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 リヴァプール遠征2 マージサイド  11/02/20記述 

 前ページに引き続いて、リヴァプール遠征の続きです。
 大聖堂からチャーチ・ストリート、ロード・ストリートを通って、
マージー川の河口部マージー・サイド)へやってきました。アルバート・ドックのそばのマージーサイド海洋博物館見学が主たる目標です。
 この地区は、海商都市リヴァプールのユネスコ世界遺産指定地域です。

 チャーチ・ストリート、ロード・ストリートを通って、マージサイドのワッピング通まで降りてきましたが、さて、ドック沿いには同じような建物が並び、どれが海洋博物館なのか分かりません。
信号待ちの老夫婦に聞いてみました。

「すみません。海洋博物館はどれでしょうか?」

老人

「君は旅行者か、どこから来た?」

「日本です。」

老人

「日本か。遠いところからよく来た。博物館はすぐそこだ、私たちが連れて行ってあげよう。」

 大変ありがたかったのですが、この時すでに時刻は4時を過ぎ、日没と最終入場時間(16:30)が迫っていました。70歳過ぎの老夫婦だったので、歩くスピードがとても遅いんですね。(- -;)

「あの、あれですか、それですか、指さしていただければ・・・・」

老人

「いやいや、迷子なるかもしれない。案内してあげよう。」

 結局、私が走ったら5分とはかからない距離を、10分以上かけてゆっくり案内してもらいました。親切は素直に受けなければいけません。(-.-)


 ちょっとここで余談です。
 江戸時代末期に開港して外国文化に接した時、日本は、外国の地名を今のようにカタカナで表記することを行わず、基本的に漢字を使って標記しました。アメリカ(
亜米利加)、イギリス(英吉利)という具合です。
 あまり知られていないのでは、スウェーデン(
瑞典)、スイス(瑞西)、ハンガリー(匈牙利)、メキシコ(墨西哥)、スペイン(西班牙)、ポルトガル(葡萄牙)などです。
 これらは、すべて、一太郎(ATOK)でもワード(MSIME)でもちゃんと変換候補があります。えらいもんです。
 
 都市名では、ニューヨーク(
紐育)、ロンドン(倫敦)、パリ(巴里)などです。
 但し、ここまでは、日本語や中国語の発音上の当て字を使った表現となっていますが、次の例は違います。
 ハリウッド(
聖林
 これは、holly wood と言う英語の意味から漢字を当てたものです。

 また、サンフランシスコ(
桑港)というのもあります。
 これは、桑の中国語発音が「サン」なので、それと海港都市という意味での港を付けて、いわば略称として用いたものです。これもワープロは変換します。
 
 では、リヴァプールはどうか?
 これはリヴァプール、リバプールのどちらで入力しても、一太郎もワードも変換してくれません。
 正解は、「
倫港」です。
 サンフランシスコと同じパターンの名付け方です。



 写真10−01 Beatles story(撮影日 10/11/13)

 写真10−02 Beatles story (撮影日 10/11/13)

 博物館ビートルズ・ストーリーです。 http://www.beatlesstory.com/ 
 私は時間がなくて中へは入りませんでした。写真は研修団の他の方からいただきました。


 写真10−03 ポート・ビル (撮影日 10/11/13)

 写真10−04 アルバート・ドック(撮影日 10/11/13)

 左上:中央の教会のような建物は、Port of Liverpool Buildingです。この建物は、1904年に建築を開始され、1907年に完成しました。それから87年間、1994年まで、Mersey Dock and Harbour boardの本部として使用されました。
 左の近代的な建物は、Museum of Liverpoolです。
 右上:
アルバート・ドックです。
 この建物は、ドックの事務所や倉庫で、1846年に建築されました。
 建物の骨材に木材を使わず、鉄と石と煉瓦のみを用いたイギリス最初の建物です。結果的に世界最初の不燃建造物となりました。
 実はこの2枚の写真も、私が撮影したものではなく、同じ研修団の別の方が、私より午後の早い時間帯に訪れて撮影したものです。
 


 写真10−05   夜景  (撮影日 10/11/13)

 写真10−06       □  (撮影日 10/11/13)

