時速8ノット。 
元神戸商船大学の練習船。瀬戸内海航路用で船底が浅く、北方海域の波浪には弱い。(撮影日 02/09/19)

【左下、下:
ロサ・ルゴサ号
1983年建造。486トン。最高速度10ノット。
元島根県立隠岐水産高校の練習船。安定した航行性はあるが、居住性は悪く、階段の傾斜も急。(撮影日 06/08/04-05)

 両船とも民間会社の所有船で、交流に使用する時は、政府が借り上げる形となっています。

 交流記22で説明したように色丹島をはじめ北方4島には満足な埠頭が存在せず、交流船は、直接埠頭に接岸することができません。交流船は湾内に碇泊し、上陸者を一度はしけに移乗させて、はしけで埠頭まで運ばなければなりません。
 歯舞諸島への元島民の墓参は最も苛酷です。交流船から、ボートの様な小舟に乗り移って、コンブの茂る海をかき分けて海岸に接岸しなければなりません。海が少しでも荒れたら、どこにおいても危険が一杯です。

 上記のレポートでは、一刻も早く交流専用船を建造し、かつ、政府専用船として海上自衛隊が運行することがベストであると提案しています。


Bはしけ「友好丸」と鈴木宗男議員                        |島全体の地図へ

 続いて、はしけについて説明します。関連して、鈴木宗男国会議員についても触れます。
 この場合の「はしけ」というのは、交流船等の船舶と埠頭を往復する船のことです。
 北方領土では、港湾設備が整備されておらず、日本からの交流船は、たかが300トン−400トンという大きさの船ですが、直接岸壁には接岸できません。

 そこで、湾内の沖合に停泊し、そこから小型船に乗り移って埠頭まで移動します。その移動船が「はしけ」です。 


 「はしけ」です。
 左上は、2002年に私が色丹島へ行った時に乗船
コーラルホワイト号から埠頭まで運んでくれたはしけです。船首にロシア船名が書かれていましたが、実は、ブリッジには別の名前が刻まれたプレートが付いていました。それによれば、元は福井県の漁船で拿捕された船を再利用しているものと推定されました。

 2006年の8月の訪問では、交流船
ロサ・ルゴサ号は、自前のはしけロサ・ルゴサUを曳航して色丹島まで行きました。左下はそのロサ・ルゴサUが桟橋に接岸する直前の状況です。はるかかなた、穴澗湾頭にロサ・ルゴサ号が停泊しています。
 右下は、
ロサ・ルゴサ号に曳航されているロサ・ルゴサUです。曳航索が左下に見えます。背景の霧の中の山は国後島の羅臼山、標高888mです。 


 色丹島には、日本政府の緊急人道支援によるはしけが供与されるはずでした。そのはしけの名前を「友好丸」といいます。
 ところが、2001年6月に根室の造船所で建造後、ちょっとした手違いからロシア側への引き渡しが遅れ、さらに、いろいろな事件が生じて、最終的には、国後島で使用されるはしけとなりました。

 その結果、上の写真のように、2002年9月段階では拿捕漁船らしき船がはしけに使用されており、2006年8月段階では、自前のはしけを曳航していかなければならない状況となっています。2006年のほか交流団の色丹島訪問でも、同じようにロサ・ルゴサUが曳航されています。

 友好丸引き渡しの手違いとは何だったのでしょうか? 

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 結局は国後島で使われることになった友好丸です。                     |島全体の地図へ
 上の左右の写真は、2002年のもの。下右は2006年のもの。いずれも、国後島古釜布の沖合での撮影。
 写真下左は、国後島古釜布の衛星写真です。写真上左の右手の半島の様な部分が、下左の右手の岬にあたります。
 色丹島の訪問団を載せた交流船は、根室から直接色丹島へ向かうのではなく、一度国後島古釜布沖で停泊し、国境警備庁の「審査」をうけて、色丹島へ向かいます。

 この
友好丸が横付けされて、国境警備局の審査官が乗船してきます。
 上右の写真の左手は、交流船コーラルホワイト号の左舷の転落防止用の柵ですが、内側に曲がっています。実は、ロシアが操縦する友好丸の操船がへたくそで、接舷時に艇首が柵にぶつかってしまいました。その時の痕跡です。

上の衛星写真は、グーグル・アースよりGoogle Earth http://earth.google.com/)の写真を借用しました。


 日本政府は緊急人道支援として、2艘のはしけを北方4島のために建造しました。

希望丸

1997年建造。費用1億395万円。国後島古釜布ではしけとして使用される。

友好丸

2001年6月3日完成。費用1億8900万円。
総トン数91トン、全長31.7m、幅7.5m、喫水2.6m、速力10ノット、旅客12人が乗船可能。積載貨物量最大60トン。航続距離1200km、航海用レーダー装備。

   友好丸は、2001年6月に根室造船所で完成した後、「緊急人道支援」物であるにもかかわらず、しばらくの間、ロシアに引き渡されませんでした。
 その理由は、日本政府は本来色丹島用のはしけとして供与するつもりでしたが、ロシア側は、国後島と色丹島の定期航路に使用するつもりだと言うことが分かり、「話が違う」ということで送れなくなってしまったのです。
 緊急人道支援に関する法律とルールがあって、はしけなら供与できますが、インフラの整備に該当してしまう定期航路用の船は送れないという理由からです。

