教科書では、最初の蒸気機関車の製作・試作・実用化したのは、各社ともスティーブンソンとなっています。この製作・試作・実用化という表現も、それを書いた著作者の勉強や理解の浅い深いの度合いが反映されています。
しかし、小池滋氏は「栄光のイギリス鉄道史、蒸気機関車の父は誰か?スティーブンソンの前に立ちはだかった人物」(『イギリス鉄道の旅』所収)において、「スティーブンソンが世界最初の蒸気機関車を走らせた」というのは誤り、と明確に断言し、その栄誉はリチャード・トレヴィシックにあるとしています。
どちらが正しいのでしょうか?
これは、「最初に蒸気機関車を製作した」という定義から言うと、小池氏の記述のとおりです。
このことについては、鉄道の研究家や大学教授も等しく認めるところです。
イギリスの鉄道の研究家高畠潔氏は、次のように書いています。(以下引用文中の赤太字は引用者が施しました。)
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「世界最初の蒸気機関車は1804年、コーンウォール生まれの蒸気機関技師リチャード・トレヴィシックが発明、製作し、ウェールズのペニー・ダレン製鐵所の賭の対象となりながら見事公開試験走行に成功した、いわゆる「ペニー・ダレン機関車」である。この機関車の実物は残っていないが、NRM(引用者注:ヨークにあるイギリス国立鉄道博物館)には実物大レプリカが、他の多くの博物館には模型が飾られている。」
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参考文献7 高畠潔著『イギリスの鉄道のはなし』P59-60
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また、蒸気機関車の発達史の専門家、齋藤晃氏は、次のように書いています。【11/06/13 記述追加】
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「今から200年前、イギリス人リチャード・トレヴィシックによって、初めて蒸気機関による輸送動力としてのメカ「蒸気機関車」が動くことに成功した。蒸気のパワーがメカの内部抵抗や機関車自体と牽かれる荷重に打ち勝って、人類が初めて「自ら移動する動力」を手にした記念すべき瞬間だった。」
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参考文献8 齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』P1
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さらに、大学教授でイギリス交通経営史が専門の学習院大学湯沢威教授も次のように書いています。
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「19世紀初等、蒸気機関車導入の試みはウェールズ、ミッドランズ、北東部の炭田地帯を中心に行われた。例えば、トレヴィシックは1804年サウス・ウェールズで蒸気機関車を建造しており、1812年ブレンキンソップはミドルトン炭田からリーズまで歯型レールを用いて独自の蒸気機関車を試走させていた。最も重要なのは1814年G・スティーブンソンが北東部炭田のキリングワースで最初の蒸気機関車を作製したことである。」
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参考文献9 湯沢威著『鉄道史叢書4 イギリス鉄道経営史』(P6)
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つまり、19世紀初頭は、たくさんの「発明家」が蒸気機関車の製造に挑戦しており、その中で比較的はっきりしているというのは、1804年のトレヴィシックというわけです。
イギリスの教科書にはどう書いてあり、どう教えられているのでしょうか?
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「リチヤード=トレヴィシックと「高圧蒸気」
ワットのエンジンを車輪の駆動に応用すること(1781)は、蒸気動力による輸送の可能性に広い関心を喚起した。しかし、ワット自身はそれが安全でないということを根拠に、そのアイディアに反対であった。彼の職工長であったウイリアム=
マードックが高圧蒸気機関車の作動模型(1784)をつくったときに、彼はそれ以上進行させることを思いとどまらせた。ワットは蒸気を大気庄と同じ、あるいはそれよりわずかに高く保つのが良いと考えた。そこで、真空をつくることが作動過程上最も重要なことになった(第8章参照)。彼が高圧蒸気の使用を避けたことは爆発の危険を排除したが、このことが彼のエンジンをいかなる種類の車輪付き輸送機関にも不適当なものにしたのであった。
コーンウォール地方出身の若いリチヤード=トレヴィシック(1771~1833)はワットの憂慮を無視した。1802年に、彼は凝結器やビームという無格好な機構をまったく含まない高圧蒸気エンジンの特許を取った。ピストンは「高圧蒸気」(大気庄より高圧の過熱水蒸気)によって直接作動された。批判者はボイラーが爆発するといったが、トレヴィシックは蒸気を安全に1平方インチあたり50ポンド(海面の大気庄は15ポンド以下)の圧力にし、のちには100ポンド以上の圧力を使用した。
彼の小型のエンジンは、ポンプの作用をさせるために必要な燃料がわずかですむばかりでなく、荷馬車で運搬できるほど、軽量であった。トレヴィシックは荷馬車を駆動するエンジンを製造することが可能であることを直ちに悟った。彼はコー
ンウォールとロンドンで、蒸気駆動の路上四輪車に関する実験を行ったあとに、鉄道機関車の製造のアイディアを得た。
トレヴィシックの「追いついてみろ号」
1804年2月のある寒い朝に、歴史的な旅行がサウス・ウエールズの10マイルの搬出用軽便軌道上でなされた。トレヴィシックの機関車が、5両の貨車と1両の客車に約70名の旅客を乗せてけん引し、ペニーデーレン製鉄所(マーサ・ティドフィル近郊)から、グラモーガンシア運河まで走った。5トンの機関車が木製レールにひびを入れたことが主な原因で、何回も休止したのちに、4時間の旅を終えた。これが列車をけん引して、レール上を走った最初の蒸気エンジンとなった。
