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戦艦大和について考える10
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認その7「片道燃料」について3
 日本の護衛艦隊                                            | このページの先頭へ |

 前ページで指摘した、日本人の心理は、輸送船団の護衛という点においては、もっとあからさまに現れました。

 東南アジアの資源を日本へ運ぶことこそが、大日本帝国の生命線であると理念的には分かっていても、実際には、それを保証する東南アジアから日本へのシーレーンの防衛に、日本海軍はまことに不熱心でした。
 その理由の一つは、もちろん、これに戦力を充当できない日本の国力そのものの弱さからくるものであり、もうひとつは、敵艦隊撃滅を重視し、護衛をという日常的な地味な仕事を軽視する発想から抜け出せなかったからです。

「日本やイギリスのような島国であって、総力戦上の重要物資を海外に依存している国々にとっては、国力、従って、ウォー・ポテンシャル造成の不可欠の手段である船舶に対する海上交通護衛は、論理的にも、現実的にも、戦争遂行上、作戦の大前提となるという意味で作戦に優先し、あるいは少なくとも作戦と並立するはずのものであった。だが、海上護衛の重要性を主張することは、艦隊決戦至上主義を無批判に信奉する当時の日本海軍にあっては、これを一個の観念論と見る価値観の転倒が支配していたのである。こうして、日本海軍は、先ず、客観的にはその拠って立つ国力の非力のゆえに、次いで、主観的には戦局の見通しと敵に対する無知(この場合とくにアメリカの潜水艦の威力)に基づいた根拠のない楽観主義のゆえに、海上護衛作戦を第二義的以下ともいうべき軽い意味の作戦とすることで、これを事の始めから物語の後景に押しやり、後でも述べるように海上決戦を第一義とする作戦思想に象徴された”攻撃一辺倒”の余りにも一面的なモノマニア的作戦と作戦思想に固執することで、むしろ敗戦と自滅への道を急いだのであった。」

森本忠夫著『魔性の歴史 マクロ経営学から見た太平洋戦争』(文藝春秋 1985年)P88(着色と強調は、筆者が施しました)


<普通の教科書にはない太平洋戦争に関する知識 その3> 
 帝国海軍軍人の中には、当然ながら、「自分は連合艦隊ではなく、護衛隊で活躍したい」という発想はありませんでした。あくまで、艦隊決戦一辺倒の思考です。

「日本海軍の護衛が立ち遅れ、護衛総司令部が発足してからでさえ、遅々として護衛戦法が発達しなかった最大の原因は、このような人事配員に欠陥があったからだったと思われる。敵の戦法を見破り、これに対して新戦法を考案できるような人物は、みな連合艦隊の艦艇に配乗してある。連合艦隊ばかりにそんなに人材を集めても、連合艦隊自身としても、その割合に効果はあがるはずがないのだから、多少は護衛部隊に人材を分配してよこしてもよさそうなものなのに、人事当局のものもみんな連合艦隊一辺倒で、あの経済学でいう効力逓減の法則についての考慮がなかった。海軍省の人事局ばかりでなく、鎮守府の人事部でも同じことであった。護衛総司令部の参謀連が、久里浜の対潜学校に視察にいったときの話。参謀と学校の教員との問答。

参謀(大井)

「この水中測的班を卒業するとこの兵器を使ってどれ位の距離まで測定でき る見込みか」

教員

「人によって非常に違います。適性の悪いものはいくら稽古しても駄目です。連合艦隊に配員されるものは大体適性のあるものと見てよろしいですが、内戦部隊(護衛部隊などの意) にはあまり適性のいいものは行きませんから、信頼性がありません。」

参謀

「オイ冗談いっちゃ困るよ。水測兵器などというものは、護衛艦が一番多く使うもので、適合艦隊の艦艇ではそういつもいつも使うものじゃないよ。ことに大艦なら水測員が多数乗っているから、潜水艦の待ち伏せしていそうな海面を通るときには、そのなかから上手なものが当直すればいいが、護衛艦は潜水艦のいる海面を十何日も連続航海で使い通しだし、それに水測貞の配乗が少ないんだから、護衛艦にこそ、優秀なものを選んでやって貰わなけりや。」

