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 今回の訪問の目玉は空軍博物館RAFmuseum  11/04/04記述 11/04/11修正

 今回のマンチェスター・ロンドン研修はあくまで、「イギリスの環境教育」の調査です。
 前ページまで書いていた、リヴァプール・マージーサイド海洋博物館におけるドイツ潜水艦と連合国軍の「
Battle of Atlantic」の学習は、土曜の午後の自主研修における博物館訪問の成果でした。しかし、この博物館は、イギリス渡航前には全く想定していなかったもので、私としては全く偶然に、リヴァプールの海運と両大戦におけるUボートと連合軍の戦いを学習できる機会を得て、歴史の教師として望外の幸せを感じました。
 
 このページから説明する
イギリス空軍博物館(RAFRoyal Air Force museum)は、これまた自主研修で訪問した博物館です。もちろん、これも、本来の「環境教育」とは関係ありませんが、こちらの方は、もう6年前から、もしかして機会があれば訪問してみたいと思っていた博物館です。その理由は、このページで追々説明します。
 
 まず、この博物館の位置です。
 ロンドンの中心部シティーから直線距離で15km程北西の郊外にある
コリンデール(Colindale)にあります。以下の地図をご覧ください。 


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、ロンドン中心部から北西郊外へかけての地図です。地図の方位は上が北です。
 
の場所がRAFの場所です。コリンデールは、ロンドン中心部を南北に縦貫する地下鉄ノーザンライン沿線にあります。ノーザンラインは、北に向かう途中で二手に分かれますが、そのうちの北西に向かう路線、すなわち、エッジウエア(Edgware)行きに乗って、終点の二つ手前です。
 
コリンデール駅はロンドン中心部のチャリング・クロス駅から30分ちょっとの距離にあります。私は午前中に自然史博物館に行っていましたから、ピカデリー・ラインに乗って、レイセスター・スクエアーでノーザンラインに乗り換えました。レイセスター・スクエアーからコリンデールまでの所要時間は33分でした。


 写真12-01 コリンデール駅(撮影日 10/11/16)
 ノーザンラインの地下鉄は、途中で地上に出てしまい、コリンデールは普通の地上駅です。これは16時45分ごろ、中心部へ帰る時の写真です。
 
 写真12-02
 コリンデール駅に着いたEdgware行き電車。
 
 写真12-03
 地下鉄の内部。日本の地下鉄より狭いタイプです。日本の地下鉄と同じタイプもあります。
 


 駅舎を出て左手の方角(北東)へ左側通行で道なりに向かうと、やがて道は緩やかにカーブして北向きになります。そのまま進むと、地下鉄の駅から歩いて12分ほどで道路の向かい側に警察署が見えます。その隣がRAF museum(イギリス空軍博物館)です。
  ※RAF museum のHPはこちらです。 http://www.rafmuseum.org.uk/london/


 写真12-04 RAFmuseum案内図 (撮影日 10/11/16)

 写真12-05 左図の赤い建物

 RAFmuseumには、4つの建物があります。そのうち、左上図の青い建物は、戦闘機中心の展示、黄色い建物は爆撃機中心の展示、そして赤い建物はBattle of Britain の展示です。 


 写真12-06  中庭の中心には、戦闘機が2機展示されています。        (撮影日 10/11/16)

 言わずと知れた、Battle of Britain の主役、前はホーカー・ハリケーン、後はスーパーマリン・スピットファイアーです。これらの戦闘機がドイツのイギリス攻略を阻みました。
 2機とも日本の飛行機には少ない液冷式エンジンを搭載しているため、先がほっそりとしたフォルムです。このことは、またあとで触れます。このページの話の展開のカギになる部分です。
 ちなみにこの写真は、午後2時過ぎの撮影ですが、一面に霧が立ちこめていて、なんだか夕暮れのような雰囲気です。


