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 イギリスの基本の学習    11/01/09記述 11/01/12修正 11/02/06再修正  11/05/02再々修正

 前のページまでで、いわゆる公式報告、つまり研修に出かけた目標達成や成果についての報告は終わりました。
 ここからのページは、自由研修や勤務時間外の「探検」で見つけた、私なりのイギリスの報告です。

 まずは、イギリスの基本についての学習です。
 下の地図01をご覧ください。
 大きな地図は全体図のの部分の拡大図です。
 まずはイギリスの基本的な位置の確認です。
 地図の青色の縦線は経度0度の世界標準子午線です。それでは、桃色の横線は、北緯何度の線でしょうか。
 正解は、地図をクリックしてください。



 何と、北緯53度です。
 日本と比較するため北東アジアに比定すれば、北緯53度線は、モンゴル共和国の北、バイカル湖を横切っています。ずいぶん北です。ちなみに、私の住む町、岐阜市は北緯35度です。函館とイタリアのローマが同じ緯度で、北緯42度程です。

 次の表10は、私たちが滞在した2010年11月中旬のロンドンと岐阜・東京の温度の比較です。ロンドンのほうがずいぶん寒いことがわかります。



 イギリスは広い・狭い   | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 このページ以降、イギリスのいろいろな説明をしたり、日本との比較を考えますが、その時に是非必要なことが、イギリスは広い国か狭い国かという視点です。
 次の表11をご覧ください、国土面積や人口密度を比較した表です。



 国土面積は日本の2/3程しかありませんが、人口も半分ほどのため、人口密度で比較すると(の部分)すでに、イギリスは251人/ku、日本は338人/kuとなり、イギリスのほうが相対的に1.5倍ほど広くなっています。
 さらに、山林原野や湖沼を除いた
可住地率では、イギリスが日本の2倍以上でるため、可住地人口密度(の部分)では、イギリスのほうが圧倒的に小さい数字となり、相対的に3.5倍ほど「広い」国となっています。


 写真05−01   高速道路 (撮影日 10/11/10)

 写真05−02  牧場  (撮影日 10/11/10)

 左上:マンチェスター市の周囲を回る高速道路M60。ほぼ平坦な部分をあまり大きなカーブなしに道は進みます。
 右上:典型的な郊外の農場の風景
 


 写真05−03  丘陵地  (撮影日 10/11/10)

 写真05−04   丘陵地  (撮影日 10/11/10)

 上の二つの写真は、マンチェスターの東北にある「山間地」の風景です。「山間地」といってもなだらかな丘陵が続くところで、、山の上まで農場となっています。日本のような「切り立った山」は、イングランドでは希です。
 マンチェスターの東側、シェフィールドとの間には、地図上は、「
ペナイン山脈(ペニン山脈)」があります。しかし、「山脈」というイメージは、日本とはずいぶん違います。
 ちなみに、海外旅行の案内書『地球の歩き方’10〜’11』には「
ピーク・ディストリクト」という項目があります。マンチェスターから向かう、イギリス中央部の「山岳地帯」南端部分の案内です。しかし、そこにも、「ピーク・ディストリクトは、マンチェスターとシェフィールドの間のダービーシャーに広がる国立公園。山岳地帯といってもその標高は600m級と、我々がイメージする山とはずいぶんかけ離れたものだ。」とあります。(参考文献1) 


 マンチェスター滞在    | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 私たち研修団は、11月8日(月)にパリ・シャルル・ド・ゴール空港を経由してマンチェスター国際空港に着きました。そして、イギリス宿泊日数全10泊のうち6泊を、市の中心部のCity Hallにほど近いプリンセス・ストリートに面したAloraホテルで過ごしました。


 イングランド北部、マンチェスターとリヴァプール地域の地図です。両都市の間は直線距離で約50kmです。公式訪問した場所は、Eを除いてはマンチェスター市内から離れたところでした。



 これはマンチェスターの中心部です。Aマンチェスター大聖堂Lピカデリー広場Bシティホールの三つに囲まれた部分が、マンチェスターの繁華街です。
 二つのターミナル駅、
ビクトリア駅@とピカデリー駅Mの間を、メトロリンクと呼ばれる近代的な路面電車(ライトレール)がつないでいます。メトロリンクは、地図の左下(北西方向)へ延びており、サッカーチーム、マンチェスター・ユナイテッドのスタジアム、オールド・トラフォードへつながっています。
 また、かつては、この地域の鉄道会社グレート・ノーザン・レイルウエイの本社ビルCが中心部にあり、かつての中央駅はBの位置にありました。現在は、本社ビルCはショッピングセンターに、旧中央駅Cは見本市会場になっています。


 写真05−05  プリンセス・ストリート、アローラホテル前  (撮影日 10/11/11)