 こちらが、私が撮影した写真です。
 上:夜のPort of Liverpool Buildingです。
 右上:夜のアルバート・ドックです。白く光っている半円形のものは、新名所の大観覧車です。今回の旅にはカメラの三脚は持っていかなかったので、2枚ともちょっとピンぼけになっています。お許しあれ。
 


 写真10−07  対岸  (撮影日 10/11/13)

 写真10−08  夜景です  (撮影日 10/11/13)

 対岸のバーケンヘッドです。マージー川河口部は、狭いところでも1.2km程の幅があります。


 リヴァプール海洋博物館   | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 リバプールマージーサイド海洋博物館Liverpool merseyside maritime museum)は、アルバートドックの建物の倉庫の建物を利用して、1980年にオープンしました。
 北のカニングドック、南のアルバート・ドックに挟まれた部分にあります。


 写真10−09  海洋博物館              (撮影日 10/11/13)

 海側から見た海洋博物館です。水面はカニングドックです。


 写真10−10   海洋博物館  (撮影日 10/11/13)

 写真10−11  正面玄関  (撮影日 10/11/13)

 左上:ワッピング通から見た海洋博物館です。
 右上:博物館の正面玄関です。ちょっと判別しづらいですが、正面に大きな錨があります。
 


 この海洋博物館は、リヴァプールが貿易を通しての世界への窓口であった歴史を顕彰する博物館です。奴隷貿易や移民や大西洋航路の豪華客船の沈没や、第二次世界大戦中の船団輸送等が、テーマとなっています。しかし、私が入館できたのは、16時25分でしたので、展示物を見ることができる時間は、閉館の17時まで僅か35分間しかありませんでした。
 駆け足で、大西洋航路の展示と、第二次世界大戦中の船団輸送と護衛の展示を見ました。
 まずは、大西洋航路です。
 有名な大きな2隻の客船の巨大模型が展示してありました。さてその客船の名前は何でしょうか?


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。
地図11 英国主要都市と路線図
 豪華客船沈没      | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 海洋博物館で学習した(英語を苦労して読んだ)ことがらとして、まず、北大西洋航路の豪華客船の話をします。
  ※以下の記述は、参考文献2、竹野弘之著『ドキュメント豪華客船の悲劇』P55−67を参照しました。

このページの参考文献一覧へ

 写真10−12  タイタニック号の模型です
                 (撮影日 10/11/08)

 先に沈んでしまったのは、
タイタニック号です。
 この船は、ホワイト・スター・ライン社の持ち船です。この海運会社は、もともと1845年にリヴァプールに設立された会社でしたが、1902年にはアメリカの
巨大財閥J・P・モルガンに買収されており、モルガン財閥は他の船会社も傘下に収めて、北大西洋横断航路(北米−欧州航路)の支配を狙っていました。
 その戦略のもとに、この会社は、 オーシャン・ライナーと呼ばれる豪華客船をリヴァプール等のイギリスの港と北米ニューヨーク間の航路に就航させていました。
 これに対抗する立場にあったのが、同じくリヴァプールに本拠を置くイギリス資本の海運会社
キューナード・ライン社です。ルシタニア号はそのキューナード・ライン社の持ち船です。
 先んじたのは、1904年に起工し、1906年に進水、1907年に就航した
ルシタニア号です。総トン数31,500トン、全長240m、最大乗客数2200人、乗務員850名、巡航速度25ノットという、豪華客船です。姉妹船にはモーリタニア号があります。のち遅れて、3隻目のアキタニア号が建造されました。
 この3隻の建造には、イギリスの威信がかかっていました。
 19世半ばから、北米−欧州航路の所要時間を巡る争いが展開され、最高平均速度を記録した船にはその栄誉をたたえて、北大西洋横断航路会社によって設けられた藍綬章(ブルー・リボン)が受賞されていました。
 このタイトルを持っていた海運会社は、19世紀後半までは、はホワイト・スター・ライン社キューナード・ライン社などのイギリスの船会社でしたが、1898年にそのタイトルは、ドイツの北ドイツ・ロイド社に奪われてしまっていました。

