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 二つの天空の城、二つ目は但馬の竹田城です  | 先頭へ ||日程表へ

 10時過ぎまで姫路城を見学した私たちは、急いでバスで姫路駅に戻り、次の目的地、朝来(あさご)市の竹田城に向かいました。乗った鉄道は播但(ばんたん)線という、兵庫県西部を南北に結ぶローカル線です。もちろん、初乗車です。久しぶりのローカル線の旅です。


 どうせ行くなら二つ一緒に
 天空の白鷺です
   大天守の外側です 
 播但線です
 天空の城・竹田城です

  4 播但線です 地図01行程説明へ||説明図01旅行日程へ||目次へ

 兵庫県西部は、旧国名で言うと、瀬戸内海側の播磨(はりま)と日本海側の但馬(たじま)とに別れています。播磨の中心都市は姫路市、但馬の中心都市は、海側の豊岡市、内陸の朝来市です。

 
竹田城のある竹田は、元は独立の竹田町でしたが、1956年に和田山町に吸収合併され、その和田山町は、平成の大合併で、朝来町・生野(いくの)町・山東町と合併して、現在の朝来市ができました。中国山地の東端にあたる地域であり、800mから1000m前後の山々が連なっています。
 竹田までの途中にある
生野は、日本史の教科書に出てくるあの「但馬生野の銀山」で有名な生野です。江戸時代は天領でした。時間があれば、ゆっくり立ち寄りたい町ですが、今回は通過するだけです。 


 写真01-01 姫路駅の1番線に入線しようとする播但線電車            (撮影日 13/12/23)

 中国山地を越えて分水嶺の向こう側に行く鉄道路線というイメージでしたので、てっきりディーゼルカーがやってくるかと思っていたら、なんと、赤い電車がやってきました。失礼しました。
 右端に映っているのは、山陽本線・赤穂線の新快速電車です。


 写真01-02 時刻表  01-03  播但線電車  (撮影日 13/12/23)

 左:播但線は、単線ですが、姫路から50分ほどの寺前までは電化されており、時刻表を見ると、朝夕の通勤時間帯は、結構多い本数が運行されています。姫路に近い部分では、田舎のローカル線とは少し趣が違い、大都市姫路への通勤路線です。
 赤字は1日に3往復する
特急はまかぜです。大阪発で、播但線を経由したあと和田山から山陰線に入り、浜坂・香住・鳥取行きです。浜坂行きと鳥取行きは、あの餘部鉄橋を通過します。
  ※餘部鉄橋については、新旧の橋梁をレポートしています。
     旧鉄橋→旅行記:「若狭・丹後・但馬旅行5 但馬城之崎・餘部鉄橋」
     新鉄橋→旅行記:「出雲・石見旅行1 餘部鉄橋」
 
 前ページで、竹田から西岐阜までの帰り方を詳しく紹介しましたが、実は、
姫路から竹田に向かう方法も、これから紹介する姫路発10:58の電車で寺前で乗り換えて、竹田着12:29という以外にももう一つあります。
 
特急はまかぜは竹田には停車しません。しかし、姫路10:44発の特急はまかぜ1号に乗ると、竹田の次の和田山11:49着となります。竹田は通り過ぎています。ここで、和田山発12:00のディーゼルに乗ってひきかえせば、12:07竹田着となります。私たちの選択より、22分早く到着です。しかし、料金は特急料金1650円、竹田-和田山間の往復料金分350円の合計ちょうど2000円(1人分)が余分にかかります。

 右:播但線電車は赤い色の塗装になっていましたが、鉄道ファンにはなつかしい、
国鉄時代の103系の生き残りでした。1960年代から1980年代初頭にかけて、国鉄の主力電車だった車両です。オレンジ色やうぐいす色や青色に塗られて、首都圏の各路線を走っていた電車です。自分たちの東海地方とはあまり縁はなかったと思いますが、若い頃映像で見た首都圏の電車といえば、この電車でした。
 内部は、ワンマンカー仕様に改造されており、運転席の後ろに収納式の運賃箱が装備されています。ただし、私たちが乗った電車には乗客も多く、車掌さんが乗務していました。
 


 写真02-04 香呂駅 (撮影日 13/12/23)

 写真02-05 寺前駅 (撮影日 13/12/23)