 これは、夜明け前の街の様子です。煉瓦造りの趣のある建物が、いかにもイギリスという雰囲気を醸し出しています。


 写真05−06    マンチェスター、シティーホール    (撮影日 10/11/11)

 ホテルのやや北、プリンセス・ストリートとモンスリー・ストリート交差点から、朝のシティー・ホールを撮影したものです。荘重な作りが歴史の重みを感じさせます。


 写真05−07 ホテルの部屋内部(撮影日 10/11/08)

 写真05−08 洗面所のパイプ(撮影日 10/11/08)

 左上:アローラホテルの部屋。マンチェスター中心部のホテルながら、広々としていてゆったり気分でした。
 右上:洗面所の銀色のパイプ(赤いタオルが掛けてある)は乾燥用の温かいパイプ。以前にイギリス研修に参加した先輩から、「そもそもイギリスの気候は日本と違って乾燥しているため、洗濯物は部屋の中に干しておけば翌日夜までには乾く」と聞いていましたが、本当でした。おまけに、このホテルには乾燥用のパイプがあったので、翌朝には乾いていました。大変ラッキーでした。
 


 マンチェスターの歴史と発展 | 地図03M市中心部地図へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 ブリテン島の歴史をさかのぼれば、古くからケルト人の文化があったことは有名ですが、マンチェスターの歴史そのものは、ローマ時代の砦に源があります。ローマは、カエサルの時代からブリタニア征服を試みます。最初はうまくいきませんでしたが、紀元後1世紀末までには、ローマ帝国はブリテン島の大半を占領しました。
  ※参考文献2『イギリス史』
 マンチェスターには、ローマ帝国統治時代に砦が築かれ、多数の軍隊が駐屯していました。その砦の跡は発掘調査され、1部が復原されています。
キャッスル・フィールドがそれです。


 写真05−09・10  キャッスル・フィールド(撮影日 10/11/13)

 案内の説明板によれば、この地にローマ人が砦を築造したのは紀元79年前後とされ、それからローマ帝国の衰退する410年まで、500年近く存続しました。 


 マンチェスターがこの地域の領主から中世都市の特許状を受けたのは、14世紀初頭とされています。その頃は、羊毛を加工する毛織物工業が盛んでした。
 マンチェスターが急成長したのは、いわずとしれた、18世紀の半ばから始まる
産業革命期の綿紡績・綿織物工業の発達によります。
 なぜ、ロンドン周辺ではなく、イギリス北西部のマンチェスターを中心とする
ランカシャー地方に繊維工業が起こったのかについては、次の地勢上の分析がなされています。

「土地の肥沃土も,イギリスと日本とでは全く異なる。江戸時代でも、日本の水稲栽培では種子一粒にたいして100粒以上の収穫がえられたのにたいして、16世紀のイギリスでは、小麦の収穫量は種子の数倍、18世紀でも2桁に達するかどうかという程度であった。このような農業生産性の低さが、牧畜や製造業への関心の強さ、対外進出=帝国形成の動機ふけとなった。地質的には、軽い、チョーク質の土壌を特徴とした東南部にたいして、北西部は、重い粘土質の土壌を特徴としており、農業革命は前者の土地で展開した。」

参考文献2 川北稔編『イギリス史』P4−5

 また、18世紀末からの蒸気機関を利用したクロンプトンのミュール紡績機が次第に主流となっていきますが、それへの転換を容易にしたのは、それ以前に、ペニン山脈の緩やかな川の水を利用したアークライト水力紡績の広範な広がりがあったからでした。
 ※参考文献3 S・D・チャップマン著佐村明知著『産業革命の中の綿工業』

マンチェスターの工場で生産された綿織物は、西に約50kmの港町リヴァプールから世界に輸出されていきました。

「 このような条件が整っていたイギリスでは、新しい生産技術が発明されれば、これを応用して工業技術の拡大に役立てることができ、世界最初の産業革命を経験することになった。
拡大する市場に向けての大量生産を可能にする技術革新は、まず綿工業の分野で、マンチェスターを中心にはじまった。従来イギリスの主な工業は毛織物工業であったが、17世紀末には、インドから輸入された、より軽い綿布の需要が高まった。綿布と、その原料である綿花は、大西洋の三角貿易で重要な商品となり、綿工業がイギリス国内に発達した。」
「産業革命の結果、伝統的な生活様式は重大な変化をせまられ、人間の生活感情や価値観も変化した。人口の都市集中は、たとえば、マンチェスター・バーミンガムのような大工業都市や、リヴァプールのような大商業都市をうみだした。」

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』(山川出版2006年教科書センター配布見本版)P205−6

 また、マンチェスターは単なる工業都市としての機能だけではなく、綿製品の国際市場としての中心としての役割を果たしました。1830年頃には郊外のCannon street や Hight streetには、綿製品の卸売店が数百軒も軒を並べ、ドイツ人やフランス人、オランダ人をはじめ、ヨーロッパ各国の商人の店も進出していました。