  イギリス政府は、イギリス資本の海運会社の保護とブルー・リボンの奪回の両方の意味で、キューナード・ライン社の新造船建造に補助金と低利融資の双方で援助を行いました。(ただし、戦時には国家が徴用し武装した仮装巡洋艦に改造するという条件付きでした。)ルシタニア号はライバルのドイツ船のほぼ2倍のサイズを持つ巨大客船で、下で説明しますが、その力をフルに発揮して、スピード争いの王座を奪還します。
 
 一方、アメリカ資本のホワイト・スター・ライン社は、スピード争いではなく、最初から一度に3隻の豪華客船の就航を計画してこれに対抗しました。それが、
オリンピック号タイタニック号ブリタニック号で、まとめてオリンピック級と呼ばれました。
 タイタニック号は、1909年に起工、1911年に進水しました。 タイタニック号は、ルシタニア号より速度は遅いもののより巨大で豪華な客船で、総トン数46,328トン、全長269m、最大乗客数1224人、乗務員899名、巡航速度23ノットでした。
 そしてこの船は、かの有名な悲劇に遭遇します。
 1912年4月10日、イギリス南部のサウサンプトン港(→地図11 英国主要都市と路線図参照)から処女航海に出港したものの、5日目の4月15日、氷山との衝突によりカナダのニューファンドランド島東南沖合で沈没しました。
  
 ちなみに3隻目の
ブリタニック号は第一次世界大戦が始まってから完成し、すぐに病院船として徴用されました。1916年11月にギリシアのアテネ東南方のスニオン岬沖でドイツ軍の敷設した機雷に触れて沈没しています。豪華客船としての活躍はできませんでした。


 写真10−13追加  切手に描かれたタイタニック号              (撮影日 13/10/06)

 カナダの1ドル80セント切手に描かれたタイタニック号の美しい姿です。
 この切手は、2012年3月20日にカナダの郵便事業体カナダポストが、
タイタニック号遭難100周年を記念して発行した5種類の切手のうちの一つです。1912−2012の数字はそれを示しています。数字の左の★印を描いた赤い旗は、タイタニック号の所有会社、ホワイト・スター・ライン社の社旗です。

 切手の背景には、大西洋の地図と地名が3つ記されています。右の 
Southampton は、タイタニック号が出発したイギリスの港町です。第一煙突左にあるCapeRaceは、ニューファンドランド島の地名で、タイタニック号はこの島の南沖合604kmの地点で沈没しました。
 もうひとつ、
Halifaxは、カナダ本土最東端の港町で、タイタニック号の救援にも何隻もの船が出航しました。たくさんの遺体も収容し、町には墓地もあるとのことです。
 
 この切手は、カナダ在住の方からの封書に使われていた切手です。
 ちなみに、1カナダドルは、2013年10月6日現在、94.59円ですから、日本円の価値で言うと、170円ほどの切手になります。カナダから日本への普通航空郵便は封書で、1ドル40セントです。 


 タイタニック号は、何回も映画化され、超有名な船の一つですが、その沈没は海難史上の重要な事件であっても、中学校や高等学校の教科書に掲載される歴史的な意義のある事件ではありません。
 ところが、ルシタニア号は違うのです。高等学校の世界史の教科書に登場し、重要な役割を演じます。しかも、そこにはちょっとした誤解が生じている可能性がありますので、少々解説をします。


 ル号の沈没と第一次世界大戦のドイツ無制限潜水艦作戦研修記目次へ

 まずはルシタニア号の沈没の状況です。


 写真10−12  ルシタニア号の模型              (撮影日 10/11/13)

 ちなみにルシタニア号の名前は、古代ローマ帝国が現在のポルトガル中央部・スペイン西部にまたがる地域に設置していた属州の名前に由来しています。
 この船は、大きさでは、
タイタニック号のオリンピック級より小振りでしたが、速度では上回っており、処女航海では1907年の9月7日でリヴァプール港を出港し、7日目の9月13日にニューヨーク港に到着しました。さらに、その翌月には、ニューヨーク港と南アイルランドのコーク港の間を、はじめて5日間を切る、4日間19時間52分で航行し、平均速力23.99ノットを記録して、9年ぶりにドイツ船からブルー・リボン章の奪還に成功しました。さらに、その翌年1909年9月に姉妹船モーリタニア号が平均速度26.06ノットの驚異的スピードを記録し、その後20年間タイトルを保持しました。
 
