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 リヴァプール・マンチェスター鉄道 はじめに  11/01/30記述 11/06/26一部再修正 

 前ページでは、日本の教科書では「蒸気機関車の父」とされている、ジョージ・スティーブンソンの、1814年の機関車開発、1825年のストックトン・ダーリントン鉄道におけるロコモーション号の成功について説明しました。
 と同時に、この
ストックトン・ダーリントン鉄道の段階では、今日の発想から考えて当たり前と思われる近代的な鉄道の姿、つまり、蒸気機関車による定期列車の運行とは、まだほど遠い状態であったこともおわかりいただけたと思います。
 それだけ当時の蒸気機関車には信頼性(特に上り坂の登坂力)がなかったということであり、その分、
定置式蒸気機関を利用したロープによる列車牽引という方法も併用されたわけです。

 では、1830年に
リヴァプール・マンチェスター間に開通した鉄道はどうだったのでしょうか?ページ7の引用教科書(→)に叙述されている、「本格的に実用化」「鉄道開通」「営業鉄道開通」と言えるのでしょうか?



 参考文献1 湯沢威著『イギリス鉄道経営史』(日本経済評論社 1988年)P30等より作製 

このページの参考文献一覧へ
 LM鉄道は本格的鉄道か? | 先頭へ ||研修記目次へ

 ストックトン・ダーリントン鉄道の建設目的は、炭鉱の石炭を輸送することが主でした。
 それでは、
リヴァプール・マンチェスター鉄道の設置目的はどのようなところにあったでしょうか?この目的こそが、まず最初に「本格的な鉄道」かどうかの条件になります。
 鉄道建設が考えられた1820年代は、すでにイギリス産業革命後半期にあたっており、リバプール・マンチェスターの両都市を合わせて、人口は35万を超えていました。
 リバプールは産業原料の積み卸し港・綿製品などの工業製品の積み出し港として賑わい、一方のマンチェスターは、工業都市として繁栄していました。
 両都市の産業資本家や商人にとって、両都市間の円滑な荷物輸送は重要な関心事でした。鉄道開通以前、両都市の輸送手段は4つありました。

ブリッジ・ウォーター運河(図の①、マンチェスターのキャッスル・フィールド港からランクーンまで)

マンチェスター・シップ運河(図の⑤)とマーズィー川とアーウェル川を利用した水運→詳細はP6地図06へ)

 

リーズ・リヴァプール運河(図の②)とロッチデール運河(図の③ →詳細はP6地図06へ) 

荷馬車によるリヴァプール・マンチェスター道路の輸送(地図08の

 このうち、4の荷馬車による道路輸送は、輸送量においては問題外でした。また、3のリーズ・リヴァプール運河は、遠回りで距離が長く、これも実用的ではありませんでした。
 実際には、
1と2の二つの水運会社が両都市間の輸送を独占しており、両会社は1801年に運賃協定を結んで、運賃を一挙に2倍に値上げしました。今なら、独占禁止法かなんかで非難を浴びそうです。結果的に両水運会社は莫大な利益を上げ、投資家を満足させることにもなりました。
 これでは、多くの産業資本家や商人が、高い輸送コストに不満を持つのは無理はありません。
 また、水運は夏の渇水期、冬期の凍結時における輸送量の減少という不可避的な眼界がありました。
 
 このような事態を打開するために、リヴァプールの穀物商人等が発起人となって、蒸気機関車を動力とする鉄道の建設計画が動き出しました。1822年には建設のための調査が始められています。
 建設を進める人々は、
ストックトン・ダーリントン鉄道の建設工事も視察しましたし、また、1826年には議会の承認が得られ、主任技師にはスティーブンソンが任命されました。
 ただし、鉄道建設に関しては、推進派に対して反対派も多く、工事はなかなか難航しました。
 イギリスの教科書には次のように書かれています。

「1826年に彼らは、鉄道を建設するために議会の承認を受けて、スティーヴンソンを1000ポンドというばくだいな年俸で技師長に契約した。彼らが気前よく補償金を申し入れたにもかかわらず、これは運河の所有者も、二つの都市の間の土地所有者も喜ばせなかった。彼らは機関車の使用に対して、田舎の住民を堕落させ、家畜を驚かすなどと、あらゆる異論を唱えて反対した。彼らは、旅客が列車の猛スピードによって失明し、つんぼ(注:原典のまま)になったり、トンネルで窒息すると主張した。言葉で効果がないときには、彼らは策略に訴えてきた。測量士たちは農民や彼らの雇った暴漢との争いを避けるために、夜中に燈火を付けて働かなければならなかった。」