 左:姫路駅から5番目の香呂駅で姫路行き上り電車とすれ違いました。ラッピングの色は違いますが、同じ103系です。寺前までは、平坦地でもあり、電車は昔取った杵柄といわんばかりに、モーターをうんうんうならせて、快調に走ります。
 右:
寺前駅到着。姫路から11番目の駅です。ここで電化区間は終わります。駅構内に停車している3つの列車のうち二つはディーゼルカーです。真ん中の赤いのが103系電車です。 


 写真02-06・07 寺前からは非電化区間。ディーゼルカーの登場です。   (撮影日 13/12/23)

 左:寺前-和田山間はディーゼルカーのキハ40やキハ47が運行されています。私たちが乗ったのは、片運転台車両を両運転台に改造したキハ47形でした。
 右:運転席のすぐ後ろは座席がなくて、広いスペースに運賃箱だけが鎮座していました。1両で運行ですから、時間帯によっては結構込みます。帰りの竹田発15:56の列車は満員で、私たちは寺前で乗り換えるまで、座れずにずっと立っていました。この車両は山陰線のワンマンカーとしても使われ、料金表示は鳥取駅までのものが掲示してありました。
 


 写真02-08・09 生野駅。分水嶺の生野の周辺は雪でした。(撮影日 13/12/23)

 左:姫路寺前間は距離にして29.6kmです。駅は寺前を含めて11ですが、そこを電車は45分で走りました。時速に換算すると、39.4kmです。
 
寺前竹田間は、距離にして30.3km、駅は竹田を含めて5つですが、ディーゼルは所要時間40分で走りました。時速に換算すると45kmです。ただし、ディーゼルの走り方は、前半と後半は極端に違います。
 
播磨から但馬に入った所に、銀山の町生野があります。寺前生野間は、路線距離にして14kmですが、寺前駅の標高は147m、生野駅の標高は、307mです。勾配が、160/14000、つまり、平均11/1000ですから、ディーゼルは、あえぎあえぎ山間を登ります。生野駅の北のトンネル(写真09)を超すと、今度は快適な下り坂となります。
 
生野竹田間は距離にして16.3kmですが、標高差は208mありますから、勾配は208/16300、つまり平均13/1000となり、より急勾配となります。

【生野について -補足】
 通過してしまった生野について補足します。
 ここにあった生野銀山は開坑1200年を誇る大銀山です。平安時代初期の807(大同2)年に発見されたと伝えられ、室町時代から江戸時代にかけて盛んに採掘が行われました。明治時代中期以降は三菱が払い下げを受けて経営し、1973(昭和48)年まで採掘が続けられました。日本の地質百選、近代化産業遺産群33に指定されています。
 跡地には、生野鉱物館(生野銀山文化ミュージアム)・鉱山資料館・露天掘り跡見学・観光坑道見学などに施設があり、レストハウスおみやげ館では、「金・銀・錫すくい取り」の体験ができます。
  ※生野銀山の公式サイト http://www.ikuno-ginzan.co.jp/
  ※銀山については、石見銀山訪問記を書いています。
     →旅行記:「出雲・石見旅行5 石見銀山」


  5 天空の城・竹田城です  |地図01行程説明へ||説明図01旅行日程へ目次へ

 のんびりとローカル線の旅を満喫した私たちは、12時29分に竹田駅に到着しました。シーズンオフということもあって、竹田駅で降りる人はほんの数人です。
 目的地の竹田城は、竹田駅の背後にある古城山の頂上部にあります。竹田駅から竹田城に登る方法は、自家用車を使わない場合、冬季は通常は5つあります。(3月20日~12月10日の観光シーズンは、より頂上に近い中腹駐車場(第一・第二駐車場)まではバス等で行くことができます。しかし、12月11日~3月19日のオフシーズンは、一般車両は「
山城の郷」(後述)までしか入れません。)

 駅裏登山道の急坂山道を徒歩で登坂し大手門に至る方法。距離は800mですが、急勾配のため40分はかかります。(現在は工事中で立ち入り禁止)