 1914年に第一次世界大戦が始まると、イギリス政府は豪華客船の運用をいろいろ検討し、上述の
ブリタニック号のように病院船となったものや、武装商船となったものもありましたが、ルシタニア号はそのまま客船として利用されました。
 1915年4月17日ルシタニア号は、201回目の航海にリヴァプールから出発し、無事4月24日にニューヨーク港に付きました。復路は、5月1日にニューヨーク港を出発しました。
 目的地のリヴァプールまであとすこし、アイルランドの南沖合にさしかかった5月7日の14時10分過ぎ、潜んでいた
ドイツ海軍の潜水艦U20が放った2本の魚雷のうちの1本がブリッジ直下の右舷に命中し、14時28分にはあえなく沈没しました。
 1198名の乗客が犠牲になり、その中には128名のアメリカ人(乗船アメリカ人は139名)が含まれていました。


 これについて、このドイツ潜水艦によるルシタニア号の撃沈が第一次世界大戦全体でどういう意味を持ったかについての高等学校の教科書の記述は、次のようになっています。


 これを読むと、微妙な判断をしてしまうことがおわかりでしょうか。
 記述、BとCの関係は理解できます。ドイツが
連合国の経済封鎖に対抗する手段として、無制限潜水艦作戦を実施し、それがアメリカの対独宣戦につながったという流れです

 それでは、Aの部分、ルシタニア号の撃沈の説明はどう理解するのでしょうか?
 一番してはいけない大間違いは、「
Cの無制限潜水艦作戦が宣言されたあと、ルシタニア号が撃沈された」という理解です。それが間違いであることは年号を確認すればわかります。ルシタニア号沈没は1915年、無制限潜水艦作戦の宣言は1917年です。
 では、AとB・Cの関係はどうなるのでしょうか?
 ルシタニア号は、
無制限潜水艦作戦で撃沈されたのか、あるいは、全く誤って撃沈されたのでしょうか?
 これだけの記述では、どうもその辺はわかりません。


 無制限潜水艦作戦の真実  | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 まず、そもそも、潜水艦という兵器の話から進めます。
  ※以下の戦果の記述は、参考文献3、鳥巣建之助著『回想の潜水艦戦』P20−34を参考にしました。

 潜水艦という兵器の採用は、イギリスが1901年と早く、ドイツは遅れて1906年に最初の一隻が完成しました。1914年8月の第一次世界大戦の開始された時点で、ドイツには28隻の潜水艦(Uボート)が配備されており、さらに45隻が建造中でした。しかし、実は、それが実際の戦いでどんな働きをするのかは、未知数と言うより、あまり大きな期待を抱かれてはいませんでした。当時の潜水艦は、現在とは違って排水量400トン、乗員30名程度の小さな船であり、荒天の大洋を突き進んで敵艦を撃沈するという任務を果たせるものかどうかは、実際に戦争になってみないとわからないと思われていました。

 ところが、開戦から1ヶ月後の9月5日、ドイツの
潜水艦U21は、英軽巡洋艦を魚雷攻撃で撃沈し、歴史上初の潜水艦による水上軍艦撃沈という快挙を成し遂げました。
 さらに、9月22日には
U9が1時間にわたって英艦隊を攻撃し、旧式ながら巡洋艦3隻を撃沈するという大戦果を上げました。当時は、水上艦艇の方にも潜水艦に対する防御と反撃が考えられていませんでしたので、最初の巡洋艦が被雷沈没し、僚艦がその乗組員を救助している間に次々と攻撃を受けるという失態を演じてしまいました。
 もっとのちのことですが、翌1915年5月25日には、トルコのダーダネルス海峡近海で、またもや
U21が今度はイギリス戦艦トライアンフを撃沈しています。小さな潜水艦が、旧式ながら排水量11900トンの巨大艦を撃沈するという大活躍を成し遂げたのです。