 大日本帝国陸軍戦闘機五式戦  | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 さて、この博物館のメイン展示物は、Battle of Britainに関するものと、連合国軍によるドイツ本土爆撃に関するものです。イギリス空軍博物館ですから、ここに力点があるのは当然です。しかし、この展示については、次のページ以降で説明します。
 私が、貴重な自由研修時間を使ってこの博物館に来たのには、その二つを見ることだけではなく、それ以上に他の目的がありました。
 この博物館には、イギリス軍の飛行機、連合国軍であるアメリカ軍の飛行機、そして戦った相手であるドイツ軍の飛行機が所狭しと展示されています。その中にたった一つ、日本製の飛行機が展示されています。それを見に行くのが私の一番の目的でした。
 その飛行機とは、
大日本帝国陸軍戦闘機五式戦です。

 この戦闘機の説明を簡単にします。
 日本陸軍は、太平洋戦争開始時には、制式戦闘機(陸軍が正式に採用したという意味です)として、
一式戦闘機(通称隼はやぶさ)を所有していました。
 その後、
二式戦(鍾馗しょうき)二式複座戦(屠龍とりゅう)、さらに、三式戦(飛燕ひえん)四式戦(疾風はやて)と新たに採用し、そして、終戦の年の1945(昭和20)年になって最後に制式とした戦闘機が、五式戦です。他の5つには愛称が付いていますが、最後の五式戦にはありません。飛行機開発番号でいうと陸軍では、「キ100」と名付けられていましたから、五式戦もしくは「キ100」と呼ばれました。

 第二次大戦中の日本の航空史に詳しい方には当たり前の話ですが、何の知識もない方にも分かっていただくために、
五式戦の話につなげる必要最小限の説明をします。


 三式戦飛燕の液冷エンジンと川崎航空機 | 先頭へ ||研修記目次へ

 まずは、戦闘機のエンジンのタイプです。 


 写真12-07・08   戦闘機のエンジンとフォルム(プラモデル)    (撮影日 11/04/04)

 左は日本海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」とアメリカ海軍のF6Fヘルキャット戦闘機です。いずれも空冷式エンジン積み機体前部の胴体の直径が太くなっています。
 右は日本陸軍の
三式戦飛燕。ドイツのダイムラー・ベンツ社製の液冷エンジンをまねて製造した川崎航空機製の液冷式エンジン、ハ40を搭載しているため、機体前部は流線型の細い形状となっています。 


 第二次世界大戦前から大戦期にかけて各国は優秀な戦闘機の開発にしのぎを削りました。
 優秀な航空機は優秀なエンジンと優秀な機体とのうまい組み合わせがないと誕生しません。各国の海陸空軍は、それぞれの国のエンジン製造会社の得意不得意や開発の伝統から、
空冷式エンジン液冷式エンジンのどちらかに重点を置きました。
 日本は陸海軍とも空冷式が中心、アメリカは海軍は空冷式が中心、陸軍は液冷式が主で空冷式が従でした。イギリスはほとんどが液冷式です。ドイツは液冷式が主で空冷式が従でした。
  ※参考文献1 渡辺洋二著『液冷戦闘機「飛燕」 日独合体の銀翼』P14-17

 大戦期の日本の陸海軍の戦闘機のうち、液冷式は陸軍の
三式戦飛燕、ただ一つです。
 液冷式エンジンを搭載した戦闘機は、前面が細くスマートになり空気抵抗の関係から高速を生む可能性があります。また、機首が細くなり機首に大口径の機関砲を搭載することもできます。しかし、その欠点は、エンジンを冷却する冷却液を循環させる装置や冷却液を冷やす空気取り入れ口を設けることが必要なためエンジン全体の構造が複雑になり、また、その分だけ重量も増加することです。
 日本陸海軍は、うまい具合に同盟国ドイツのダイムラー・ベンツ社製の優秀なエンジンを手に入れたことから、これを模倣して素晴らしいエンジンを作ることが可能と考え、陸海軍とも別のメーカーに研究をさせました。陸軍の命を受けたのが神戸に本拠を置く
川崎航空機です。その主力工場は、我が岐阜県民ならよくご存じの岐阜県各務原市にありました。
 川崎航空機の土井武夫技師とそのチームは、1940(昭和15)年から新型液冷式エンジンを積載した戦闘機の開発をはじめました。これが1942年末には完成し、1943年に
三式戦飛燕として制式化されたのです。
 