教員

「でも、優秀なものはみんながみんなといってもよいくらい、連合艦隊の大艦志望で護衛艦は志望しないんです。」

参謀

「そこを君らが日頃よく説得してやって、護衛部隊に志望するようすすめるんだよ。優等生は護衛艦に行くものだと相場がきまれば、誰だって劣等生仲間に入りたくないから、護衛艦に優秀なものが志願するようになるよ。」

<注>

潜水艦が水中に潜っているときにこれを探す兵器を水中測的兵器(水測兵器) という。初めは水中聴音器といって、敵潜が出すいろいろの音、とくにスクリューの音などをつかまえる兵器ができた。ところが、この兵器を使う方の艦船が走っていると、自分のスクリュー音が邪魔になる。自分の船が停止するか、ごく静かに動くようにしないといけない。方向性も悪い。(中略)
そのうえ、魚群や水泡など、いろいろなものにぶち当たってはねかえっってきたものを、潜水艦と間違えることも多い。概して水中測的兵器はこれを使う人の技量や適正が非常に大きな関係をもつ。

大井篤著『海上護衛戦』(朝日ソノラマ新装版戦記文庫 1992年)P214より


 開戦当時、日本海軍において護衛戦力に充当されたものは、次の艦艇でした。

  • 旧式駆逐艦 16隻

  • 水雷艇    12隻

  • 掃海艇    19隻

  • 海防艦     4隻

  • 敷設艦     4隻

 この合計55隻が、護衛戦力のすべてであり、これで、2529隻の商船(タンカーを含む、以下同じ)を護衛しなければなりませんでした。単純に計算すると、1隻で46隻を護衛しなければならない勘定です。

 日本海軍は、この戦力で、1942年4月に
第1海上護衛隊(本土−台湾−シンガポール方面航路を担当)と、第2海上護衛隊(本土−トラック島−ラバウル航路を担当)を編成し、微弱ながら「護衛」を開始しました。
 この戦力で長大なシーレーンを防衛することはほとんど不可能なことでしたが、1942年中盤までの段階では、アメリカの潜水艦の側も戦力が不十分であったこと(総隻数が少ない、戦法が未熟、不発魚雷が多い、レーダーが未装備)や、アメリカ海軍の命令が船舶よりも戦闘艦艇撃沈重視であったことから、日本商船の被害は、月々10万総トン以内に留まっていました。(上掲 図8参照)

 しかし、
1942年10月にはじめて潜水艦による撃沈被害だけで、10万総トンを越えました。
 そして、
アメリカ軍が日本のシーレーンに重点的に潜水艦を配備し、またその魚雷の性能が飛躍的に向上し、各潜水艦が次第にレーダーを装備しはじめ、無線能力も向上し、さらに、ウルフパッキング戦法(通商”狼群戦法”、3隻から4隻でチームを組んで襲撃する戦法)を採用しはじめると、被害は急速に拡大していきます。
 
 1
943年11月には、月別被害量が初めて20万総トンを越えてしまいます。
 
 日本海軍は、これと同じ月、連合艦隊と並ぶ部隊として、
海上護衛総司令部を設置しました。はじめて、海上護衛に本腰で取り組むことになったという点では画期的なものでしたが、この総司令部も現実的には、また、不十分な戦力しか持っていませんでした。
 
護衛対象として考えられた商船の総数は2738隻であり、司令部の試算では、360隻の艦艇が必要でしたが、実際には、56隻の艦艇しか配備されていませんでした。護衛空母4隻が配当され等、開戦当初の護衛戦力よりは質的に強化されていましたが、量そのものは、変わってはいませんでした。