 こうして、ドイツ海軍はUボートの有用性に気付き、ドイツ政府に対して潜水艦による
イギリスの貿易破壊、具体的にはイギリス周辺海域を潜水艦で封鎖する作戦を進言しました。大戦前にはイギリスに対抗すべく水上艦艇の大拡張を図ったドイツでしたが、ドイツはもともと陸軍国、その海軍力は当然ながら未だイギリス海軍には及ぶものではありませんでした。水上勢力に代わる対抗措置として潜水艦に注目したわけです。
 軍のこのような動きに対して
海軍大臣ティルピッツ宰相ベートマン・ホルヴェークは、その行為が国際公法上問題があることや、中立国アメリカとの関係を考慮して、当初は消極的な態度を取りました。
 しかし、イギリス軍自身も公海である北海全域と英仏海峡を「
イギリス軍事水域」と勝手に宣言し、機雷・防潜網・水上艦艇などによって封鎖するという強硬措置に出たため、ドイツに向かう中立国の船も英国海軍にその往来を妨害(積み荷の没収等)され、このため食糧輸入国のドイツの食糧事情がだんだん逼迫していくという事態が生じていました。また、英国商船の艦尾に15センチ砲を搭載し、これを隠蔽し、ドイツ潜水艦が接近すると突然砲撃したり、さらには、英国船に中立国アメリカの国旗を掲げさせるという国際法違反の行っていました。
 これらの事情や、ドイツ議会や国民の熱狂に動かされ、ドイツ政府は結局1915年2月4日に、重大な宣言を発しました。
 それが、「
ドイツ潜水艦戦争水域に関する宣言」です。
 通常、潜水艦を含む軍艦が軍艦以外の商船等を攻撃する場合は、まず臨検手続き(相手船舶を停止させ兵員を乗船して行う点検)を行い、戦時禁制品(武器など)の積載があれば、乗員の退避後撃沈または拿捕するというのが国際公法に乗っ取ったやり方でした。
 しかし、ドイツのこの宣言は、イギリスの周辺に封鎖海域を設定し、2月18日以降この海域を航行する船舶はイギリス商船はもちろん中立国の船舶も撃沈するというものでした。乗組員・乗客の救助は必ずしもできるとは限らないとしました。
 そして、その宣言から二ヶ月半後の5月7日に、アイルランド南沖合で、
U20号ルシタニア号を撃沈したのです。
 
 ここで、このドイツの方針がそのまま継続されていれば、上記の教科書に記載されている、「
1917年、ドイツは無制限潜水艦作戦を宣言し」というのは、全く意味のない記述となります。
 実は、ルシタニア号沈没のあと、ドイツの方針は変更されるのです。
 すでにアメリカ政府のウィルソン大統領は、2月にドイツが宣言を発した6日後に、ドイツに抗議の覚え書きを送っていましたが、これによってドイツ政府・軍内部は動揺し、宣言は継続するものの、「当分の間、米国および伊国国旗を掲揚する艦船に対しては、敵性であることが確認されない限り、攻撃してはならない」とされたのです。
  ※参考文献3 鳥巣建之助著『回想の潜水艦戦−Uボートから回転特攻まで−』P48

 もちろん、ルシタニア号はイギリス国旗を掲げたイギリス船ですから、
U20号は命令違反をしたわけでも何でもありません。しかし、この沈没によって、アメリカ人128名が犠牲者となると、アメリカ政府は、ドイツ政府に対してUボートによる通商破壊を即時中止するように要求しました。
 アメリカからの抗議にドイツは旅客航路の客船への攻撃中止を指令してアメリカに謝罪しましたが、イギリス船であるルシタニア号の撃沈の正当性に対しては譲らず、これ以降も交戦国のイギリス・フランス商船への攻撃はやめませんでした。
 しかし、アメリカ人乗客の遺族が起こした損害賠償訴訟でアメリカの裁判所がドイツ政府の責任としたことについては、アメリカの参戦を避けるためにその判決を認め、1916年2月に損害賠償に応じることとし、戦後賠償金を支払っています。
 ※参考文献2 竹野弘之著『ドキュメント豪華客船の悲劇』(海文堂出版 2008年)P66
 
