色丹島との草の根交流記27

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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027 2006年の色丹島状勢6 エピソード3                              

 2006年の色丹島状勢シリーズその6は、その5に引き続いて、今年の8月に色丹島を訪問した岐阜市立N中学校のY先生の写真を中心に、色丹島のエピソード3をお届けします。

 <地図の番号をクリックするとテーマにジャンプします。>

上の地図は、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真をもとに作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。


<いきなり番外編 2006年11月15日の地震>              島全体の地図へ

 まずは、2006年11月15日の地震について、北方領土への影響を報告します。
 この日、20時15分頃、北方領土択捉島の東北東390kmを震源とするマグニチュード8.2という大きな地震が発生しました。
 すぐに、北海道東部などに対して津波警報が出されました。満潮時刻は北海道沿岸では22時台となっており、2m程度の津波が予想されました。根室では、9時29分に40cmの津波が観測され、警戒感が高まりました。
 しかし、その後も、潮位の高さは、最高でも十勝港の60cmにとどまり、警報は、11時30分に注意報に切り替えられ、16日午前1時30分には全面解除されました。
 北海道では、地震の揺れもひどくなく、結果的に被害はありませんでした。
 しかし、より震源に近い北方領土はどうだったのでしょう?
 この日、私は、出張でホテル宿泊中であったため、色丹島のダネリア家とは連絡が取れず、翌16日にメールを打ちました。その応答です。

「こちらでは、マグニチュード8.2の地震ということで、心配していますが、どうでしたか。1994年の地震のような大被害でないことを祈っています。」

「幸せなことに、まったく大丈夫です。わたしたちの島では、何の警戒情報も出されず、何も起こっていません。」

 ちょっと意外な、平穏ぶりでした。
 しかし、よく調べると、事情が分かりました。
 最初のニュースでは、震源は択捉島の北東と言っていましたので、北方領土にずいぶん近いところかと錯覚しましたが、実は違いました。
 正確には、択捉島東北東390kmですから、これまで、北方4島や北海道に被害を与えてきた地震とは、大きく場所がずれています。


 今回の「択捉島東北東沖地震」とこれまでの地震の震源。
 
2003年の十勝沖地震(苫小牧の石油タンクが炎上した地震)、1994年の北海道東方沖地震(色丹島に大きな被害を与えました)に比べると、今回の地震は、同じ北方領土海域でも、はるか北東方です。
 日本領ということから、「
択捉島沖」という言い方ですが、本来なら「シムシル島沖地震」といわなければなりません。
 この島には、ロシア人は住んでいないと言うことですから、実質的には被害はなかったということでしょう。

 彼女は、メールにこう付け加えていました。

「でも、とてもよくわかりました。私たちに対する日本からの関心度が。昨日の晩は、あちこちからたくさん電話がかかりました。まず、朝日新聞社。それから、外務省、そして日本にたくさんのいる私たちの友人から。」

 心配が杞憂に終わってなによりでした。 


@穴澗の町 新しいレストランと廃墟                       島全体の地図へ

 交流記26では斜古丹の湾岸「目抜き通り」の2002年と2006年の変化を話題にしました。このページは、穴澗のそれです。
 下の写真は、穴澗の湾岸から少し内陸に入った道路の写真です。 

衛星写真からつくった穴澗の地図は、交流記24にあります。

 上下の写真とも、穴澗から南部海岸へ向かう道路をほぼ同じ場所から写したものです。上は2002年の撮影、下は2006年の撮影です。
 上の写真の道路がカーブしているところは、実は三差路になっています。写真右手は水産加工場の前を通って、穴澗港桟橋へつながる道です。

 三差路の左下は、穴澗の住民が住むアパートの下を通って、斜古丹方面へ向かう幹線路です。どの道も4年前も今も未舗装です。 

 左は、2002年9月21日撮影。
 高いところからの撮影になっていますが、これは、丘の上のロシア人のアパートへ向かう木の階段の途中から撮影したものです。
 下の写真は三差路の中央付近から、2006年にY先生が撮影したものです。
 下の写真の左手奥に映っている平屋の赤い壁の建物が、上の写真にはない新しい建物です。
 また9月下旬と8月上旬とでは草の緑の色が違います。

