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 鉄道もマンチェスターが発祥の地?  11/01/23記述 11/06/13一部修正 11/06/26再修正 

 前のページ06では、イギリスの運河網についてお話しをしました。このページは鉄道についてお話しをします。得意の鉄道です。
 しかし、最初からややこしい話をします。
 、前ページ06の黒板クイズ01の解説では、何の疑いもなく、「
マンチェスターは二つ近代的な交通ネットワーク発祥の地、運河と鉄道」と書きました。実は、自分で書いておきながら、鉄道についてはこう断言するには、かなりたくさんの説明が必要なのです。
「なんじゃい、それは」
といわれそうですが、ことはそう単純ではありません。
 このページでは、最初にその単純でないことを明らかにします。


 明らかな二つの疑問  

 では、まずはじめに、明らかな二つの疑問を確認します。
 まずは、次の引用文献群をご覧ください。A~Eは授業で使う教科書と副教材の資料、Fは旅の案内本です。
 あなたが世界史の授業でこれらを見たとして、「最初の鉄道」について、疑問に思う点はありませんか?



 いかがでしょう?いろいろな表現が混在していますが、疑問点を二つ考えてください。

 ※黒板の上にマウスポインタを移動すると、答えが出てきます。 

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 本題の前にまずは誰が最初の蒸気機関車の発明者| 先頭へ ||研修記目次へ

 教科書では、最初の蒸気機関車の製作・試作・実用化したのは、各社ともスティーブンソンとなっています。この製作・試作・実用化という表現も、それを書いた著作者の勉強や理解の浅い深いの度合いが反映されています。
 しかし、小池滋氏は「栄光のイギリス鉄道史、蒸気機関車の父は誰か?スティーブンソンの前に立ちはだかった人物」(『イギリス鉄道の旅』所収)において、「
スティーブンソンが世界最初の蒸気機関車を走らせた」というのは誤り、と明確に断言し、その栄誉はリチャード・トレヴィシックにあるとしています。
 どちらが正しいのでしょうか?

 これは、「最初に蒸気機関車を製作した」という定義から言うと、小池氏の記述のとおりです。
 このことについては、鉄道の研究家や大学教授も等しく認めるところです。
 イギリスの鉄道の研究家高畠潔氏は、次のように書いています。(以下引用文中の赤太字は引用者が施しました。)

「世界最初の蒸気機関車は1804年、コーンウォール生まれの蒸気機関技師リチャード・トレヴィシックが発明、製作し、ウェールズのペニー・ダレン製鐵所の賭の対象となりながら見事公開試験走行に成功した、いわゆる「ペニー・ダレン機関車」である。この機関車の実物は残っていないが、NRM(引用者注:ヨークにあるイギリス国立鉄道博物館)には実物大レプリカが、他の多くの博物館には模型が飾られている。」

参考文献7 高畠潔著『イギリスの鉄道のはなし』P59-60


 また、蒸気機関車の発達史の専門家、齋藤晃氏は、次のように書いています。【11/06/13 記述追加】

「今から200年前、イギリス人リチャード・トレヴィシックによって、初めて蒸気機関による輸送動力としてのメカ「蒸気機関車」が動くことに成功した。蒸気のパワーがメカの内部抵抗や機関車自体と牽かれる荷重に打ち勝って、人類が初めて「自ら移動する動力」を手にした記念すべき瞬間だった。」

参考文献8 齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』P1


 さらに、大学教授でイギリス交通経営史が専門の学習院大学湯沢威教授も次のように書いています。

「19世紀初等、蒸気機関車導入の試みはウェールズ、ミッドランズ、北東部の炭田地帯を中心に行われた。例えば、トレヴィシックは1804年サウス・ウェールズで蒸気機関車を建造しており、1812年ブレンキンソップはミドルトン炭田からリーズまで歯型レールを用いて独自の蒸気機関車を試走させていた。最も重要なのは1814年G・スティーブンソンが北東部炭田のキリングワースで最初の蒸気機関車を作製したことである。」

参考文献9 湯沢威著『鉄道史叢書4 イギリス鉄道経営史』(P6)

 つまり、19世紀初頭は、たくさんの「発明家」が蒸気機関車の製造に挑戦しており、その中で比較的はっきりしているというのは、1804年のトレヴィシックというわけです。
 イギリスの教科書にはどう書いてあり、どう教えられているのでしょうか?