   駅から一般道を北に迂回して、竹田小学校裏から観音寺山登山道(山道)を登る方法。駅からの距離1.6km、時間60分。 

 駅裏の寺町通りを駅の南西に迂回し、南の登り口から、南登山道に入り、中腹駐車場を経由して大手門登山道に入り頂上を目指す方法。全行程舗装道路(大手門手前は現在は工事中で山道)を徒歩で登る方法。駅からの距離3.4km。時間60分。

 駅裏南西の表米神社横から表米神社登山道(山道)を登る方法。駅から1km、時間30分。

 

 タクシーで竹田城西の「山城の郷」まで行き、そこから西登山道(舗装道路)を経て大手門登山道へ向かう方法。歩く距離は2.1km、時間35分。「山城の里」(標高は、約190m)の場所は、下の地図では中央左よりの播但連絡道路(自動車専用道路)の西側にあり、西登山道はそこからトンネルの上を通って山頂に向かいます。地図をワンクリックすると詳細がわかります。 

 現在は①のルートは工事中で閉鎖のため、選択できません。左膝が変形性膝関節症のためできるだけリスクを避けたい私としては、標高差の少ない安全な方法というわけで、タクシー代往復1880円を払って、⑤の方法をとりました。
 
竹田城の城跡の標高は353.4mですが、竹田駅の標高は約99mですから、実質は250m余りの「登山」になります。これは、岐阜市民にしてみれば、そう難しいことではありません。岐阜公園(標高約20m)から金華山の山頂(329m)まで登ることを思えば、登坂標高差はその3分の2です。
 選択した⑤の方法なら、徒歩のスタート地点の「山城の郷」は標高が約190mですから、頂上までの標高差は約150mです。膝は本調子でなくても、これぐらいなら大丈夫です。


 上の写真は、Yahoo から正式にAPIキーを取得して挿入した、「竹田城」周辺の地図です。


 写真02-10・11 竹田駅と竹田城  (撮影日 13/12/23)

 左:竹田駅の背後の山の山頂に竹田城があります。ちょっと写真では見づらいですが、石垣が見えます。
 右:竹田城の北千畳から俯瞰したJR播但線竹田駅です。白いディーゼルカーが寺前方面からやってきてちょうど停車してくれました。竹田駅は昼間はほぼ1時間1往復の状況ですから、頻繁には列車は来ません。たまたま運良く撮影できました。
 


 写真02-12・13  山城の郷  (撮影日 13/12/23)

 左:「山城の郷」の駐車場。シーズンオフでしたが、駐車場は8割方埋まっていました。
 右:竹田城北千畳(下の地図02参照)の西端から見た「山城の郷」。これだけの距離と標高差を登ってきたわけです。
 




 写真02-14 大手門登山道の途中から見た竹田城。左の大きな石垣が本丸です。(撮影日 13/12/23)

 登山道は最後の山道以外は舗装道路です。勾配も急ではなく、ピクニック気分で登れます。


 写真02-15 南千畳   (撮影日 13/12/23)

 写真02-16 南二の丸への通路 (撮影日 13/12/23)

 最後の山道を上がると南千畳の広々とした空間が広がっています。 


 写真02-17 南二の丸から撮影した本丸と二の丸です。(撮影日 13/12/23)

 この時は本丸は工事中で立ち入り禁止でした。11月から工事に入っていますが、朝来市のHPを見ても完成期日は書かれていません。


 シーズンオフで天気も今ひとつのため、褐色と灰色の写真ばかりになってしまいました。唯一、観光客が少なく、ゆっくりと散策ができ、比較的思い通りの写真が撮影できたことはよかったです。


 写真02-18 本丸下から撮影した南二の丸と南千畳             (撮影日 13/12/23)

 せめて天気がよければもう少しいい写真になったんですが・・・・。


 写真02-19・20  左:二の丸から見た南二の丸。   右:北千畳から見た本丸。 (撮影日 13/12/23)