 護送船団方式                                             | このページの先頭へ |

 太平洋戦争中の日本の海上護衛は、防衛庁戦史によると次の4段階に分けることができます。

森本忠夫前掲著『魔性の歴史 マクロ経営学から見た太平洋戦争』P111〜130を参考にしました。

 

第1段階

戦争初期の海上護衛戦

 

41.12〜42.10

 1船団の隻数は多くて5隻、被害が少ないため護衛艦艇なしの単独航海の船舶も多かった。

第2段階

海上護衛問題の重大化

 

42.11〜43.11

 936船団4591隻が運行されたが、護衛艦艇が付いたのはこのうちの65.6%。ただし、各船団の護衛艦艇隻数は、大半が1隻、多くて2〜3隻。
 ただし、前半は、まだ、アメリカ潜水艦の能力が相対的に低く、その主目標が日本軍の戦闘艦艇であったため、日本船団が敵に遭遇する比率(43年5月までの
会敵率は6.05%)は少なく、被害もそれほど重大には至らなかった。
 しかし、後半は、アメリカが日本船団攻撃に本腰を入れてきたため、43年6月〜10月の
会敵率は、11.76%に跳ね上がり、被害も急増した。

第3段階

海上護衛戦の本格化

 

43.12〜44.10

 大船団主義がとられ、1船団の商船隻数が増加。また、護衛艦艇が付く比率も70.66%に増加。
 44年4月以降半年の平均では、
1船団の平均隻数は8.6隻に。
アメリカ潜水艦や航空機の活躍の増加によって、会敵率は、次のように増加。

  • 44年5月  39.4%

  • 44年6月  51.6%

  • 44年8月 140.0%(潜水艦+飛行機)

  • 44年10月 151.4%(同上)

 会敵率が100%を越えるということは、1船団が敵に2回以上遭遇することが多くなったということです。

最終段階

海上交通路の逼塞

 

44.11〜敗戦

 44年中は大船団主義が続けられたが、45年1月に再び、小船団主義(または単独航海)に戻される。これは、大船団を組んで出航すると敵(航空機)は見逃さず必ず現れて攻撃をしかけるが、小船団の場合は、敵(航空機)が出撃を見送る場合もあったからである。

 44年11月〜45年3月の123船団は、
97.5%の護衛率であったが、20年3月には会敵率は、215.8%となり、東南アジアから無事日本へたとりつく船団は皆無となる。
 45年3月末には、台湾以南、東南アジアとのシーレーンは放棄される。これで事実上、資源輸送は終了。
 この月、また、アメリカ軍爆撃機B29による、関門海峡などへの機雷投下がはじまり、国内沿岸航路も犠牲が出始める。終戦までの
機雷の被害は、総計80万総トン


 第1段階・第2段階では、日本は海上護衛に本腰を入れていませんでしたが、第2段階途中からアメリカ潜水艦の活躍が本格化し、日本も対応を迫られます。
 第3段階に入って、
大船団主義の採用や護衛率の増加がはかられました。これは、潜水艦に対しては、一時的には効果を発揮します。
 しかし、潜水艦に加えて、アメリカ軍の陸上基地からの飛行機の攻撃や、空母機動部隊の艦載機の攻撃が加わり、被害は急増します。

 そして、第4段階を迎えます。
 44年11月以降フィリピン全島が次第に敵に占領されていくと、もはや東南アジアからのシーレーンは維持できなくなります。

<用語解説>

護送船団主義

 日本の経済は、よく「護送船団主義(方式)」と言われました。

 これは、銀行などにおいて、政府の手厚い保護によって、競争を行わずに横並びで同じように保護を受けて成長する、「ひ弱」な様子を著した表現です。
 もともとの護送船団主義は、大西洋で跳梁したドイツ軍Uボート(潜水艦)の被害から輸送船を守るために連合軍が開発したものです。
 単独や数隻で航海するよりも、何十隻、あるいは100隻に近い大船団を組んで手厚く護送する方が、被害が少ないのです。