「リチヤード=トレヴィシックと「高圧蒸気」
 ワットのエンジンを車輪の駆動に応用すること(1781)は、蒸気動力による輸送の可能性に広い関心を喚起した。しかし、ワット自身はそれが安全でないということを根拠に、そのアイディアに反対であった。彼の職工長であったウイリアム=
マードックが高圧蒸気機関車の作動模型(1784)をつくったときに、彼はそれ以上進行させることを思いとどまらせた。ワットは蒸気を大気庄と同じ、あるいはそれよりわずかに高く保つのが良いと考えた。そこで、真空をつくることが作動過程上最も重要なことになった(第8章参照)。彼が高圧蒸気の使用を避けたことは爆発の危険を排除したが、このことが彼のエンジンをいかなる種類の車輪付き輸送機関にも不適当なものにしたのであった。
 コーンウォール地方出身の若いリチヤード=トレヴィシック(1771~1833)はワットの憂慮を無視した。1802年に、彼は凝結器やビームという無格好な機構をまったく含まない高圧蒸気エンジンの特許を取った。ピストンは「高圧蒸気」(大気庄より高圧の過熱水蒸気)によって直接作動された。批判者はボイラーが爆発するといったが、トレヴィシックは蒸気を安全に1平方インチあたり50ポンド(海面の大気庄は15ポンド以下)の圧力にし、のちには100ポンド以上の圧力を使用した。
 彼の小型のエンジンは、ポンプの作用をさせるために必要な燃料がわずかですむばかりでなく、荷馬車で運搬できるほど、軽量であった。トレヴィシックは荷馬車を駆動するエンジンを製造することが可能であることを直ちに悟った。彼はコー
ンウォールとロンドンで、蒸気駆動の路上四輪車に関する実験を行ったあとに、鉄道機関車の製造のアイディアを得た。

トレヴィシックの「追いついてみろ号」
 1804年2月のある寒い朝に、歴史的な旅行がサウス・ウエールズの10マイルの搬出用軽便軌道上でなされた。トレヴィシックの機関車が、5両の貨車と1両の客車に約70名の旅客を乗せてけん引し、ペニーデーレン製鉄所(マーサ・ティドフィル近郊)から、グラモーガンシア運河まで走った。5トンの機関車が木製レールにひびを入れたことが主な原因で、何回も休止したのちに、4時間の旅を終えた。これが列車をけん引して、レール上を走った最初の蒸気エンジンとなった。
 4年後に、トレヴィシックは彼の
最新の機関車をロンドンのユーストン広場近くに敷いた特製の円形線路上に展示した。彼はそれに「追いついてみろ号」と名づけて、時速12マイルまで出して、見物人の賃乗せをした。しかし、数週間後には資金不足のために撤去しなければならなかった。彼のエンジンをペルーの銀山に導入する試みを含め、多くの不成功となった事業のあとに、彼の仕事からの利益や恩恵を他人に残して、忘れ去られたコーンウォール人は貧困のうちに死んだ。」

参考文献10 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』P136-38

 くどいですが、アメリカの教科書にも、ちゃんとトレヴィシックのことは書いてあります。(赤字は引用者が加工しました)

「In 1804,an English engineer named Richard Trevithick made an engine that was both small and powerfull. In fact,it ran at such high pressures that Watt and others expected it to blow up. Trevithick claimed his engine could pull a cart along a set of rails. A mine owner in Wales bet Trevithick the equivalent of several thousand dollars that such a feat was impposible.Trevithick won the bet by running his locomotive over ten miles of track,Hauling ten tons of iron as well. "The public until now called me a scheming fellow”,wrote Trevithick at the time,”but nowtheir tone much altered.”  