 マンチェスターの産業の歴史は、市内にある
マンチェスター産業科学博物館MOSI:Museum of Industry and Science)に行くとよくわかります。


 写真05−11 MOSI正面  (撮影日 10/11/13)

 写真05−12 蒸気機関 (撮影日 10/11/13)

 マンチェスター科学産業博物館MOSI:Museum of Science and Industry です。18世紀後半の蒸気機関から始まって、いろいろな産業遺物が展示されています。社会科の学習にはとてもいいところです。 


 写真05−13 綿紡績の実演 (撮影日 10/11/13)

 写真05−14 紡績機 (撮影日 10/11/13)

 この日は、11時30分から綿紡績の実演が行われました。説明がすべて英語なので、詳しいことはわかりませんでしたが、綿花から綿糸を紡ぐまでの様子がよくわかりました。
 MOSIの内部には、世界最初の本格的な旅客鉄道、
リヴァプール・マンチェスター鉄道マンチェスターの市内の駅、旧リヴァプール・ロード駅が保存されています。
 また、そこを走った、スティーヴンソンが作製した蒸気機関車プラネット号のレプリカも展示されています。それについては、→8ページ「リヴァプール・マンチェスター鉄道で紹介しています。
 


 20世紀前半には、マンチェスターの市域人口は75万人に達し、バーミンガム・リヴァプールと並んで、イギリス第2の都市となりました。
 しかし、第二次世界大戦中のドイツ軍による空爆や、戦後の繊維産業の斜陽化によって、マンチェスターの衰退が始まり、1981年には、その人口は43万余りとなってしまいました。

ここでいう「市域の人口」というのは、厳密な意味でのマンチェスター市(マンチェスター区域の中心部)の人口です。衛星都市も含めた広義のマンチェスター(グレート・マンチェスター)の人口は、現在では、250万ほどになっています。
地図02で狭義のマンチェスターはのエリア、グレーター・マンチェスターはのエリア。

 1980年代になって、都市の再開発と企業誘致等による産業構造の転換が行われ、人口減少はようやく停まり、街は徐々に息を吹き返しました。現在では、金融機関や新聞社・テレビ局などのメディア企業、学術機関、研究所などが立地し、中心部は賑わいを見せています。、


 写真05−15    ピカデリー駅付近の再開発           (撮影日 10/11/08)

 1980年代末から、CMDC:Central Manchester Development Corporation によって、市街地中心部再開発が積極的に行われました。上の模型は、産業科学博物館MOSI→詳しい説明は、ページ8)に展示されている、マンチェスター再開発の様子を説明するものです。
 中央の白い建物がピカデリー駅です。ピカデリー駅は、古くはロンドン・ロード駅といい建物そのものは1880年代に建築されたものでしたが、現在では、それを利用して近代化されています。


 写真05−16・17   マンチェスター・ピカデリー駅    (撮影日 10/11/11)

 近代的に改装されたマンチェスター・ピカデリー駅です。もとはマンチェスター・ロンドン・ロード駅といい、建物は1880年代に建造されたものです。 


 写真05−18 旧GNR本社ビル(撮影日 10/11/13)

 写真05−19 ヒルトンホテル(撮影日 10/11/13)

 左上:旧GNR(グレート・ノーザン・レイルウエイ)の本社ビル、今はショッピングセンター
 右上:イギリスで2番目に高いビーサム・タワー。23階までは、ヒルトン・マンチェスター・ディーンズゲイト・ホテルとなっています。時間があれば、23階の展望バーというところに行きたかったのですが、機会がありませんでした。
 


 路面電車 メトロリンク | 地図03M市中心部地図へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 そのマンチェスター再開発の象徴が、路面電車メトロリンクです。
 私が電車の説明をすると、無理矢理そこに話を持っていった感じがしますが、決してそうではりません。
 
メトロリンクは、LRT(Light Rail Transit 次世代路面電車)として1992年に開業しました。マンチェスターにはもともと路面電車がありましたが、第二次世界大戦直後の1949年という早い時期に廃線となっていました。それ以後は市の中心部の公共輸送手段は専らバスが担ってきました。しかし、このあとP8からP9にかけて説明するように、マンチェスター市内には旧イギリス国鉄のターミナル駅が二つあって、それを結ぶ円滑な交通手段の整備が長い間の懸案事項となっていました。二つ駅とは、市の北東部にあって北部・西部方面の路線の拠点駅となっているヴィクトリア駅と、市の南東部にあって南部・東部・西部方面の路線の拠点駅となっているピカデリー駅です。
 この二つの駅を結ぶ路線を中心に、市内中心部に3.7kmの新路線が建設され、それだけではなく、郊外と結ぶ路線は、当時のイギリス国鉄の郊外線を転用して路線網が建設されました。これによって、二つの拠点駅と郊外がLRTで結ばれ、マンチェスター中心部の交通網は一新されました。鉄道時代に比べ、利用者は倍増しました。
 1999年以降、第二期・第三期の路線が延長が実現し、現在では総延長37kmとなっています。
 沿線の開発も進み、メトロリンク沿線全体の雇用の創出は1万5000人とも2万人とも推計されています。
 
