しかし、ラブロフ外相の色丹島訪問においては、そういう政府の意図とは別に、また色丹島の住民も、自分たちの立場を考えた「歓迎」を行いました。
このページは、上の写真と、これからの部分がミソです。
ナターシャは、私へのメールで書いてきました。(原文は英語です。)
「外相は、最初に国後島に飛行機でやって来て、そこから、色丹島へヘリコプターでやって来ました。ヘリは2機で、外相の秘書官や報道陣も乗ってきました。
私たちの島では、学校のみを訪問し、他のどこへも行きませんでした。
私たちと児童生徒は校庭で彼を迎え、校内を案内しました。外相が学校で過ごした時間は、ほんの30分ほどです。
その間に、児童生徒は外相のために小さなコンサートを開きました。ロシアのダンスと、私の夫のスピーチと、そして・・・」
このあとがこのページの核心の部分です。
「日本語で、「さくら」の歌を唱いました。コンサートのあとで、外相は、『これは日本と我々との関係を向上させる最上の方法ですね。』と話していました。
しかし、外相がクリル諸島を離れたあと、すぐに、国後やサハリンの地方政府などからたくさんの電話がかかってきました。質問はどれも同じでした。『何故、日本語の歌を披露したのか?』」
そりゃそうですね。
この訪問は、外交的には、「日本を牽制」「ロシアのの実行支配の強化」しようとする意図のもとで実施されたと推定されているのに、その色丹島のロシア住民が、日本語の「サクラ」の歌を唱ったんです。
「えっ」と感じるのが普通でしょう。
私は尋ねてみました。「誰が、日本語の歌を披露することを決めたのですか。」
「校長と私の夫(ダネリア氏、中学校の先生であると同時に南クリル地区が議会副議長)が決めました。以前にメールで書いたことがありますが、私たちは、学校で英語とフランス語と日本語の歌を唱うコンサートをやったことがあります。衣装もそれぞれの国の衣装を着て。その時は、日本語の歌は、「さくら」と「ふるどけい」でした。
その時の様子がとてもよかったので、今度日本から訪問者が着たらそれをやろうと思っていました。そして、外務大臣が来たときもこれをやろうと思っていました。」
現在はロシアが実行支配している色丹島であるとはいえ、1991年のソ連崩壊以後、とりわけ、1994年の大地震以降、人道的援助やビザ無し交流を通じて、日本との関係はかなり深いものとなっています。
今回の「さくら」の披露は、色丹島の現実を素直に表現したものといえるでしょう。
政府とは別に、住民には住民の現実があるのです。
ナターシャは、明日から、札幌にやってきます。
彼女自身5度目の、交流事業による日本語研修です。メールだけでなく、電話でも話すことができそうです。 |