参考文献11 アメリカの高校の教科書『World History perspectives on the past』(P515)

 これらから判断すると、「日本の教科書の世界」以外(=こちらがむしろ世界標準)では、1804年にイギリスのウェールズ地方にいたリチャード・トレヴィシックという人物が1804年に機関車を使って、貨車と客車に70名の人を乗せて、10マイル(約16km)走ったことは、事実となっています。
 では、日本の教科書では、なぜ彼の名前が出てこないのでしょうか。その理由を、高校歴史教科書の世界で最高シェアーを誇る、山川出版は次のように「判断」しています。同社の教師用の解説書には次のようにあります。

「初期の蒸気機関車 蒸気機関車の発明者はリチヤード=トレヴィシックとされるが、これを実用化したのがスティーヴンソンとされる。当時車輪とレールの凹凸をかみ合せて進ませる方式が考えられていたため、速度が出せなかった。スティーヴンソンはなめらかなレール上をなめらかな車輪で走るものを工夫し、1814年実用化の第一歩を踏みだし、1825年にはストックトンとダーリントン間の約20kmを約3時間で走らせることに成功するまでになった。その後、早くも営業用鉄道が開通したのが本図の示すごとくであった。」

参考文献12 村川堅太郎他著『詳説世界史(再訂版)教授資料』P419

 トレヴィシックの機関車は、16kmを走行しました。これに対して、スティーブンソンは約20kmです。距離にそれほどの違いはありません。
 ということであれば、イギリスの教科書が詳しく書いているように、トレヴィシックはその発明を次の事業につなげることなく失意のうちに死亡し、一方で
スティーブンソンストックトン・ダーリントン鉄道の成功のあと、それを、マンチェスター・リバプール鉄道へとつなげていくことができました。それこそが、日本の教科書に、スティーブンソンのみが記載されている理由ということになります。
 ただし、
トレヴィシック自身は、鉄道事業に大きな成果は残せませんでしたが、その子のフランシス・トレヴィシックは、グランド・ジャンクション鉄道、ロンドン・バーミンガム鉄道、マンチェスター・バーミンガム鉄道の3鉄道会社が1846年に合併して誕生したロンドン&ノースウエスタン鉄道(L&NWR)のCEOになっています。
 そして、フランシスの二人の子ども、つまり、
リチャード・トレヴィシックの孫のうち二人が、鉄道技術者のお雇い外国人として明治時代の日本に来ています。先に弟のフランシス・ヘンリー・トレヴィシックが1876年に21歳で来日し、官営鉄道の神戸工場で働いたあと、新橋工場の機関車監察方に就任して1897年まで21年間活躍しました。この間に、イギリス技術者としては未知であった碓氷峠のドイツ製アプト式機関車の運行を成功させています。
 また、兄の
リチャード・フランシス・トレヴィシックは、弟より遅れて1888年に来日し、神戸工場の機関車監察方として働いています。そういう意味では、日本の教科書がトレヴィシックに冷淡なのは、少し気の毒な気がします。
 ※参考文献8 齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』P212 
 ※トレヴィシックが1804年に走らせた蒸気機関車模型は、以下にあります。
  →現物教材世界史近代「世界初の蒸気機関車 リチャード・トレヴィシックの蒸気機関車」


 まず1814年にスティーブンソンが何をしたか? | 先頭へ ||研修記目次へ

 では、ジョージ・スティーブンソンそのものは、何をしたのでしょうか?どんな業績を残したのでしょうか?
 上記の教科書等の記述をもう一度、項目別にまとめてみたのだ、次に表13です。