三式戦1型は、液冷式「ハ40」の1100馬力のエンジンを装備し、最高時速590km、12.7mm機銃4門を装備する戦闘機であり、陸軍の期待を一身に集めました。
 その理由は、その時点における陸軍航空隊の苦戦にあります。
 1943(昭和18)年初頭においては、陸海軍の主たる前線は、ソロモン・ニューギニア方面でした。航空部隊は陸軍と海軍とで戦闘区域を分担し、海軍はソロモン諸島(ガダルカナル島を含む)方面を、陸軍はニューギニア方面を担当することとなっていました。
 この前線の陸軍航空隊には、
一式戦隼二式複座戦屠龍が配置されていました。しかし、前者は武装が貧弱でかつ速度でも劣位にあり、後者は連合軍の戦闘機には全く歯が立たないという状態であったため、連合国軍の主力機、すなわち強力な馬力のエンジンを備え速度も速く重武装のカーチスP40やライトニングP38の前に苦戦をしていたのです。  

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 写真12-09   飛燕1型のプラモデル    (撮影日 11/04/04)

 液冷式エンジン搭載による流麗な機体は他の空冷式エンジンの戦闘機とは大きく違います。


 写真12-10 液冷式エンジンのイギリス軍のスピット・ファイアー RAF博物館の展示品  (撮影日 10/11/16)


 写真12-11 ドイツの代表的戦闘機、メッサーシュミットBf109も液冷式  (撮影日 10/11/16)


 写真12-12 アメリカ陸軍のP51ムスタング              (撮影日 10/11/16)

 第二次世界大戦中の究極のプロペラ戦闘機、アメリカ陸軍のP51ムスタングも液冷式エンジン搭載           


 性能的にはアメリカ軍機に対抗できるはずだった三式戦でしたが、現実にはあまり期待に答えることはできませんでした。その理由は、稼働率が低かったためです。稼働率というのは、部隊に50機の戦闘機が配備されているとして、そのうち何機が整備が完璧で実際に出撃可能なのかという数字です。稼働率が低い理由は二つあります。
 一つ目は、そもそも、エンジンが高度すぎました。初めての高性能な液冷式エンジン「ハ40」については、ダイムラーベンツ社の製品のまねをして造ったものの、その複雑な構造は川崎航空機のみならず日本の工業水準を超えており、一つ一つの部品(鉄合金)の含有物の違いから折損が生じるなど完成品を作るのに四苦八苦する状態でした。
 二つ目は、整備士が不慣れだったことです。陸軍戦闘機の他の機体はすべて空冷式エンジンを装備しています。三式戦一つだけが液冷式ですから、整備士の誰でもが簡単に取り扱えるというわけにはいかなかったのです。


 三式戦の改良と生産挫折 五式戦の開発 | 先頭へ ||研修記目次へ

 そもそもこのように難しいエンジンだったので、エンジンを順調に大量生産するということはなかなかうまくいきませんでした。
 その状況下でさらに困難な課題が生じます。
 それは、土井技師らによる
飛燕2型の開発です。
 これは、1型の「ハ40」エンジン(1100馬力)よりさらに高性能なエンジン、「ハ140」(1300馬力)を搭載するもので、最大速度時速640kmを目指す画期的な戦闘機でした。ところが、このエンジンの製造はさらに難しく、1944(昭和19)年7月から
飛燕2型の機体製造が始まると、直ぐにエンジンの供給が追いつかなくなるという事態になりました。機体の製造数より、エンジンの製造数が極端に少なかったのです。
 当時飛燕の機体は岐阜県各務原市の川崎航空機岐阜工場で作られていましたが、エンジンの方は兵庫県の川崎航空機明石工場で製造されていました。
 このため、川崎岐阜工場には、1944年8月から、機体は完成してもエンジンは取り付けられない
飛燕1型の機体(当時、「首なし飛燕」と呼ばれました)が増え始め、そしてやや遅れて、同2型の「首なし飛燕」も増加していきました。
 この時点で、陸軍は飛燕の大増産をあきらめる一方、10月には川崎の土井技師に、飛燕の液冷式エンジンを空冷式に取り替えた(換装した)機体の開発を命令するのです。