 日本海軍の場合は、たかだか10隻程度の護送船団を仕立てただけでしたが、それでも潜水艦に対しては一時的に有効でした。
 しかし、飛行機による襲撃に対しては、どちらにしても無力でした。その結果、上記のように、再び小船団主義や単独航海に戻されています。
 ドイツ海軍には航空母艦はなく、航空機による攻撃はありませんでしたから、護送船団主義は有効でした。
 
 
経済的には、護送船団は「安全」の代名詞のようになっていますが、太平洋戦争中の日本海軍においては、決して安全を保障するものではありませんでした。


<普通の教科書にはない太平洋戦争に関する知識 その4> 
 日本軍は、戦闘艦艇も含めて、アメリカ海軍の潜水艦に対して、あまりにも無力でした。
 それは、ひとつにはアメリカの潜水艦が
レーダーを装備していたためであり、もうひとつは、優秀な無線電信装置のせいでした。

 狼群戦法をとるアメリカ潜水艦は、特に夜間には、浮上してレーダーによって日本軍艦船をとらえ、また、味方艦と無線で連絡を取り合って、襲撃の下準備をしました。
 
 以下は、日本軍の惨敗の例です。

例1 SJレーダー


 1943年2月8日夜10時過ぎ、戦争前の日本郵船の所有船で、日米航路の豪華客船だった
龍田丸1万6900トンが、伊豆諸島沖でアメリカ潜水艦ターボンに撃沈されました。護衛として駆逐艦山雲が付いていましたが、守り切れませんでした。輸送していた陸軍の兵士と乗組員合わせて1481名全員が死亡しました。

 と書きましたが、日本側にとって、この事実は戦後になって分かったことで、当時は、なぜ龍田丸が沈んだかが分かりませんでした。
 夜に太平洋の海上で沈んだのですから、敵の攻撃なら潜水艦しかあり得ません。(当時の飛行機には現在のような航空機搭載の優秀なレーダーは搭載されておらず、夜の艦船攻撃はできませんでした。)

 しかし、駆逐艦山雲は、龍田丸が潜水艦によって沈められたとは考えませんでした。なぜかといえば、この夜のこの海域は、月明かりもない、しかも波浪が高い大荒れの天候だったからです。こんな状況下では、日本海軍の潜水艦の常識なら、潜水艦が、潜水して潜望鏡で敵をとらえることはもちろん、浮上して艦橋から見張りが望遠鏡で敵を発見することなどまったく不可能と考えられたからです。

 しかし、潜水艦ターボンは、約10km先の龍田丸をとらえ、4本の魚雷を発射してこれを撃沈しました。優秀な見張り員がいたからでしょうか?

 もちろん違います。
 
秘密は、SJレーダーと呼ばれていた、超短波レーダーでした。あのアメリカのベル電信電話会社が開発したこのレーダーは、敵艦の距離と方位を正確にはじき出しました。しかも、もう一つ別の装置、魚雷データ計算機というのもありました。これは、計算機にデータを入力すると、肉眼ではまったく見えない敵に対して正確に魚雷攻撃ができるという優れものでした。

 この時
潜水艦ターボンに乗船していた将校から戦後に聞いた話です。
「あのときは、横浜の南方沿岸をパトロールしていたんですよ。するとレーダーが6、7マイル先(注 約10〜11km先)に大きな獲物をキャッチしました。ただちに接近して攻撃位置につきました。真っ暗闇で肉眼ではよく見えないので、
新兵器のSJーダーと魚雷データ計算器を使って攻撃することにしました。新兵器がほんとうに威力があるものか、内心は疑心暗鬼でしたが。4本魚雷を発射しました。驚いたことに全部命中でした。ものすごい大爆発音が聞こえました。沈むまで30分もなかったと思いますが、2月の寒い夜で海は大荒れでしたから、たくさんの人が死んだんでしょうね。気の毒なことをしました。

