ストックトン・ダーリントン鉄道の建設目的は、炭鉱の石炭を輸送することが主でした。
それでは、リヴァプール・マンチェスター鉄道の設置目的はどのようなところにあったでしょうか?この目的こそが、まず最初に「本格的な鉄道」かどうかの条件になります。
鉄道建設が考えられた1820年代は、すでにイギリス産業革命後半期にあたっており、リバプール・マンチェスターの両都市を合わせて、人口は35万を超えていました。
リバプールは産業原料の積み卸し港・綿製品などの工業製品の積み出し港として賑わい、一方のマンチェスターは、工業都市として繁栄していました。
両都市の産業資本家や商人にとって、両都市間の円滑な荷物輸送は重要な関心事でした。鉄道開通以前、両都市の輸送手段は4つありました。
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ブリッジ・ウォーター運河(図の①、マンチェスターのキャッスル・フィールド港からランクーンまで)
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マンチェスター・シップ運河(図の⑤)とマーズィー川とアーウェル川を利用した水運→詳細はP6地図06へ)
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リーズ・リヴァプール運河(図の②)とロッチデール運河(図の③ →詳細はP6地図06へ) |
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荷馬車によるリヴァプール・マンチェスター道路の輸送(地図08の)
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このうち、4の荷馬車による道路輸送は、輸送量においては問題外でした。また、3のリーズ・リヴァプール運河は、遠回りで距離が長く、これも実用的ではありませんでした。
実際には、1と2の二つの水運会社が両都市間の輸送を独占しており、両会社は1801年に運賃協定を結んで、運賃を一挙に2倍に値上げしました。今なら、独占禁止法かなんかで非難を浴びそうです。結果的に両水運会社は莫大な利益を上げ、投資家を満足させることにもなりました。
これでは、多くの産業資本家や商人が、高い輸送コストに不満を持つのは無理はありません。
また、水運は夏の渇水期、冬期の凍結時における輸送量の減少という不可避的な眼界がありました。
このような事態を打開するために、リヴァプールの穀物商人等が発起人となって、蒸気機関車を動力とする鉄道の建設計画が動き出しました。1822年には建設のための調査が始められています。
建設を進める人々は、ストックトン・ダーリントン鉄道の建設工事も視察しましたし、また、1826年には議会の承認が得られ、主任技師にはスティーブンソンが任命されました。
ただし、鉄道建設に関しては、推進派に対して反対派も多く、工事はなかなか難航しました。
イギリスの教科書には次のように書かれています。
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「1826年に彼らは、鉄道を建設するために議会の承認を受けて、スティーヴンソンを1000ポンドというばくだいな年俸で技師長に契約した。彼らが気前よく補償金を申し入れたにもかかわらず、これは運河の所有者も、二つの都市の間の土地所有者も喜ばせなかった。彼らは機関車の使用に対して、田舎の住民を堕落させ、家畜を驚かすなどと、あらゆる異論を唱えて反対した。彼らは、旅客が列車の猛スピードによって失明し、つんぼ(注:原典のまま)になったり、トンネルで窒息すると主張した。言葉で効果がないときには、彼らは策略に訴えてきた。測量士たちは農民や彼らの雇った暴漢との争いを避けるために、夜中に燈火を付けて働かなければならなかった。」
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参考文献2 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』P139
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また、マンチェスターとニュートンの間にあるチャットモスの湿地帯に線路を敷設するのも難工事でした。これについては、膨大な数の木材とヒースの木の束を湿地帯に埋めて、線路の基盤を整えました。
さて、本題です。
小松芳喬氏は、近代的な鉄道の用件として、1固有の線路の存在、2機械力による牽引、3公共輸送の便宜(1会社のためだけではない)、4旅客輸送を備えていることを指摘しました。その分析に従うと、以下のようにリヴァプール・マンチェスター鉄道は、本格的な近代的鉄道の用件を備えていると考えられます。
※参考文献3 小松芳喬著『鉄道の生誕とイギリスの経済』P29
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