 さらに悪い状況が重なります。
 アメリカ陸軍戦略航空部隊は、占領したマリアナ諸島(サイパン島など)の基地整備を進め、1944年11月からB29爆撃機による本土爆撃を開始します。しかし、1万メートル上空から日本の航空機製造工場を狙って破壊するという、当初予定していた高々度精密爆撃は、雲に遮られるなどしてさほど大きな効果は上がりませんでした。中島飛行機武蔵製作所、名古屋周辺の三菱などの工場は何度も爆撃されましたが、致命的な損害を与えるということにはなっていませんでした。
 ところが、1945年1月19日のB29爆撃機62機による兵庫県明石の川崎工場爆撃は、天気が快晴だったこともあって、工場のほとんどの建物に爆弾が命中し、直後の生産力は爆撃前の10分の1に低下してしまいました。飛燕は運にも見放されました。

 一方、土井技師による空冷式エンジン搭載型の製作は順調に進められ、1945年2月上旬には各務原で初飛行に成功しました。複雑で重量のある液冷式エンジンに換え軽い空冷式エンジン(しかも公称1500馬力)を搭載したため、最高速度は時速580kmを記録し、B29爆撃機を邀撃するのに必要な高々度への上昇性能も申し分ないものでした。

 このため、初飛行後すぐに新型機は制式機とされ、ここに
五式戦が誕生しました。
 川崎岐阜工場では、すぐに五式戦の量産体制に入るとともに、工場外にまであふれていた「首なし飛燕」を
五式戦に改良する作業が続けられました。 


 写真12-13 飛燕のモデル  (撮影日 11/04/04)

 写真12-14 五式戦のモデル (撮影日 11/04/04)

 エンジンを液冷式から空冷式に換装し、それにともなって機体前部のデザインが変更されました。また、胴体下部の冷却用の空気取り入れ装置もなくなっていますし、風防も他の日本機に一般的な涙滴型に変えられています。しかし、それ以外は、ほとんど同じ形状のままとされました。 


 こうして、1945年2月から五式戦の生産が始められ、川崎岐阜工場の他、4月以降は宮崎県都城工場でも生産が始まりました。
 しかし、岐阜工場は、6月22日と26日のB29爆撃機による空襲の結果、ほぼ壊滅的な打撃を受け、また、部品工場など分工場がいくつもあった岐阜市も、7月9日から10日にかけての夜間空襲で灰燼に帰し、五式戦の生産は大幅に低下してしまいました。
 結果的に、
五式戦は各務原の川崎岐阜工場では381機が、都城工場では少なくとも17機が製造されました。
  ※参考文献2所収 片渕須直著「「キ61」・「キ100」系列の各型製造数と機体番号」2007年
  ※また、飛燕と各務原川崎工場については、次のページをご覧ください。
    →岐阜・美濃・飛騨の話「01各務原・川崎航空機・戦闘機」 

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 生き残った五式戦     | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 400機弱が生産された五式戦は、戦争末期のB29爆撃機や艦上戦闘機の襲来に対する防空戦で一定の活躍を見せました。
 しかし、生産機数が少なかったこともあって、2011年現在では、現物は世界でただ1機しか残されていません。その1機が、
イギリス空軍博物館に展示されているわけです。
 さて、長い解説でした。お待たせしました。やっと、五式戦の写真の紹介です。


 写真12-15 空軍博物館の戦闘機フロアーに展示されている五式戦        (撮影日 10/11/16)

 この五式戦の機体番号は、16336号機です。この機は、飛燕2型の首なし飛燕からの改造機で、記録によれば、この機体そのものは1945年2月に製造され、その後五式戦に改造されました。
  ※参考文献2 片渕須直前掲論文の「「キ61」・「キ100」月別生産数と機体番号」表より


 写真12-16 五式戦の右側面部  戦闘機フロアーのほぼ中心に展示されています  (撮影日 10/11/16)


 写真12-17 機体前面左側 (撮影日 10/11/16)