 下はレストランの写真です。
 このレストランの名前はインペリアルといいます。このレストランができてから、穴澗ではここで交流団とロシア人との交流会が開かれています。


  Y先生の団の交流会の様子です。
 
 2002年の私の交流団は、全国各都道府県の教育関係者など大人ばかりで構成されていました。しかし、Y先生の参加した交流団は、高校生など生徒たちが含まれていて、交流も華やかです。


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 ロシア人の少女たちと一緒に何かゲームをしている様です。
 


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 上の写真にも写っていた廃工場です。1994年の地震で屋根が落ちたと思われます。
 牛が数匹います、放し飼いの牛は、色丹島のあちこちで見られ光景です。

 ついでに、穴澗湾の桟橋の沈没船です。桟橋の横に接して着底しているため、桟橋の片側はうまく利用できません。一応桟橋から沈没船に移り、さらに、横付けした船に乗ることはできます。
 碇泊している白い船は、誘漁灯をつけていますので、多分サンマ漁用の漁船です。
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A色丹島の自動車                                   島全体の地図へ

 たいした意味はありませんが、色丹島の自動車の写真です。

 色丹島の自動車の多くは、日本製のワゴン車や4WDです。どうやって運んでくるのでしょうか。|島全体の地図へ|

 これは交流団を移動するためにつくられた特別の車両です。 普通の軍用トラックの後に客室が設置されています。
 この場所は、南部のイネモシリ海岸です。
 

 移動中の車内から撮影。未舗装道路のため、自動車が連なると埃で前が見えないくらいです。雨でぬかるんだら、どんなことになるか、きっとひどい悪路になるでしょう。                      |島全体の地図へ|


B色丹島における日本語学習                           |島全体の地図へ|

 Y先生の交流団もそうでしたが、一般に交流団が、穴澗の学校に訪問すると、ナターシャが主宰している日本語選択授業(課外学習としては日本語学習クラブ)の生徒さんの歓迎を受けます。
 場合によっては、彼女自身が日本人向けのロシア語講座を担当する場合もあります。
 
 2006年8月に穴澗に新しい学校が完成しましたから、そのお披露目も含めて、彼女らの出番はきっと増えるでしょう。

 彼女が色丹島に渡ったのは、1983年。
 しばらくして、まったくの独学で日本語の学習をはじめ、小中学校の生徒相手に、日本語学習クラブをつくります。
 1990年ごろには、特に二人の上達した生徒を中心に、日本語学習の形はできあがっていたと思われます。
 しかし、この時点では、ソ連は健在でまだ、ビザ無し交流も行われていません。日本人と接触することもなく、とても難しい状況での「独学」でした。

 その状況をたまたま目撃した、エッセイストの岸本葉子さんは、次のように表現しています。

 先に岸本さんが色丹島に渡った理由を説明します。
 岸本さんは、ひょんなことから、色丹島斜古丹にいる日本人2世が、青森家にいる父親の家族の安否を確かめたがっていると言う手紙を入手します。本人に会うため、1991年2月に色丹島に渡った時に見聞きしたことをまとめた本が、下記の引用書です。(この1991年は12月にソ連が正式に解体・消滅した年です。)

 色丹島は日本から見れば領土です。したがって、普通に日本からビザを取得することはできません。理屈上あり得ないのです。このため、まずサハリンに渡り、そこで、渡航許可を得て色丹島へ渡りました。警備のための規制が厳しい中、日本人2世と会うことに成功し、また、学校等を視察しました。

