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 マンチェスターといえば二つの世界初  11/01/16記述 11/01/22補足・完成

 さて、マンチェスターといえば、二つのことで世界で最初という名誉を持っています。
 正確には、二つの交通ネットワークの発祥の地なのです。

 これは
産業革命以降の社会の変化の一つとして生じました。世界史の教科書には次のように書かれています。

「大規模な機械制工業が発達すると、大量の原料・製品・石炭などをできるだけはやく安く輸送するため、交通機関の改良の必要が生まれた。18世紀後半には国内の輸送路として〔 ① 〕網が形成されたが、19世紀にはいると〔 ② 〕がこれにかわった。〔 ③ 〕により1814年に製作された〔 ④ 〕が、25年に実用化されて以来、〔 ② 〕は公共の陸上輸送機関として普及した。」

佐藤次高・木村靖二・岸本美緒・青木康・水島司・橋場弦著『詳説世界史』(山川出版2004年)P206

 さて、この〔 ① 〕~〔 ④ 〕には、どういう言葉が入るでしょうか。

  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 蒸気機関車と鉄道は、比較的答えやすいと思いますが、運河は意外だったかもしれません。
 
 そして、この
運河網鉄道網発祥の地が、実はマンチェスターなのです。これが二つの交通ネットワークの世界発祥地の意味です。
 ちょっと念のためにお断りですが、世界の歴史上においては運河がイギリスで初めて築造されたというわけではありません。

 中国では、なんと今から2500年ほど前の紀元前486年には、呉王夫差が江都(今の揚州、長江沿い)と口(今の淮安、江蘇省)間の運河を造っていますし、漢王朝の時代には、黄河から長安へ、また南の開封への運河が開通していていました。
 世界史の教科書にも載っている有名なものとしては、もっと時代が下がった隋王朝の時代に、あの遣隋使のやりとりで有名な煬帝が、北は北京から、南は長江河口の南に位置する杭州まで、天津、河北、山東、江蘇、浙江の1市4省を通り、銭塘江、長江、淮河、黄河、海河の五大水系を繋げる、全長は1800kmほどの長大運河を造っています。
 長さと歴史では中国にはかないません。

 しかし、18世紀後半のイギリスでは、そういう長大運河とは異なり、イギリスの国土の各地域を稠密に結ぶ
運河網(運河ネットワーク)が建設されたのです。


 イギリスの川と輸送    | 地図03M市中心部地図へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 このページでは、イギリスの運河について、紹介します。
 といっても、自分で接したのはマンチェスターとその周辺部のほんの1部だけですので、多くは参考文献からの学習です。
 
 運河の前に、河川交通そのものの歴史です。
 日本でも河川を運搬手段とすることは、20世紀に初めになって鉄道の建設が広がっていくまでは、ごく普通に行われていることでした。
  ※我が岐阜市を流れる長良川も愛知県との境を流れる木曽川も河川水運が盛んでした。
    →岐阜・美濃・飛騨の話「御鮨街道を歩く5」笠松湊で、少し説明しています。
 
 特にイギリスは日本と違って、河川の勾配が緩く、海からやってきて河口からそのままかなり奥まで川を遡上することができます。
 紀元前800年頃に大陸からケルト人がやってきた時も、紀元前55年のカエサルを初めとして、ローマ人がイギリスを支配した時も、そしてローマの支配が衰えたあとジュート人・アングル人・サクソン人がイギリスに侵入した時も、いずれも川がその侵入手段として使われました。
 その後、河川の平和利用、物資の輸送手段としての利用が進み、特にイギリス南部を流れる2大河川、
テムズ川セヴァーン川が賑わいを見せました。たとえば、テムズ川上流のコッツウォルズにある上質の石材が、下流のオックスフォードまで運ばれ、大学や学生寮の建設資材として盛んに使われました。また、ロンドンのウインザー城をはじめ巨大建築物もテムズ川によってその資材が運ばれ、川岸部に建設されました。
 
 物資輸送が盛んとなるさらに河川交通を便利にしようとする動きが活発化します。
 イギリスは、17世紀は、革命の混乱の時代でしたので、その間は大きな土木工事はほとんど計画されませんでした。しかし、その後の安定期、特に18世紀に入ると、各地で河川の改修が計画され、従来の河川航路の拡充、また、それまで川船が入れなかったところへの航路の新設が行われました。
 しかし、この河川改修は、次の点でいろいろもめ事の種にもなりました。