 写真12-18  左脚 (撮影日 10/11/16)

 写真12-19  空冷エンジン(撮影日 10/11/16)

 写真12-20  滑油冷却器  (撮影日 10/11/16)

 この機は、一度胴体着陸しているため、プロペラと滑油冷却器は他機種のものが流用されて復原されています。滑油冷却器は、四式戦疾風のものだそうです。
  ※参考文献2所収 片淵須直他著「復原「五式戦」の全貌」
 

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 写真12-21 エンジン取り付け部(撮影日 10/11/16)

 写真12-22  尾翼と後部 (撮影日 10/11/16)

 液冷式飛燕の細い胴体に、空冷式の太いエンジンを取り付けたため、エンジンと機体の間に段差ができています。この部分はそのままにしておくと乱気流を生じてしまうため、排気管を集めてそれを防いでいます。細い小さな管が排気管です。 


 この五式戦がイギリスの手に渡った理由については次のようになっています。
「 国内防空戦闘の最後を飾ったキ100、五式戦は、ただ一機が、イギリスのバーミンガムにちかいコスフォード空軍基地に現存している。(引用者注 以前はコスフォードに保存されていた)この五式戦が英軍の手に渡ったいきさつについて、陸軍航空輸送部各務原飛行機部で戦地への飛行機空輸作業に従事し、同部がフィリピンのマニラに移ったのちも、そこから飛燕をニューギニア他に運んでいた岸由男軍曹(横浜市)は、戦後、土井に送った手紙の中でつぎのように述べている。
『昭和20年夏、サイゴン (現在のホーチミン市)に隊が移ったとき、キ100一機を内地からシンガポールに空輸するよう命を受けました。7月末、小牧飛行場で飛行機を受けとり、屏東、上海、台中をへて、8月14日、ホーワン (香港ちかくの飛行場)発、さらに海南島の三亜を15日に出発してカンボジアのコンボンクーナンに着いたところで敗戦を知り、そこで引き返してサイゴンで敗戦を迎えました。
 9月はじめごろ、英軍よりキ100パイロットとして呼び出しを受け、そこでキ100を英本国に持って行く話を開きました。飛行機といっしょに私もつれて行って第二次大戦の戦勝祝賀会での見せ物にするような話でしたが、私はことわりました。
 テスト飛行のときは、滑走路わきにトロッコ線路を敷き、ガソリンカーを走らせて離着陸の様子を撮っていました。ピッバーグ中佐の乗るP51といっしょに飛ばされたり、いろいろありましたが、そのとき油圧ポンプの故障で脚が出なくなり、手動もきかないので燃料を全部放出して胴体着陸をやりました。
 飛行機の行きアシが止まるか止まらないうちに、両側からせまった消防車から隊員が機にかけ上がり、私を機外に出そうとしたのには驚きました。日本ではなかったことです。
 英軍は紳士的にあつかってくれ、クレーシー中将、トントン准将、マクモランド大尉、私のための自動車係ニコラス軍曹などにお世話になりました。サイゴンからはキ46Ⅲ型司令部偵察機一機、キ67爆撃機一機とともに船ではこばれたはずです』」
 ※参考文献4 碇義朗著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い 日本唯一の液冷傑作機』P263-64

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 この飛行機を見たかった本当の意味  | 先頭へ ||研修記目次へ

 さて、このままここで終わっては、ただの博物館訪問記になってしまいます。インターネット上なら、他にも同じようなものがあるでしょう。
 何故私がこの飛行機を見たかったか、実はもう一つお話ししなければならないことがあるのです。

 五式戦の周囲で一生懸命写真を撮影していると、イギリス人とおぼしき年配のご夫婦が近づいてこられて、話しかけられました。(英語での会話ですが、日本語で表現します。)

英人

「こんにちは。あなたは日本の戦闘機を熱心に撮影しているが、日本から来たのか?」

「そうだ、日本から来た旅行者だ。高校の教師をしている。」

英人

「この博物館は戦争に勝ったイギリスの博物館だ。この飛行機もどこかから戦利品として運ばれてきたものだろう。敗戦国の日本のあなたとしては、あまり気分のいい場所ではないだろう。」