 このマンチェスターのLRTの成功は、ほかのヨーロッパ諸都市に比べLRTブームに遅れていたイギリスにその有用性を認識させることになり、イギリス各都市のLRT化を加速させました。これに続いて、シェフィールドのスーパートラム、バーミンガムのミッドランドメトロ、さらに、クロイドン、ノティンガムのLRT化が進みました。
 いわば、マンチェスターのメトロリンクは、
イギリスにおけるLRT推進の発祥の地と言えるわけです。
  ※参考文献5 三浦幹男・服部重敬・宇都宮浄人著『環境都市に復権した次世代交通 世界のLRT』P46−47 
  ※メトロリンクのHPはこちらです。 →http://www.tfgm.com/index.cfm 


 写真05−20 ピカデリー広場の分岐点を通る電車              (撮影日 10/11/12)

 メトロリンクは4路線あり、その総延長は、37kmです。半端な距離ではありません。
 中心部と、北のベリー市、西南のサルフォード市、南南西のトラフォード市を結んでいます。
 ピカデリー広場は、すべての路線が集まる、メトロリンクの分岐点となっています。3つの方向からひっきりなしに電車がやってきます。路面電車ファンにとっては、何時間でも時間をつぶせる空間です。

地図02マンチェスターとリバプールの周辺図へ || 地図03M市中心部地図へ |

 写真05−21     運転席 (撮影日 10/11/12)

 写真05−22 車内   (撮影日 10/11/12)

 快適な車内です。 


 写真05−23 乗車券売場  (撮影日 10/11/12)
 写真05−24 乗車券  (撮影日 10/11/09)
 写真05−25 警告  (撮影日 10/11/13)

 メトロリンクに初めて乗った時、乗車券の購入や乗降時のチェックはどうなっているのかは、全く知りませんでした。
 乗車券の購入の方法は、すぐにわかりました。各ホームにわかりやすい券売機がありました。
 では、改札の方法は?
 電車に乗ってみると、車掌もいませんし、降りる時も全くチェックはありません。「あれあれ」と思っていると、ホームに警告のポスターが貼ってありました。
「去年、料金を払わずに訴追を受けた人は、2326人。次の人にならないように」
 これを見てぴんと来ました。
 乗車券は買わなければなりませんが、常時チェックはされないということです。
 実際、メトロリンクに10回近く乗りましたが、チェックの車掌は、時々どこかの駅からいつの間にか乗り込んできてチェックするという感じでした。
 人件費の節約です。
 
 


 写真05−26 聖ピーターズ広場方面から来てピカデリー広場で分岐するピカデリー駅行き(撮影日 10/11/12)


 写真05−27 聖ピーターズ広場(撮影日 10/11/10)

 写真05−28 マーケット通駅(撮影日 10/11/12)

 市街地の駅でも、日本の路面電車の様な低い「乗り場」ではなく、高さ90cmのプラットフォームがあります。 


 写真05−29 高架線  (撮影日 10/11/13)

 写真05−30 ピカデリー駅 (撮影日 10/11/14)

 左上:郊外へ向かう路線は、聖ピーターズ広場駅を過ぎてしばらく行くと、旧来のイギリス国鉄の鉄道路線へ上がって高架線となります。写真は、ディーンズ・ゲート=キャッスル・フィールド駅西ですれ違う電車。
 右上:ピカデリー駅からでて、ロンドン・ロードを横切って、ピカデリー広場へ向かう電車です。ピカデリー駅は、以前はロンドン・ロード駅と呼ばれていましたが、1962年に現在の名前に改称されました。メトロリンクはピカデリー駅の1階部分に入り、通常の鉄道は2階部分となっています。
 


 今回はこれで終わりです。
 次ページは、世界史の教科書にもちょっと出てくるマンチェスターの「世界初」について、お話しします。


 【イギリスとマンチェスター及び産業革命、メトロリンク 参考文献一覧】
  このページ5の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

地球の歩き方編集室編『地球の歩き方’10〜’11』(ダイヤモンド社 2010年)P397

川北稔編『イギリス史』(山川出版 1998年)

  S・D・チャップマン著佐村明知著『産業革命の中の綿工業』(晃洋書房 1990年) 
 

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』(山川出版2006年教科書センター配布見本版)

 

三浦幹男・服部重敬・宇都宮浄人著『環境都市に復権した次世代交通 世界のLRT』(JTBパブリッシング 2008年) 


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