 河川航路を拡大し、船舶輸送の拡充による積み荷運搬の利益や通行量を徴収することによって利益を得る施主及び投資家間の競争が起こる。

 河川は基本的に、海水が入る部分(潮入川)より上流は個人の所有であり、それ以外に漁業を営む漁民や河川周辺地で主猟を営む狩猟民、水車利用権を持つ製粉業者や製造業者、水利権を持つ地主や農民と運河開発者の利害の対立が起こる。 

 結果的に、河川改修にはイギリス議会における法案の可決が必要なため、地方政治や国会を巻き込んだもめ事にもなる。 

 17世紀末から18世紀前半には、こうしたことを背景として、各地の河川が争って整備され、河川は交通手段としての重要度を増していきました。
 ここでクイズです。
  ※ここまでの記述及び次のクイズは、参考文献1、『川と日本人』P98-118を参考にしました。

  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。


 イギリスの運河      | 地図03M市中心部地図へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 イギリスで最初に建設された運河は、マンチェスターからその北西郊外のワースリー(グレーター・マンチェスターのひとつ、サルフォードの西部の町)にいたる、全長約10km程のブリッジ・ウォーター運河です。これは運河の名前となったブリッジ・ウォーター公爵(1736~1803年)によって建築されたもので、公爵の所有するワースリーの炭鉱の石炭を消費地のマンチェスター中心部まで輸送するためのものものでした。彼は、若い時にヨーロッパ大陸に渡ってフランスで運河を見て感動し、帰国後、自らの炭鉱の石炭の安価供給と需要拡大を意図して、運河の建設に着手したのでした。この運河の建設を許可する法律は、1759年に議会で承認され、その2年後には、運河が完成しました。

 イギリスは平坦な土地が多いと言っても、全く平というわけではありません。日本と比べれば、むしろ、大河が作った沖積平野が少ない分だけ、緩やかな丘陵が多く、運河を造るにはこの高低差をどのように克服するかが問題です。つまり、単なる炭鉱所有者の貴族の思いつきだけでは運河は建設できず、それを支える優秀な土木技術者の存在がなければなりません。
 
ブリッジ・ウォーター運河を作った技術者は、ジェイムズ・ブリンドリーです。
 ブリンドリーの名声を高めたのは、この運河が、マンチェスター市の中央から西にかけて流れるアーウェル川(下流でマーズィー川と合流してリヴァプールに流れ下る)の上をまたいで、運河を水路にして通したことです。このほか、堰やトンネルの建設など多くの技術的な工夫が施されていました。
 ブリッジ・ウォーター運河は、石炭を運ぶと言う商業的な面でも、土木技術的な面でも成功を収めました。
  ※荷物をたくさん運ぶという点でそれまでに陸上輸送とどれぐらい違うかは、下の図04を参照↓

 次ページの鉄道の話でも同じようなことが起きていますが、この運河でも、誰が最初の運河の建設者かをめぐっては、他の説もあります。
 ブリッジウォーター運河以前に、土木技師ジョン・アイによって、サンキー川とマーズィー川の支流に連なる「サンキー運河(別名セント・ヘレン運河)」が建設されています。しかし、小規模であったことと、のちの運河網に結びつかなかったことから、「イギリス初の運河」という言う名誉は、「
ブリッジ・ウォーター運河とブリンドリー」とされています。

  この記述は、 参考文献1、『川とイギリス人』P121-22を参照しました。 

 このウォーター公爵とブリンドリーの成功によって、かねてから望まれていた他の運河計画が具体化します。マーズィー川セヴァーン川テムズ川トレント川を運河で結ぶ構想です。1766年、まずマーズィー川トレント川を結ぶグランド・トランク運河の計画が議会で承認され、この運河は1771年に完成しました。
 ブリンドリー自身はその翌年に死亡しましたが、彼の技術は数人の技術者に継承され、イギリスは運河建設の時代を迎えました。中でも1790年代には、「
カナルマニア」と呼ばれる、熱狂的な運河建設ブームが生じています。
 この背景には、おりしも
産業革命の進行によって原料や製品の大量輸送の必要性が生じており、運河の開通が経済的な利益を生むという事情があったことはもちろんですが、もうひとつ、運河建設に投資することによってひともうけするという、いわば「運河バブル」が生じたこともその原因に挙げられます。