参考文献2 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』P139

 また、マンチェスターとニュートンの間にあるチャットモスの湿地帯に線路を敷設するのも難工事でした。これについては、膨大な数の木材とヒースの木の束を湿地帯に埋めて、線路の基盤を整えました。

 さて、本題です。
 小松芳喬氏は、近代的な鉄道の用件として、
1固有の線路の存在2機械力による牽引3公共輸送の便宜(1会社のためだけではない)4旅客輸送を備えていることを指摘しました。その分析に従うと、以下のようにリヴァプール・マンチェスター鉄道は、本格的な近代的鉄道の用件を備えていると考えられます。
  ※参考文献3 小松芳喬著『鉄道の生誕とイギリスの経済』P29 


地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ ||参考文献一覧へ| 

 結果的に、イギリス人のリュインによれば、鉄道確立期の時期区分は次のようになります。



 しかし、これらの用件を支える最大の基盤は、蒸気機関車そのものが使用に耐えうるものでなければならないことです。スティーヴンソンの業績は、鉄道の建設と同時に、営業鉄道として信用に耐えうる蒸気機関車を製造したことにあります。

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ | 
 1829年レインヒルのコンテスト | 先頭へ ||研修記目次へ

 ただし、スティーヴンソンが主任技師になっていたからと言って、彼の蒸気機関車が最初から誰の目にも文句なく信頼がおけると言うことではありませんでした。そのために、開業前の1829年、路線の中ですでに一部線路が引かれていたレインヒル→地図08参照)において、5台の「機関車」による、「Grand Competetion」(大競争)が行われました。
 5台の機関車の中には、面白い機関車も含まれていました。1台の「
馬力機関車」がエントリーしていたのです。これは次のような機関車でした。

「(5台のうち)2輌は僅か6mph(9.7km/h)以下の低速だっため、第一次テストで失格となたが、中でも傑作なのは「サイクロピード」号である、この機関車は動力は蒸気ではなく、その代わりに2頭の馬を乗せ、キャタピラーの上を走らせて車輪を回転させるという、いうなれば「馬力機関車」であったが、いざ貨車を繋いで走ろうとすると馬が全く動こうとしない。いくら鞭を入れて、叱咤しても言うことを聞かないのである。観衆は皆ゲラゲラ笑い出し、とうとう走行は取りやめになるという、とんだお粗末な結果となった。」

参考文献5 高畠潔著『イギリスの鉄道のはなし』P107

 この「馬力機関車」は、決して冗談などではありません。新会社の役員の意見も、実は、定置式蒸気機関による牽引を支持する方が多数派であり、それほど、蒸気機関車への信頼は薄かったのです。
  ※参考文献6 齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』P41-43


 もちろん勝利したのはスティーブンソンのロケット号でした。15,000人の観衆の前で信頼のある走行を繰り返し、時速はなんと29マイル(45km)を記録しました。(別の数値を掲げる書物もあります)

「彼らの機関車「ロケット号」は時速29マイルに達し、予想外の勝利となった。その時以来、人々は馬が走るよりもはやく旅行することに疑問を保たなくなった。1830年に複線が開設され、スティーヴンソンのニューカッスル工場製の8基のエンジンによって運行されるようになって、はじめて機関車が完全に信頼されるようになった。ここに真の「鉄道時代」が到来したのである。」

参考文献2 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』P141

 スティーブンソンの蒸気機関車は、ようやく信頼を得ることができ、このレインヒルのコンテストにおける「勝利」によって、ニューカッスル4丁目工場は、L&M鉄道の機関車の受注を受けてさらに新しい機関車の開発を行います。開業時にL&M鉄道を走ったのは、ロケット号と同じタイプの発展型のノーサンブリアン号とその同形の機関車合計8輌でしたが、開業にやや遅れて、大幅改良型のプラネット号が完成し、リヴァプールに送られました。

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ||参考文献一覧へ| 

 写真08-01スティーヴンソンのロケット号(ロンドンの国立科学産業博物館サイエンスミュージアムにある実物)