4年後に、トレヴィシックは彼の最新の機関車をロンドンのユーストン広場近くに敷いた特製の円形線路上に展示した。彼はそれに「追いついてみろ号」と名づけて、時速12マイルまで出して、見物人の賃乗せをした。しかし、数週間後には資金不足のために撤去しなければならなかった。彼のエンジンをペルーの銀山に導入する試みを含め、多くの不成功となった事業のあとに、彼の仕事からの利益や恩恵を他人に残して、忘れ去られたコーンウォール人は貧困のうちに死んだ。」
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参考文献10 R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』P136-38
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くどいですが、アメリカの教科書にも、ちゃんとトレヴィシックのことは書いてあります。(赤字は引用者が加工しました)
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「In 1804,an English engineer named Richard Trevithick made an engine that was both small and powerfull. In fact,it ran at such high pressures that Watt and others expected it to blow up. Trevithick claimed his engine could pull a cart along a set of rails. A mine owner in Wales bet Trevithick the equivalent of several thousand dollars that such a feat was impposible.Trevithick won the bet by running his locomotive over ten miles of track,Hauling ten tons of iron as well. "The public until now called me a scheming fellow”,wrote Trevithick at the time,”but nowtheir tone much altered.”
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参考文献11 アメリカの高校の教科書『World History perspectives on the past』(P515)
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これらから判断すると、「日本の教科書の世界」以外(=こちらがむしろ世界標準)では、1804年にイギリスのウェールズ地方にいたリチャード・トレヴィシックという人物が1804年に機関車を使って、貨車と客車に70名の人を乗せて、10マイル(約16km)走ったことは、事実となっています。
では、日本の教科書では、なぜ彼の名前が出てこないのでしょうか。その理由を、高校歴史教科書の世界で最高シェアーを誇る、山川出版は次のように「判断」しています。同社の教師用の解説書には次のようにあります。
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「初期の蒸気機関車 蒸気機関車の発明者はリチヤード=トレヴィシックとされるが、これを実用化したのがスティーヴンソンとされる。当時車輪とレールの凹凸をかみ合せて進ませる方式が考えられていたため、速度が出せなかった。スティーヴンソンはなめらかなレール上をなめらかな車輪で走るものを工夫し、1814年実用化の第一歩を踏みだし、1825年にはストックトンとダーリントン間の約20kmを約3時間で走らせることに成功するまでになった。その後、早くも営業用鉄道が開通したのが本図の示すごとくであった。」
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参考文献12 村川堅太郎他著『詳説世界史(再訂版)教授資料』P419
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トレヴィシックの機関車は、16kmを走行しました。これに対して、スティーブンソンは約20kmです。距離にそれほどの違いはありません。
ということであれば、イギリスの教科書が詳しく書いているように、トレヴィシックはその発明を次の事業につなげることなく失意のうちに死亡し、一方でスティーブンソンはストックトン・ダーリントン鉄道の成功のあと、それを、マンチェスター・リバプール鉄道へとつなげていくことができました。それこそが、日本の教科書に、スティーブンソンのみが記載されている理由ということになります。
ただし、トレヴィシック自身は、鉄道事業に大きな成果は残せませんでしたが、その子のフランシス・トレヴィシックは、グランド・ジャンクション鉄道、ロンドン・バーミンガム鉄道、マンチェスター・バーミンガム鉄道の3鉄道会社が1846年に合併して誕生したロンドン&ノースウエスタン鉄道(L&NWR)のCEOになっています。
そして、フランシスの二人の子ども、つまり、リチャード・トレヴィシックの孫のうち二人が、鉄道技術者のお雇い外国人として明治時代の日本に来ています。先に弟のフランシス・ヘンリー・トレヴィシックが1876年に21歳で来日し、官営鉄道の神戸工場で働いたあと、新橋工場の機関車監察方に就任して1897年まで21年間活躍しました。この間に、イギリス技術者としては未知であった碓氷峠のドイツ製アプト式機関車の運行を成功させています。
また、兄のリチャード・フランシス・トレヴィシックは、弟より遅れて1888年に来日し、神戸工場の機関車監察方として働いています。そういう意味では、日本の教科書がトレヴィシックに冷淡なのは、少し気の毒な気がします。
※参考文献8 齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』P212
※トレヴィシックが1804年に走らせた蒸気機関車模型は、以下にあります。
→現物教材世界史近代「世界初の蒸気機関車 リチャード・トレヴィシックの蒸気機関車」
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