 ところが、1915年8月にUボートによるイギリスの定期船アラビック号撃沈事件が起き、アメリカ人2名が犠牲になると、ウィルソン大統領はさらに強硬な抗議を送りました。
 ドイツはやむを得ずもう一度、「抵抗しない客船ならば警告もなしにまた乗客と乗組員への安全に対する配慮なしに撃沈するようなことはしない」という保証を行いました。

 しかし、イギリスも現実的な対応をはじめ、定期航路の客船も含めてほとんどの商船に大砲を積載して武装化しはじめました。
 このような状況の変化に、1916年2月ドイツ宰相ベートマン・ホルヴェークは、軍部の強硬な要求に押され、再び潜水艦作戦を強化する方針を容認しました。ところが、その直後の3月24日にUボートによるフランス商船
サセックス号撃沈事件が起こりました。この時はアメリカ人には死者はなく、負傷者が4名出ただけでしたが、アメリカのウィルソン大統領は、4月18日にドイツ政府に当てて通牒を発し、直ちに客船に対する攻撃を中止しなければ国交断絶もあり得ると言う強硬な態度に出ました。
 ドイツの方針はまたも揺らぎ、翌5月には国際法上のルールに従うという「
サセックス誓約」を公表したのでした。
  ※参考文献4 木村靖二・柴宜弘・長谷秀世著『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』P82
 
 ここまでの書きぶりでは、無茶を行おうとするドイツ、人道的なアメリカという図式になっていますが、現実にはそういうステレオタイプの理解では真実に迫れないことをちょっと紹介します。
 このサセックス誓約を示す時、ドイツはアメリカに条件を示しました。ドイツへの食糧供給を断ってドイツ国民の生活の破綻=降服を意図する連合国の封鎖作戦の中止を人道的・国際法上の公正の面から中止するように、アメリカが連合国に説得することを依頼したのです。
 これも、同じ国際公法上の問題であり、人道的な問題でした。しかし、大戦前はドイツとの貿易額も多かったアメリカでしたが、この時点では貿易額はイギリス・フランスとのものが圧倒的になっており、経済的な面からも、米独関係の破綻は必然の成り行きとなっていました。このため、アメリカ大統領ウィルソンは、サセックス誓約のドイツの提示した条件は無視しました。
 ※参考文献5 ウィリアム・ルクテンバーグ著『アメリカ1914−32ー繁栄と凋落の検証ー』P21−24 

 この結果、その後もイギリス・フランスによる北海封鎖はやめられず、ドイツ国内の食糧事情は悪化していきました。
 戦局の転換に大きな期待ができないドイツは、アメリカとの国交断絶を覚悟しつつ、ついにもう一度
無制限潜水艦作戦の遂行を決めます。宰相ベートマン・ホルヴェークはこの時点でも慎重派でしたが、海軍軍令部長ホルツュンドルフの「無制限潜水艦作戦を開始すると5ヶ月以内にイギリスを降服させうる確信がある」という意見具申に動かされ、軍部に対する抵抗をやめました。この結果、その主張に賛同した皇帝の裁決を認められ、1917年2月1日から無制限潜水艦作戦が開始されました。
 このことと他の要因が重なって、
1917年4月6日、ついにアメリカはドイツに宣戦布告をするのです。
  ※参考文献6 義井博著「第一次世界大戦の発生とその展開」『岩波講座 世界の歴史24 現代1』P49

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 ドイツ潜水艦の戦果と敗北  | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 1917年2月の再度の無制限潜水艦作戦の宣言は、ドイツ潜水艦の活躍にどういう影響を与え、また、その成果はどうなったでしょうか。
 次のグラフは、Uボートによって撃沈された商船のトン数の月別の推移です。



