開戦当時、日本海軍において護衛戦力に充当されたものは、次の艦艇でした。
旧式駆逐艦 16隻
水雷艇 12隻
掃海艇 19隻
海防艦 4隻
敷設艦 4隻
この合計55隻が、護衛戦力のすべてであり、これで、2529隻の商船(タンカーを含む、以下同じ)を護衛しなければなりませんでした。単純に計算すると、1隻で46隻を護衛しなければならない勘定です。
日本海軍は、この戦力で、1942年4月に第1海上護衛隊(本土−台湾−シンガポール方面航路を担当)と、第2海上護衛隊(本土−トラック島−ラバウル航路を担当)を編成し、微弱ながら「護衛」を開始しました。
この戦力で長大なシーレーンを防衛することはほとんど不可能なことでしたが、1942年中盤までの段階では、アメリカの潜水艦の側も戦力が不十分であったこと(総隻数が少ない、戦法が未熟、不発魚雷が多い、レーダーが未装備)や、アメリカ海軍の命令が船舶よりも戦闘艦艇撃沈重視であったことから、日本商船の被害は、月々10万総トン以内に留まっていました。(上掲 図8参照)
しかし、1942年10月にはじめて潜水艦による撃沈被害だけで、10万総トンを越えました。
そして、アメリカ軍が日本のシーレーンに重点的に潜水艦を配備し、またその魚雷の性能が飛躍的に向上し、各潜水艦が次第にレーダーを装備しはじめ、無線能力も向上し、さらに、ウルフパッキング戦法(通商”狼群戦法”、3隻から4隻でチームを組んで襲撃する戦法)を採用しはじめると、被害は急速に拡大していきます。
1943年11月には、月別被害量が初めて20万総トンを越えてしまいます。
日本海軍は、これと同じ月、連合艦隊と並ぶ部隊として、海上護衛総司令部を設置しました。はじめて、海上護衛に本腰で取り組むことになったという点では画期的なものでしたが、この総司令部も現実的には、また、不十分な戦力しか持っていませんでした。
護衛対象として考えられた商船の総数は2738隻であり、司令部の試算では、360隻の艦艇が必要でしたが、実際には、56隻の艦艇しか配備されていませんでした。護衛空母4隻が配当され等、開戦当初の護衛戦力よりは質的に強化されていましたが、量そのものは、変わってはいませんでした。
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