 ウィキペディア 「ロケット号」のフリー写真から複写
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Stephenson%27s_Rocket.jpg

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ | 
 1830年9月15日LM鉄道開業  | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 リヴァプール・マンチェスタ鉄道は、1830年9月15日に開業しました。この日の朝、スティーヴンソンは、1829年のレインヒルの競争で勝利したロケット号の改良版、ノーサンブリアン号を自ら運転して、リヴァプールリヴァプール・クラウン・ストリート駅を出発しました。
 出発式のテープカットをしたのは、時のイギリス首相
ウェリントン公爵でした。この人は、首相としての業績は有名ではありませんが、日本人でも世界史Bを選択した人はその名前そのものは学習しています。この鉄道開通をさかのぼる15年前の1815年、エルバ島を脱出して復活を図るフランスの元皇帝ナポレオンの軍勢をかの有名なワーテルローの戦いで破ったあのウェリントン将軍です。
 その国民的ヒーローが花を添えた式典後、列車はマンチェスターへ向けて出発していきましたが、残念なことに、この直後、列車が中間地点の
パークサイド駅で給水のため停車中に、不幸な事件が起きてしまいました。
 地元リヴァプール選出の下院議員で鉄道建設の立役者の一人であったウィリアム・ハスキンソン議員は、列車から降りてはいけないという指示が出ていたにもかかわらず、多くのほかの興奮した乗客と同様に列車を降りてしまいました。他の車両にいる乗客と挨拶を交わすため線路を歩いていたところ、同じくリヴァプールから遅れて進んできた
ロケット号が牽引する後続列車にはねられてしまったのです。
 スティーブンソンは、急遽機関車ノーサンブリアン号から客車を切り離し、テンダー車にハスキン議員を乗せて自ら運転して全速力で病院のあるマンチェスターに急行させました。議員は終点の手前のエクルズで降ろされてマンチェスターから来た医師の診察を受けましたが、助かりませんでした。これが鉄道における最初の人身事故とされています。
 また、この時のノーサンブリアン号は、時速58kmという当時としてはとんでもないスピードを記録しました。
  ※参考文献5 高畠潔著『イギリスの鉄道のはなし』P6-7

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ ||参考文献一覧へ
 リヴァプール・ロード駅 in マンチェスター | 先頭へ ||研修記目次へ

 マンチェスター側の終点の駅は、リヴァプール・ロード駅(ややこしいネーミングですが、マンチェスター市内からリヴァプールへ向かう道を、リヴァプール・ロードと呼び、そこに駅があったのです。)です。
 当時のマンチェスターの市街地の位置関係からいうと、西端を流れるアーウェル川を渡って市内に入ったばかりの、いわば、中心部からはるか離れたところに開設されていました。これは当初根強かった、鉄道に対する反対派を考慮してのものでした。やがて、マンチェスター市の中心の駅は、この駅から他の駅に移されます。(→写真08-05の解説参照)

 さて、事故がなければ、歓呼の中をノーサンブリアン号が牽引するウェリントン首相を乗せた列車がやってくるはずでしたが、そうはいかなくなりました。
 会社は、この事故により、開通運行をこのまま続行するかどうかの決断に迫られましたが、運行そのものはうまく行われていること、マンチェスターで待つ市民の期待を裏切ることはできないこと等を判断材料として、パークサイド駅から車両を、
マンチェスターの終点リヴァプール・ロード駅へ向かわせました。
 各列車は大幅に遅れて同駅に到着しましたが、そこでの記念祝賀式典はすべて中止されました。
 
 こうして、不幸な事故はあったものの、リヴァプール・マンチェスター鉄道の開通そのものは見事成功に終わりました。次の日から列車の運行は開始され、最初は9月16日に1往復、17日からは3往復、さらに10月4日以降は、4往復となりました。そのうち2列車は、2等列車で、料金は1等の片道7シリングに対して、4シリングでした。

