色丹島との草の根交流記29

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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029 ロシア外相、色丹島へ

 2007年5月末に、ナターシャから久しぶりにメールが来ました。お嬢さんのカーチャが14歳の誕生日を迎えたことや私の新しい仕事の話などをやり取りしていると、色丹島に「大事件」が起きました。

ナターシャのお嬢さん、カーチャが14歳になりました。手作りのケーキの上には、14本のローソクです。右はご家族。とても14歳(中学2年生)のお嬢さんには思えません。


 2007年6月3日(日)、ソ連が崩壊して以降初めて、ロシアの外務大臣が、色丹島を訪問したのです。本来は、2006年の9月に訪問する予定だったのですが、その時は悪天候のため中止されたため、今回が初訪問となりました。
 この訪問に関するロシア側の意図について、各紙は次のように報じました。

毎日新聞 2007/06/03

 年末のロシア下院選挙や来年3月の大統領選挙を前に、北方領土の発展を重視するプーチン政権の姿勢を示す目的とみられる。
 タス通信によると、ラブロフ外相は同日、一連の視察後にユジノサハリンスクで記者会見し、「(日露)領土問題の解決策は見つかっていないが、ロシアは両国の利益にかなう解決策を探求する用意がある」と述べた。初めての外相視察で日本側を必要以上に刺激しないことを狙った発言とみられる。

産経新聞 2007/06/03

 6日からの主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)での日露首脳会談を前に、日本の領土返還要求を強くけん制するのが狙いだ。プーチン政権は好調な財政を背景に北方領土の開発に力を入れ、実効支配の強化を図っている。

時事通信 2007/06/03

 同領土の実効支配を誇示し、ドイツのハイリゲンダム・サミット(主要国首脳会議)での日ロ首脳会談を前に、日本側をけん制する狙いとみられる。


 色丹島クラボザボツコエ(日本地名では穴澗)の学校を訪問したロシア外相ラブロフ氏(レザーの上着の男性)。
 この写真は、ナターシャから直接送ってもらいました。日本の新聞にはラブロフ氏の色丹島訪問写真は掲載されませんでしたので、日本ではこの写真はたぶん、この
「未来航路」の独占となっているはずです。

 外相の後方に、赤い帽子を被った民族衣装の女性が映っています。これは、色丹島に訪れた訪問者を歓迎する儀式、「パンの一切れを提供する儀式」を行う方です。


 すでに、この交流記022「2006年の色丹島状勢1 新しい学校」で紹介したように、ロシアは、2006年に「クリル諸島開発計画」(正確には、2015年までのクリル諸島社会経済発展計画)を決定しました。
 これは、2007年から2015年までの9年間に総額179億ルーブル(1ルーブル=4.43円で792億円)をクリル諸島(千島列島)に投資して、社会資本を整備しようという計画です。
 今回の訪問は、そういうロシアの意図、意気込みを示したものであることは間違いないでしょう。

 今回の色丹島訪問でも、外相は、小中学校のみを訪問しました。

 そもそも、色丹島クラボザボツコエの小中学校は、1994年の北海道東方沖地震で倒壊し、その後は日本が援助したプレハブ校舎で授業をしてきました。ナターシャなど現地の教員は仮校舎が狭いこととだんだん老朽化していくことにとても頭を痛めていました。
 1991年のソ連崩壊以降のロシアの中央政府の対クリル諸島政策(簡単に言えば、ほとんど投資をしない)が続くと、壊れた学校の再建などいつのことかという感じだったからです。

 ところが、ロシア政府は、先ず学校建設に大盤振る舞いをしました。2006年8月、色丹島では類を見ない、お金をかけたとびっきりの上等の建物として、学校は完成しました。




クラボザボツコエ(穴澗)の小中学校

 つまり、この学校は、ロシア政府が国後、択捉、色丹島などクリル諸島に資金を投入する象徴です。そこを訪問するのは、上記の新聞3紙の指摘通り、ロシアの意気込みを示すもの以外の何物でもないでしょう。
 
 ラブロフ外相は、色丹島からさらに東へヘリコプターを飛ばし、歯舞諸島水晶島にあるロシア国境警備庁の兵士・家族のためのロシア正教の礼拝堂に足を運びました。これまた、国境線とロシア文化を意識した象徴的な訪問といえるでしょう。


 しかし、ラブロフ外相の色丹島訪問においては、そういう政府の意図とは別に、また色丹島の住民も、自分たちの立場を考えた「歓迎」を行いました。

 このページは、上の写真と、これからの部分がミソです。
 ナターシャは、私へのメールで書いてきました。(原文は英語です。)
「外相は、最初に国後島に飛行機でやって来て、そこから、色丹島へヘリコプターでやって来ました。ヘリは2機で、外相の秘書官や報道陣も乗ってきました。
 私たちの島では、学校のみを訪問し、他のどこへも行きませんでした。
 私たちと児童生徒は校庭で彼を迎え、校内を案内しました。外相が学校で過ごした時間は、ほんの30分ほどです。
 その間に、児童生徒は外相のために小さなコンサートを開きました。ロシアのダンスと、私の夫のスピーチと、そして・・・」

 このあとがこのページの核心の部分です。

日本語で、「さくら」の歌を唱いました。コンサートのあとで、外相は、『これは日本と我々との関係を向上させる最上の方法ですね。』と話していました。
 しかし、外相がクリル諸島を離れたあと、すぐに、国後やサハリンの地方政府などからたくさんの電話がかかってきました。質問はどれも同じでした。『何故、日本語の歌を披露したのか?』」

 そりゃそうですね。
 この訪問は、外交的には、「日本を牽制」「ロシアのの実行支配の強化」しようとする意図のもとで実施されたと推定されているのに、その色丹島のロシア住民が、日本語の「サクラ」の歌を唱ったんです。
「えっ」と感じるのが普通でしょう。

 私は尋ねてみました。「誰が、日本語の歌を披露することを決めたのですか。」

「校長と私の夫(ダネリア氏、中学校の先生であると同時に南クリル地区が議会副議長)が決めました。以前にメールで書いたことがありますが、私たちは、学校で英語とフランス語と日本語の歌を唱うコンサートをやったことがあります。衣装もそれぞれの国の衣装を着て。その時は、日本語の歌は、「さくら」と「ふるどけい」でした。
 その時の様子がとてもよかったので、今度日本から訪問者が着たらそれをやろうと思っていました。そして、外務大臣が来たときもこれをやろうと思っていました。」

 現在はロシアが実行支配している色丹島であるとはいえ、1991年のソ連崩壊以後、とりわけ、1994年の大地震以降、人道的援助やビザ無し交流を通じて、日本との関係はかなり深いものとなっています。
 今回の「さくら」の披露は、色丹島の現実を素直に表現したものといえるでしょう。
 政府とは別に、住民には住民の現実があるのです。

 ナターシャは、明日から、札幌にやってきます。
 彼女自身5度目の、交流事業による日本語研修です。メールだけでなく、電話でも話すことができそうです。 


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