 1700年代後半から1800年代前半にかけてイギリスでは運河網が発達し、南のテムズ川、エイヴォン川、中部のセヴァーン川、トレント川、マーズィー川などが運河で結ばれました。
 ものすごい運河網です。川と組み合わせて本当に網の目のようになっています。最盛期には総延長は、5000kmにもなりました。
 


 ちょっと息抜きのクイズです。運河を進む船の動力は何でしょう?蒸気機関ではありませんよ。

  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。


 動力が馬だからといって、「な~んだ」と思ってはいけません。
 上で説明したブリッジ・ウォーター運河の場合を例に取ると、運べる石炭の量は、上図のように、馬車輸送の10倍にもなりました。画期的な新輸送手段だったのです。


 マンチェスターの運河   | 地図05イギリスの運河網へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 やっと自分で見てきた話になります。
 上の「イギリス初めての運河」の説明にあるように、
イギリスの近代運河はマンチェスターが発祥の地です。このことを旅行前からしっかりと調べていたら、もっとそれらしい写真も撮影できたのですが、残念ながら、そうではありませんでしたので、お宝写真はの数はそれほど多くありません。

 ではまず、
地図6でマンチェスター周辺の運河を説明します。

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 上で説明したイギリスで最初の運河とされる、①ブリッジ・ウォーター運河(運河の前の番号は上の地図06の番号、以下も同じ)は、当初は、ワースリー(上の地図の)からマンチェスター中心部のリヴァプール・ロードに接したキャッスル・フィールド(上の地図の)港(英語で運河の港は、basin)までの約10kmでした。
 しかし、この運河が後の世まで名を残すことになったのは、以下の3つの運河と結ばれて、運河ネットワークに組み込まれたからです。
 1 マンチェスター市内で、
③ロッチデール運河と接続
 2 西方のリー(上の地図の
)まで延長されて②リヴァプール・リーズ運河と接続
 3 南西方のリヴァプールにほど近いランコーンまで延長されて、のち
④トレント・マーズィー運河と接続

当初はランコーンでマーズィー川と接続していました。ただし、ランコーンの丘陵上とマーズィー川とは、27mもの標高差があり、10もの閘門を使って、船を移動させていました。現在では、川と運河は分離されています。

 現在では、①ブリッジ・ウォーター運河といえば、正確には、ワースリーとランコーンの間の66kmの運河となっています。


 写真06-01     キャッスル・フィールドの運河の港   (撮影日 10/11/13)

 ブリッジ・ウォーター運河でワースリーから運ばれた石炭は、ここから、マンチェスター市内へ運ばれました。現在では、その上を、ノーザンレイルウェイの二つの線路(写真には映っていませんが、左手で分岐しています)とメトロリンク(中央の金属の橋を通る路面電車→前ページで解説)が通っています。
 もはや往時と違って荷物の積み卸しは行われませんが、かわりにレジャー用ボートが係留されています。右手の煉瓦造りの建物は再開発され、スポーツクラブとなっています。
 


 写真06-02  跨線橋の下から(撮影日 10/11/13)

 写真06-03ロッチデール運河へ(撮影日 10/11/13)

 左上:奥の線路橋の向こうで運河は東へ分岐し、③ロッチデール運河につながります。
 右上:左の写真の少し東側、ディーンズゲートの橋上から撮影した
①ブリッジ・ウォーター運河③ロッチデール運河との接続部分です。上の鉄道橋をリヴァプール行きの列車が駆け抜けていきます。   

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 さて、①ブリッジ・ウォーター運河といえば、建造技師ブリンドリーの名誉を高めたのが、バートンにおけるこの技術です。自分で撮影できませんでしたので、Google で確認ください。