 後日談ですが、この
リヴァプール・ロード駅は、しばらくして旅客駅としてはその役目を終え、130年の間貨物専用駅となっていました。さらに1975年には廃駅となり、そのあとは、放置されていました。しかし、1980年にリヴァプール・ロード駅で開催された、リヴァプール・マンチェスター鉄道開通150年周年記念大鉄道博覧館により大修復がなされました。この式典の終了後、東に隣接するマンチェスター科学産業博物館MOSI:Museum of Science and Industry)が拡張されるにともない、この貴重な遺跡が、その中に取り込まれ、駅舎と駅の設備そのものがそっくり博物館の展示物となりました。立派な歴史遺産です。
 ※マンチェスター科学産業博物館MOS)のHPはこちらです。 →http://www.mosi.org.uk/ 

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ | 

 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、MOSI周辺の地図です。航空写真にして上の地図08と比べながら見てください。
 MOSIの綿工業・蒸気機関の紹介は、少々ですが、→5ページ「マンチェスターの歴史と発展」で説明しています。


 写真08-02 スティーブンソンがLM鉄道用に開発したプラネット号の模型   (撮影日 10/11/13)

 上の写真は、マンチェスターの科学産業博物館にあるスティーブンソンがLM鉄道用に開発したプラネット号の模型です。
 1830年12月、この機関車と同形の9輌が一気に導入され、これらのパワーアップされた機関車により、貨物の定期輸送が開始されました。

 やや細かい構造的なことについて説明します。
上の写真08-01のロケット号と比較してみてください。
ロケット号はピストンシリンダーが外側に見えています。開業時のノーサンブリアン号も同じタイプでしたが、このプラネット号は、シリンダーが本体内部に隠されています。
 これは蒸気機関車の技術における画期的な改良でした。専門的には次のようになります。

「内側シリンダーは、スモーク・ボックス(Smokebox、煙室)の直下中央部に2基並んで、ほぼ水平に近い角度で内蔵されており、コネクティング・ロツド(Connecting Rod、主連棒)は台枠の内側、車体中心線に近いところで往復し、動輪車軸の二組のクランクを回転させる。したがって外側シリンダー型式に較べ、ピストンの往復で動輪軸受けに掛る圧力の偏向が、大幅に減少する。それゆえに動輪車軸の摩擦抵抗は小さくなり、車体が揺られることなく、安定した走行性ができるのである。」

参考文献6 高畠潔著『続 イギリスの鉄道のはなし-蒸気機関車と文化-』P136-138 |参考文献一覧へ

 日本の蒸気機関車は、シリンダーは前部外側に付いているタイプばかりです。
 日本の場合、イギリスの標準軌とは違い、狭軌を採用しましたので、機関車本体の幅の限界から、イギリスの機関車のような構造は採れなかったと言うことです。

 この
プラネット号の実物は残存していません。しかし、西暦2000年の鉄道175周年を前に動態レプリカが作製され、現在MOSIに保存されています。
 
プラネット号が客車を牽引するイベントは、2011年度は9月に開催されるそうです。

 ガラス窓の向こうの道路は、昔からその位置にある
リヴァプール・ロードです。

ついでにいうと、道路の向こう側に少しだけ映っているのは、マンチェスターで有名な「日本料理鉄板焼き店」Sapporoです。ここで鉄板焼きを食べました。鉄板の上で焼き肉など日本風の料理を出すのですが、和風メニューではありません。最後にはチャーハンが出てきました。(^_^)純粋な日本料理でなくても、マンチェスターの市民は「日本料理店」と思っています。(+_+)

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ||地図09 旧リヴァプール・マンチェスター鉄道と現在の路線へ

 写真08-03 MOSI入り口から(撮影日 10/11/13)

 写真08-04 旧駅と倉庫 (撮影日 10/11/13)

 写真08-05 開業時の姿に修復再現された駅舎             (撮影日 10/11/13)

 リヴァプール・マンチェスター鉄道リヴァプール・ロード駅の駅舎は、旅客用としては、1830年9月の開業から僅か14年後の1844年5月まで使用されただけでした。
 せっかくの起点駅の旅客扱いが廃止されてしまったその理由は、リヴァプール・マンチェスター鉄道とマンチェスター北東方のリーズとマンチェスターとを結ぶ
リーズ・マンチェスター鉄道との接続にありました。この鉄道は、1839年に開通していましたが、1844年1月には新しい起点駅としてマンチェスター・ヴィクトリア駅が開業しました。リヴァプール・マンチェスター鉄道とこの駅とを結ぶため、この鉄道の路線は、リヴァプール・ロード駅の手前、アーウェル川の西で北東方向へ曲げて延伸されよりマンチェスター市内の中心にある、ヴィクトリア駅に向かうように変更されました。これが1844年5月のことでした。
 リヴァプール・ロード駅は、その後貨物専用駅として利用され、第二次世界大戦後のイギリス国鉄に受け継がれました。そして、1975年に貨物駅も廃止となったあとは、一時テレビ局の使用とするところとなっていましたが、1980年にリヴァプール・マンチェスター鉄道開通150年周年を記念して、この地で大鉄道博覧会が開催され、大修復がなされました。この式典の終了後、MOSIが拡張されて、その一部となりました。
 