 これを見ると、最初の1814年に蒸気機関車をどうしたのかから、すでに記述内容が違っています。
 A~Eの著者の何人かは、これから説明するような詳しい事実を知らずに、失礼ながら言葉の単純な意味だけから記述したと思われふしがあります。
 
 まず、1814年の蒸気機関車の「試作」・「製作」・「実用化」についてです。
 上の湯沢威教授の引用にあるように、1800年代に機関車を作ろうとしたのは、
トレヴィシックスティーブンソンだけに限られませんでした。上で引用したイギリスの教科書は、スティーブンソンについて次のように記述しています。

「彼はしばしば機関車の発明者とみなさるが、ジェイムズ・ワットの場合と同様に、彼はパイオニアではなく、偉大な改良者であった。上記でピストンが効率的に駆動される機関車という主な特徴は、すでにトレヴィシックのエンジンに含まれていた。」

参考文献10 R・J・クーツ著『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』P139

 スティーブンソンはイングランド北部のニューカッスルに生まれました。生誕地にほど近いノーサンバーランド州キリングウォース炭鉱で働いていた彼は、蒸気機関車の話を聞き、自らも製作を決意しました。雇用主のレーブンスウォース卿はその提案を受けてこれに出資し、スティーブンソンは見事ブルッヒャー号の製作に成功しました。
 この機関車は1814年の最初の走行で、貨物を積載した8両の貨車を時速6.4km程で牽引し、蒸気機関車の力を示すのに成功しました。これが、上表の、「試作」・「製作」・「実用化」の正体です。


 では次に1825年と1830年の違いは? まず1825年 | 先頭へ ||研修記目次へ

 それでは、次にもっと難しい問題を説明します。
 1825年の
ストックトン・ダーリントン間の鉄道と1830年のリバプール・マンチェスター間の鉄道は、蒸気機関車が走るという点でどう違うのでしょうか?
 表13では、「実用化」「試験走行」「鉄道開通」「営業鉄道開通」など、1814年の記述以上に、もはや絶望的な混乱を呈しています。


 まず、ストックトン・ダーリントン鉄道で何があったのかを説明します。


 右の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、ストックトン・ダーリントン附近の現在の地図です。
 
ストックトンダーリントンはイングランド北東部の炭鉱地帯の町で、石炭の搬出が鉄道を必要とする理由でした。


 ここでまた、当時の常識は今とは大きく異なることをクイズで確認します。
 
ストックトン・ダーリントン鉄道は、それまで河川等を利用していた石炭輸送をさらに強化することを主たる目標として計画されました。運河建設と鉄道建設のどちらを採用するかなどで対立があり、イギリス議会でも建設法案が一度否決されるという紛糾を見ましたが、1821年に議会の承認を得、国王から建設を裁可されました。
 その直後、すでに蒸気機関車製作の経験が7年ある
スティーブンソンを主任技師に加え、鉄道建設は具体的にスタートしました。
 1825年9月27日、鉄道は無事開通し、スティーブンソンの作製したロコモーション号が、炭鉱から採掘された石炭を積載した11両の貨車や客車と貨車を改良した急造客車など35輌を牽引し、時速10数キロで終点のストックトンへ向かいました。終点では、祝砲が放たれ、楽隊が国歌を演奏して数万の群集が歓喜しました。
 つまり、蒸気機関車が貨車・客車を牽引することに成功したことは事実です。

 こう説明すると、この鉄道は試験鉄道などではなく、全くの実用的な鉄道であると思えてきます。しかし、やはり、そうではない部分があったのです。


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 この状況について、小松芳喬元早稲田大学教授は、「近代的鉄道生誕直前の過渡的様相」を示すものと指摘しています。その状況をまとめると次のようになります。
  ※参考文献13 小松芳喬『鉄道の生誕とイギリスの経済』P144ー146
 