 ドイツ海軍のUボートは頑張りました。
 1917年初頭には
150隻あまりに増強されていたUボートは、縦横無尽に暴れ回り、多くの艦船を撃沈しました。
 グラフを見れば明らかなように、ドイツ潜水艦は、1917年2月以降、その前年の月平均の撃沈トン数(約27万トン)の2倍から3倍の戦果を上げています。
 イギリスの政治指導者は、1917年の前半の一時期、強烈な危機感を感じています。1917年4月27日、在アメリカ駐英大使ペイジは、ウィルソン大統領に、「イギリスには6週間から8週間位の食糧しかない」と危機的状況を説明しています。
   ※参考文献5 ウィリアム・ルクテンバーグ著『アメリカ1914−32ー繁栄と凋落の検証ー』P45

 しかし、 よく見ると、1917年の前半は華々しい戦果が挙がりますが、同年後半から1918年にかけては、Uボートの戦果は次第に減少していきます。
 その理由について、次の4点が挙げられます。

英米の対Uボート機雷が効果的でした。特に英仏海峡は、完全に機雷封鎖され、Uボートの自由な通行はできませんでした。Uボート沈没の原因の第1は、機雷と考えられています。 

大西洋や地中海の輸送について護送船団方式(コンボイ・システム)が功を奏しました。この護衛にはアメリカ駆逐艦も日本の地中海派遣艦隊も活躍しましたが、なんと言っても、イギリス海軍の護衛艦が頑張りました。駆逐艦277隻をはじめトロール船・ヨット・モーターボートなどそれ以下の小艦艇約3000隻以上が、地味な対潜・護衛という作戦に従事しました。船の数もさることながら、そういう仕事にそれだけの人員が費やせたことが立派です。

Uボート攻撃を主目的とするイギリス潜水艦が戦果をあげました。

より精巧な聴音機を積載したトロール漁船群が北海のUボートを追い詰めました。

     ※参考文献3 鳥巣建之助前掲書 P68−71 参考文献7 雨倉孝之著『海軍護衛艦物語』P38・44  

 この結果、Uボートは、大戦中に大量に建造されたものの、喪失数(沈没・自爆・抑留)も178隻に上りました。
 
 すなわち、
無制限潜水艦作戦の実施によっても、ドイツはイギリスやフランスを追い込むことはできず、逆にアメリカ参戦によって、多数のアメリカ兵が護送船団によってヨーロッパ戦線に向かいました。その数は総計200万人にも上りました。空前の大輸送作戦が実施されたのです。
 この結果、1918年にドイツ軍がパリへ向かって最後の大規模な攻勢をかけた時は、長い戦線にアメリカ兵120万人が対峙しており、パリまで80kmと迫ったドイツ軍を、フランス軍と協力したアメリカ軍7万人がシャトー・ティエリで撃退し、また、ルクセンブルクとドイツ国境に近いフランスのサン・ミエル周辺では、アメリカ軍50万人がドイツ軍を破り、国境へ押し返しました。
  ※参考文献4 木村靖二・柴宜弘・長谷秀世著『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』P88
 
 反対にドイツにおいては物資不足のため国内の政治体制(帝政)への不満が高まり、1918年10月にドイツ帝国そのものが崩壊して、戦争は終結するのです。

このページの参考文献一覧へ

 実は、このリヴァプール・マージーサイド海洋博物館の潜水艦に関する展示は、第一次世界大戦のものではなく、第二次世界大戦のものが中心でした。
 どんどん、後回しになってすみません。次のページは、第二次世界大戦とUボート・護送船団の話です。


 【タイタニック号・ルシタニア号の沈没および第一次世界大戦とUボート 参考文献一覧】
  このページ10の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』(山川出版 2006年教科書センター配布見本版)

竹野弘之著『ドキュメント豪華客船の悲劇』(海文堂出版 2008年)

鳥巣建之助著『回想の潜水艦戦−Uボートから回転特攻まで−』(光人社 2006年) 

木村靖二・柴宜弘・長谷秀世著『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』(中央公論社 1997年)

 

ウィリアム・ルクテンバーグ著古川弘之・矢島昇訳『アメリカ1914−32ー繁栄と凋落の検証ー』(音羽書房鶴見書店 2004年) 

義井博著「第一次世界大戦の発生とその展開」『岩波講座 世界の歴史24 現代1 第一次世界大戦』(岩波書店 1970年)所収

  雨倉孝之著『海軍護衛艦物語』(光人社 2009年) 


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