 さて、リヴァプール・ロード駅が旅客扱いをやめた頃のマンチェスター市内の他の駅の話題です。
 この頃にはイギリスの鉄道網は急速に発達しており、マンチェスターには、1842年に
マンチェスター・バーミンガム鉄道(M&BR)のマンチェスター・ロンドン・ロード駅も開業しました。(最初は別の名前でしたが、1847年からこの名前となりました。)この駅の場所は、当然ながら、マンチェスターからバーミンガムを経由してロンドンへ向かうロンドン・ロードの駅(→写真は、5ページにあります。)ですから、市の東南部に位置します。
 さらに、この
マンチェスター・バーミンガム鉄道は、グランド・ジャンクション鉄道ロンドン&バーミンガム鉄道などが合併して誕生したロンドン&ノース・ウエスタン鉄道L&NWR)に合併されるという歴史をたどり、リヴァプール・マンチェスター鉄道もその過程でこのL&NWRに合併されました。

 
マンチェスター・ヴィクトリア駅は、現在も同じ名前でマンチェスターから北東方面への列車の拠点駅となっていますし、マンチェスター・ロンドン・ロード駅は、1962年にはマンチェスター・ピカデリー駅に改称されて、バーミンガム、ロンドン方面への列車の拠点駅となっています。(→詳しい説明は、次の9ページにあります。
 ※5ページの次の二つの地図を参照してください。
  |地図02 訪問地マンチェスタ・リヴァプール地域地図 | |地図03 マンチェスター中心部地図 |

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ||地図09 旧リヴァプール・マンチェスター鉄道と現在の路線へ

 写真08-06  駅西端から (撮影日 10/11/13)

 写真08-07  西端   (撮影日 10/11/13)

 左上:西の端から撮影した旧駅舎です。奥の高いビルディングはヒルトンマンチェスターホテルの入ってるビーサム・タワー。
 右上:復原リヴァプール・ロード駅の西の端。左奥を紫色の塗装のノーザン鉄道のリヴァプール行き気動車が通り過ぎます。

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 鉄道と運河の競争の結果    | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 イギリスでは、リヴァプール・マンチェスター鉄道の成功が理由となって、各地に鉄道の建設が始まります。1830年代に最初の、1840年代には2度目の鉄道ブームが起きます。
 マンチェスターについて言えば、
バーミンガムとこのリヴァプール・マンチェスター鉄道を結ぶ(中間駅のニュートンで結合)グランド・ジャンクション鉄道の開通が1837年、そしてこれが首都ロンドンと結ばれるのは1838年のことでした。さらに、1846年には、巨大会社ロンドン&ノース・ウエスタン鉄道L&NWR)が誕生します。
 イギリスの教科書は、鉄道拡張の時代を「
鉄道マニア」(1844~1846)という表現を使って、次のように記載しています。

「数百の運河会社と有料道路トラストは、鉄道網の成長が長距離交通の占める割合を高めるにつれて滅びていった。都市内および周辺の短距離交通は実際に増加した。しかし、地方道路と乗合馬車駅はほとんどさびれていった。内陸輸送に「改革」があったというならば、これがそれにあたる。
 適切な鉄道網の計画は企てられなかった。議会は一般の「飛び入り勝手」を許したので、その結果、しばしば重複(同じ場所に1路線以上)するでたらめの線路綱ができた。それにもかかわらず、進歩は非常にはやかった。1843年にはロンドンは、ドーヴァー、ブライトン、サウサンプトン、ブリストル、バーミンガム、ランカスター、ヨークと連絡された。次の3年間(1844~1846)に、議会はさらに438路線の建設許可を与えた。
鉄道マニアは国民を圧迫し、換金性へのあせりと安易な金もうけが株式取引所における鉄道関連株への多額の投機を生んだ。小さな会社は大規模な会社と合併したり、吸収され、小数の金融業者が巨大な力を貯えていった。彼らのうちで最も有名な者は、「鉄道王」ジョージ=ハドソンで、彼はイングランド中部と北部地方のほとんどすべての会社を支配した。しかし、彼の成功は長つづきしなかった。彼のいくつかの計画が失敗に終わると、彼は新しい会社の設立のために調達してきた金で株主に配当を支払いつづけた。1848年に彼の不正は暴露されて、ほかの数千名の人びととともに破産した。
 