 左の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、マンチェスター南西郊外の地図です。
 地図の方位は上が北です。
 北東から南西へ斜めに流れるのが、マンチェスター中心部から流れてきた
アーウェルIrwell)川です。
 その谷を斜めに横切っているのが、
ブリッジ・ウォーター運河です。
 地図では平面交差しているように見えますが、違います。地図から写真に切り替えてください。運河が水路橋で川をまたいでいるのがわかります。これが、有名な
バートン水路橋です。(Barton aqueduct
 拡大するともっとよくわかります。
 

 また、この水道橋を使って、アーウェル川をまたいだおかげで、このブリッジ・ウォーター運河は、一つの水門(正確には閘門Lock、あとで詳述します↓)も使うことなく水路をつなげることができました。
 
 できた当時は石造りのアーチ水路橋でしたが、現在は鉄製となっています。そして、さらに驚くことに、現在の水路橋には、上の航空写真では判別できないとんでもない秘密の仕掛けがあります。
 
ブリッジ・ウォーター運河の完成100年余りあとの1894年になって、Manchester Ship Canal(MSC)会社が、マーズィー川とアーウェル川を結んで、リヴァプールからマンチェスターまでの河川航路を拡大しました。(マーズィー川アーウェル川を結ぶこの河川航路そのものは、ブリッジ・ウォーター運河ができる前の18世紀前半から存在していました。)
 この時、より大きな船をこの新航路の通すために、バートン水路橋が邪魔になりました。
ブリッジ・ウォーター運河を止めるわけにも行かず、MSCには大きな船を通したい。
 この難問をどうやって解決したと思われます?

 なんと、
バートン水路橋Barton aqueduct)を架け替えて、Barton swing aqueduct としてしまったのです。swing の意味は?
 新しい橋は、中央の柱を中心に90℃回転する仕組みにして、アーウェル川を大きな船が通る時は、中央の中州のような島の位置に動く仕掛けとしたのです。驚き桃の木です。
 もちろん水路橋と運河の両端には、それぞれ金属製の扉が付いていて、橋が回転する時には、運河の水がこぼれないような仕組みとなっています。
 残念ながら動いた水路橋の写真は撮影できませんでした。幸いイギリスのサイト「
WATER SCAPE」にその紹介がありますので、下記のURLで確認ください。この橋のスィングは、現在も毎日午後定期的に行われているとのことです。
 ※
WATER SCAPE Barton Swing aqueduct 
   http://www.waterscape.com/in-your-area/lancashire/places-to-go/35/barton-swing-aqueduct
 ※また、Manchester Ship Canal(MSC)会社の説明も同じWATER SCAPEにあります。
   http://www.waterscape.com/canals-and-rivers/manchester-ship-canal


 写真06-04 L・L運河 ウィガン(撮影日 10/11/09)

 写真06-05  同左  (撮影日 10/11/09)

 これは、最初の公式訪問地、マンチェスター北西部のウィガン市にあるKeep Britain Tidy の建物のすぐ北を通っていた、②リーズ・リヴァプール運河です。(地図06↑)そんな有名なものとはつゆ知らず、偶然写真に収めました。煉瓦造りの倉庫や昔の事務所が、とてもいい風情です。
 
①ブリッジ・ウォーター運河とは違って、幹線の運河ですから、幅も広く作られています。 

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 ロッチデール運河見聞   | 研修日程と訪問地へ || 先頭へ ||研修記目次へ

 マンチェスターの中心部を通っている運河は、③ロッチデール運河です。上記の②リーズ・リヴァプール運河などはマンチェスターから遠く、とても自由時間に散策できるような距離ではありませんが、③ロッチデール運河は、宿泊したホテルから至近距離を通っていましたので、2回にわたって探検しました。
 この運河は、先に説明した
①ブリッジ・ウォーター運河の終点、キャッスル・フィールド港(Basin)から、グレーター・マンチェスターの構成都市ロッチデールを通って、ペニン(ペナイン)山脈を横断して、ヨークシャー西部のソワービー・ブリッジまでの間51kmを結ぶ運河です。公式には1804年に完成となっていますが、実際の完成は、その3年後でした。ソワービー・ブリッジからは、⑦コールダー・ヘブルナビゲーション(運河と河川を利用した内陸航路)につながって、ヨークシャー西部のリーズ方面へつながっています。
 
