Y先生の交流団もそうでしたが、一般に交流団が、穴澗の学校に訪問すると、ナターシャが主宰している日本語選択授業(課外学習としては日本語学習クラブ)の生徒さんの歓迎を受けます。
場合によっては、彼女自身が日本人向けのロシア語講座を担当する場合もあります。
2006年8月に穴澗に新しい学校が完成しましたから、そのお披露目も含めて、彼女らの出番はきっと増えるでしょう。
彼女が色丹島に渡ったのは、1983年。
しばらくして、まったくの独学で日本語の学習をはじめ、小中学校の生徒相手に、日本語学習クラブをつくります。
1990年ごろには、特に二人の上達した生徒を中心に、日本語学習の形はできあがっていたと思われます。
しかし、この時点では、ソ連は健在でまだ、ビザ無し交流も行われていません。日本人と接触することもなく、とても難しい状況での「独学」でした。
その状況をたまたま目撃した、エッセイストの岸本葉子さんは、次のように表現しています。
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先に岸本さんが色丹島に渡った理由を説明します。
岸本さんは、ひょんなことから、色丹島斜古丹にいる日本人2世が、青森家にいる父親の家族の安否を確かめたがっていると言う手紙を入手します。本人に会うため、1991年2月に色丹島に渡った時に見聞きしたことをまとめた本が、下記の引用書です。(この1991年は12月にソ連が正式に解体・消滅した年です。)
色丹島は日本から見れば領土です。したがって、普通に日本からビザを取得することはできません。理屈上あり得ないのです。このため、まずサハリンに渡り、そこで、渡航許可を得て色丹島へ渡りました。警備のための規制が厳しい中、日本人2世と会うことに成功し、また、学校等を視察しました。 |
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「 クラボサボーツタの中学校では、課外活動で日本語を学び、帯広の人たちと文通している子ビもたちがいた。教室に入ると、「友好」「友人」と書いた画用紙が日本地図とともに黒板に張り出され、これまできた手紙などすべての教材がこちらに向けて並べられていたので、気恥ずかし〈なった。ふだんのように活動しているところを見せて下さいというと、二人の女生徒が前に出て、掛け合い漫才のようなことをはじめる。それが日本語だとわかるまでに、少しの時間が要った。アナタハイツイキマスカ、コンパンデス、ということを非常な早ロでいっている。ビうしてこうなるのか、送信所所長の話を思い出してわかった。日本のテレビが入らない色丹では、この子たちは日本語というものを聞いたことがないのだ。英語教師で、課外活動の担任でもあるダニエリア先生によれば、生徒たちは日本語の音をロシア語で表したテキストで勉強しているのだという。だからどうしてもロシア語ふうの発音になる。
教材の中には、神棚と御守りまであった。(中略)白木に墨の字が黒々として、海を流きれてきた形跡がない。日本のだ補船に飾ってあったのものだという。領海警備の拠点であるこの島では、だ捕される日本の船は、多い年で150隻にもなる。
「ところで、これは何をするものか」
と、先生は私に聞〈。日本の字が書いてあるからだいじにしているものの、それが何であるか生徒たちの誰も知らないのだ。
私は、旅券入れから自分の御守りを出し、
「これと同じだ。自分を守ってくれるように、こういうふうに身に着けているのだ」
と説明した。生徒たちはめずらしそうに手に取っては回して見ていた。
見学を終えたあとであらためて、ダニエリア先生に文通の話を聞く機会を得た。(中略)
文通は、89年、帯広からの手紙ではじまった。風船に結ばれて海に浮いていたのを船員が拾い、英語だからということで先生のところに持ってきた。さっそく返事を書き、今では、手紙のほか絵なども送り合っている。」 |
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岸本葉子著『禁じられた島へ 国後・色丹の旅』(凱風社 1992年)P84−88 |
日本人と話すこともなく、独学で勉強していれば、上述のようなことは起こりえることです。
岸本さんの著書のP85には黒板の前でスピーチする女生徒の写真が掲載されています。この生徒は今はどうなったかメールで聞いてみました。
ナ |
「写真の生徒は、この時15歳の女生徒です。
私が日本語クラブをつくって、日本語の単語やフレーズを教えていたころのことです。私も含めて正式に日本語を習ったことは一度もなかった時代でした。
それでも、比較的熱心に日本語を学習した生徒が3人いて、その一人が写真の生徒です。彼女は上の学校に行くために色丹島を離れた後、島には戻ってきませんでした。今はモスクワに住んでいて、去年私がオブニンスクにいた時に会いました。
その時の話では、日本に3回入ったことがあるそうですが、残念ながらこの女生徒は、今は日本語を使った職には就いていません。
ほかの二人のうち、男の子は、サハリンの大学を出て、現在はNHKのサハリン支局で働いています。
また、もう一人の女の子は、現在は京都にいて、日本の文化を専攻して大学で博士号をとるために勉強しています。」 |
私 |
「たとえその時は、つたない日本語学習であったとしても、あなたが日本語を教えたことをきっかけに、3人もの生徒が、日本と関わりを持って生きているのはすごいと思う。」 |
現在では、独立行政法人北方領土問題対策協会によって北方3島への日本語教師派遣事業が実施されており、島民は日本人の日本語講師による授業を受けることもできます。
2005年は、小中学校が夏休みに入った6月半ばから7月半ばにかけて、2名の講師が派遣され、穴澗と斜古丹で、それぞれ大人と児童生徒合計43人(2カ所×各4講座=合計8講座)を相手に、それぞれ10回ほどの日本語授業が行われました。
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日本本土に近い国後島の古釜布などでは、日本のTV放送を直接見ることができますが、ナターシャによれば、2006年現在も、色丹島では(少なくとも穴澗では)、家庭の受像器で日本番組を受信することはできません。ラジオは日本の放送を聞くことができます。 |
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