鉄道マニアはまた、建設的な側面をももっていた。鉄道マニアによって、ほとんどの鉄道が完成した1852年には、現存するほとんどすべての主線が敷設されていた。
 重要な商業都市間を連絡する急行列車の速度は1850年に、すでに時速40マイル以上(注:時速64km以上)に達していた。その後はあまり進歩はしていない。」

参考文献2 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』P141

 それでは、最後にもう一度運河と鉄道について確認します。上の教科書の記述にも、運河会社の衰退が記述されています。
 具体的に
リヴァプール・マンチェスター間では、鉄道の開通によって、運河や河川水運の競争はどうなったでしょうか?
 普通は、鉄道ができたのですからすぐに、水運が衰退すると思われがちですが、実はそうではありませんでした。
 次の表をご覧ください。 


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 この表16を見ると、一目瞭然です。
 少なくとも、貨物輸送量においては、「鉄道の一人勝ち、運河はすぐに衰退」という図式にはなっていません。
 重量物を安全に運ぶという点で有利なこと、及び運賃値下げによる対抗などによって、既存の運河ネットワークは、しばらくはその存在感を示したのです。
 そして、開業時の鉄道の建設目的が貨物輸送にあったにもかかわらず、付表1にあるように、むしろ鉄道は乗客収入が中心となって経営実績をあげました。その速さと快適性から、鉄道は乗客輸送においては完全に陸上交通の主役となっていったのでした。

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ||地図09 旧リヴァプール・マンチェスター鉄道と現在の路線へ

 写真08-08・09  MOSIに展示されている蒸気機関車その1  (撮影日 10/11/13)

 MOSIには、プラネット号以外にも、たくさんの蒸気機関車の実物・レプリカがあります。きっとそれぞれ由緒あるものだと思いますが、研究不足で、何がどのようなものかわかりません。写真だけ紹介します。 


 写真08-10・11  MOSIに展示されている蒸気機関車その2   (撮影日 10/11/13)

 「機関車トーマス」の世界で何気なくわかっていますが、イギリスの蒸気機関車はカラフルです。黒一色の日本とは大違いです。この理由は、しばしば引用している高畠潔氏の著書によれば、イギリスでは第二次世界大戦後の鉄道国有化まで、鉄道会社による激烈な競争が続けられた結果とのことです。自分の会社の速度の速い蒸気機関車を印象づけるには、カラーリングも重要な要素でした。
 なるほど、日本では、明治時代の終わりに鉄道が国有化され、蒸気機関車による企業間のスピード競争というのは、あまり長く続きませんでした。
 

地図08 リヴァプール・マンチェスター間の鉄道へ||地図09 旧リヴァプール・マンチェスター鉄道と現在の路線へ

 【リヴァプール・マンチェスター鉄道 参考文献一覧】
  このページ8の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

湯沢威著『イギリス鉄道経営史』(日本経済評論社 1988年)

R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』(帝国書院 1981年)

小松芳喬著『鉄道の生誕とイギリスの経済』(清明会叢書 1984年)

近藤和彦著「書評 小松芳喬著 「鉄道の生誕とイギリスの経済」」『史學雑誌』(財団法人史学会 1994年)

高畠潔著『イギリスの鉄道のはなし』(成山堂書店 2005年)
  齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』(NTT出版株式会社 2007年) 


 私は、このMOSIを見学したあと、マンチェスターディーンズ・ゲート駅からリヴァプールへ向かいました。
 次のページは、リヴァプール遠征のお話しをします。
 テーマは、商港都市にふさわしく、もちろん海です。


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