 「 クラボサボーツタの中学校では、課外活動で日本語を学び、帯広の人たちと文通している子ビもたちがいた。教室に入ると、「友好」「友人」と書いた画用紙が日本地図とともに黒板に張り出され、これまできた手紙などすべての教材がこちらに向けて並べられていたので、気恥ずかし〈なった。ふだんのように活動しているところを見せて下さいというと、二人の女生徒が前に出て、掛け合い漫才のようなことをはじめる。それが日本語だとわかるまでに、少しの時間が要った。アナタハイツイキマスカ、コンパンデス、ということを非常な早ロでいっている。ビうしてこうなるのか、送信所所長の話を思い出してわかった。日本のテレビが入らない色丹では、この子たちは日本語というものを聞いたことがないのだ。英語教師で、課外活動の担任でもあるダニエリア先生によれば、生徒たちは日本語の音をロシア語で表したテキストで勉強しているのだという。だからどうしてもロシア語ふうの発音になる。

 教材の中には、神棚と御守りまであった。(中略)白木に墨の字が黒々として、海を流きれてきた形跡がない。日本のだ補船に飾ってあったのものだという。領海警備の拠点であるこの島では、だ捕される日本の船は、多い年で150隻にもなる。
 「ところで、これは何をするものか」
 と、先生は私に聞〈。日本の字が書いてあるからだいじにしているものの、それが何であるか生徒たちの誰も知らないのだ。
 私は、旅券入れから自分の御守りを出し、
「これと同じだ。自分を守ってくれるように、こういうふうに身に着けているのだ」
 と説明した。生徒たちはめずらしそうに手に取っては回して見ていた。

 見学を終えたあとであらためて、ダニエリア先生に文通の話を聞く機会を得た。(中略)
 文通は、89年、帯広からの手紙ではじまった。風船に結ばれて海に浮いていたのを船員が拾い、英語だからということで先生のところに持ってきた。さっそく返事を書き、今では、手紙のほか絵なども送り合っている。」

岸本葉子著『禁じられた島へ 国後・色丹の旅』(凱風社 1992年)P84−88

 日本人と話すこともなく、独学で勉強していれば、上述のようなことは起こりえることです。
 岸本さんの著書のP85には黒板の前でスピーチする女生徒の写真が掲載されています。この生徒は今はどうなったかメールで聞いてみました。

「写真の生徒は、この時15歳の女生徒です。
私が日本語クラブをつくって、日本語の単語やフレーズを教えていたころのことです。私も含めて正式に日本語を習ったことは一度もなかった時代でした。
 それでも、比較的熱心に日本語を学習した生徒が3人いて、その一人が写真の生徒です。彼女は上の学校に行くために色丹島を離れた後、島には戻ってきませんでした。今はモスクワに住んでいて、去年私がオブニンスクにいた時に会いました。
 その時の話では、日本に3回入ったことがあるそうですが、残念ながらこの女生徒は、今は日本語を使った職には就いていません。
 ほかの二人のうち、男の子は、サハリンの大学を出て、現在はNHKのサハリン支局で働いています。
 また、もう一人の女の子は、現在は京都にいて、日本の文化を専攻して大学で博士号をとるために勉強しています。」

「たとえその時は、つたない日本語学習であったとしても、あなたが日本語を教えたことをきっかけに、3人もの生徒が、日本と関わりを持って生きているのはすごいと思う。」

 現在では、独立行政法人北方領土問題対策協会によって北方3島への日本語教師派遣事業が実施されており、島民は日本人の日本語講師による授業を受けることもできます。

 2005年は、小中学校が夏休みに入った6月半ばから7月半ばにかけて、2名の講師が派遣され、穴澗と斜古丹で、それぞれ大人と児童生徒合計43人(2カ所×各4講座=合計8講座)を相手に、それぞれ10回ほどの日本語授業が行われました。

派遣された講師によるその公式報告書は、こちらです。いずれもPDFファイルです。
2004年分 
http://www.hoppou.go.jp/event/exchange/pdf/20050614-0725s.pdf
2003年分 http://www.hoppou.go.jp/event/exchange/pdf/20050614-0725s.pdf