 この運河は、マンチェスター中心部で
⑤アシュトン運河を分岐し、アシュトン運河は、グレーター・マンチェスターのアシュトン・アンダー・リンで⑥ハダーフィールド・ナロー運河につながり、同運河によって③ロッチデール運河と同じく⑦コールダー・ヘブルナビゲーションにつながっています。

 
③ロッチデール運河は、150年以上利用されましたが、第二次世界大戦後の運河輸送の決定的な衰退の中で、1952年にほとんどの区間で閉鎖されてしまい、1960年代のモーターウエイ62号線の建設の際には、ロッチデールの南で運河が分断されてしまいました。
 ところが、その後「レジャーボート」の利用が盛んになるとロッチデール運河の再会を望む声が強まり、まず、マンチェスター市内の
⑤アシュトン運河までの連絡部分が整備再開され、さらにそれ以後逐次再会の努力がなされた結果、2002年の7月には全路線の復活がなされました。
 今では、ペニン山脈を東西に横切る3つの運河のうちの一つとして、重要な路線となっています。


 写真06-06 balance beam (撮影日 10/11/12)

 写真06-07  gate  (撮影日 10/11/12)

 この2枚の写真の、87という番号は何のことかわかりますか?
 右の写真には、「
The Rochdale Canal Princess Street Lock」の文字が見えます。
 
Canal は運河です。Princess street は私たちが宿泊したホテルのある通りの名前です。では、Lock は?
 Lockとは
運河の水位を調節する門、閘門(こうもん)のことです。(漢字を間違えないでくださいね。(+_+))
 これは、ロッチデール運河の第87閘門です。
 



 写真06-08   第88閘門                 (撮影日 10/11/12)

 閘門は、水位の高い方から低い方へ向かって番号が付けられています。これは、上の次の第88閘門のロック・チャンバーとトップ・ゲートです。


 写真06-09    第88閘門のボトム・ゲート(水位の低い方)です。            (撮影日 10/11/12)


 写真06-10  path   (撮影日 10/11/12)

 写真06-11  第89閘門  (撮影日 10/11/12)

 左上:運河の両側には、path 小径が続いています。
 右上:albion street の橋の向こうに見える第90閘門です。マンチェスター市内は、東から西へ向けてなだらかな坂となっており、閘門がいくつもあります。
 


 次は、第87閘門のボトム・ゲートが開いているところです。

 写真06-12   第87閘門です                (撮影日 10/11/13)

 このゲートの開閉は、誰が行うのかといえば、ボートを動かしている人間、本人です。開閉担当の「門番」がいるわけではありません。この写真では、ロック・チャンバーの内部がよくわかります。


 写真06-13・14  第87閘門  (撮影日 10/11/13)

 左上:トップ・ゲートをロック・チャンバー側から見た写真です。
 右上:トップ・ゲートをアッパーレベル側から見た写真です。ゲートは、トップもボトムも、アッパー側に開くようになっています。


 写真06-15   観光用のボートです。             (撮影日 10/11/13)

 このボートは通常の「ナローボート」と呼ばれている運河航行用のレジャーボートよりははるかに大きなサイズのものです。
 また、この写真でわかるように、第87閘門と第88閘門の間には、現在は運河pathがありません。


 写真06-16・17   第85閘門  (撮影日 10/11/12)

 第85閘門は、ビルと道路の下に隠れて地上からは見ることはできません。早朝は、近くの住民のジョギングルート、通勤近道になっています。 


 写真06-18    第84閘門のトップ・ゲートです              (撮影日 10/11/12)

 マンチェスター・ピカデリー駅のすぐ北にあるDale street の橋のすぐ東に第84閘門があります。この閘門の東で、ロッチデール運河は、アシュトン運河と分岐します。写真のビルの後を右手を曲がると、アシュトン運河方面です。この閘門のトップゲートでは、余った水をロック・チャンバーに流す水路がなく、水はゲートの上からあふれています。


 この第84閘門の写真を使って、ゲートの仕組みをさらに説明します。


 写真06-19  第84閘門のトップ・ゲートのアップ写真です。         (撮影日 10/11/12)

 ゲートの上のバランス・ビームの上には、人が歩くための手すりが付いていますが、次の写真のように、水路を調節する装置は付いていません。したがって、水は、ゲートの上からあふれてアッパー・レベルからロック・チャンバーに流れ落ちています。