「私は、日本からこの飛行機の写真を撮影しにやってきた。この飛行機は私の住んでいる市の隣の町で、1945年に製造された。
 私の母は、1930年生まれで現在80歳だ。1945年に彼女は15歳で、高等女学校の3年生だった。前の年から学校での勉強はできなくなり、毎日工場へ行って、飛行機の部品を製作した。その部品がこのタイプの飛行機に使われている。これは、彼女にとって思い出深い飛行機だ。」

英人

「本当かね。あなたのお母さんがこの飛行機を作ったのかね。」

 いえ、母がこの飛行機を作ったわけではありません。
 母が作った部品が五式戦に使われていただけです。
 まあ、細かいことは別して、これは母の若い時の苦労につながる飛行機です。

 母は、1943年4月に高等女学校に入学しました。13歳の時です。ところが、1944年から学徒勤労動員が始まり、当時の中学校生徒や高等女学校生徒は、学校での勉強は中断して工場での労働に動員されました。最初は4年生だけでしたが、次には3年生にも及び、母も学校へ行く代わりに毎日工場で部品を作るはめになりました。
 母が在籍していた高等女学校の記念誌によると、当初は各務原市の川崎の工場へ多くの生徒が動員され、1945年になって、川崎がしばしば空襲を受けると、学校の一部に分工場ができてそこで部品を作ったと説明されています。
 ※参考文献4 六十年史編集委員会編『六十年史』P74-75

 私は小さい頃から母には次のように聞かされていました。、

「各務原でも学校の中にある工場でもなく、学校(当時は岐阜市八ツ梅町にあった)の少し北の忠節橋(現在の橋よりもやや上流にあった)の近くにあった分工場に毎日かよって、男子中学生が作った部品を女学生が磨いた。」

 飛行機の部品を作ったと言っても、旋盤で削るとかそんなたいそうなことをしたのではなく、成形された部品の汚れや油を取るために部品を磨いたというだけだったようです。
 しかし、その部品が、各務原の川崎の本工場へ運ばれ、そこで生産されていた五式戦に使われたのはほぼ間違いないでしょう。
 しかし、各務原の本工場は6月の2度の空襲で壊滅し、岐阜市もまた7月9日深夜から10日未明にかけての空襲で中心部が一面焼け野原となり、母の家(白山小学校校区)も高等女学校も分工場もすべて焼けてしまいました。
 
 分工場で働いたことや、空襲にあって逃げたことについて、イギリスから帰国後あらためて確認してみました。しかし、詳しく聞こうとすると、彼女の記憶は曖昧です。

「分工場はどこにあったの?どんな形の部品を担当していたの?」

「学校から歩いて忠節の分工場へ行ったことは確かだけど、場所ははっきり覚えていない。工場の中に、岐中(現在の岐阜高校)や岐商(現在の県立岐阜商業高校)の男の子もいたのは覚えている。監督が厳しくて怖かった。
 また、空襲の時は、火が付いて落ちてくる焼夷弾が怖くて、岩戸の山の方まで逃げた。その頃のことは、あまりいいことはなかったので、もう詳しく覚えていない。」

 そうですね。
 誰しも、いやなことをいつまでもはっきり覚えているはずがありません。
 母にはこの五式戦の写真を見せるのはやめにしました。「青春の記念」なんてものではありません。忌まわしき戦争の亡霊というところでしょうか。
 人間、忘れてしまうことも大切なことです。

 しかし、戦争末期の苦しい状況の中で、多くの人間がこの優秀な戦闘機の生産に携わったことは、またれっきとした事実です。

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 【追記】以下の項目は、2011年4月9日に追記しました。