 そして、これが、かの有名な、国会における鈴木議員追求の質問の発端となりました。
 2002年2月13日の衆議院予算委員会において、佐々木憲昭議員(日本共産党)が、鈴木宗男議員の海外支援をめぐる疑惑を追求しました。

詳しくは、佐々木憲昭議員のウエブサイトをご覧下さい。 http://www.sasaki-kensho.jp/

 佐々木議員の追求は、この友好丸の完成後半年以上の放置からはじまり、希望丸友好丸の入札に関する疑惑、国後島古釜布の「友好の家」が事実上「ムネオ・ハウス」となっていること、色丹島斜古丹の人道支援診療所が「鈴木診療所」と呼ばれていること、またまったく別件のアフリカ・ケニアへのODAの問題などなどに及び、「鈴木議員の疑惑」が明らかになっていきました。
 その発端となったのが、この友好丸でした。

 鈴木議員は、このあと3月11日に、衆議院予算委員会に証人喚問されました。この時には辻元清美議員(後に秘書給与流用で逮捕)が、鈴木氏を「疑惑の総合商社」という名文句で表現しました。
 6月19日、証人喚問における追求事案とは別のあっせん収賄事件の容疑で逮捕され、6月21日に議員辞職勧告決議が可決され、辞職しました。
 2004年の参議院選挙には無所属で出馬しましたが、落選。
 2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成して代表に就任し、2005年9月11日、第44回衆議院議員総選挙に比例北海道ブロックより当選し、現在に至っています。

 結局この船は、国後島で使われていた希望丸が古くなったからという理由で、色丹島ではなく国後島で使われることになりました。
 この決定が、2002年夏になされています。したがって、上の写真の2002年9月の友好丸は、デビュー直後の姿と言うことになります。


 2006年8月4日、はしけ友好丸からロサ・ルゴサ号に乗船してきたロシア国境警備局の審査官。

 制服姿のいかめしい役人を想像していたら、なんと、ミニスカート、ピンヒールの女性でした。
 この光景に思わずシャッターを切ったY先生の気持ちはすごく理解できます。(^.^)



C鈴木宗男議員の色丹島訪問                        島全体の地図へ

 2006年5月、鈴木議員は、ビザ無し交流の国会議員枠を利用して、色丹島を訪問しています。1995年の初訪問(戦後国会議員として初訪問)以来、1998年の閣僚としての初訪問など、逮捕されるまでは、毎年の様に北方4島を訪問していました。
 今年、6年ぶりの訪問だったそうです。

 鈴木議員自身のウエブサイト「ムネオ日記」には次のように書かれています。

 2006年5月20日(土)
「10時に上陸。いつも世話をしてくれるダネーリアさんが出迎えてくれ、「鈴木先生を心配していました」と言ってくれる。
(中略)
 アナマ小学校へ行き、ロシア語講習。この学校も平成6年(1994年)10月の北海道東方沖地震による倒壊で、日本が平成7年に建てたものである。その実現に一肌脱いだのが私だった。
 12時からセドイフ村長宅でホームビジットさせて戴いたが、セドイフ村長から「2002年鈴木宗男先生が事件に巻き込まれ、様々なマスコミから島の人に電話取材が入ったが、島の中で誰一人鈴木先生を悪く言う人はいなかった。それは、鈴木先生の島への貢献をよく理解し、知っていたからだ。鈴木先生、必ず時が解決します。偉大な人は遠くから見ていてもわかります。」と話して下さる。嬉しく思いながら、島の人の真心に感謝するものである。

 また、島の掲示板には「島が大変苦しい時様々なことをしてくれた鈴木宗男先生が、今年最初のビザなし訪問で来ます。ディーゼル発電所、学校、診療所を作ってくれました。」と紙が貼られていた。改めて「困った時の友人が真の友人」という言葉は、国境を、人種を越えて生きているものだと感じた次第である。
 ディーゼル発電所も視察したが、立派に機能している。1999年(平成11年)6月の設置で、電力の安定供給を可能にし、島民の生活に大きな寄与をしていると、村長はじめ多くの人が評価してくれる。人道支援をけしからんと言った人達に、是非とも島民の声を聞いて欲しいものである。」

2006年5月21日(日)
「 12時から斜古丹の診療所視察。平成7年10月完成、引渡し式に出たことを想い出し感無量であった。フィシュク産婦人科の先生が訪問団に挨拶説明し、その中で、レントゲン、各種機械医薬品の援助に感謝を申し述べ、私の名前まで出していただき感謝する。人道支援の重みをしみじみと感じた次第だ。」

鈴木議員のウエブサイトのトップはこちらです。http://www.muneo.gr.jp/flash.html
ムネオ日記の引用部分はこちらです。http://www.muneo.gr.jp/html/diary200605.html

 鈴木議員の色丹島への関わりには、日本の伝統的な「利益誘導型の政治家」のいい点と悪い点を見ることができます。そして、「政治とはどうあるべきなのか」という問題の根本が存在しています。
 学習課題としては、好材料です。

 これで、「交流記22」からこの「28」まで続けてきました、「2006年の色丹島状勢」を終わります。


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