日本本土に近い国後島の古釜布などでは、日本のTV放送を直接見ることができますが、ナターシャによれば、2006年現在も、色丹島では(少なくとも穴澗では)、家庭の受像器で日本番組を受信することはできません。ラジオは日本の放送を聞くことができます。


 Y先生の撮影による、新旧の学校。
 右の黄色い壁のは、言うまでもなく完成間近の新しい学校です。
 左のプレハブは、これまでの小中学校です。
 この建物は、1994年の地震で以前の学校が倒壊したために急遽建てられました。日本の人道支援で建てられたものです。

 新しい学校へ移動した後は、音楽学校として利用されるとのことです。
(撮影日 06/08/05)

 このできたばかりの学校は、翌月、2006年10月6日から7日にかけての嵐で、被害を受けました。屋根の一部300平方メートルが吹き飛ばされ雨漏りが起こってしまいました。このほかに、穴澗(クラボザボツコエ)の村では、12軒の集合住宅、郵便局、幼稚園、診療所など屋根が吹き飛ばされました。
(ウエブサイト「北海道サハリン事務所情報」http://www.pref.hokkaido.lg.jp/kz/skk/russia/russia/r-yuzhno/index-yz.htmから。この嵐は、日本でも海や山で大きな犠牲を出しました。)
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 上左・右は、2006年8月の訪問団と小中学校生との交流会の様子です。

 この教室は、新学校が未完成でしたので、プレハブの方の古い学校の教室です。

 教室の壁に、日本語で言う九九の表が貼ってありました。


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 2006年10月3日北海道新聞は、ウエブサイトで、色丹島の日本語学習について、次のように報じました。

 「【根室】北方領土・色丹島穴澗(クラボザボツコエ)の小中学校が近く、日本語を必修科目とする方針であることが二日、分かった。ビザなし交流で日本語学習のため、道内を訪れていたロシア側訪問団のうち、色丹島の婦人科医リュドミーラ・フィシュクさんらが帰島を前に根室市内で記者会見し、親しい学校関係者の話として明らかにした。
 この小中学校は9月に開校し、約2百人の児童・生徒が通っているという。フィシュクさんは「日本語は選択科目になっているが、学習を希望する子供が増えている。子供たちの可能性を伸ばすため、必修化する方針」と説明した。 四島のロシア人に日本語を学習してもらうプログラムは、ビザなし交流実施団体・北方四島交流道推進委員会が2001年度から始めた。日本側から講師派遣も行われており、四島での日本語熱は年々高まっている。」

 
 この婦人科医リュドミーラ・フィシュク先生は、斜古丹島の診療所の医師です。これまでナターシャが参加した時がそうであったように、4島から北海道への日本語研修団は、研修が終了すると、団長等が記者会見を行います。今回は、フィシュクさんが行ったのでしょう。ちなみに、フィシュクさんの勤務する斜古丹の診療所は、1994年の地震の翌年、鈴木宗男議員の尽力で日本からの人道支援でつくられたものです。
 
 このことをナターシャに確かめてみると、必修化の方針は、現時点ではないそうです。
 思い違いか誤解か、とにかく、小中学校の日本語の担当で、教育課程の編成等にもかかわっている彼女が言っていますので、今後そういう動きはあっても、着々とそちらに向かっているというわけではないようです。

 彼女によれば、現在は、95人の生徒のうち、15人が日本語の授業に参加しているそうです。そして、このうち、日本語非常に熱心に学んでいる生徒は、女生徒一人で、この生徒は将来、サハリンの東アジア省で通訳として活躍したいとのことです。
 ナターシャ自身は、日本語を学習する生徒数は、もっと多くあるべきだと思っています。また、将来日本語を使うような立場になるつもりの生徒が、もう少し多くなることを願っています。

 頑張ってください。 


【追加】20006/12/31
 以下の5枚の写真は、2006年12月31日にナターシャから送られてきた新しい学校の写真です。

 あらためてみると本当に素敵な、そしてお金がかかっている学校です。


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