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今回の訪問の目玉は空軍博物館RAFmuseum 11/04/04記述 11/04/11修正 |
今回のマンチェスター・ロンドン研修はあくまで、「イギリスの環境教育」の調査です。 |
上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、ロンドン中心部から北西郊外へかけての地図です。地図の方位は上が北です。 |
写真12-01 コリンデール駅(撮影日 10/11/16) |
駅舎を出て左手の方角(北東)へ左側通行で道なりに向かうと、やがて道は緩やかにカーブして北向きになります。そのまま進むと、地下鉄の駅から歩いて12分ほどで道路の向かい側に警察署が見えます。その隣がRAF museum(イギリス空軍博物館)です。 |
写真12-04 RAFmuseum案内図 (撮影日 10/11/16) |
写真12-05 左図の赤い建物 |
RAFmuseumには、4つの建物があります。そのうち、左上図の青い建物は、戦闘機中心の展示、黄色い建物は爆撃機中心の展示、そして赤い建物はBattle of Britain の展示です。 |
写真12-06 中庭の中心には、戦闘機が2機展示されています。 (撮影日 10/11/16) |
言わずと知れた、Battle of Britain の主役、前はホーカー・ハリケーン、後はスーパーマリン・スピットファイアーです。これらの戦闘機がドイツのイギリス攻略を阻みました。 |
大日本帝国陸軍戦闘機五式戦 | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ| |
さて、この博物館のメイン展示物は、Battle of Britainに関するものと、連合国軍によるドイツ本土爆撃に関するものです。イギリス空軍博物館ですから、ここに力点があるのは当然です。しかし、この展示については、次のページ以降で説明します。 |
三式戦飛燕の液冷エンジンと川崎航空機 | 先頭へ ||研修記目次へ| |
まずは、戦闘機のエンジンのタイプです。 |
写真12-07・08 戦闘機のエンジンとフォルム(プラモデル) (撮影日 11/04/04) |
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左は日本海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」とアメリカ海軍のF6Fヘルキャット戦闘機です。いずれも空冷式エンジン積み機体前部の胴体の直径が太くなっています。 |
第二次世界大戦前から大戦期にかけて各国は優秀な戦闘機の開発にしのぎを削りました。 |
写真12-09 飛燕1型のプラモデル (撮影日 11/04/04) |
液冷式エンジン搭載による流麗な機体は他の空冷式エンジンの戦闘機とは大きく違います。 |
写真12-10 液冷式エンジンのイギリス軍のスピット・ファイアー RAF博物館の展示品 (撮影日 10/11/16) |
写真12-11 ドイツの代表的戦闘機、メッサーシュミットBf109も液冷式 (撮影日 10/11/16) |
写真12-12 アメリカ陸軍のP51ムスタング (撮影日 10/11/16) |
第二次世界大戦中の究極のプロペラ戦闘機、アメリカ陸軍のP51ムスタングも液冷式エンジン搭載 |
性能的にはアメリカ軍機に対抗できるはずだった三式戦でしたが、現実にはあまり期待に答えることはできませんでした。その理由は、稼働率が低かったためです。稼働率というのは、部隊に50機の戦闘機が配備されているとして、そのうち何機が整備が完璧で実際に出撃可能なのかという数字です。稼働率が低い理由は二つあります。 |
三式戦の改良と生産挫折 五式戦の開発 | 先頭へ ||研修記目次へ| |
そもそもこのように難しいエンジンだったので、エンジンを順調に大量生産するということはなかなかうまくいきませんでした。 |
写真12-13 飛燕のモデル (撮影日 11/04/04) |
写真12-14 五式戦のモデル (撮影日 11/04/04) |
エンジンを液冷式から空冷式に換装し、それにともなって機体前部のデザインが変更されました。また、胴体下部の冷却用の空気取り入れ装置もなくなっていますし、風防も他の日本機に一般的な涙滴型に変えられています。しかし、それ以外は、ほとんど同じ形状のままとされました。 |
こうして、1945年2月から五式戦の生産が始められ、川崎岐阜工場の他、4月以降は宮崎県都城工場でも生産が始まりました。 |
生き残った五式戦 | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ| |
400機弱が生産された五式戦は、戦争末期のB29爆撃機や艦上戦闘機の襲来に対する防空戦で一定の活躍を見せました。 |
写真12-15 空軍博物館の戦闘機フロアーに展示されている五式戦 (撮影日 10/11/16) |
この五式戦の機体番号は、16336号機です。この機は、飛燕2型の首なし飛燕からの改造機で、記録によれば、この機体そのものは1945年2月に製造され、その後五式戦に改造されました。 |
写真12-16 五式戦の右側面部 戦闘機フロアーのほぼ中心に展示されています (撮影日 10/11/16) |
写真12-17 機体前面左側 (撮影日 10/11/16) |
写真12-18 左脚 (撮影日 10/11/16) |
写真12-19 空冷エンジン(撮影日 10/11/16) |
写真12-20 滑油冷却器 (撮影日 10/11/16) |
この機は、一度胴体着陸しているため、プロペラと滑油冷却器は他機種のものが流用されて復原されています。滑油冷却器は、四式戦疾風のものだそうです。 |
写真12-21 エンジン取り付け部(撮影日 10/11/16) |
写真12-22 尾翼と後部 (撮影日 10/11/16) |
液冷式飛燕の細い胴体に、空冷式の太いエンジンを取り付けたため、エンジンと機体の間に段差ができています。この部分はそのままにしておくと乱気流を生じてしまうため、排気管を集めてそれを防いでいます。細い小さな管が排気管です。 |
この五式戦がイギリスの手に渡った理由については次のようになっています。 |
この飛行機を見たかった本当の意味 | 先頭へ ||研修記目次へ| |
さて、このままここで終わっては、ただの博物館訪問記になってしまいます。インターネット上なら、他にも同じようなものがあるでしょう。
いえ、母がこの飛行機を作ったわけではありません。
飛行機の部品を作ったと言っても、旋盤で削るとかそんなたいそうなことをしたのではなく、成形された部品の汚れや油を取るために部品を磨いたというだけだったようです。
そうですね。 |
【追記】以下の項目は、2011年4月9日に追記しました。 |
日本陸軍の航空隊として最も早く五式戦を使用し、多くの戦果をあげた部隊は、飛行第244戦隊(指揮官は小林照彦少佐)でした。この部隊はもともと本土防空用に三式戦飛燕で編成された部隊で、高々度で来襲するB29爆撃機に体して、東京上空で次々と体当たり攻撃を実施して勇猛をはせました。 |
岐阜空襲の話も、いつか詳しく取り扱うつもりです。 |
もう一つの日本製展示品 桜花 | 先頭へ ||研修記目次へ| |
ついでに、イギリスの博物館で見た、もう一つの日本製「飛行機」を紹介します。 |
写真12-23 マンチェスター科学産業博物館(MOSI)の桜花2型 (撮影日 10/11/13) |
写真12-24・25 桜花2型とその説明 (撮影日 10/11/13) |
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MOSIの解説は、「自殺爆弾」・「人間が操縦する爆弾」です。 |
【イギリス空軍博物館と三式戦飛燕・五式戦 参考文献一覧】
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これで五式戦の話は終わりにします。 |
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