 写真06-20 水位調節のパドル(撮影日 10/11/12)

 写真06-21 パドルの端  (撮影日 10/11/12)

 これは、同じ第84閘門のボトム・ゲートにある注排水装置で、パドルといいます。
 左上:ゲートの右側がロック・チャンバー、左側がロウ・レベルです。
 右上:これはゲートのバランス・ビームの上のパドルの操作部分の拡大です。ロック・キーと呼ばれるハンドルを、一番左に突き出た棒に、差し込んで回すと、ロック・チャンバー内の注排水ができます。ロック・キーはボートの運航者が所持していなければなりません。
 


 写真06-22 船を舫います(撮影日 10/11/12)

 写真06-23  なぞの突起?  (撮影日 10/11/12)

 左上:閘門に到着するとボートを舫うための小さな埠頭があり、ロープでつなぎ止めます。
 右上:ゲートの開閉は、基本的に、バランス・ビームと呼ばれる長い棒を人力で押して、行います。この突起は、歯車かなんかだと思ったら違いました。ビームを押す人が足を滑らせないように、踏ん張るための滑り止めでした。
  ※参考文献2 『英国運河の旅』P48-55
 


 写真06-24 第87閘門   (撮影日 10/11/12)

 写真06-25 アシュトン運河 (撮影日 10/11/12)

 左上:第87閘門のアッパー・レベルにある、水位調節用の排水路、余った水は、ここからゲートとは別の小水路を通って、ロック・チャンバーに流れるようなっています。
 右上:ロッチデール運河から分岐したアシュトン運河。アシュトン・アンダー・リンでバターフィールド・ナロー運河につながります。(↑地図06参照
 


 英国の運河は、19世紀半ばに最盛期を迎え、その後鉄道との競争を強いられましたが、いくつかは「善戦」し、19世紀後半までは、イギリスの産業を支える使命を果たしてきました。
 しかし、さすがに20世紀に入ると、その任務を終える運河も多くなり、上で説明したロッチデール運河のように、道路建設によって寸断されるものも多くありました。
 ところが、20世紀後半になると、スローライフの発想が高まり、「運河でのんびり船の旅」を楽しむレジャーが起こり、運河の価値が見直されはじめました。
 この結果、多くの運河は再整備され、レジャー用・観光用として復活をしています。
 詳しくは参考文献2・3の説明に譲りますが、使用できる運河は、現在では総延長3500km程になっています。
 次にイギリスに行く時は、是非、この運河を利用したいものです。
  ※
British WaterWays http://www.britishwaterways.co.uk/home
  ※
Water scape       http://www.waterscape.com/  

 イギリスの運河の中で壮観なのは、ケネット&エイボン運河のケーンヒル・ロックです。
 →付録スペシャルページ「マンチェスタ・ロンドン研修記6 Special」をご覧ください。


 写真06-26    いろいろな用途のボートが休むキャッスル・フィールド港      (撮影日 10/11/13)

 左手前の白いボートが普通にレジャー用に使われるナローボート(幅2m強)です。こんな細長い最も一般的に使われる理由は、閘門の最も狭いゲートが幅 7feet 2inches(2.1844m)となっているからです。ナローボートならどこへでも行けますが、それより幅広のボートは限定区域しか航行できません。
 ナローボートを借りられる会社は、イギリス全土に100社ほどあるそうです。これを使っての運河・河川航行には免許はいりません。舵とスロットル(アクセル・レバー)だけで運転できますが、時速は4km程だそうです。安全な乗物です。


 最後に頭の体操クイズです。

  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 【イギリスの運河 参考文献一覧】
  このページ6の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

飯田操著『川とイギリス人』(平凡社 2000年

秋山岳志著『英国運河の旅 ナローボートでゆっくりのんびり田園めぐり』(彩流社 2001年)

秋山岳志著『英国「乗物遺産」探訪 SLとナローボートで巡る、古きよきイギリス』(千早書房 2008年) 


 これで、交通ネットワークの世界発祥地、つまり運河網鉄道網発祥の地、マンチェスターの説明のうち、運河網についての説明を終わります。とんでもなく長い説明となってしまいました。
 次ページは、鉄道網です。


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