 龍田丸撃沈の直後、もう1隻われわれは日本の1万トン級の輸送船を夜間のレーダー攻撃で撃沈し、すっかり自信をつけました。SJレーダーは距離の測定もきわめて正確でしたし、敵船の進行方向の予測もピックリで、ほんとうに頼りになる兵器でした。以後、夜間のレーダーによる魚雷攻撃がアメリカ潜水艦のいちばん得意な戦法になりました。」 

NHK取材班『ドキュメント太平洋戦争1 大日本帝国のアキレス腱 太平洋シーレーン作戦』(角川書店 1993年)158〜160


例2 駆逐艦とは名ばかり


 1944年4月からの一定期間、アメリカ海軍は潜水艦部隊に対して、敵船団と護衛艦を発見した場合は、まず、護衛艦艇を撃沈せよという命令を発令します。
 アメリカ軍はそれまでの情勢を分析し、日本軍の護衛艦艇が不足していること把握しており、それを見越しての命令でした。この結果、それから2か月半の間に、駆逐艦11隻、海防艦4隻が犠牲となりました。

 駆逐艦というのは、
英語ではdestroyerと呼ばれ、本来は、潜水艦を「駆逐」する艦艇のはずなのですが、アメリカ軍の優秀な潜水艦の前には、逆に餌食となってしまいました。

 1944年6月に日米の空母機動部隊の決戦が行われます。マリアナ沖海戦です。
 この直前、機動部隊は、フィリピン群島南西端の小島の泊地タウイタウイに集結します。こんな所に集まった理由は、この泊地のすぐ西に、カリマンタン(ボルネオ)島があり、タラカン油田とかサンガサンガ油田から重油が補給しやすかったからです。(地図はこちらです。Battle_Ship_Yamato08_04Oil_occupation1941.gif',641,576,641,576

 ところが、ここはアメリカ潜水艦がマークする場所であり、これを排除しない限り、艦隊の訓練もままならない状況でした。
 このため、機動部隊の護衛のための駆逐艦が敵潜水艦の警戒に出かけたのですが、反対に、6月6日から9日まで、
4日間連続で毎日1隻ずつ沈められるという失態を演じてしまいました。

大井篤前掲書『海上護衛戦』P238〜240より

 
 ある駆逐艦艦長経験者は、駆逐艦が潜水艦に対して無力な理由について、次のように回顧しています。

「艦隊決戦という長年培って釆た兵術思想は、海軍首脳部歴々の頭脳から容易に払拭することはできなかった。艦隊は明けても暮れても砲戦訓練、夜間襲撃訓練のくり返しであり、潜水艦を目標にした対潜訓練は、艦隊では一回も行なわれなかった。
 対潜戦は港湾防備の分野に編み込まれ、主として駆潜艇、海防艦の演練種目とされて、第一線の駆逐艦の取り組む種目となっていなかった。潜水艦恐るるに足らず、爆雷を放り込めば落着程度にしか思われていなかった。     
 この対潜戦軽視のつけがやがて大きくのしかかり、対潜艦艇と看傲されていた駆逐艦が米潜水艦にばかんぼかんやられることとなり、ほどこすすべがなかった。
 昭和17年(1942)5月、私は駆逐艦「芙蓉」水雷長に就任した。対潜兵器として艦尾に爆雷投下軌条と投射器があったが、
肝腎の水中測的兵器(水中探信儀)は装備されていなくて、爆雷攻撃はまったくの目算と勘によるほかなかった。

森田友幸著『25歳の艦長海戦記』(光人社 2000年)P27−28 駆逐艦「芙蓉」のような旧式艦が、主に船団護衛の任を務めました。
筆者の森田友幸氏は、1945年2月、25歳の若さで駆逐艦天津風の艦長となり、直後船団護衛に加わって、シンガポールから帰還。その話は、次ページで。


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