「標高350mもあるところに、誰がどんな理由で城を造ったの?」

「戦国時代には、難攻不落の山城も必要だった、。そういう意味で平野のど真ん中にある姫路城とは対照的だ。我が岐阜城だって立派な山城だ。」

「そうか、金華山も捨てたもんではない。」

 「山城の郷」の2階にある竹田城の資料館に展示してあった城の歴史をまとめた年表によれば、竹田城を始めて構築したのは、かの有名な山名持豊(宗全)です。

この竹田城の歴史には日本史の教科書に登場する有名な人物や事件がいくつも登場します。以下教科書に登場する人名や事件には青字太字で明記しました。

 竹田城は、1431年に築城を開始し1443年に完成したといわれています。その直前の1441年には嘉吉の乱(播磨の守護大名赤松満祐が将軍足利義教を謀殺した事件)が起こっており、この事件で山名持豊とともに赤松討伐に手柄を立てたのが但馬の国人(地方の有力武士)である太田垣光景で、播磨の守護山名持豊のもとで守護代に任命され、竹田城主となりました。山名持豊細川勝元と争って応仁の乱が始まるのは、この少し後の467年のことです。太田垣氏は、このあと、1570年前半まで7代にわたって竹田城主を世襲します。
 1573年、
織田信長の勢力拡大に刺激を受けた毛利元就(本拠は安芸広島)が勢力を東に広げると、但馬の城主は毛利の勢力下に入りました。しかし、信長の命令を受け毛利攻めの指揮を執っていた羽柴秀吉の軍勢が1577年から但馬に侵入し、結果的に太田垣氏の竹田城は陥落し、秀吉の勢力下に入りました。城は築城から太田垣氏の時代までは砦程度のものだったと考えられていますが、秀吉の勢力下に入ってから、現在にまで遺構が残る総曲輪を石垣積みで囲む立派な城の基礎が築かれました。

 城主は秀吉の弟羽柴秀長、ついで桑山重晴、さらに1585年からは赤松広秀と変わります。赤松広秀が城主の時に、現在に遺構が残る石垣が完成しました。
 広秀は、秀吉死後の関ヶ原の戦いの時点では西軍派に属し、東軍細川幽斎の守る丹後田辺城を攻めました。しかし、戦後はすぐに東軍に寝返り、西軍派の宮部長房の鳥取城攻略に参加しました。ところが、徳川家康から鳥取城下を焼き討ちした責任を問われ、鳥取の真教寺じ自刃しました。城主を失った竹田城は、この時点で廃城となり、そのあと江戸時代は、竹田の町は幕府領となり、城郭は破却されました。

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 竹田城といえば、雲海に浮かぶ城の写真が有名です。天空の城日本のマチュピチュといわれる所以です。
 しかし、この写真は、晩秋から初冬の早朝、城下を日本海へ向かって流れる円山川から川霧が発生してこそ可能となるものです。私たちのように、昼に出かけていって撮影できるものではありません。


 写真02-21 竹田城の模型(「山城の郷」2階の資料館にあります)           (撮影日 13/12/23)

 雲海に浮かぶ城の写真はありませんから、代わりに地元の中学生の作成による竹田城の模型です。


「そういえば、岐阜城だって、標高320m余りの山城なのに、人気が出ない。」

「関ヶ原の戦いまでは城主がいて、その後廃城となったのも岐阜城と竹田城は同じ。一応、雲海の上に顔を出している岐阜城の写真は撮影したことがある。しかし、正直、竹田城と競争はできん。無理だ。」


 写真02-22 雲海と岐阜城              (撮影日 06/04/02)

 岐阜城の場合、山裾に長良川という1級河川が流れていますが、そこから大規模に川霧が発生すると言うことは、たぶんあまりないと思います。竹田城と違って、川面から山頂までは300m以上ありますから、そんなに分厚い霧の層は期待できません。  この写真の雲海は竹田城の円山川の川霧と違って、普通の雨雲です。雨が降っていて天気が回復に向かう時、雲の動きと雨が上がるタイミングがうまくいくと、まれにこういう状況が出現します。
 しかし、竹田城のように同時に朝日に照らされることは稀ですし、背景に高い山というのも難しい組み合わせです。
 この写真は、夕方、岐阜県庁11階(高さ40mほど)からの撮影です。


 次に竹田に行く時は、竹田城を緑が覆っている季節、または川霧の出る晩秋の早朝がいいですね。JR山陰線で。(^.^)ついでに生野銀山にも行ってみたいと思います。
 これで、「二つの天空の城 兵庫県日帰り旅行記」を終わります。


 【天空の城 兵庫県日帰り旅行 参考文献一覧】
  このページ02の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

今井修平他著『県史28 兵庫県の歴史』(山川出版社 2004年)


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