 開通式の日は、蒸気機関車による運行が注目を集めましたが、そおそもこの時の祝賀列車は、路線の区間別に馬と定置式蒸気機関と機関車の三種類の牽引力を利用するものでした。この鉄道は、三つの牽引装置を組み合わせた鉄道として設計されていたのです。 



 さらに、開通初日に蒸気機関車は走りましたが、それは決して、それ以後蒸気機関車がすべての運行主役になったことを意味するものではありませんでした。開通後まもなく、ロコモーション号は車輪を破損し、別の車輪を鋳造して復帰するまで3週間の使用休止となりました。機関車はその時点では1台だけでしたから、その間は鉄道馬車による輸送が行われました。

 機関車が復帰したあとも、この路線は、「機関車独占」の運行はなされておらず、開通後8年間は、同一区間の同一レールの上を、蒸気機関車と馬の両者が通行するという状況が続きました。特に当初から蒸気機関車による牽引の主目的は石炭の輸送でしたから、旅客輸送は、複数の鉄道馬車業者に運行を任せレールの使用料を取りました。
 結果的にしばらくの間、蒸気機関車の牽く貨車、馬の牽く客車、馬の引く貨車の3車が混在していました。
 鉄道会社が機関車による旅客輸送を開始するのは1833年のことであり、この年には同時に石炭輸送も蒸気機関車だけにより実施されるようになります。
 

 小松芳喬氏の同書は、1984年の刊行でありもはや絶版になっていて、amazon.comでもそう簡単には手に入りません。(私は名古屋市立図書館からお借りしました。)同書の概説は、近藤和彦氏の書評に紹介されています。 

参考文献14 近藤和彦著『書評 小松芳喬著 「鉄道の生誕とイギリスの経済」』P95
こちらの方は、CINIの論文検索で見ることができます。

 教科書や資料集が、詳しい事情の説明を許されず簡潔に記載する場合、どのように表現するかは難しい点もありますが、少なくともストックトン・ダーリントン鉄道は、完全な近代的鉄道でなかったことは確かです。
 こうなると、次は
リヴァプール・マンチェスター鉄道です。違いはあるでしょうか?
 どんな意味で本格的な鉄道だったのでしょうか?


 【イギリスにおける鉄道の発祥 参考文献一覧】
  このページ7の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』(山川出版 2006年教科書センター配布見本版)

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦・鈴木敏彦著『改訂版高校世界史B』(山川出版 2006年教科書センター配布見本版)

尾形勇・後藤明・桜井由躬雄・福井憲彦・本村凌二・山本秀行・西浜吉晴著『世界史B』(東京書籍 2006年教科書センター配布見本版) 

鶴見尚弘・遅塚忠躬・小島淑男・太田幸男・相田洋・松本宣郎・木畑洋一・深見純生・三好章・江川ひかり・桂正人・小林共明・小川幸司著『世界史B新訂版』(実教出版 2006年教科書センター配布見本版)

東京法令出版編『 ビジュアル世界史』(2000年)
 

ダイヤモンド社地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 by TRAIN イギリス鉄道の旅』(ダイヤモンド社 2004年) 

 

高畠潔著『イギリスの鉄道のはなし』(成山堂書店 2005年)

  齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』(NTT出版株式会社 2007年) 
 

湯沢威著『イギリス鉄道経営史』(日本経済評論社 1988年)  

  10

R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』(帝国書院 1981年)

  11

Larry S. Krieyer・Kenneth Neill・Steven L. Jantzen著『World History perspectives on the past』(D.C.Heath and Company 1994年) 

  12 村川堅太郎・江上波夫・山本達郎・林健太郎著『詳説世界史(再訂版)教授資料』(山川出版 1991年) 
  13 小松芳喬著『鉄道の生誕とイギリスの経済』(清明会叢書 1984年) 
  14 近藤和彦著「書評 小松芳喬著 「鉄道の生誕とイギリスの経済」」『史學雑誌』(財団法人史学会 1994年) 


 続きは次のページになります。


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