 日本陸軍の航空隊として最も早く五式戦を使用し、多くの戦果をあげた部隊は、飛行第244戦隊(指揮官は小林照彦少佐)でした。この部隊はもともと本土防空用に三式戦飛燕で編成された部隊で、高々度で来襲するB29爆撃機に体して、東京上空で次々と体当たり攻撃を実施して勇猛をはせました。
 この第244戦隊は、1945年5月に三式戦飛燕から五式戦に機種改編を行いました。同時に沖縄戦参加のために第30戦闘飛行集団の隷下に入り、九州防空と特攻機の直掩のために、鹿児島県の知覧基地に移ります。
 その後、この戦隊はの活躍について、次のようであったと記されています。
  ※参考文献5所収 高野弘著「解説」 P369
「 6月3日、九州の知覧上空で、おりから来襲した米海軍壊F4Uコルセアの編隊と五式戦30機が壮烈な空中戦を展開し、7機を撃墜、わが方の損失3機と、まず五式戦の優秀性を証明した。
 しかし、いかに期待をかけられていたとはいえ、戦いの大勢は日増しに日本に不利になるばかりのころであったし、またアメリカの物量攻撃のまえでは苦戦をしいられることになる。」

 沖縄戦が終了すると、飛行第244戦隊は滋賀県の八日市基地へ移り、関西方面の防空にあたります。
「 7月16日、小林少佐が十数枚をひきいて潮ノ岬沖へP51ムスタソグの迎撃にあがったとき、第1飛行隊の2機が50機ものP51に包囲され、2機とも失なう結果を生んでいる。
 そののち同戦隊は、本土決戦にそなえて温存をはかるため、司令部から迎撃出動禁止命令をうけていたが、7月25日の中部地区への艦載機による空襲のさいには、戦闘訓練の名目をつけ、独断で小林隊長みずから18機をひきいて基地を飛びたち、八日市上空でF6Fへルキャット艦戦群を有利な高位から奇襲攻撃により、約半数の12機を撃墜した。このとき味方の損害はわずか1機にとどまっている。
 このあと小林少佐は命令違反のかどで軍より叱責されたが、その日の夕刻、なんと陛下より嘉賞のお言葉が伝達されたという。」
 



 岐阜空襲の話も、いつか詳しく取り扱うつもりです。


 もう一つの日本製展示品 桜花       | 先頭へ ||研修記目次へ

 ついでに、イギリスの博物館で見た、もう一つの日本製「飛行機」を紹介します。
 といっても、
イギリス空軍博物館の展示物ではありません。
 
08ページで紹介した、マンチェスター科学産業博物館(MOSI)の展示物です。
 旧日本海軍のロケット特攻兵器、
桜花です。 


 写真12-23       マンチェスター科学産業博物館(MOSI)の桜花2型       (撮影日 10/11/13)


 写真12-24・25   桜花2型とその説明      (撮影日 10/11/13)

 MOSIの解説は、「自殺爆弾」・「人間が操縦する爆弾」です。
 確かにそのとおりですが、説明の雰囲気には、「全く愚かな兵器」と言ったニュアンスが感じられます。これについてもイギリス人にいろいろ言いたいことがありますが、それをするとまたまた大幅に脱線してしまいそうですから、今回はやめます。
 桜花について詳しく知りたい方は、下の参考文献6・7をご覧ください。
 


 【イギリス空軍博物館と三式戦飛燕・五式戦 参考文献一覧】
  このページ12の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

渡辺洋二著『液冷戦闘機「飛燕」 日独合体の銀翼』(文春文庫 2006年)

『「歴史群像」太平洋戦争シリーズ61 三式戦「飛燕」・五式戦』(学習研究社 2007年)

碇義朗著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い 日本唯一の液冷傑作機』(光人社NF文庫 1996年) 

六十年史編集委員会編『六十年史』(富田女子高等学校 1969年)

  『リバイバル戦記コレクション 証言・昭和の戦争 「飛燕」よ決戦の大空へはばたけ』(光人社 1991年) 
内藤初穂著『極言の特攻機 桜花』(中公文庫 1999年)
 

木俣滋郎著『桜花特攻隊 知られざる人間爆弾の悲劇』(光人社NF文庫 2001年) 


 これで五式戦の話は終わりにします。

 次ページは、イギリス空軍博物館の続きです。
イギリス本土航空戦(Battle of Britain)に続いて、ドイツ本土爆撃についての展示を紹介します。


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